改訂しました。アーチェリーの理論と実践

*2013/5/20投稿(旧題 古いこと)、2023/3/19に加筆して再投稿

(加筆) ボジョレーの2016年を2023年に飲みましたが、熟成させることもできるのは本当みたいです。さて、現在の射形のベースとなっているスタイルを完成させたホレート・フォードの著作を2013年に翻訳しましたが、この10年で手直ししたいところ、解説を入れるべきところを、解説付き改訂版として再編集しました。下記リンクからダウンロードできます。(加筆ここまで)

【改訂版】アーチェリーの理論と実践 – The Theory and Practice of Archery ホレース・フォード 著 (PDF 3MB)

(以下、2013年の5月の記事ですので、最近の話ではありません)

長くブログを書いているといろいろな反応が返ってきます。誤字脱字はともかく、今でも覚えているのは、ミザールハンドルを間違って「アルミ製」と書いてしまったことなどで、お叱りを受けて直ちに訂正しました。逆に、正しいことを書いていてお叱りを受ける記事もあります。中国工場の製作技術の低さを批判したところ、それを売っているショップが自作していると勘違いされた読者が、作り手に対して経験不足と評したことを、大先輩でもあるベテランの販売店に対して経験不足と言ったと受け取られ、お叱りを受けました。

正しい知識もあれば、間違っている知識もありますが、一番怖いのは、正しいと思い込んでいる間違った知識・情報ではないかと思います。今回、コメントを頂いたのでお客様の間違いを正すことができましたが、コメントを頂かなければ、すっど勘違いで私が批判される事態が続いたのかと思うと…恐ろしいです。

単純に自分が間違ったことを書いてしまったなら自己責任ですが、受け取り手の勘違いによって思わぬトラブルや批判が生まれるのはなぜか。アメリカやヨーロッパでは、自分がやろうとしているような弓具の評価・レビューというのは当然の様にアーチェリー雑誌に掲載され、広く読まれています。欧米人にできて、日本人にできないはずはないでしょう。その違いはどこにあるのかと考えたのが、2月。

そして、「古いこと」…つまり、それは歴史があるのかないのか、正確には歴史が語られているのかどうか、そこに違いがあるのではないかと思うようになりました。欧米のアーチェリー用品のレビューには、1920年代から積み重ねられた知識と常識があり、レビューをする人間はその文法・文脈にのっとり、発言しているからこそ、誤解されずに、正しい情報が流通するのではないかというのが自分の現在の仮説です。対して日本のアーチェリーのメディアの多くの商業主義に上に成り立っているものです。商業にとって歴史は積み重なるものではなく、流れていくもので、過去はむしろ邪魔です。

有名な話ですが、これはボジョレーの毎年の”自己”評価です。

1995年「ここ数年で一番出来が良い」[1]
1996年「10年に1度の逸品」[1]
1997年「1976年以来の品質」[1]
1998年「10年に1度の当たり年」[1]
1999年「品質は昨年より良い」[1]
2000年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」[1]
2001年「ここ10年で最高」[1]
2002年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」[1]
2003年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」[1]
2004年「香りが強く中々の出来栄え」[1]
2005年「ここ数年で最高」[1]
2006年「昨年同様良い出来栄え」[1] (ウィキペディアからの引用)

さあ、どれが一番いい出来だかわかりますかね…「エスキモーに氷を売る―魅力のない商品を、いかにセールスするか」なんて本が出版されるくらいですから、商品にとって、マーケティングが全てなら、過去の話(歴史)を蒸し返されては、いろいろと困ることは想像できると思います。

日本ではアーチェリーの歴史がまとまった形、整理された形で存在しないことをいいことに、勝手に書き換えられたりしています。例えば、私たちも行っているハイスピードでの弓具の研究は、日本のヤマハが初めてだと某雑誌の記事には書かれていますが、アメリカでは1930年代から行われており有名な話です。その研究を1930年代に始めたの現在の弓具の形を作ったヒックマン博士です。ホイット氏(HOYT創業者)は彼に感謝の手紙を送っています。また、同時期には和弓の世界でも、旧海軍兵学校の協力のもと、120fpsで弓の動きを撮影し、弓の研究が行われていました。どちらも80年以上前の話です。

日本での戦前の研究は「紅葉重ね」でその写真を見ることができますし、ヒックマン博士は「Hickman: The Father of Scientific Archery」という伝記が英語で出版されているほどの有名人です。

現在のアーチェリーは19世紀の後半から、脈々と続いてきたもので、多くの研究によって進歩してきたものです。メディアにアーチェリーの記事を書くほどの人達が、これらの常識を知らないとは思えません。日本人には知られていないのをいいことに、商業的に歪曲しているのでしょう。

5月にホレース・フォードの本を翻訳したのをはじめ、ホイット氏のインタビューの編集など、弓具のレビュー以前に取り組むべきことがあるように感じます。

欧米にあって、日本にはない(と自分は感じる)のは、今に続く歴史を知っているかの差、そして、正しいアーチェリーの歴史を語ることで、日本でもそのようなものが、時間はかかっても熟成していくのではないかと思っている今日この頃です。


【追記】AIにアーチェリーはまだ早いようです。

(追記) 人生初めてAIに騙されました…ここまで回答されると、へぇー、研究あるんだと思ってしまい、検索したけど、全く見つからず、掲載されているジャーナルが公開されていたので、該当号をみたら、そもそもこの論文存在しません…論文ごと全部ウソついてくるとは怖いわ。

最近、ChatGPTのようなAIが話題なので、アーチェリーに使えるか調べてみました。基本の基本のリムアライメントですが、ちょっと何を言っているのかわからないですね…残念。ちなみに、AIは英語ベースで開発されているので、翻訳の問題かなと思い英語でも聞いてみましたが、

Adjust the limb alignment: Adjust the limb alignment by adjusting the limb bolts. Turn the limb bolts clockwise to increase the limb tension, which will decrease the bow’s draw weight and increase the bow’s speed. Turn the limb bolts counterclockwise to decrease the limb tension, which will increase the bow’s draw weight and decrease the bow’s speed.

Chat GPT March 14 ver

英語で聞くとティラー・ポンド調整のやり方が返ってきます。英語でもダメですね。

歴史の記事を書いたときに、いくら調べても情報が手に入らなかった18世紀のドイツのアーチェリー競技の情報を聞いてみると、正直にわかりませんという回答が返ってくるのはびっくりでした。グーグルなどの検索サイトでは、情報が本当はそこに存在しなくても、何かしらの、価値のない情報(バイオリンのBowとか)が紹介されて、それが本当に無価値であることを検証する時間を取られますが、AIの回答のように「情報が存在しないという情報」でも価値はあります。

ということでは、AIにアーチェリーはまだ早かったようです。仕事を奪われずに済んでホッとしています。

ただ、進化は早いそうなので来年くらいに再検証したいと思います。

ちなみに4月に大阪に行くのですが、人間と同じくらいに間違っていますw (東京から大阪に行く新幹線は東日本でも西日本でもなくJR東海で切符を買う必要があります)


【改訂】ヒックマン博士とホイット氏の手紙

1978年にホイット氏はHOYTアーチェリーの経営権を販売しているので、現在のHOYTアーチェリーとは違うものの、そのホイット氏は20世紀を代表するアーチェリー業界のイノベータでした。そのホイット氏はヒックマン博士の研究した理論を参考にして弓の開発をしており、史料としての手紙を見つけました。

書いたのはHOYTアーチェリーのホイット氏(48歳)で、あて先はヒックマン博士(70歳)です。書かれたのは1959年1月29日です。訳はできるだけ英文に忠実にしています。

あなたは我々がここで得た結果について興味を持つだろう。使用した42~45ポンドブラケットの弓は(28″のドローレングスで)、#1816イーストンシャフトで190から200fps、1オンスの矢では170~179fpsの速度を計測した。だがこれはまだ序の口だ。我々はシングルとコンパウンドの異なる種類のコアテーパー、さらには様々な仕様の弓を使って実験している。また、現在の実験結果を見る限り、リムの稼働域が19 1/2~20″がリムの効率性を最も高める長さだと指し示しているようだ…あなたのスパーククロノグラフは、私がいままで一番興味を持っていたことに対して多いに満足できる結果をもたらしてくれた。精確なデータを得るということは、本当にゾクゾクするものであり、また私たちにとってそれぞれの弓のデザインの利点を評価する上で計り知れないほど重要な判断材料となる。この時代にヒックマンスパーククロノグラフを手に入れることができたことを、言葉では言い表せないほど嬉しく思っている。今までに私がしてきた投資の中で、これは最高のものだ。

ホイット氏がヒックマン氏に書いた手紙

文通仲間ということは知っていましたが、文面を見る限り、想像以上に情報を共有していたようです。
この手紙の背景について書きます。ヒックマンはアーチェリーの研究に、ピアノ会社が鍵盤の打鍵スピードを計測するために購入したアバディーンクロノグラフ(Aberdeen Chronograph)を使用していました。矢速を測定する機械です。しかし、ポータブルで直流電源で稼働可能な矢速計がほしくなり、自分で作り、海軍の主任研究員であるジョン P.クレーベンに宛てた手紙で(…なぜ海軍かは不明…アバディーンクロノグラフを開発したのは陸軍)

私はこの国においてアーチェリー関連の書物を最も多く所有している。だが不運にも、これらの資料は矢の弾道についてあまり多くの情報を提供してはくれない。1928年に私が計測をおこなうまで、誰もストップウォッチ以外の計測器以外で矢の速度を測ろうともしなかったのだ。そこで私はクロノグラフを使って、重さの異なる矢とデザインの異なる弓のそれぞれの組み合わせがもたらす矢の速度と加速度を計測することにしたのである。

ヒックマノ氏のジョン P.クレーベンに宛てた手紙

と書いていて、自分で開発した矢速計(スパーククロノグラフ)で多くのデータを採取して、多くの論文を書きます。また、戦時中はこれを改良して、リボンフレームカメラ(ハイスピードカメラ)を開発し、クロノグラフでロケットの飛行中の速度を計測し、撮影する仕事をします。

写真がその矢速計。その後、ホイット氏はこのアーチェリーのために作られた世界初の矢速計を、1958年にヒックマン博士自身から300ドルで買い取り、自社での実験に利用し、そして、この手紙につながるのです。ヒックマンに関するもう一つの話。現在では一般的にリムに使用されているグラスファイバーですが、これがアーチェリーで使われるきっかりになったのは日本と韓国です。

ロングボウはセルフボウであり、1つの素材で作られていましたが、複合弓のように違う素材を張り合わせて反発力を高めようとする発想が生まれます。違う素材をコアにはり合わせて反発力を向上させる作業をバッキングと言いますが、1930年代にヒックマン博士は、その素材に繊維を使うことを提案します。その素材とは「シルク」でした。今風でいうと、シルクファイバーリムです。

しかし、第二次世界大戦によって、シルクの輸出国だった日本から素材が手に入らなくなり、また、米軍もパラシュートを作るために、シルクを買い占めていたので、だんだんとシルクが入手できなくなります。そこでヒックマンはバッキングに新しく開発されたフォルティザン(Fortisan)繊維を使うことを提案します。これは商標で、現在ではポリノジックレーヨンと呼ばれている繊維だそうです。

この繊維はシルクの2~3倍の強さがあり、ヒックマン博士は1946年3月のAmerican Bowman-Reviewに、レイヨンファイバーのリムへの利用に関する記事を書きます。が、歴史は繰り返すといいますが、その後、朝鮮戦争が勃発(1950年)し、高性能レイヨンは又もや軍によってパラシュート製造用に買い占められ手に入らなくなります

そのため、レイヨンの代わりとして採用されたのがグラスファイバーです。ヒックマン博士もテストしたものの、具体的に記事にする前に、フレッド・ベアが1951年にウッドグラスファイバーのリム開発に成功します。構造としてはすでに知られているものだったので、アメリカでは特許には出来ませんでした(1953年にカナダで特許を取得)。こうして、第二次世界大戦がきっかりでシルク繊維がレーヨン繊維となり、朝鮮戦争でレーヨン繊維がグラスファイバー繊維となり、今に続くのです。

当時私はまだ業界の人ではありませんでしたが、聞く話としては、湾岸戦争で砲弾用にタングステン素材が、アフガニスタン紛争では防弾チョッキのために原糸用の繊維が入手しづらくなった歴史もあるようです。

*2013/6/3に初投稿、2023/3/15に一部手直ししました。


Eine lange Vergangenheit, doch nur eine kurze Geschichte. – 歴史編. これから

心理学同様にアーチェリーも「過去は長いが、歴史は短い」のではないだろうか。

アーチェリーをはじめ23年、アーチェリーを仕事として18年経ちます。それなりにはプロフェッショナルだと自負していますが、アーチェリーの歴史についてはいくつかの疑問があり、どこかのタイミングで取り組みたいと考えていましたが、日々の業務があり進まなかったところ、コロナと急激な円安がきっかりとなりました。

・なぜ洋弓と訳されたのか

・弓術はスポーツとしていつから行われているのか

・なぜロングボウはイギリスで生まれたのか

・なぜ、長距離派と短距離派が存在していたのか

・どのように今の競技形式になったのか

これの自分の疑問に対する答えが今回の一連の記事となります。自分としてはすべての疑問を解決できたと思います。

*記事の中で不明な点、納得いかない部分があれば、いつでもコメントください。

ただ、研究を進めるなか、新しい疑問が生まれてしまいます。それは「弓術はいつ生まれたのか」ということです。

進化論を信じれば人間は動物から進化してきました。動物というのは学びはしますが、訓練はしません。最近、ネズミがいないので、それらを狩る技術を子猫が習得できないという記事を見ましたが、私の理解では、動物は狩りを習得はしますが、習得後して練度を上げていく行為はしません。

人間でも歴史編2で取り上げたように、弓術を習得後、訓練はせずに、獲物がとれるかは神と意志とする文化があります。しかし、現在ではアーチャーは繰り返し練習を習得します。

動物から進化して人間はどこかのタイミングで、弓を引くだけではなく、その技術を日々高めるために訓練をするようになったはずで、それは弓術の誕生した日です。いつか、その時期を捉えられるよう、今後も精進していきたいと思います。

このサイトはもうすぐ800万アクセスです。本当にありがとうございます。


なぜメンタルが問われるのか – 歴史編. 13

現在のアーチェリーはメンタルスポーツと言われています。2020東京オリンピックでも採用された、カメラや観衆見守られながら、30秒という制限時間の中で、交互に一射ずつ射る競技形式は間違いなくメンタルが問われる競技です。しかし、ここまで書いてきたように、アーチェリーは最初からこの形式だったわけではありません。

立射について、古代から中世までの弓術の指南書では度々「弓を耳の後ろまで引け」というアドバイスがされます。そのメリットは明らかですが、そのような指摘がされるということはそれが困難だったことを証明しているようにも思えます。クレシーの戦いのように自分向かって突撃してくる騎馬を目にしながら、所持している矢の本数に限りがある中、一射一射相手に向かって自分のペースで射るのは、間違いなくメンタルが問われる行為です。

ちなみに、騎射弓術ではこのようなアドバイスは見られず、ペルシャ弓術についてモハマッド・ザマーンによって書かれた教本では、「弓の弦の引き方は、眉毛引き、口髭引き、髭引き、脇腹引きの4種類がある」とされていて、弓をどう引くかは相手との距離を見計らいながら選択するものです。

シューティングラインに入っても、突撃してくる騎馬がいなくなってから、アーチェリーはメンタルが問われるものではなくなります。戦後の世界選手権で採用されたダブルラウンド(シングルラウンドを2回)は4日間に渡る288射もの積み上げです。1970年代までアーチェリーガイドで言及されるメンタル(精神力)は、競技のためでなく、競技によってメンタルが「鍛錬される」という効果です。

後述するようにシングルラウンドは決して愛されてきたわけではありません。1955年当時、WA加盟国はここに妥協点を見出したものの、見ていて面白くないことが問題になっていきます。2020年の東京はコロナの影響で無観客で行われましたが、改革はサマランチIOC(国際オリンピック委員会)会長の助言もあり、テレビ放送関係者と相談しながら、一つの対決をテレビの枠に合わせて20分に短縮など、「テレビ映え」がテーマとなります。

まず、1988年のオリンピックの決勝ではグランドFITAラウンドという各距離を8射(計36射)してのノックアウト方式にすることが、WA(FITA)総会で賛成40カ国、反対3カ国、棄権2カ国で決まります。反対がわずか3カ国なのはちょっとかわいそうな気もします。これによる競技時間の短縮で、1988年のソウルオリンピックでは団体も開催されるようになり、メダル数が倍になります。参加者(コスト)を増やさずにメダル数を増やすのはIOCの意図することろでもあり、近年はミックス戦も導入されています。

92年のバルセロナオリンピックでは、さらに協力関係を深め、競技方式の決定にはアメリカのNBCテレビのピーター・ダイヤモンド氏、オリンピック組織委員会のテレビ部門ディレクターのマノロ・ロメロ氏、スポーツチャンネルESPNのピーター・レイス氏が関わり、アーチェリーのライブ映像を配信することの明言を得て、90年の11月に競技方式が確定します。NBCテレビからは午後に決勝を行い、個人戦を2時間半以内、団体戦を3時間以内、16時前に終わらせることが要求されています。

新しい競技方法は現在の競技形式とほぼ同じで、オリンピックのためにテレビ映えするように開発されたため、そのままオリンピックラウンドと呼ばれます。この形式で行われたバルセロナオリンピックは、かつてないほどの成功を収めます。決勝では、テニスを観戦していた開催国スペインの国王フアン・カルロスが、スペインチームの成功を知り、アーチェリーの決勝戦を見るために急遽会場入りし、熱狂の中、スペインチームが金メダルを獲得。その様子は「アーチェリー会場は、選手、スタツフ、観客が互いに抱き合い、祝福するお祭りのようになった」とWAの会報に記録されています。

この成功により、1対1の戦いとテレビとの相性の良さが証明されます。93年のWAの会報に委員の意見として、FITAシングルラウンドが長すぎるのではないか、決勝が70mなのに予選で他の距離で競う必要があるのかという提案がされ、現在の70mだけを行う形式になっていきます。

すべては、テレビ映えのためでしたが、その結果として、アーチェリーは4日間に渡るシューティングスコアを積み重ねていくフィジカルなスポーツではなく、1射1射が大きな価値を持つ、3射の結果だけで勝敗(ポイント)が決まる、現在のメンタルを問われるスポーツへと変化していくことになりました。

やっと現在にたどり着きました。2000年以降のアーチェリーに関しては大量に資料どころか、その時代を生きた人もみんなお元気ですので、ここで終わり。


みんなのスポーツへの道 – 歴史編, 12

1972年 ミュンヘンオリンピック

スポーツとは何かが難しすぎるので、学問業界は近代(現代)スポーツという言葉を発明しました。お祭りなのか、宗教儀式なのか、軍事訓練なのか、遊戯なのか、そういった分別のややこしいものを一旦切り分けて、明確にスポーツとして定義できるようなものを近代スポーツとし、そこから手を付けましょうということです。

この記事をまとめているときに調べ物をしていたら恐ろしい質問が。高校生にこんな難しい問題が出題される学校ってすごいです、正しい回答ができる気がしません。大学どころか、院試レベルの問題なのでは…。この記事は国際スポーツの話。

国際大会の前に、まず数量化と呼ばれる段階を通過する必要があります。今の名称で言えば、公認記録です。記録は昔から残されて来ました。古代ギリシャではクロトンのファイルスが16メートル跳んだという記録が残っていますし、平家物語では20キロ以上する甲冑を着用した状態で不安定な船の上から6メートル(二丈)飛んだという記録が残されていますが、現代のアスリートの記録と比較した時、それらの記録は虚偽であるとする意見が一般的です。

数量化とは正確な記録を残そうをする作業です。例えば、1930年代に行われた日米通信弓術大会は、当然双方正しく記録し、相手側に伝えるという前提がなくては成り立ちません。イギリスで偶然にも19世紀前半には記録を正しく記録するようになります。当時はクラブごとに試合を行っていたために、勝者の固定化を防ぐために、優勝者は殿堂入りし、次の年の大会には出場できない決まりがありましたが、そのような制度から、ハンディキャップ制に移行していきます。年次大会までに行われた試合の点数からハンディを計算するため出場者全員の記録を残すようになります。これは当時としては非常に珍しいことで、フランスでは1900年に行われたオリンピックでも、出場者の点数どころか、出場者の名簿すら殆ど残されていません。

点数が正しく記録されれば、異国の地でアーチェリーの様子を窺い知ることができ、国際化につながっていきます。しかし、それだけで国際大会が順調に行われるわけではありません。日本では昨年にボウガンが基本所持禁止となり、ボウガンターゲットシューティングはあまり先が見通せない状況になってしまいました。その原因は複雑ですが、このグローバル化された21世紀でも、手弁当の組織が国際競技を運営する困難さは要因の一つだと思います。

アーチェリーのオリンピック除外を受けて、1931年にWA(世界アーチェリー)が設立されます。その目的は「オリンピック競技大会への参加につながる国際的なスポーツ関係を育成すること」にあり、再びアーチェリーをオリンピック競技にを第一目標としましたが、もう一方で、競技が民主的に官僚化されます。簡単にいえば、事務局、競技参加ではなく、競技を管理する組織ができたわけです。

ワールドカップ2012 at 日比谷公園

国際スポーツの定義はないので、国際大会を名乗りイベントを開催すれば自称はできるのでしょうが、世間に国際スポーツとして認められるような国際大会を行うためには、専門スタッフが常勤する事務局は間違いなく必要な存在です。

また、競技者と競技管理者が別々になった事でアーチェリー競技は官僚的に管理されることになります。1844年の全英選手権のように1日で開催する予定の競技について、ワロンドが書き残したように「天候が悪く、大雨による中断が何度かあり、昼食後さらに悪化した。5時に翌日に試合を延期することが決まり、延期によって発生した費用は分担することで同意した」というような恐ろしい事態はなくなります。翌日は仕事だよ…は当時の貴族には関係ない話か。

そして、もう一点必要なのは国際競技団体の民主主義的な運営です。全ア連のような加盟団体が票を投じて、国際競技団体が運営されます。これは決して簡単なことではなく、私は本当に尊敬するのですが、日本発祥の柔道は、嘉納治五郎氏の信念により、現在、全日本柔道連盟は国際競技団体のいち加盟国に過ぎません。柔道にかかわる議論に対して、たったの1票しか権利がないのです。功罪は柔道をやったことのない自分には語れませんが、運営に関わる広範囲の権利を国際団体に移譲したことで、武道の中で唯一オリンピック競技になったのです。

1950年代にWAはシングルラウンドという統一された競技形式を導入し、72年のミュンヘンオリンピックでその目的を達成します。以降はオリンピック競技に採用され続けることが目的になります。

東西冷戦の影響はWAだけではなく、1980年代のすべての競技団体を苦しめます。1979年に東ドイツで行われた世界ターゲット選手権では、台湾代表チームの国家を掲揚することを東ドイツ政府が許可しませんでした。また、中国がWA(FITA)に加盟したことで、台湾チームとの政治的な問題が起こり、81年にチャイニーズタイペイとすることで問題をなんとか収めます。80年と84年には政治的な理由によるオリンピックボイコットが起こり、ソウルオリンピック前には単独開催中止を目的としたテロ(大韓航空機爆破事件)が発生し、スポーツは政治に翻弄されます。

一方で、モントリオールオリンピックでは10億ドルの赤字が発生し、オリンピックというイベントは変化することを求められます。幸運な事にアーチェリーは80年モスクワのソ連と、84年ロスのアメリカがともに強豪国で、国威発揚の視点から競技が除外される可能性はありませんでした。

問題は次のオリンピックです。当時の会長と事務局長の回想によれば「ロサンゼルスからの帰り道に計画を練り始めた。ダブルFITAのラウンドを見るのは、絵の具が乾くのを見守るようなものだ」と当時の競技形式をより面白いものに変更することを計画します。

国際スポーツとなったアーチェリーは、その地位を維持するための戦うことになります。

参考

アレン・グートマン著 ; 清水哲男訳, スポーツと現代アメリカ, TBSブリタニカ, 1981

FITA Bulletin officiel


唯一無二の弓 – 歴史編. 11

1929年の論文で設計されたシューティングマシン

人類が弓を手にしてから何万年もの月日が経ちましたが、弓はほとんど進化していません。19世紀になっても論じられるのは使用する素材の違いくらいです。1926年の著書でアーチェリーに詳しい大日本武徳会弓道範士の堀田義次郎は「行く行くはヨーロッパに選手を送って日本弓術の権威を世界に発揚したいものである」と書いており、弓の性能には大きな違いがあるとは考えられていませんでした。1930年代、日米で和弓とロングボウによる交流大会が行われましたが、勝敗は2勝2敗の引き分けでした。

ロングボウに進化をもたらし、現在の洋弓に進化していくきっかけの一つは古典力学の完成です。古典力学という言葉とニュートンの林檎は、はるか昔をイメージさせますが、エネルギーについての論争が解決したのは150年ほど前の19世後半であり、エネルギー(ドイツ語)が定義されたのすら1850年頃です。

もう一つのきっかけは、心理的な距離です。弓の研究者3名によって編集された「ARCHERY:The Technical Side (1947)」の序文には「古参のアーチャーの中には、何世紀も前の高貴な遺産であるイギリスのロングボウに改良の余地はない、という考えを公然と表明している人もいる。その設計の正しさを問うことは、冒涜に近いものである」と書いています。当然、同時期に日本にも古典力学はもたらされますが、それによって和弓が改良されなかったように、イギリスの象徴であるロングボウはイギリスでも変わらず、遠く離れたアメリカですら、ベテラン勢には冒涜に近いものとして、1920年代にアメリカで最新の物理学を使ってロングボウを改良する研究が進んでいきます。

科学者による理論はエンジニアによって実践となります。戦後のアメリカで急成長し、現在でもトップランナーであるホイット社の創業者のインタビューと、ホイット氏と理論の開発に貢献したヒックマン博士との手紙にこの時代の進歩を感じることができるかと思います。

学者 : 人が的に当てるためには、いくつのことが必要ですか。

アーチャー : 2つです。

学者 : その2つとは?

アーチャー : まっすぐ射ち、引く長さを一定に。

トクソフィラス(英語で最初に書かれたアーチェリー指南書) 1545年

弓術においては16世紀からまっすぐ射つことの大切さが指摘されています。しかし、弓が”棒”である限り、矢を弓の真ん中に置くことはできず、それにより「エイミングライン」「アローライン」「力のライン」は一致せず、言葉の意味どおりにまっすぐ射ることは不可能です。ロングボウでは弓を傾けてそれらのラインの可能な限りの一致を試みたし、和弓では手の内といった射技によって解決することを試みるのですが、20世紀のアーチェリーが唯一無二の的中率を誇る弓となったのは、物理的に「まっすぐ射る」ことを可能にしたセンターショットの実現にあると思います。

矢を弓の真ん中に置き、アンカーポイントを目の下にし、ピストル型のグリップを導入したことで、歴史上初めての「エイミングライン」「アローライン」「力のライン」が一致し、文字通り、まっすぐ射ることが可能になりました。

History Of The Federation Internationale De Tir A L’arc 1931-1961

これにより、アーチェリーの的中率は飛躍的に向上し、1933年の平均スコア(*)は918点でしたが、1959年には1065点まで向上します。この後、クリッカー、プランジャー、スタビライザー、カーボンシャフトが登場して、更に的中率が向上していき、世界各国のセンターショットではない弓が、アーチェリーの弓に勝つことはないでしょう。現在、「弓はターゲットアーチェリーで使用されるもので、常識的に弓という言葉に適合していれば、どのような形状でも使用することができる(202.1)」と競技規則にありますが、センターショットでない弓が近年世界大会で実績を残した記録はありません。

*世界大会での男子選手トップ5の平均点

現在のグリップ(FIG.37)は以前は不適切とされた

また、センターショットの達成により、アーチェリーのシューティングフォームも変化する。グリップは実際にまっすぐ押すことができるようになり、エイミングに関する議論はなくなり、弓は垂直に保持ができるようになり、弦サイトが補助的エイミングとして使用できるようになる。ロングボウの改良とそれに伴うシューティングフォームの変化は1970年頃まで出揃い、現代のアーチェリーが今が完成します。

C. N. Hickman, Forrest Nagler & Paul E. Klopsteg, Archery: The Technical Side, 1947.

ROBERT J. RHODE, HISTORY OF THE FÉDÉRATION INTERNATIONALE DE TIR À L’ARC Vol. 1: 1931-1963, 1981

樋浦 明夫, 正鵠を射られた活力論争 : 「運動の計測度。-仕事」(「自然の弁証法」F.エンゲルス)で明かされたその本質, 科学史・科学哲学 23 31-41, 2010


敗者のアーチェリー – 歴史編. 10

第一回全米選手権(Willは会長の弟)

古くからアメリカ大陸では先住民によって弓は使用されてきましたが、これらについてはここでは扱いません。アメリカという国は1776年にフィラデルフィアで独立宣言がされ、1783年に国として独立します。その独立宣言がなされフィラデルフィアで1828年に最初のアーチェリークラブが結成されます。

クラブ創設者の一人であるティティアン・ピール(日本語のwikiがあるほど有名人みたい)は結成のきっかけを「 1825年、ロッキー山脈への遠征から戻った後、屋外での運動不足を感じ、ビリヤードやボウリングを嫌った数人の友人は、朝食前のアーチェリーと散歩を選ぶことになった。健康的な娯楽には、体系的な組織が必要であることがすぐにわかった。イギリスのアーチャーの本を何冊(*)か読んで、彼らのモデルと経験に基づいて1828年の春、6人の若者がクラブとして一緒に活動することに同意した」と語り、フィラデルフィア・ユナイテッド・ボウマンは「アーチェリーは、古代の最も遠い時代から行われてきたものであり、近代においては、有用で礼儀正しい競技であり、その実践は、健康とレクリエーションに資する活発で有益な運動であると考えられてきた」と宣言し、1840年代の真剣なスポーツというよりは、その全時代の社交的フィットネスとしてアーチェリーが行われていたようです。競技形式としては、主催者(キャプテン)の判断で、120ヤード~60ヤードの間に設定され、通常は80ヤードでした。的は直径40インチで、3射14エンドでの競技を行うものでした。まぁ、1820年代以前の競技形式が定まっていないイギリスのアーチェリー本を参考にしたんなら、そうなるでしょうし、ここまでアメリカのアーチェリーはイギリスと違いません。このクラブは1888年に解散します。ここからアメリカ独自のアーチェリーが誕生します。

*1824年のA Treatise on Archeryをベースとした(SPALDING’S ATHLETIC LIBRARY 1910ED)

フィラデルフィアはアメリカの東海岸北部の都市ですが、アメリカのアーチェリーブームは”南部”におこります(物理的には西)。直接のきっかけは1877年と1878年にモーリス・トンプソン氏の「アーチェリーの魔力」という雑誌の連載記事が話題となり、ハンティングアーチェリーが注目され人気となるのですが、その背景として、この記事の著者を始め、南軍に従軍した人々が銃の所持を禁止され、弓を使用する他なかったという事実があります。

しかし、彼は弓による狩猟こそが魅力的なスポーツであると説きます。

現在では、銃による狩猟が流行しているが、健康的で楽しいものとして推奨することはできません。300から700発の散弾を鳥めがけて投げつけるのはスポーツではありません。逆に弓で武装した私たちが鳥に近づくのは難しい。しかし、私たちが成功する可能性が低いことが、このスポーツをより魅力的なものにする。

アーチェリーの魔力

見事な論点ずらしで、弓による狩猟を敗者に与えられたペナルティではなく、むしろ銃に狩猟よりも魅力的なものであるとしています。きっとディベートも強かったのでしょうし、実際に彼は弁護士でした。

もう一点は、この本で彼はアーチェリーの起源であるロングボウについて

イングランド人は軍事における民主主義ほど、国民を強固にするものはないことを知っていた。そこでロングボウを富める者も貧しい者も、貴族も農民も同じ武器とし、この時からロングボウは急速に普及し、長年の練習によって、イギリスのヨーマン(自営農民)は戦闘において世界の恐怖となるまでになった。ロングボウは、貴族と平民、王と紳士(esquire)に共通の森やフィールドスポーツの道具となった。

同上

と書き、アーチェリーは民主主義的、誰でも楽しめるスポーツであると紹介しました。これまでの歴史編を読んでいただいた方はわかるように、1878年当時であっても、イギリスでアーチェリーは決して大衆スポーツであったわけではなく、15-16世紀からイギリス貴族に加えて、17-19世紀前半に加わったジェントリー(地主)、そして19世紀中頃に流入する資本家の間でのスポーツでしたが、アメリカには大衆スポーツとして紹介されます。私はアメリカ人ともアーチェリービジネスをしていますが、彼らがアーチェリーを貴族のスポーツと考えていると感じたことはありません。

弓を構えるデモ隊の参加者、香港(AP)

アメリカでアーチェリーは南北戦争に敗れた元南軍兵士たちの弓であり、近代ではベトナム戦争に敗れたランボーの弓でもあります。アメリカ文化のアーチェリーには独自のニュアンスがあるように感じます。ロビン・フッドやウィリアム・テルの時代には、敵も同じ弓や剣であり、技量で勝利できますが、銃火器が導入された19世紀後半以降のアーチャーは、破れずとも、勝つことはないのです。「たゆたえども沈まず」と言ったところでしょうか。まぁ、スノッブアーチェリーよりはこちらが個人的に好きです。

それはさておき、記事が掲載された2年後にNAA(現在のUSAアーチェリー)が設立され、著者が初代代表となります。1889年にシカゴで初めての全米選手権が開催され、基本的にはイギリス同様ヨークラウンドを取り入れましたが、アメリカのアーチェリー競技の歴史が短い(熟練していない)ために100ヤードは難しいという理由により、ヨークより短距離のアメリカンラウンド・コロンビアラウンドも独自に導入されますが、ヨークラウンドより価値があったわけではありません。

参考

Robert B. Davidson, History of the United Bowmen of Philadelphia: (Organized A.D. 1828)., 1888

Maxson, L. W. (Louis William), Spalding official archery guide, 1910

Maurice and Will H. Thompson, How to train in Archery Being a complete study of the York Round, 1879


多数決で生まれたシングルラウンド – 歴史編. 9

社交競技でたったアーチェリーは資本家の流入によって、晩餐会などを排除した純粋にアーチェリーだけを行う競技になっていきます。アーチャーとして1870年に西部地区大会で優勝した事もあるC.ワーランドはその著書で「フィンズベリーアーチャーズによって開催された試合は、宴会、派手なショー、社交デビューの場であり、競技は言い訳に過ぎず、立派な服、豪華な旗、音楽は、実際の競技よりも重要であると考えられ開催されていた」と批判(*)し、さらに「目の後ろに矢を引く習慣があるため、正確な射撃をすることは不可能だった。戦争では大きな目的は正確な距離であり、強さであったが、ターゲット競技には場違いだ」と書いています。

*その後で「この時代のアーチャーの大半は、スポーツそのものを愛するというよりも、楽しい仲間に加わるためにアーチャーになったのだろう。その結果、当然、射撃を改善するための努力はほとんど行われなかったが、ディナーに関してはその逆だった。」と書いているので、批判というよりは、違う人種と見なしていたのかもしれません。Badminton Library of Sports: Archery p.183

当時の競技者にとっては「純粋な競技を行うこと」と「射の正確さによって勝敗が決するルールの制定」が課題になっていました。まぁ、現代でも合コン気分でサークル来る人間がいたとしても、すぐに排除できるわけでもないので、まずはルールの制定から始めました。1844年5月に7月までに賛同者が100名集まればヨークで全国大会を行うことが決まり、最終的には十分な賛同が得られて、8月に最初の全国大会(グランド・ナショナル)が行われます。このときに採用したウェストバーククラブの競技形式で、後に「ヨークラウンド」として知られるようになっていきます。女子は60ヤードのみ96射形式でした。

ワーランドは大会の様子を「第1回グランド・ナショナルが開催されると、状況はまったく違っていた。習慣が変わり、食事やショーが比較的後回しにされ始め、男性はスポーツをより重要視するようになっていた。第1、2回の試合では高得点は出なかったが、競争によってすぐに改善が見られた」と書いています。実際に1回大会の優勝点数は221点、2回大会は537点、3回大会は519点、4回大会は631点で4年で点数が3倍という驚異的な伸びを示します。

*A short outline History of the GRAND WESTERN ARCHERY SOCIETY on the occasion of its 100th CHAMPIONSHIP MEETING,1973

第3回大会でポピンジェイが3日目に採用されたが「のちにハンディキャップが代用された」とあるので、真剣な競技ではなかったようです。第6回大会から女子は60と50ヤードを96射ずつ射る「ナショナルラウンド」が導入されます。

この大会は2度の世界大戦中に中断されますが、現在でも継続して行われていて、2023年は168回大会になります。継続して行われている最古のアーチェリー大会です。

シングルラウンド(1440ラウンド)について前に同様の記事を書いていたのですが、その中では「短距離派と長距離派の妥協のもと誕生した」と書きました。当時の知識では文献をそのまま提示するだけで、なぜ派閥が存在していたのかまでは論じることができませんでした。

しかし、今なら、歴史編4歴史編7を読んだ方ならもう答えはわかるはずです。防城戦の訓練としてアーチェリー競技(射撃祭)を行っていたフランスや低地地域は短距離で競技を行っていた歴史があり、野戦訓練として9スコア(180ヤード)を基準に強い弓で遠くまで矢を飛ばしていたイギリスとその影響を受けたアメリカは長距離で競技を行っていた歴史があり、それぞれの国のアーチェリー競技の歴史の対立だったわけです。

初めての国際大会として1896年のパリ・オリンピック(第二回大会)でアーチェリーが種目に加わります。当然フランス式の競技形式で試合は行われます。Au Cordon Dore 33mなどの競技形式の詳細は残っていませんが33mでの競技でした。開催国フランスとベルギーとオランダの3カ国が参加しました。

次の1904年アメリカのセントルイスで行われたオリンピックでは、独自のアメリカンラウンド(22名参加)とともに、イギリスのヨークラウンド(16名参加)も競技に採用しています。ただ、海外からの参加選手はなく(イギリス・アメリカ間は船旅で片道5日間)、全員アメリカの選手で競技が行われます。

1908年のロンドン・オリンピックはよーくラウンドで行われ、フランスとアメリカから選手が参加しました。第一次世界大戦をはさみ、オリンピックが再開された1920年にはベルギーで開催され、競技方式はポピンジェイと同様のもので、 ベルギー・フランス・オランダの選手が参加しました。

開催ごとに競技方式が異なる状況に対して、1921年に行われた第七回オリンピックコングレスで、統一ルールの導入を求められたものの、アーチェリーは国際競技団体がなく、さらに国によって競技形式が異なっていたために、競技方式を統一できず(*)、1924年のオリンピックよりアーチェリーとフィールドホッケー、ゴルフがオリンピック競技から削除されました。

*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22

この問題を解決するために、1931年に国際団体の世界アーチェリー連盟が創立され、当初の参加国は、フランス、チェコスロバキア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ合衆国、ハンガリー、イタリアの7カ国で、日本などの弓による競技が行われている国に参加要請を送ります。送付した国のリストはないものの、日本とエジプトの競技団体からは返信がありましたが、日本が参加を検討した記録はない(*)。

*Robert J. Rhode, HISTORY OF THE FEDERATION INTERNATIONALE DE TIR A L’ARC VOLUME I 1931-1961, P12

*入江 康平, 昭和前期における弓道の国際交流について, 武道学研究, 1974-1975, 7 巻, 1 号, p. 29-30

1931年に国際的な統括団体は設立されたもの競技方式は定まりません。例えば、ハイアンカーでは物理的に90mを競技することはできず、競技形式によっては、アーチャーに射法レベルでの転換を求められるためです。

1931年の第一回世界選手権では、50m/40m/30mという形式が採用されます。1932年は70m/50m/30mという形式が採用されます。イギリスからは全距離を122cm的で行うことが提案されますが、ポーランドとフランスの協会の反対により、30mでは80cm的を採用することが決まりました。

1933年のイギリスでは、男子が90/70m/50m/30mという形式に、女子は引き続き70m/50m/30mで、競技する本数に差異があります。この年から10リングが導入されます。1934年の世界選手権に向けての1933年の協議会でシングルラウンド形式(男子90m/70m/50m/30m各36射)という形式が提案され、6カ国賛成(イギリスは棄権)という投票結果によって確定します

短距離射はギリシャ神話に起源があり、長距離射は英仏戦争の野戦で大活躍したロングボウのリバイバルでしたが、会議での多数決会議によって、真っ白なFITAシングルラウンドという競技形式が制定されます。

ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。

1953年の会議でMr.Neerbye氏(*)より競技者の増加に伴い競技時間が長くなりすぎているために参加者の削減が提案されました。2年間の委員会での議論を経て、1955年の会議で競技者の削減ではなく、競技する距離を削減することで競技時間を短縮する方向となり、再度シングルラウンドをFITAラウンドとして採用することが決まり、その後、1985年まで採用され、その後は2011年まで予選ラウンドにて使用されました。

*FITA Bulletin officiel No 13, 1953, P7

その誕生から第一次世界大戦までヨーロッパがアーチェリーの中心地であり、シングルラウンドもヨーロッパ内の対立によって生み出された競技形式でしたが、2度の大戦の影響により、主に技術の進化の中心地は、その傷が最も少なかった米国に移っていきます。