以前に、WIN&WINの社長のパクさんのインタビューをブログに掲載したことがあります。2年近くたちますが、今に続くことがいろいろと書かれていると思います。
ネット上には正しい情報もあれば、正しくない情報がありますが、HOYTの創業者に関して言うと、検索するといくつか記事がありますが、どれも彼が書いた文書やインタビューを読んだ自分の印象とは全く違います。HOYTの創業者の考えに関しては、本人の著書やインタビューなど、資料が豊富にありますので、今回は4冊の本から、抜き出し、一つの記事にまとめてました。
下記はHOYTの創設者のホイット氏(Earl Hoyt Jr.)のいくつかのインタビューをつなぎ合わせて、編集したものです。ベースになった記事は、下記の4冊の本で読むことができます。
・Archery (1972) 著者 Earl Hoyt, Don Ward
・Traditional Bowyers Encyclopedia (2007) 著者 Dan Bertalan
・Vintage Bows – 1 (2011) 著者 Rick Rappe
・Legends of the longbow (1992) 著者 多数
赤字は実際のインタビューを翻訳したもの。黒字は自分の補足です。補足も論点はずれていないと思いますが、実際のホイット氏の発言は赤字だけですのでご注意ください。
Eddie Lakeから変身
1930年代のミズーリ州セントルイス…エディ・レイク(Eddie Lake)というギターリストが毎晩地元のダンスホールを盛り上げていた。彼のバンドはラジオでも有名になったが、1938年に彼のバンドは解散することになる。このエディ・レイクこそがのちのアーチェリー界に、ホイットとして記憶される偉大なイノベータである。
* Eddie Lake はホイットがラジオ局からギターリストとして響きがよくないと指摘されて使用していた芸名。
弓との出会いとアーチェリービジネス
ホイットが弓と出会った時、弓には2種類しかなかった。リカーブか、コンパウンドかではなく、「誰かが作った弓」か「自分で作った弓」かだ。ホイットのアーチェリーとの出会いは、アローポイントに始まる。学校が友人から滑らかなアローポイントを貰い、その美しい流線型のデザインに夢中になった。1925年、14歳の時にボーイスカウトのマニュアルを読んで、ヒッコリーの弓を自作した。しかし、ヒッコリーはねじれに弱く、2つ作った弓をどれもすぐにねじれてしまった。
そこで、ボーイスカウトではなく、アーチェリーの専門誌を購入して、専門の知識を仕入れることにした。「Ye Sylvan Archer」という雑誌は当時唯一のアーチェリー雑誌だった。それを購読し、そこに広告が出ていたHunting with the Bow and Arrow(1923)という購入し、そこから専門知識を学びとり、オレゴンからイチイの一枚板を購入して、初めての実用的な弓を作り始める。
*これは所謂セルフボウというもので、一枚板からできている。そのほかにバックドボウやコンポジットボウなどがある。
1931年、大恐慌の中、ホイットは父親と副業で矢づくりの仕事を始める。30代の時、景気が回復したのを受け、セントルイスのワシントン大学に通い、エンジニアリングを学ぶ。昼は大学と父親の会社の手伝い、夜はギターリストという生活を送る。
*アメリカでは社会人学生は珍しくない。
40代初頭がホイットの人生の転機だった。大学を卒業したホイットはカーティス・ライト航空のエンジニア部門(のちのマクドネル航空)に職を得ていた。しかし、父親の会社が戦争の影響で倒産したことにより、父親は矢づくりが副業から本業となる。自分も週60時間の本業をこなした後に、父親の矢づくりを手伝うようになる。
しかし、1946年に矢作り職人として多くの顧客を持っていた父親が病に倒れ、ホイットはアーチェリービジネスから手を引くか、エンジニアとしての職を辞すかの選択をすることを迫られ、彼の決断がアーチェリーの歴史を変えることとなる。
「アーチェリービジネスに舵を切ったことは、最初のうちは間違った決断だと思っていたんだ。マクドネル航空での良い仕事を離れてから最初の3、4年、アーチェリーの仕事の出来はひどかった。でも4年目から風向きが変わったんだ。それからは右肩上がりさ。その傾向はずっと続いていた。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.183)
ホイットは1946~1978年までアーチェリー業界のトップを走り続けた。1978年、ホイットは会社の経営権をCML Groupに売却し、5年後の1983年に経営権はイーストンに、さらに売却された。その間、ホイットは社長から退いたものの、副社長と研究部門の責任者、コンサルタントとして、かつて、オーナーだった会社に籍を置いた。
ホイッとはアーチェリー業界団体(AMO 現ATA)の理事としても、活躍し、現在のアーチェリーの道具に関する基準(AMOスタンダード)の95%以上に関与している。
ハンターとして
ホイットはハンターでもあったが、あまり、情熱的とは言えなかった。
「あるときフレッド・ベアーと話したけど、彼は僕に言ったんだ。彼のハンティングに対する情熱は、対象が何であれ、大きな獲物を仕留めることだってね。僕は逆にそんな欲望は持ったこともなかったね。…中略…いまでは獲物を仕留めることはまったく重要ではなくなってしまった。一番大切なのはハンティングのその場にいるということなんだ。…中略…単純に僕は大自然の中で獲物を追い回すことそのものを楽しんでいるんだよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.185-186)
*フレッド・ベアーは当時のトップメーカーBear Archeryのオーナーで、伝説的なハンター。
ロングボウの思い出
今でこそ、リカーブボウメーカーとして知られるホイットだが、彼はロングボウを作ることから始めた。ロングボウを作るとき、特にひいきしていたのは、オーセージだった。
「僕はオーセージをちょっとひいきして使っていた。すごく丈夫な木だからね。ハンティングボウには特にそうだったよ。イチイの方がより引き味が優しいシューティングボウになり、ターゲットシューティングには最適だった。でも僕がオーセージを好んで使っていたのは、それがミズーリ原産であり、丈夫で良いハンティングボウを作るのに向いていたからさ。
あとは手に入れやすかったということもある。でも、外に出てオーセージを見つけてそれを切り倒し、そこから弓を作るという単純な話でもない。山を1マイルほど下っていっても、弓を作るのに十分な均一性とまっすぐさを持っている木を見つけることは簡単ではない。何故ならオーセージは大抵曲がりくねって育ち、一枚板から作ることはほぼ不可能だ。普通は木をフィッシュテールして接ぎ合わせる。そうすれば同じ丸太から接ぎ木を取ることができるから、同じ性質を持ったウッドを両方のリムに使うことができる。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.186)
現在の弓からは異様に見えるが、当時はレストがなく、シューターのこぶしに矢を載せてシューティングしていた。そのために、羽のトリミングをしっかりしないと、射ったときに、羽の筋が拳の肉をえぐって飛んでいく、しかし、アローレストとしての機能を果たしてきた、傷だらけの拳は、むしろ、ホイットには誇らしいものだったようだ。
ホイットの執務室のオーセージのロングボウの横には、古いスタティクリカーブボウがある。
*リカーブの深さにより、セミリカーブ・スタティックリカーブ・フルワーキングリカーブの3種類に分類される。
「僕はカムやスタティックリカーブから、シューティングが滑らかでより効率的なリカーブに移っていった。歴史的に見るとこの進化は比較的最近できたものだ。最初のリカーブは30年代後半に登場した。そのタイプのリカーブを最初に作ったのはビル・フォルバース(Bill Folberth)だった。彼は情熱的なアーチャーであり、イノベータであり、初めてリカーブを導入した人物だった。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)
*Folberth Bowのオーナーで、弓のラミネートやリカーブに関する特許を持つ(US2423765)。
執務室にはほかにもいくつもの思い出深い弓がある。1947年、ホイットは初めてリムのダイナミックリムバランスを得ることに成功した。つまりは、上下のリムの長さを初めて同じにした弓を作った。昔の弓のグリップはただの棒のようなものだったが、1948年にはピストルグリップを弓に搭載した。1951年には安定性を向上させたデフレックスボウと、パフォーマンス重視のリフレックスボウの製造を開始。60代の時には、ハンドルに安定性を持たせるために、ハンドルの重さを増やすこと仕組みを開発。ウッドハンドルに穴をあけて、その中に鉛を入れるというものだ。
「あるとき僕は弓にウェイトを入れるという発想がミスだということに気がついたんだ。より伸ばした状態のウェイトがあればもっと良くなると考えた。スタビライジングの原理を説明するために僕が挙げた例は、箒を柄の端で持って、その移動への抵抗の感覚を掴むということだった。そうするととても速く動かすことはできない。でも柄の真ん中で持つと、さっきと比べて驚くほど動きへの抵抗はなくなる。これが単純な物理の法則を用いたスタビライザーの原理の説明だ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)
1961年、ホイットはこの原理を利用したスタビライザーが搭載された弓を持って、アルカンザスのホットスプリングスでおこなわれたナショナルフィールドアーチェリーアソシエーションチャンピオンシップに行った。会場では「ドアノブ」と馬鹿にされたものの、この弓を使用したロン・スタントンが、新しい弓で新記録を樹立し、その仕組みは一気に有名となった。
グラスからフォームへの挑戦
1970年代前半、エキゾチック・ハードウッドの値段が高騰し、低価格の金属ハンドルが人気となった。ホイットは、エキゾチック・ハードウッドから、メイプルに変更するものの、結局は1973年にすべてのラインナップが金属ハンドルになる。
リムでは、まずグラスファイバーを研究した。グラスファイバーをリムに使用することに関して、ホイットは決してトップランナーではなかったが、熱心に研究した。特に注目したのはグラスの色。もっとも性能が悪いのはグレーのグラスファイバー。グレーの顔料が接着材に影響し、接着が不完全になってしまう。白もダメだった。白のグラスファイバーを作るのには大量の顔料が必要で不純物が増えてしまう。日光の影響を抑えるためには、リムは黒にしないという大原則があったが、黒のグラスファイバーは一番性能がとてもよかった。もちろん、透明のファイバーもよいが、黒とは大差がない。
ホイットの次の挑戦はフォーム素材だ。
「初めてファイバーグラスを使い始めたとき、ウッドコアボウと呼ばれているもののコアがイチイだろうとオーセージだろうとなんら代わりはないと思った。だってそれ自体がより性能の高いモジュラー素材に挟まれてしまっているからね。この素材、ファイバーグラスは非常に素晴らしい素材で、矢を推進させるエネルギーに長けていた。そのために、ウッドコア基礎(glue base)とスペーサーにすぎなくなってしまった。コアの重さ以外は、もはや弓のダイナミックな物理特性に影響を与えることはない。
コア材にブレークスルーができた。それは比重がメイプルよりも軽いプラスチックで、直径60マイクロンほどの微少中空体からできている。この素材は非常に高い耐久性能がある。必要な物理的特性をすべて持ち合わせ、湿度の影響を全く受けず、熱や寒さにも強い。僕たちの新たな特許技術のシンタックスフォームコアはすべての面でよくなっている。これが長年に渡る「コアウッド」のスタンドダードとなる可能性は高いと思っている。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.189)
*シンタクチックフォームのこと。微細中空ガラス球入りエポキシ樹脂。
しかし、フォームコアの製造はとても困難だった。まずは、フォームの内側には気泡が含まれているが、この大きさを均一にすることができなかった。試作品はすいすいチーズのように気泡は大きさがバラバラで、とても均一ではなかった。また、完成したフォームの加工も困難だった。マイクロスフェア構造という特性のために、ブロックからラミネートするために切り出すとき、グラスファイバーの何倍もの負荷が機械にかかり、刃がすぐにボロボロになってしまうのだ。いくつかの困難を乗り越えたホイットのシンタクチックフォームコアリムは、いくつもの世界記録を塗り替えることになる。
スピードよりも安定性
リムの性能には多くの面がある。ホイットが最も重視していたのはリムの安定性だ。スピードよりも、リムが安定して正確に、ミスに対する許容性が大きい事を重視して設計していた。安定性・スピードのほかにも、スムーズさや、効率性、振動の少なさなども必要だが、すべてを一つのリムに盛り込んだ究極のリムはまだ存在していない。すべてのメーカーは、優先順位をつけて、妥協しながらリムを設計している。
「メーカーによってそれぞれが異なる特定の能力に力を入れているのが分かる。多くは精確性を犠牲にして、スピードに傾倒している。しかし、高いパフォーマンスから発生するストレスによって、弓の寿命は縮んでしまう。どの能力に力をいれるか、重要度はそれぞれ異なる。僕の場合、最も優れた弓とはこれらすべての要素のバランスが良く取れている弓で、かつ安定性に重きを置いているものだ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.191)
コンパウンドとクロスボウ
矢作り職人としてアーチェリー業界でのキャリアをスタートさせ、ロングボウの製造からリカーブボウの製造に移行したのち、ホイットはコンパウンドボウの製造をスタートする。アーチェリーのマーケットは大きく変化し、アメリカ最大のマーケットであるハンティングボウはロングボウ/リカーブボウからコンパウンドボウにかわっていく。1970年代にその変化についていけなかったアーチェリーメーカーの多くは破たんした。シェークスペアのアーチェリー部門やウィング・アーチェリー(世界初のテイクダウンボウを開発したメーカー)などだ。
「僕は昔コンパウンドに対して偏見のようなものがあった。昔の古い会社はみんなそうだった。ベアやピアソン、他の先人たちもみんなコンパウンドに背を向けていた。彼らはみな、それを弓とは思わなかったんだ。僕らは偏見にまみれ、視野が狭かった。」
「僕にとってクロスボウは、(ロングボウと)歴史的には対等でも、ロングボウほどのロマンスが感じられない。この主張は議論する余地があることは分かっている。でも僕は、クロスボウが人気のあるものになるとは考えていない。その鍛錬には、手で握って、手で引いて、手でリリースする弓ほどの挑戦が必要ないように思える。当然、クロスボウに情熱を注いでいる熱狂的な人たちがいて、彼らが自分のやっているスポーツを促進しようとしていることも理解できる。それは僕にとっては関係のないことだけど、彼らの成功を祈っているよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.198)
ホイットはコンパウンドボウを開発し、販売する決断をする。一方で、クロスボウとは距離をとり続けた。今でも、ホイット社はクロスボウの製造はしていない。
ホイットのインタヒューを読むと、やはり、現在のアーチェリーメーカーの開発者とは明らかに違う。最高の競技用リカーブボウを開発していたものの、用語の使い方(self bow – backing – working recurve)や考えは、ロングボウの開発者そのものだ。
ホイット社を78年に売却した後も在籍していたが、のちに、ロングボウ職人のJim Belcherとともにロングボウ中心のアーチェリーメーカー(Sky Archery … ホイットの死後マシューズに売却)を立ち上げたことからも、やはりロングボウを作りたい気持ちは強くあったのではないかと思う。
山口 諒
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