アーチェリーの歴史(16世紀まで)

Ramasseurs de flèches(抜粋*) p 192/596

草船借箭なんてお話も三国志にはありますが、(相手の矢を頂いちゃう)それとは違い、これは中世の戦争において、相手の騎馬隊の突撃の合間に、さっき射た自分たちの矢で外れたものを再利用するために拾う矢拾い(Ramasseurs de flèches/アローコレクター)という仕事をする人たちです。イギリスのアーチャーは24本ほどの矢をクイーバーに入れていましたが、1本30秒ルールなら10分くらいで使い切っちゃいますからね。画家もなかなかいい仕事をしていて、矢(フレッチャーされたシャフト)とボルト(クロスボウ用の矢で羽根はない)をちゃんと描写しています。

アーチェリーの歴史に関してはほとんど文献・研究が日本では存在していないです。自分が見つけたのは50年以上前に書かれた論文「アーチェリーの発達について(PDF)」の1つだけです。チューニングマニュアルを書いたときにも思ったことですが、今があるのは先人たちの積み重ねがあってこそであり、歴史をしっかりと整理することには意味があります。そこで昨年からアーチェリーの歴史についてまとめてきました。

アーチェリーに関する研究はなかなかひどいもので、未だに100年以上前のモースの論文が引用されていたりします。地中海/蒙古/ピンチ式などを分類した人なのですが、論文の中身はなかなか雑です。もちろん彼を責めるという意味はなく、彼自身、自分の研究はこれまで研究されてこなかった分野で革新的ではあるが、不完全であることを、より多くの研究者がこの分野に目を向けてくれるようにするために、とりあえず発表すると書いています。

I am led to publish the data thus far collected, incomplete as they are , with the intention of using the paper in the form of a circular to send abroad, with the hope of securing further material for a more extended memoir on the subject.

Edward Sylvester Morse, Ancient and Modern Methods of Arrow-release, Essex Institute, 1885, p 4

まぁ、結果としては研究が頻繁に引用され、この論文をより詳細に仕上げる人は今日まで現れていないのですが、自分にできることがあれば、今後の課題としたいと思っています。

さて、17世紀からのアーチェリーは何度もこのサイトで記事にしています。そして、先週、石器時代から16世紀までのバージョンも仕上がりました。16世紀までのいわゆる前編は、現在のアーチェリーの基礎になったイングリッシュロングボウとは何かを定義する話になっています。これを既存の記事たちと繋げれば、アーチェリーの歴史として完成すると思います。

ただ、ちゃんとした記事を書こうとすると、引用や注釈ばかりになって非常に読みにくいです。そこで和弓の人たちはどうしているのか調べてみたところ、ちゃんとした論文を書いて、別に発表し、それを引用するという形で、別途、かたくない文書で和弓の歴史を書いているようなので、自分もそのやり方を模倣しようと思います。下記はちゃんとしたバージョンです。今後、何本かアーチェリーの歴史についての記事を書きますが、いちいち根拠を書きません。それらの記事に疑問や根拠を知りたい場合には、こちらのPDFをまず確認してください。それでもすっきりしない場合はコメントを下さい。

アーチェリーの歴史(PDF 4MB)

*本にページ数が示されていません。フランス国立図書館で公開されているものをPDFでダウンロードした場合、192/596ページにあります。Chastellain, Georges,« Passages faiz oultre mer par les François contre les Turcqs et autres Sarrazins et Mores oultre marins », traité commencé à être rédigé à Troyes, « le jeudi XIIII e jour de janvier » 1473, par l’ordre de « Loys de Laval, seigneur de Chastillon en Vendelois et de Gael, lieutenant general du roy Loys l’onziesme… gouverneur de Champaigne… par… SEBASTIEN MAMEROT de Soissons, chantre et chanoine de l’eglise monseigneur Saint Estienne de Troyes » et chapelain de Louis de Laval, 1401-1500, https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b72000271/


なぜ戦前の日本語が読めないのか?

1883年5月29日付土陽新聞

(アーチェリーに関連のない記事です)

調べ物でイリアスを読む必要があり、古くある本だから、青空文庫とかで無料版あるかなと思ったらありました。しかし、これが読めない…

次に弓射る者のため暗緑の鐵賞に賭け、
兩刄の斧と片刄とを各々十個取り出し、
而してはるか沙の上、引き上げられし黒船の
はしらを的と打ち定め、そこに可憐の鳩一羽、
細き糸もて足繋ぎ之を射るべく命下す。(イーリアス 土井晩翠訳 1940発行)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001099/files/46996_40612.html

たった、80年前の日本語が全然読めない(私の知的レベルの低さは認めます)のです。なんで、戦前の日本語がこんなにも読めないのだろうかと思い、軽い気持ちでネット検索したのですが、全く的を得た答えが見つかりません…。シェークスピアが悪いとか、GHQの陰謀とか…。

という事で、自分で調べみましたという記事です。

答えから先に書きますと「偉そうな文書を書きたかったから」です。(土井さんの文書は翻訳ですので、偉そうな文書を選択したのは、原文にそういうニュアンスがあり、忠実に訳したのかはラテン語の知識がゼロなのでわかりません)

以下、もう少し詳しく。

江戸時代には「話し言葉」と「書き言葉」がそれぞれに別に存在したのですが、明治時代にそれを一致させよるという言文一致と運動がおきます。一致させるといっても、2つで仲良くするのではなく、書き言葉を話し言葉に寄せていこうという運動です。移行期の明治時代の小説家は両方の言葉で小説を書いていたりしていました。

(書き言葉) 石炭をば早や積み果てつ。(森鴎外,舞姫,1890)

(話し言葉) 金井しづか君は哲学が職業である。(同,ウィタ・セクスアリス,1909)

帝国教育会の有力者によって結成された言文一致会が明治43年12月に目的を達成した事により、解散したことから、この運動はだいたい明治時代に終わったと見ることができます。なので、もし明治の文書が読めない・読みにくかったら、その理由は書き言葉が話し言葉に統一される前の文書だからと言えると思います。

さて、この運動に乗らなかったのは、権威側の人達でした。最たるものは法で、なんと2018年という驚異的な記録です。

六法ようやく口語体で統一へ 「スルコトヲ得」やめます

ちょっと抵抗したのはエリート層の新聞で、大正10年~11年になって東京日日(現・毎日)と朝日が口語化します。記事の最初の方でGHQ陰謀説が出る理由はおそらく、明治に口語化がなされ、大正のなって新聞が改めたあとでも、天皇の詔勅(しょうちょく)は伝統に則って書き言葉を用いていたのを、戦後

敗戦によるきびしい歴史的な現実に遭遇するに至って、その基盤であり支えであった前近代的な残存権力の崩壊、それに代わる民主的なものの興起と共に、ようやくそれらの残存文語体文(書き言葉)も一掃された。

山本正秀, 言文一致文の歴史と特色,日本文法講座 続 第3 (文章編), 明治書院, 1958, p 278

といった流れがあったために、まぁ、GHQの陰謀と言っても間違いじゃないっちゃ間違いじゃないとは思います。天皇の御言は伝統的なものでわかりやすさを重視する必要があるのか疑問ですし、わざわざ口語化する必要があったのかは個人的にも疑問ですので、間違いなくGHQの陰謀です!!

ということで、以上の流れから私の理解としては、

明治時代のわかりにくい文書 → 昔の書き言葉だったから

大正時代のわかりにくい文書 → エリートっぽさをまだ出したかったから

昭和時代敗戦までのわかりにくい文書 → 偉そうな文書を書くためにあえて使った

戦後のわかりにくい文書 → よく頑張って耐えた抜いた!!偉い!!

と考えるのが妥当ではないかと思います。

英語に関してはこのような問題は言語単体としてはないですが、ラテン語との対比においては同じ構造があります。17世紀の科学者ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理」をラテン語で、「光学」を英語で書いています。

参考文献 言語の標準化を考える : 日中英独仏「対照言語史」の試み 高田博行, 田中牧郎, 堀田隆一 編著


【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

下記の記事をより詳細なものに書き直しました。こちらをご覧ください。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)

アーチェリーのチューニングマニュアルを書いたので、次はアーチェリーの歴史を勉強してまとめてみたいと思い、昨年から取り組んでいます。自分にできることなど限られているので、どれだけのものをかけるかなと調べてみたのですが、アーチェリーの歴史は、調理を待つ材料みたく、結構揃っていたのです。ちゃんとしたアーチェリーの歴史本がないのは、分野が違ってお互いに面識がなかっただけかと思います。

写真は最古のアーチェリーの記録(紀元前1429年頃)です。的を射ているので、戦争・狩猟・手に持って踊るといった儀式のどれでもない弓の使用という意味で、初期の”スポーツ”としてのアーチェリー考えることができると思いますが、その判断はともかく、この頃のアーチェリーは考古学者達によって考察され、本や論文としてまとめられています。

紀元前500年くらいからは歴史書が登場し、この頃のアーチェリーについては歴史書などに残っている記録が多く、歴史学者によってまとめられています。1000年頃になるとヨーロッパで進化を遂げたロングボウとクロスボウが戦争で大活躍するようになり、アーチェリーについては軍事学者によって書かれたものが多くなります。16世紀頃の銃火器の進歩によって戦場から弓が駆逐されると、スポーツとして現在につながるアーチャーたちが書かれた記録に繋がり、この部分はすでに自分である程度これまでにまとめているかと思います。

なので、このそれぞれ違う分野の話を一つにつなげるためのリンクはないかと、今年の入ってからずっと悩んでいましたが、世俗化という軸でまとめてみました。グッドマンという人が近代スポーツの特徴として「世俗性」「平等性」 「官僚化」「専門化」「合理化」「数量化」「記録への固執」をあげています。ここで一番特徴的なのは世俗化、簡単に言えば、脱宗教だと思います。

例えば、相撲は「世俗化」以外すべて特徴に当てはまっていますが、世俗化する可能性は、今後も殆ど無いでしょう。

日本武道で唯一世界的なスポーツとして成立し、オリンピック競技にもなった柔道の創設者・嘉納治五郎は近代柔道の世俗化、宗教を持ち込まないよう努力したそうです*。神道的な宗教的概念を含む競技なら、イスラムやキリスト教など違う宗教の人々が競技に参加することは困難になります。スポーツがやりたくて改宗する人は稀でしょう。

*湯浅 晃, 武道における宗教性, 武道学研究38-(3):15-42, 2006

そこでつぎのようにアーチェリーの世俗化を考察し、これ軸(変換点)として、2月ごろを目処にアーチェリーの歴史をまとめてみたいと思います。何か意見がありました。コメント欄にどうぞ。


世俗化 – 宗教から脱却

古代において狩猟は生活の手段であったために、弓は宗教・儀式と深く結びついていたと考えられる。イリアスで描かれた弓術競技では優れた射手であったテウクロスは神アポロンに祈らなかったために的を外し、神に祈ったイードメネウスが勝利したという記述がある。聖書にも弓は登場し、ヨハネの黙示録では勝利の象徴とされている。

しかし、1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(1)、その後、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止し、使用したものは破門するとした(2)。同様に騎馬試合もこのとき禁止された。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説ある。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もあるが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張もある。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇した。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せた。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器だった。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、歩兵(市民)が騎兵(貴族)を殺傷させる行為を忌諱したと考えられる(3)。

実際、モデルとなった人物の存在は示唆されていても、実在が確認できないので物語とするが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも反権力的な物語の主人公であり、弓は権力者の武器ではなかった。

禁止令ののち、「神に憎まれた」アーチェリーとカトリック教会との関係は薄れたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても所持は禁止しなかった。アーチェリーは国内では狩猟やスポーツとしてのみ使用できるというユニークな道具になった。近代スポーツとして成立するための要因の一つである世俗化、脱宗教化を偶然に成し遂げたと言える。アーチェリーとクロスボウの規制・管理は国家に委ねられ、国によって異なったものになっていく。


ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いている。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可されたので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当だろ。だが皮肉なことに、彼は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡する。この死について、いまだ弓の使用を禁止している教会に背いた天罰であるとの考えがあるが、弓が再度禁止されるには至らなかった(4)。

1.Karl Josef von Hefele, Histoire des Conciles (Livre 31e : conciles sous le pontificat de Grégoire VII – Livre 32e : de la mort de Grégoire VII au concordat de Worms et au IXe concile œcuménique – Livre 33e : conciles du IXe concile œcuménique au conflit avec les Hohenstaufen, 1124-1152), t. V, partie 1, 1912, p.455
2.藤崎 衛ほか, 第一・第二ラテラノ公会議(1123、1139年)決議文翻訳, クリオ, 2018, 32, p.61-80
3.Oman Charles, The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515, London Methuen, 1898, p.354-355
4.Ralph Payne-Gallwey, The Crossbow, Mediæval and Modern, Military and Sporting, Longmans, Green and Company, 1903, p.3-4

2番目の資料以外はすべて著作権切れでネットで全文公開されています。


新規取り扱い、EPIC FUSION EXハンドル。

取扱商品の再選定を行っているのですが、エントリー向けの低価格ハンドルとして新規にEPICアーチェリーのFusion EXハンドルを取り扱いします。1100gの軽量アルミハンドルです。商品は年明けの入荷を予定しています。

これに伴い、STARKアーチェリーのLIGERO(1,080g)ハンドルの取り扱いを終了します。在庫は値下げし特価品として販売します。よろしくお願いします。

【特価品】STARK LIGERO ハンドル - JPアーチェリー

Epic Fusion EX ハンドル - JPアーチェリー


レビュー再開、Spigaが新しいベアボウハンドルを発表。

長年ベアボウハンドルを製造しているすピギャ(SPIGA)がBBハンドルのモデルチェンジ(写真左)を発表しました。ハンドル自体は既存のモデル(写真右)より50g程軽い1447gで、そこに3つ追加ウェイト(210g)を装着できます。このウェイトはスピギャ独自のもので、装着位置を左右で調節できます。

専用ウェイト

年始の入荷を予定しています(黒/RH)。150円を超える円安で新商品の紹介だけでレビューを控えていましたが、130円台にと環境が落ち着いてきたので、来年の初めから、新商品のレビューを再開したいと思います。別の記事にしますが、最初に入ってくるのはこのハンドルか、WINの新型ハンドルになるかと思います。

Spigarelli BB V2 ハンドル - JPアーチェリー


HOYT インテグラリム モデルチェンジ

ホイットより、インテグラリムモデルチェンジのお知らせがありました。ホイットのページで画像が更新されていないため、取引先のランカスターの写真を使わせていただきました。2023年モデルの出荷はすでに始まっているとのことです。

弊社では2022年モデルの在庫を販売し終え、今後は2023年モデルを販売します。


17-19世紀のイギリスアーチェリー

ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』

昨日の記事を書いたあとに、色々と勉強して寝ましたが…朝起きて、自分は何をしようとしているのか理解ができなくなりました。

自分はただのアーチェリーのプロであり、下記のような同業者によって書かれたアーチェリーの文書・記事に関しては、検証する能力がありますが、このようなオックスフォード大学で研究していたイギリスの歴史のプロ(経歴はこちら)の論文に意見することなどできるわけ無いですよね。。。

ということで、何も突っ込まずに、以下、この論文の解説に徹します。

スポーツという何かを定義することは難しいですが、少なくとも、ロングボウは15世紀にはまだ国防力の一つでした。16世紀から17世紀にかけてマスケット銃に取って代わられると、武器としてはみなされなくなっていき、遊びからレクレーションに変化していきます。

18世紀初期までは少人数で広い土地や森の中で楽しむもので、バットシュート(Butt-shooting)という土の壁を的に見立てて、当てる遊びでした。それをレクレーションに引き上げたのが、ランカシャーの””貴族””であるアシュトン リーバー卿です。貴族についてはaristocratとの表記ですが、後で検討します。

遊びは楽しけりゃなんでもいいのですが、レクレーションには目的があります。記録では、「長時間机に近づきすぎて、胸を机に押し付けすぎたことによる胸への圧迫を軽減する」ためにをアーチェリーを楽しんだとされています。昔の貴族どんな姿勢で机に座っていたんでしょうか…。

こんな感じかな??

さて、なかなか効果があったようで、貴族さんたちが集まって、イギリス最古のアーチェリー協会「the Toxophilite Society」を設立します。1781年、協会の会計によれば、最初の支出は「ブランデー、ラム酒、ワイン、ジン、真鍮のコルク抜き」だったので、やってたことは想像できるでしょう。アーチェリーして、飲み会を開いていたのです。

1787年に王室がパトロンになって高価な賞品を提供するようになると会員は急激に拡大し、多くの協会ができ、the Toxophilite Societyのメンバーは1784年に24人だったのが、1791年には168人に拡大します。ここで検討すべきは「貴族」という言葉です。当時の人口を考えると、ここで語られているのは純粋な「貴族」だけではなく、「地主貴族(ジェントリ)」も含まれると考えられます。後のジェントルマンになっていく人たちです。

当時のアーチェリーは現在のものとは大きく違い、

Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回しました。会員たちは、「この日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進した」。会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射された。

矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られた。

射的の後には晩餐会や舞踏会が開かれ、詩や歌が披露されることもあった。裕福な協会はロッジを建てて祝宴を開き、小規模の協会はマルシェや地元の居酒屋を利用した。

このような催しは、公共の場で行われるため、当然ながら大勢の見物人が集まる。射手たちの才能は行き当たりばったりで、酒も入っていたため、必ずしも安全とは言えなかった。1791年に行われたKendal Archersの会合では、大勢の観客が押し寄せ、なめし革職人1名と仕立て屋2名が矢で撃たれました

JOHNES, MARTIN. “Archery, Romance and Elite Culture in England and Wales, c.1780–1840.” History, vol. 89, no. 2 (294), 2004, pp. 193–208. JSTOR,
Royal Toxophilite SocietyのHPより

基本的なフォーマットがアーチェリーを楽しんで、裕福な協会は近くのクラブハウスで宴会を開き、そうでない協会は飲み屋で飲み会をしていたようです。アメリカの19世紀の本でもクリケットとの比較について語られていますが、アーチェリーのほうが軽い運動であったために、1787年にできた協会では女性の参加が許可されます。これによって、アーチェリーは貴族たちの飲み会から、社交場に進化を遂げていきます。

男性の射手は、その優雅で優美な女性の姿を賞賛し、楽しんだに違いありません。 ここでは、当時の多くの町に建設され、性的観戦や求愛の場として悪名高い新しい公共の文化施設との類似点をえがくことができます。 実際、これは集会室、遊園地、劇場、ホールの存在理由の一部でした。

(中略) アーチェリーは、キューピッドとその弓矢というロマンチックな連想とともに、男女が対等(The Social equal)に出会い、眺め、楽しむ機会を提供したのです。

同上

当時のアーチェリー協会には厳しい入会資格があり、そこに入会できるということは広義的な意味で貴族であることを示していて、会員は社会的身分としては対等だったので、当時の社会的に適切な出会いの場になったというわけです。実際に会員同士が結婚したという記録も残っています。

飲み会から社交場、さらに出会いの場という認知されていったことで、アーチェリー大会は更に豪華なものになっていきます。女がいたらそりゃね、もう…ね★

(もとの論文には含まれていません)1791年、Royal Toxophilite Societyの設立によるアーチェリーの復活から10年後、多くなっていたすべてのアーチェリー協会の公開ミーティングがBlackheathで開催されます。1792年と1793年にも同様のミーティングが開催されたものの全国アーチェリー大会はここで終了します。

しかし、アーチェリーの成長はここで終わり、ナポレオン戦争(1799-1815)により、多く貴族が駆り出されたことで、アーチェリーが衰退します。1815年のワーテルローの戦いでイギリスの勝利が確定し、貴族たちが帰国するまで続きます。この後にアーチェリー大会は豪華さ絶頂期に達し、先日紹介したRoyal Company of Archerys が王室の警備として採用され、代わりに多くの資金と賞品が提供されたのものこの時期です(1822年)。

大きな大会(飲み会)になると参加者は1000人を超えていたようで、貴族たちは持ち回りで自分の屋敷や、クラブハウスで大会を主催していたので、みんな大会に行くのは楽しみでも、自分が主催の順番になると困ったことになっていたようです(笑)。

この状況を変えたのは産業革命で、金持ちとして貴族(地主)の他に資本家が台頭してきます。18世紀までは多くの協会は、紹介制は当然のことながら、紹介があっても、入会には3世代にわたる血統書の提出を求めて、審査したりしていましたが、アーチェリー大会の開催に多大な資金がかかるようになり、資本家も入会できるようになっていきます。

さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終えたことで、閉じたコミュニティではなくなり、レクレーションとしてアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備が行われていきます。こうして、イギリスではアーチェリーは兵器から遊びに、遊びからレクレーションに、そしてレクレーションからスポーツへの道を歩んでいくことになります。

現代のアーチェリー技術を築いたホレース・フォードは、この時代をこのように語っています。

残念ながら、かつて 18 世紀の終わりと、今世紀の最初の半分の間に輝いた「比較できないほどの素晴らしいアーチャーたち」から得るものは何もない。それに比べて、グランドナショナルアーチェリーミーティングの設立以来、強く、正確なショットを放ってきたシューターたちの持つスキルから得るものは非常に多い。

アーチェリーの理論と実践

以上。


歴史むずかった…

「ロイヤル ブリティッシュ ボウメン」アーチェリー クラブの 1822 年の会合

先日触れた論文を読んでみたのですが…そう、わたしのただのアーチェリーのプロでした。この論文は18世紀後半の貴族の文化から、フランス革命がイギリスの文化に及ぼした影響、産業革命とそれによって誕生した資本家たちの勃興、に伴う貴族たちの懐古主義と、まず、当時の世界史とイギリスの事情がわからないと、ただの読書感想文しか書けない内容です…ということで世界史を勉強してから、いつかは記事に。申し訳ございません。


750万アクセスありがとうございます!!

昨日は窓から見える海がとても綺麗でした、そして、気がついたら751万アクセスを超えまして、本当にありがとうございます★

まぁ、現実はこんな感じですけどね…

昨日、イギリスのアーチェリーは相席屋か??という記事を書きましたが、実際にその視点で書かれた論文がありました[1]。読み込んだらまた記事にしたいと思います。15年書いて750万、20年目の1000万アクセスを目指して…というか、アーチェリーを知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされていますし、15年書いてもまだまだ書きたいテーマはたくさんあります。奥が深い!

1.Johnes, Martin. “Archery, romance and elite culture in England and Wales, c. 1780–1840.” History 89.294 (2004): 193-208.


イギリスのアーチェリーは相席屋??

本日読み終えて本「The Witchery of Archery(アーチェリーの魅力)」1878にアメリカで出版され、アメリカにアーチェリーブームを巻き起こして本です。オリンピック以前のアーチェリーの歴史を調べていくと、改めて日本が特殊な国であると思い知ります。人類最古の道具の一つとされている弓ですので、どんな国にもあったと思いますが、17-19世紀のアーチェリーの記録を調べていくと、アメリカ、イギリス、日本にしか資料が残っていません。

最初はわたしが日本語と英語しか読めないための認知バイアスとも思ったのですが、1900年オリンピックのフランスや1920年のベルギーの事情を調べてみると、スポーツというよりは、日本の射的のようなフェスティバル・お祭りのイベントであることが多く、競技としての記録が本当にありません。郷土史として残されている可能性はありますが、1900年のオリンピックの競技がどんなものだったのかすら残っていない時点で、見込みは低いと考えています。

戦争によって美術品や研究資料・書籍などが焼かれたり、略奪されることが古今東西で行われてきた。第二次世界大戦でも、戦場となったヨーロッパ各国の都市の図書館や文化遺産の多くが被害を被ったが、例えば、勝者であった旧ソ連によりドイツ文化財が略奪されて、250万点という想像を絶する数量で、今もって返還されていないことが明らかになっている。

加藤一夫, 日本の旧海外植民地と図書館, 参考書誌研究(49),1998, P50-70

逆に、英・米・日なのかと言えば、記録に残した人の偉大さもありますが、戦争こそしたものの、革命が起きておらず、焚書がなかった国がこれくらいしかないという悲しい現実があるのかもしれません。ちなみに日本は戦時中、図書資料の疎開が行われています。

日本のアーチェリーについては勉強中で、イギリスのアーチェリーに関しては、当時の中心人物の著書を翻訳しているので、それなりに把握しています。

ということで、当時(19世紀後半)のアメリカの様子を見ていきましょう(すべて意訳です)。

 弓で射るとき、動かすのは自分の体あり、矢を制御するのは自分の心である。自分の優れた男らしさを誇りに感じる。鍛え上げた筋肉が功を奏したのだ。しかし、銃の射撃はそうではない。ライフルや猟銃の弾には、筋肉の動きとは無関係に働く力が宿っており、小学生や弱虫でも、力強く撃つことができる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.9-10

19世紀に弓が狩猟で栄えたのはアメリカだけです。アメリカでは負けた南軍が銃器の所持を許可されなかったために、旧南軍だった人たちは、銃器による狩猟ができなくなり、弓に移行していきます。この本の著者のMaurice Thompsonも、南軍の二等兵として参戦した人ですが…負けたから銃が使えなくなったのに、銃は弱虫が使うものだということになっています(笑)。

 野生動物の捕獲は、生計を立てるための手段としてはほとんど見なされなくなり、スポーツやレクリエーションの手段というレベルにまで低下したか、あるいは上昇したと見ることができるだろう。以前は、食卓の快適さは、猟師の腕か運によった。

現在では、銃による狩猟が流行しているが、健康的で楽しいものとして推奨することはできません。300から700発のペレット(*)を鳥めがけて投げつけるのはスポーツではありません。ちょっと考えてみましょう。銃身に400個のペレットが入っているとします。散弾は40ヤードの距離では、9平方フィートのスペースにその数を広く散布します。

*1発の弾丸に入っている散弾の数

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.15

では、古代の捨てられた武器で武装した私たちが、警戒心の強い鳥に近づくのはどれほど難しいことでしょう。しかし、私たちが成功する可能性が低いことが、この事業をより魅力的なものにしていた。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.39

アメリカ人がこのような本を書いたことではなく、アメリカでベストセラーになったという事実から、当時のアメリカでは、散弾銃による狩猟は簡単すぎるがゆえに、「マッチョ」ではないという認識がされていたと考えることができます。

イギリスでは公共射場のために作られた大きな的は次第に放棄され、解体され、すべてのアーチェリー大会は、伝統ある協会に属する美しく装飾された公園や、このスポーツを後援する紳士や貴族の田舎の私有地に用意された場所に限定されるようになった。王室や貴族の後援を受けたいくつかの協会の会合で提供される賞品は非常に豪華で、その争奪戦は射撃の精度を高めることになった。

最も古いクラブの1つである「Woodmen of the Forest of Arden」には、女性会員専用の賞品が3つある。1つ目はトルコ石のゴールドレースジュエリー、2つ目は金の矢、3つ目は金のラッパである。

「Hertfordshire  Archers」は、女性会員に価値ある美しい賞品を提供している。これは、ダイヤモンドをあしらった弓と軸で飾られた金のハートである。

「Royal  Toxophilite Society」は女王の後援を受けており、美しく装飾された敷地の中に、古いイギリス様式の壮大な宴会場を所有している。建物全体を囲む広いベランダに面した窓は、豊かなステンドグラスで、創設者であるウィリアム4世とアイレスフォード伯爵の紋章が誇らしげに飾られています。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.140-141

という、19世紀のイギリスのアーチェリーの状況を説明したあとに、

アメリカでは、「Wabash Merry Bowmen」と「Staten Island Club」がある。もてなし上手な友人の指揮のもとで開催されるプライベートな社交場で、数人の気の合う仲間を呼び寄せて午後のひと時を陽気に過ごし、シンプルでカジュアルなディナーで締めくくります。 

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.148

と当時のアメリカの事情を伝えますが、イギリスの状況が貴族の社交場で、アメリカはカジュアルな仲間の庭でやるバーベキューみたいな記述にはなっていますが、かなり細かく、イギリスの協会で女性に与えている景品をこれでもかというくらいに細かく説明しているので、私たちはカンパニー(仲間)だが、イギリス人は金を女を呼んでいる、と言った感じのニュアンスをわたしは感じました。現在の相席屋的な。。下記のリンクで読めるので該当部分のニュアンス下記になる方は読んでみてください。

https://www.archerylibrary.com/books/witchery/

かと言って、彼らが女性に興味が無いほど「マッチョ」だったかと言えば…

アーチェリーが、女性にとってクロケットよりも好まれる理由は、たくさんあるはずです。クロケットは2つの理由で好ましくない。第一は、女性はコーデをするので、前かがみになるのは非常に不健全な行為であり、非常に敏感で傷つきやすい体の器官を圧迫することになるからである。第二に、 アーチェリーは直立した姿勢で行うため、両手と腕、肩と背中、胸と脚の筋肉が使われる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.214

イギリス人は金で女を釣り、アメリカ人はアーチェリーが女性にとって健康に好ましく、合理的なスポーツであると説得することで釣るのは、なにか現代に通じるところがあるようにも…人間は変わりませなんね。