アーチェリーの歴史(16世紀まで)

Ramasseurs de flèches(抜粋*) p 192/596

草船借箭なんてお話も三国志にはありますが、(相手の矢を頂いちゃう)それとは違い、これは中世の戦争において、相手の騎馬隊の突撃の合間に、さっき射た自分たちの矢で外れたものを再利用するために拾う矢拾い(Ramasseurs de flèches/アローコレクター)という仕事をする人たちです。イギリスのアーチャーは24本ほどの矢をクイーバーに入れていましたが、1本30秒ルールなら10分くらいで使い切っちゃいますからね。画家もなかなかいい仕事をしていて、矢(フレッチャーされたシャフト)とボルト(クロスボウ用の矢で羽根はない)をちゃんと描写しています。

アーチェリーの歴史に関してはほとんど文献・研究が日本では存在していないです。自分が見つけたのは50年以上前に書かれた論文「アーチェリーの発達について(PDF)」の1つだけです。チューニングマニュアルを書いたときにも思ったことですが、今があるのは先人たちの積み重ねがあってこそであり、歴史をしっかりと整理することには意味があります。そこで昨年からアーチェリーの歴史についてまとめてきました。

アーチェリーに関する研究はなかなかひどいもので、未だに100年以上前のモースの論文が引用されていたりします。地中海/蒙古/ピンチ式などを分類した人なのですが、論文の中身はなかなか雑です。もちろん彼を責めるという意味はなく、彼自身、自分の研究はこれまで研究されてこなかった分野で革新的ではあるが、不完全であることを、より多くの研究者がこの分野に目を向けてくれるようにするために、とりあえず発表すると書いています。

I am led to publish the data thus far collected, incomplete as they are , with the intention of using the paper in the form of a circular to send abroad, with the hope of securing further material for a more extended memoir on the subject.

Edward Sylvester Morse, Ancient and Modern Methods of Arrow-release, Essex Institute, 1885, p 4

まぁ、結果としては研究が頻繁に引用され、この論文をより詳細に仕上げる人は今日まで現れていないのですが、自分にできることがあれば、今後の課題としたいと思っています。

さて、17世紀からのアーチェリーは何度もこのサイトで記事にしています。そして、先週、石器時代から16世紀までのバージョンも仕上がりました。16世紀までのいわゆる前編は、現在のアーチェリーの基礎になったイングリッシュロングボウとは何かを定義する話になっています。これを既存の記事たちと繋げれば、アーチェリーの歴史として完成すると思います。

ただ、ちゃんとした記事を書こうとすると、引用や注釈ばかりになって非常に読みにくいです。そこで和弓の人たちはどうしているのか調べてみたところ、ちゃんとした論文を書いて、別に発表し、それを引用するという形で、別途、かたくない文書で和弓の歴史を書いているようなので、自分もそのやり方を模倣しようと思います。下記はちゃんとしたバージョンです。今後、何本かアーチェリーの歴史についての記事を書きますが、いちいち根拠を書きません。それらの記事に疑問や根拠を知りたい場合には、こちらのPDFをまず確認してください。それでもすっきりしない場合はコメントを下さい。

アーチェリーの歴史(PDF 4MB)

*本にページ数が示されていません。フランス国立図書館で公開されているものをPDFでダウンロードした場合、192/596ページにあります。Chastellain, Georges,« Passages faiz oultre mer par les François contre les Turcqs et autres Sarrazins et Mores oultre marins », traité commencé à être rédigé à Troyes, « le jeudi XIIII e jour de janvier » 1473, par l’ordre de « Loys de Laval, seigneur de Chastillon en Vendelois et de Gael, lieutenant general du roy Loys l’onziesme… gouverneur de Champaigne… par… SEBASTIEN MAMEROT de Soissons, chantre et chanoine de l’eglise monseigneur Saint Estienne de Troyes » et chapelain de Louis de Laval, 1401-1500, https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b72000271/


【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

下記の記事をより詳細なものに書き直しました。こちらをご覧ください。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)

アーチェリーのチューニングマニュアルを書いたので、次はアーチェリーの歴史を勉強してまとめてみたいと思い、昨年から取り組んでいます。自分にできることなど限られているので、どれだけのものをかけるかなと調べてみたのですが、アーチェリーの歴史は、調理を待つ材料みたく、結構揃っていたのです。ちゃんとしたアーチェリーの歴史本がないのは、分野が違ってお互いに面識がなかっただけかと思います。

写真は最古のアーチェリーの記録(紀元前1429年頃)です。的を射ているので、戦争・狩猟・手に持って踊るといった儀式のどれでもない弓の使用という意味で、初期の”スポーツ”としてのアーチェリー考えることができると思いますが、その判断はともかく、この頃のアーチェリーは考古学者達によって考察され、本や論文としてまとめられています。

紀元前500年くらいからは歴史書が登場し、この頃のアーチェリーについては歴史書などに残っている記録が多く、歴史学者によってまとめられています。1000年頃になるとヨーロッパで進化を遂げたロングボウとクロスボウが戦争で大活躍するようになり、アーチェリーについては軍事学者によって書かれたものが多くなります。16世紀頃の銃火器の進歩によって戦場から弓が駆逐されると、スポーツとして現在につながるアーチャーたちが書かれた記録に繋がり、この部分はすでに自分である程度これまでにまとめているかと思います。

なので、このそれぞれ違う分野の話を一つにつなげるためのリンクはないかと、今年の入ってからずっと悩んでいましたが、世俗化という軸でまとめてみました。グッドマンという人が近代スポーツの特徴として「世俗性」「平等性」 「官僚化」「専門化」「合理化」「数量化」「記録への固執」をあげています。ここで一番特徴的なのは世俗化、簡単に言えば、脱宗教だと思います。

例えば、相撲は「世俗化」以外すべて特徴に当てはまっていますが、世俗化する可能性は、今後も殆ど無いでしょう。

日本武道で唯一世界的なスポーツとして成立し、オリンピック競技にもなった柔道の創設者・嘉納治五郎は近代柔道の世俗化、宗教を持ち込まないよう努力したそうです*。神道的な宗教的概念を含む競技なら、イスラムやキリスト教など違う宗教の人々が競技に参加することは困難になります。スポーツがやりたくて改宗する人は稀でしょう。

*湯浅 晃, 武道における宗教性, 武道学研究38-(3):15-42, 2006

そこでつぎのようにアーチェリーの世俗化を考察し、これ軸(変換点)として、2月ごろを目処にアーチェリーの歴史をまとめてみたいと思います。何か意見がありました。コメント欄にどうぞ。


世俗化 – 宗教から脱却

古代において狩猟は生活の手段であったために、弓は宗教・儀式と深く結びついていたと考えられる。イリアスで描かれた弓術競技では優れた射手であったテウクロスは神アポロンに祈らなかったために的を外し、神に祈ったイードメネウスが勝利したという記述がある。聖書にも弓は登場し、ヨハネの黙示録では勝利の象徴とされている。

しかし、1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(1)、その後、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止し、使用したものは破門するとした(2)。同様に騎馬試合もこのとき禁止された。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説ある。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もあるが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張もある。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇した。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せた。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器だった。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、歩兵(市民)が騎兵(貴族)を殺傷させる行為を忌諱したと考えられる(3)。

実際、モデルとなった人物の存在は示唆されていても、実在が確認できないので物語とするが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも反権力的な物語の主人公であり、弓は権力者の武器ではなかった。

禁止令ののち、「神に憎まれた」アーチェリーとカトリック教会との関係は薄れたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても所持は禁止しなかった。アーチェリーは国内では狩猟やスポーツとしてのみ使用できるというユニークな道具になった。近代スポーツとして成立するための要因の一つである世俗化、脱宗教化を偶然に成し遂げたと言える。アーチェリーとクロスボウの規制・管理は国家に委ねられ、国によって異なったものになっていく。


ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いている。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可されたので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当だろ。だが皮肉なことに、彼は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡する。この死について、いまだ弓の使用を禁止している教会に背いた天罰であるとの考えがあるが、弓が再度禁止されるには至らなかった(4)。

1.Karl Josef von Hefele, Histoire des Conciles (Livre 31e : conciles sous le pontificat de Grégoire VII – Livre 32e : de la mort de Grégoire VII au concordat de Worms et au IXe concile œcuménique – Livre 33e : conciles du IXe concile œcuménique au conflit avec les Hohenstaufen, 1124-1152), t. V, partie 1, 1912, p.455
2.藤崎 衛ほか, 第一・第二ラテラノ公会議(1123、1139年)決議文翻訳, クリオ, 2018, 32, p.61-80
3.Oman Charles, The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515, London Methuen, 1898, p.354-355
4.Ralph Payne-Gallwey, The Crossbow, Mediæval and Modern, Military and Sporting, Longmans, Green and Company, 1903, p.3-4

2番目の資料以外はすべて著作権切れでネットで全文公開されています。


17-19世紀のイギリスアーチェリー

ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』

昨日の記事を書いたあとに、色々と勉強して寝ましたが…朝起きて、自分は何をしようとしているのか理解ができなくなりました。

自分はただのアーチェリーのプロであり、下記のような同業者によって書かれたアーチェリーの文書・記事に関しては、検証する能力がありますが、このようなオックスフォード大学で研究していたイギリスの歴史のプロ(経歴はこちら)の論文に意見することなどできるわけ無いですよね。。。

ということで、何も突っ込まずに、以下、この論文の解説に徹します。

スポーツという何かを定義することは難しいですが、少なくとも、ロングボウは15世紀にはまだ国防力の一つでした。16世紀から17世紀にかけてマスケット銃に取って代わられると、武器としてはみなされなくなっていき、遊びからレクレーションに変化していきます。

18世紀初期までは少人数で広い土地や森の中で楽しむもので、バットシュート(Butt-shooting)という土の壁を的に見立てて、当てる遊びでした。それをレクレーションに引き上げたのが、ランカシャーの””貴族””であるアシュトン リーバー卿です。貴族についてはaristocratとの表記ですが、後で検討します。

遊びは楽しけりゃなんでもいいのですが、レクレーションには目的があります。記録では、「長時間机に近づきすぎて、胸を机に押し付けすぎたことによる胸への圧迫を軽減する」ためにをアーチェリーを楽しんだとされています。昔の貴族どんな姿勢で机に座っていたんでしょうか…。

こんな感じかな??

さて、なかなか効果があったようで、貴族さんたちが集まって、イギリス最古のアーチェリー協会「the Toxophilite Society」を設立します。1781年、協会の会計によれば、最初の支出は「ブランデー、ラム酒、ワイン、ジン、真鍮のコルク抜き」だったので、やってたことは想像できるでしょう。アーチェリーして、飲み会を開いていたのです。

1787年に王室がパトロンになって高価な賞品を提供するようになると会員は急激に拡大し、多くの協会ができ、the Toxophilite Societyのメンバーは1784年に24人だったのが、1791年には168人に拡大します。ここで検討すべきは「貴族」という言葉です。当時の人口を考えると、ここで語られているのは純粋な「貴族」だけではなく、「地主貴族(ジェントリ)」も含まれると考えられます。後のジェントルマンになっていく人たちです。

当時のアーチェリーは現在のものとは大きく違い、

Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回しました。会員たちは、「この日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進した」。会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射された。

矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られた。

射的の後には晩餐会や舞踏会が開かれ、詩や歌が披露されることもあった。裕福な協会はロッジを建てて祝宴を開き、小規模の協会はマルシェや地元の居酒屋を利用した。

このような催しは、公共の場で行われるため、当然ながら大勢の見物人が集まる。射手たちの才能は行き当たりばったりで、酒も入っていたため、必ずしも安全とは言えなかった。1791年に行われたKendal Archersの会合では、大勢の観客が押し寄せ、なめし革職人1名と仕立て屋2名が矢で撃たれました

JOHNES, MARTIN. “Archery, Romance and Elite Culture in England and Wales, c.1780–1840.” History, vol. 89, no. 2 (294), 2004, pp. 193–208. JSTOR,
Royal Toxophilite SocietyのHPより

基本的なフォーマットがアーチェリーを楽しんで、裕福な協会は近くのクラブハウスで宴会を開き、そうでない協会は飲み屋で飲み会をしていたようです。アメリカの19世紀の本でもクリケットとの比較について語られていますが、アーチェリーのほうが軽い運動であったために、1787年にできた協会では女性の参加が許可されます。これによって、アーチェリーは貴族たちの飲み会から、社交場に進化を遂げていきます。

男性の射手は、その優雅で優美な女性の姿を賞賛し、楽しんだに違いありません。 ここでは、当時の多くの町に建設され、性的観戦や求愛の場として悪名高い新しい公共の文化施設との類似点をえがくことができます。 実際、これは集会室、遊園地、劇場、ホールの存在理由の一部でした。

(中略) アーチェリーは、キューピッドとその弓矢というロマンチックな連想とともに、男女が対等(The Social equal)に出会い、眺め、楽しむ機会を提供したのです。

同上

当時のアーチェリー協会には厳しい入会資格があり、そこに入会できるということは広義的な意味で貴族であることを示していて、会員は社会的身分としては対等だったので、当時の社会的に適切な出会いの場になったというわけです。実際に会員同士が結婚したという記録も残っています。

飲み会から社交場、さらに出会いの場という認知されていったことで、アーチェリー大会は更に豪華なものになっていきます。女がいたらそりゃね、もう…ね★

(もとの論文には含まれていません)1791年、Royal Toxophilite Societyの設立によるアーチェリーの復活から10年後、多くなっていたすべてのアーチェリー協会の公開ミーティングがBlackheathで開催されます。1792年と1793年にも同様のミーティングが開催されたものの全国アーチェリー大会はここで終了します。

しかし、アーチェリーの成長はここで終わり、ナポレオン戦争(1799-1815)により、多く貴族が駆り出されたことで、アーチェリーが衰退します。1815年のワーテルローの戦いでイギリスの勝利が確定し、貴族たちが帰国するまで続きます。この後にアーチェリー大会は豪華さ絶頂期に達し、先日紹介したRoyal Company of Archerys が王室の警備として採用され、代わりに多くの資金と賞品が提供されたのものこの時期です(1822年)。

大きな大会(飲み会)になると参加者は1000人を超えていたようで、貴族たちは持ち回りで自分の屋敷や、クラブハウスで大会を主催していたので、みんな大会に行くのは楽しみでも、自分が主催の順番になると困ったことになっていたようです(笑)。

この状況を変えたのは産業革命で、金持ちとして貴族(地主)の他に資本家が台頭してきます。18世紀までは多くの協会は、紹介制は当然のことながら、紹介があっても、入会には3世代にわたる血統書の提出を求めて、審査したりしていましたが、アーチェリー大会の開催に多大な資金がかかるようになり、資本家も入会できるようになっていきます。

さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終えたことで、閉じたコミュニティではなくなり、レクレーションとしてアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備が行われていきます。こうして、イギリスではアーチェリーは兵器から遊びに、遊びからレクレーションに、そしてレクレーションからスポーツへの道を歩んでいくことになります。

現代のアーチェリー技術を築いたホレース・フォードは、この時代をこのように語っています。

残念ながら、かつて 18 世紀の終わりと、今世紀の最初の半分の間に輝いた「比較できないほどの素晴らしいアーチャーたち」から得るものは何もない。それに比べて、グランドナショナルアーチェリーミーティングの設立以来、強く、正確なショットを放ってきたシューターたちの持つスキルから得るものは非常に多い。

アーチェリーの理論と実践

以上。


歴史むずかった…

「ロイヤル ブリティッシュ ボウメン」アーチェリー クラブの 1822 年の会合

先日触れた論文を読んでみたのですが…そう、わたしのただのアーチェリーのプロでした。この論文は18世紀後半の貴族の文化から、フランス革命がイギリスの文化に及ぼした影響、産業革命とそれによって誕生した資本家たちの勃興、に伴う貴族たちの懐古主義と、まず、当時の世界史とイギリスの事情がわからないと、ただの読書感想文しか書けない内容です…ということで世界史を勉強してから、いつかは記事に。申し訳ございません。


イギリスのアーチェリーは相席屋??

本日読み終えて本「The Witchery of Archery(アーチェリーの魅力)」1878にアメリカで出版され、アメリカにアーチェリーブームを巻き起こして本です。オリンピック以前のアーチェリーの歴史を調べていくと、改めて日本が特殊な国であると思い知ります。人類最古の道具の一つとされている弓ですので、どんな国にもあったと思いますが、17-19世紀のアーチェリーの記録を調べていくと、アメリカ、イギリス、日本にしか資料が残っていません。

最初はわたしが日本語と英語しか読めないための認知バイアスとも思ったのですが、1900年オリンピックのフランスや1920年のベルギーの事情を調べてみると、スポーツというよりは、日本の射的のようなフェスティバル・お祭りのイベントであることが多く、競技としての記録が本当にありません。郷土史として残されている可能性はありますが、1900年のオリンピックの競技がどんなものだったのかすら残っていない時点で、見込みは低いと考えています。

戦争によって美術品や研究資料・書籍などが焼かれたり、略奪されることが古今東西で行われてきた。第二次世界大戦でも、戦場となったヨーロッパ各国の都市の図書館や文化遺産の多くが被害を被ったが、例えば、勝者であった旧ソ連によりドイツ文化財が略奪されて、250万点という想像を絶する数量で、今もって返還されていないことが明らかになっている。

加藤一夫, 日本の旧海外植民地と図書館, 参考書誌研究(49),1998, P50-70

逆に、英・米・日なのかと言えば、記録に残した人の偉大さもありますが、戦争こそしたものの、革命が起きておらず、焚書がなかった国がこれくらいしかないという悲しい現実があるのかもしれません。ちなみに日本は戦時中、図書資料の疎開が行われています。

日本のアーチェリーについては勉強中で、イギリスのアーチェリーに関しては、当時の中心人物の著書を翻訳しているので、それなりに把握しています。

ということで、当時(19世紀後半)のアメリカの様子を見ていきましょう(すべて意訳です)。

 弓で射るとき、動かすのは自分の体あり、矢を制御するのは自分の心である。自分の優れた男らしさを誇りに感じる。鍛え上げた筋肉が功を奏したのだ。しかし、銃の射撃はそうではない。ライフルや猟銃の弾には、筋肉の動きとは無関係に働く力が宿っており、小学生や弱虫でも、力強く撃つことができる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.9-10

19世紀に弓が狩猟で栄えたのはアメリカだけです。アメリカでは負けた南軍が銃器の所持を許可されなかったために、旧南軍だった人たちは、銃器による狩猟ができなくなり、弓に移行していきます。この本の著者のMaurice Thompsonも、南軍の二等兵として参戦した人ですが…負けたから銃が使えなくなったのに、銃は弱虫が使うものだということになっています(笑)。

 野生動物の捕獲は、生計を立てるための手段としてはほとんど見なされなくなり、スポーツやレクリエーションの手段というレベルにまで低下したか、あるいは上昇したと見ることができるだろう。以前は、食卓の快適さは、猟師の腕か運によった。

現在では、銃による狩猟が流行しているが、健康的で楽しいものとして推奨することはできません。300から700発のペレット(*)を鳥めがけて投げつけるのはスポーツではありません。ちょっと考えてみましょう。銃身に400個のペレットが入っているとします。散弾は40ヤードの距離では、9平方フィートのスペースにその数を広く散布します。

*1発の弾丸に入っている散弾の数

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.15

では、古代の捨てられた武器で武装した私たちが、警戒心の強い鳥に近づくのはどれほど難しいことでしょう。しかし、私たちが成功する可能性が低いことが、この事業をより魅力的なものにしていた。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.39

アメリカ人がこのような本を書いたことではなく、アメリカでベストセラーになったという事実から、当時のアメリカでは、散弾銃による狩猟は簡単すぎるがゆえに、「マッチョ」ではないという認識がされていたと考えることができます。

イギリスでは公共射場のために作られた大きな的は次第に放棄され、解体され、すべてのアーチェリー大会は、伝統ある協会に属する美しく装飾された公園や、このスポーツを後援する紳士や貴族の田舎の私有地に用意された場所に限定されるようになった。王室や貴族の後援を受けたいくつかの協会の会合で提供される賞品は非常に豪華で、その争奪戦は射撃の精度を高めることになった。

最も古いクラブの1つである「Woodmen of the Forest of Arden」には、女性会員専用の賞品が3つある。1つ目はトルコ石のゴールドレースジュエリー、2つ目は金の矢、3つ目は金のラッパである。

「Hertfordshire  Archers」は、女性会員に価値ある美しい賞品を提供している。これは、ダイヤモンドをあしらった弓と軸で飾られた金のハートである。

「Royal  Toxophilite Society」は女王の後援を受けており、美しく装飾された敷地の中に、古いイギリス様式の壮大な宴会場を所有している。建物全体を囲む広いベランダに面した窓は、豊かなステンドグラスで、創設者であるウィリアム4世とアイレスフォード伯爵の紋章が誇らしげに飾られています。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.140-141

という、19世紀のイギリスのアーチェリーの状況を説明したあとに、

アメリカでは、「Wabash Merry Bowmen」と「Staten Island Club」がある。もてなし上手な友人の指揮のもとで開催されるプライベートな社交場で、数人の気の合う仲間を呼び寄せて午後のひと時を陽気に過ごし、シンプルでカジュアルなディナーで締めくくります。 

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.148

と当時のアメリカの事情を伝えますが、イギリスの状況が貴族の社交場で、アメリカはカジュアルな仲間の庭でやるバーベキューみたいな記述にはなっていますが、かなり細かく、イギリスの協会で女性に与えている景品をこれでもかというくらいに細かく説明しているので、私たちはカンパニー(仲間)だが、イギリス人は金を女を呼んでいる、と言った感じのニュアンスをわたしは感じました。現在の相席屋的な。。下記のリンクで読めるので該当部分のニュアンス下記になる方は読んでみてください。

https://www.archerylibrary.com/books/witchery/

かと言って、彼らが女性に興味が無いほど「マッチョ」だったかと言えば…

アーチェリーが、女性にとってクロケットよりも好まれる理由は、たくさんあるはずです。クロケットは2つの理由で好ましくない。第一は、女性はコーデをするので、前かがみになるのは非常に不健全な行為であり、非常に敏感で傷つきやすい体の器官を圧迫することになるからである。第二に、 アーチェリーは直立した姿勢で行うため、両手と腕、肩と背中、胸と脚の筋肉が使われる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.214

イギリス人は金で女を釣り、アメリカ人はアーチェリーが女性にとって健康に好ましく、合理的なスポーツであると説得することで釣るのは、なにか現代に通じるところがあるようにも…人間は変わりませなんね。


シングルラウンドの終焉から、1対1へ

下記の2つの記事を先に読むことをおすすめします。

1988年のオリンピックからダブルFITAラウンドから、シングルFITAラウンドからの、グランドFITAラウンドという各距離を8射(計36射)してのノックアウト方式、現在もベガスシュートの決勝で用いられている形式のフォーマットが導入されます。前の記事で、WA(FITA)は競技団体ではなくIOCの味方であると書きましたが、各国の団体も概ね賛成だったようです。全ア連の見解を見つけることができませんでしたが、1988年のオリンピックのホスト国の韓国で賛成多数で決まっています。

下記原文は韓国語なので機械翻訳を修正したものです。どこまで正確か検証できていません。

33回世界洋弓選手権をあと、ソウルでは36回FITA総会がソウル汝矣島63ビルで開催された。 総会では世界アーチェリーの新たな転換点になったといえる新たな競技方式であるGrand FITA Round方式を採択したこれらのGrand FITA Round方式は、45カ国が参加した中で投票が実施され、賛成40カ国、反対3カ国、棄権2カ国で確定し、1986年5月1日から実施することに決議した。 このような競技方式の変化は、FITAが従来の方式ではアーチェリー競技の興味を誘発することに多くの困難があると判断し、アーチェリーの大衆化を引き出すために競技方式に新たな変化を与えるものだった。

韓國洋弓三十年史 本編, P225-226

正しい競技形式を定義することは不可能だとは思いますが、多くのアーチェリーガイドを読んでも、アーチェリーはメンタルが大事なスポーツであると書かれていて、持久力を競うスポーツではないと多くの方が捉えています。自分は高校時代はシングルFITAラウンドを競いましたが、勝つためには、正直メンタル要素より体力が求められる競技という認識でした。メンタル要素があった記憶は…ないです。

対して、現在の1対1での競技では、大いにメンタルタフネスが求められ、アーチェリーがメンタルスポーツであるという認識であれば、正しい方向に進んでいます

さて、競技時間の短縮により、1988年のソウルオリンピックでは団体も開催されるようになり、メダル数が倍になります。オリンピック後の89年にWAの総会が行われます。

サマランチIOC会長は当連盟がソウルオリンピックに積極的に参加したこと、そしてグランドFITAラウンドの導入に成功し、例外なく競技がより華やかなものになったことに賛辞をいただきました。

FITA Bulletin officiel No 40, 1989, P2

(オリンピックでの採用の継続につながる)IOCから称賛を得たので、そのままグランドFITAが継続するかと思いきゃ、IOCから次のバルセロナ後に団体競技を削除するという連絡が届きます。コンパウンド(*)競技を承認した新しい会長のジム・イーストン氏が問題の解決にとり組みにあたります。

*FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P3

IOCプログラム委員会は、1989年の早い時期に団体競技を廃止しました。IOCプログラム委員会の目標は、すべての個人競技のチーム競技をなくすことです。私たちの団体競技は1992年のオリンピックで終わります。私たちは、他の個人スポーツ(体操、フェンシングなど)のチーム競技が残っている限り、アーチェリーのチーム競技をオリンピックに残すよう、プログラム委員会とIOCを説得しなければなりません。先日のアテネでの理事会で特別委員会が設置されました。この委員会は、FITAアーチェリー競技に対するテレビの関心を高める方法を提案し、FITAと我々の大会のスポンサーを獲得するという、非常に重要な目標を担っています。

FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P1(意訳)

FITAは、アーチェリーを発展させ、世界に広め、テレビに映える競技にしなければ、オリンピックに積極的に参加しようとする多くのスポーツ(トライアスロンやゴルフなど)に取って代わられる危険性があります。会議に出席している間、FITAの評議会や委員会のメンバー数名と会う機会があり、テレビでのアーチェリーの露出について話し合いました。テレビでより面白くなるようなラウンドを実験するよう、すべての加盟団体に奨励することが提案されました。8月30日に行われたノルウェーのロエン会議では、Raoul Theeuws会長、Leif Janson氏、Don Stamp氏がタスクフォースに任命され、夏のオリンピック競技としてアーチェリーを維持するために必要なテレビ放映を得るために、FITAがオリンピック競技で提供すべきラウンドと決勝を提案・開発するように指示されました。

FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P1(意訳)

1990年の5月に行われたオリンピックに関するミーティングでは多くの意見が出され、決勝戦をテレビの注目を集めるのに最適な20分に短縮するための1射の時間の短縮、21世紀になってから導入される、決勝戦をよりドラマチックにするために、テニスなどの他のスポーツのように15本の矢を3セットで行うなどのアイデアも検討されます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P5

課題はテレビ放送ですので、競技方式の決定にはアメリカのNBCテレビのピーター・ダイヤモンド氏、バルセロナオリンピック組織委員会(テレビ部門ディレクター)のマノロ・ロメロ氏、スポーツチャンネルESPNのピーター・レイス氏が関わり、アーチェリーのライブ映像を配信することの明言を得て、90年の11月に新しい競技方式が確定します。詳細の記録を読んでいくと、NBCテレビからは午後に決勝を行い、個人戦を2時間半以内、団体戦を3時間以内、16時前に終わらせることが要求されています(*)。92年夏季の大会のルールが90年の11月に確定し、91年3月の世界室内で初めてテストされます。

**FITA Bulletin officiel No 44, 1991, P5

FITAオリンピックラウンドと呼ばれる新しい競技形式はまさにオリンピックのために開発されたものです。オリンピックの前年の世界選手権にも採用されてません。

オリンピックラウンドで行われたバルセロナオリンピックは、かつてないほどの成功を収めます。試合としても、放送としても。

テレビ放送は完璧だった。アーチェリーの素養のない友人たちと一緒に、3日間ずっと放送を見続け、魅了された。

FITA副会長 Nikola Skoric, Olympic Archery on TV, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P6

(テニスを観戦していた)スペイン国王フアン・カルロスは、スペインチームの成功を知らされ、金メダル獲得を目指すフィンランドチームとの対戦に間に合って到着した。フィンランドチームは初めて緊張を見せ、スペインチームにリードを許したが、熱狂的な観客の応援を受け、最後まであきらめることなく力を出し切った。スペインが金メダル。アーチェリー場は、選手、スタツフ、観客が互いに抱き合い、祝福するお祭りのようになった。

Klaus-Dletrich Schulz, Gold medal for the Olympic Round, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P8-11

この成功により、オリンピックでへの参加がより確実なものとなり、1対1の戦いとテレビとの相性の良さが証明されました。93年の世界選手権からは予選シングルラウンド、決勝オリンピックラウンドという形式になります。

93年のWAの会報に委員の意見として、FITAシングルラウンドが長すぎるのではないか、決勝が70mなのに予選で他の距離で競う必要があるのかという提案がされます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 48, 1993, P5

94年にはWA会長のイーストン氏がIOC委員となったことで、アーチェリーのオリンピックからの除外に対する懸念は以前ほどではなくなります。95年にオリンピック予選ラウンドが、70mの720ラウンドで行われることが決まります。92年と同じオリンピックラウンドを採用した96年に行われたも大成功し、

私たちの課題は、アトランタで感じた熱気をさらに加速させ、世界中の観客に1対1のアーチェリーの興奮を届けることです。

Jim Easton, FITA Bulletin officiel No 58, 1996, P1

もう後戻りすることは現実的ではなく、92年と96年の成功によって、アーチェリーは1対1の対決によって勝者を決めるスポーツに変化しました。アーチェリーがオリンピックに根付いた事により、現在のWAの目標はオリンピックにコンパウンドを参加させることです。

IOCがコンパウンドの参入を拒否している理由は主に、

・競技がリカーブと酷似している

・コンパウンドは選手が特定の国に偏っている

というものですが、これは2013年の回答で、10年経過し、現在ではコンパウンドは多くの国で競技されているので、リカーブとの競合が最優先で解決すべき問題で、WAは距離で違いをつけ、的の大きさで違いをつけ、そして、更には、2028年のロスオリンピックに向けて、コンパウンドをインドア競技として採用してもらうよう提案しています。屋外70mリカーブ、屋内18mコンパウンド、IOCの反応が待たれます。

3つの記事からなるアーチェリー競技の歴史はこれでおしまいです。


WAはオリンピックのための団体です

1972年 ミュンヘンオリンピック

高校時代にアーチェリーを始めましたが、白のスラックスを履くという謎のルールがありました。ルールはルールなので守るしかありませんが、大人に聞いてもその理由がわからないというのが…まぁ、昔は上から指示があったら、その理由など尋ねないという時代があったのかもしれません。その謎を20年後に回収できるとは

近代オリンピックで初めてアーチェリーの競技が行われたのは、1972年にミュンヘンで開催された大会でした。52年ぶりに開催されたアーチェリー競技は、その優雅さを演出してくれた。当時のFITA会長インガー・フリス氏の指示で、アーチェリー選手は全員白衣を着用することになり、このルールは数十年間続くことになる。(従わなかった国もあったようです)

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

1969年の世界選手権では服装規定はまだなかったようです。オリンピック(IOC)への競技のアピールにために、白の服装規定が導入されたことがわかります。それを21世紀の高校生に強要するとは…自分の中で、謎ルールから糞ルールに変わりました。さらに続きがあり、

フリス(FITA会長)はまた、競技場に「ウィンブルドンのテニスコートのような芝生」を要求したが、実現しなかった。この要求については、1970年代に国際オリンピック委員会の会長を務めたキラニン卿が、困惑しながらも「普通の芝生でも十分だ」と皮肉ったことが、彼の回想録に記されている。

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

おっしゃる通り、芝生でも十分に優雅ですが、こんな乾燥してれば砂埃、雨が降れば沼地という競技場でやったところで、私には優雅さは感じられませんでしたね。汚れが目立つだけですよ。

さて、以前にもセンターショットについての調査で国立国会図書館に収められている(ジャーナルを除く)アーチェリーに関する資料をほぼ読みましたが、今回シングルラウンドの歴史を書く上で、日本にはWAがどういった組織か理解されていないのではないかと思いました。WAと全ア連は全く目的が違う組織です。

(WAの目的 設立時)

目的 FITA の目的は、次のとおりとする。
a) オリンピック競技大会への参加につながる国際的なスポーツ関係を育成すること。

(WA 現在)

世界アーチェリーの目的は、以下の通りである。
オリンピック理念に基づき、男女平等を含め、世界各地でアーチェリーの普及と振興を図ること。

(全ア連)

私たちはアーチェリーを通して、健康的で明るく、心豊かな生活を創造します。そして、日本と世界の人々が信頼で結ばれることが、私たちの真のターゲットです。

全ア連の目的はポエムっぽいですが、WAの目的はちゃんとした宣言になっています。オリンピックなのです。WAは選手ファーストではなく、オリンピックファーストの団体として設立当初から宣言されています。オリンピックに復帰した最初の1972ミュンヘンオリンピックについて、D.M.Thomson FITA事務総長によって書かれた記事には

オリンピックにおけるアーチェリーの未来はどうだろうか。この4日間で、文字通り何百人もの人々が示した関心とコメントから察するに、アーチェリーには未来があるのだろう。しかし、私たちのスポーツが、IOCの定める規約とルールに従って運営され、他のいかなる外圧にも屈しないようにすることは、アーチェリーに関わる一人ひとりの責任であることを覚えておいていただきたい。

FITA Bulletin officiel No 25, 1973, P15

ここで書かれている外圧(not succumb to any other outside pressures.)が何を指すのか、具体的には示されていませんが、当時IOCからはオリンピック開催前の2年間は競技規則を変更しないなどの要求がされています。

全ア連のような加盟している競技団体と国際オリンピック委員会(IOC)と板挟みになったとき、WAは常にIOC側に立つということです。1972年のオリンピックは大成功に終わりますが、1976年のオリンピックでは微妙な感じになり、メイン競技場から50キロも離れた、すでにあるアーチェリー場が会場となります。国立競技場から50キロとするとさいたまスーパーアリーナよりも遠く、成田空港くらいの距離感です。モントリオールオリンピックについて、ジャッジ委員会として参加したオランダのDr.N. van Hinte氏はこのように述べています(要約です)。

オリンピック思想やスポーツマンシップとは異質な勢力が、その地位を求めてきたのです。民族の誇りの代わりに排外主義が、世界中から集まった競技者同士の友情よりも国家間の関係の方が重要だと思われたのです。参加することの重要性は、国家主義的な成功の追求にかき消された。

カナダでは、テレビでカナダ人選手の特集が組まれた。アメリカでは、アメリカの選手が参加した競技だけが放映されました。アーチェリーのないオランダでは、私たちの競技は何も映らず、新聞にコメントが載ったとしても、非現実的なものであった。

帰りの飛行機の中で、オランダのサッカー関係者が、「アーチェリーを見に行ったけど、30分後には死ぬほど退屈して、それから興味が湧いてきて、最後には魅了されたよ」と隣の人に話していました。

FITA Bulletin officiel No 28-29, 1977, P57

ここから、この予言めいた文書通りの事態が起こります。1979年に東ドイツで行われた世界選手権では、台湾代表チームの国家を掲揚することを東ドイツ政府が許可しませんでした。また、中国がFITAに加盟したことで、台湾チームとの政治的な問題が起こり、81年にチャイニーズタイペイとすることで問題をなんとか収め、80年と84年には政治的な理由によるオリンピックボイコットが起こり、ソウルオリンピック前には単独開催中止を目的としたテロ(大韓航空機爆破事件)が発生します。

一方で、モントリオールオリンピックでは10億ドルの赤字が発生し、オリンピックというイベントは変化することを求められます(*)。

*山本 康友, オリンピックのその後, 日本不動産学会誌, 2014, 28 巻, 1 号, p. 49-53

幸運だったことと言えば、変化を求められているとはいえ、モスクワオリンピックのソ連と、続くロスオリンピックのアメリカもアーチェリーの強豪国で、国威発揚の視点から見ても、アーチェリー競技が除外される可能性がなかったことです。ソ連は実際3つのメダルを獲得し、アメリカは2つメダルを獲得します。さて問題は次のオリンピックで、事実として韓国も間違いなく強豪国ですが、IOCとの関係がソ連・アメリカほどではなかった事。当時の会長と事務局長の回想によれば(意訳)、

ロサンゼルスからの帰り道に計画を練り始めた。「ダブルFITAラウンドは、FITAを殺す」、ドン・ロヴォが言うように「ダブルFITAのラウンドを見るのは、絵の具が乾くのを見守るようなものだ」

競技のファイナルステージを、会場の観客やメディアがフォローできるようなシステムを導入する必要があり、私たちはグランドFITAラウンドの最初のドラフトを起草した。

https://worldarchery.sport/news/150161/it-had-be-done-fita-history-1977-2005-part-2

88年のオリンピックについては記録が残っていないので推測になりますが、IOCとテレビ局と協議しながら放送にあう競技形式を話し合っていたのではないかと思います(*)。

*92年のオリンピックではタイムスケジュールをオリンピック委員会とNBCなどのテレビ局と相談の決めている記録があります

その結果、シングルラウンドから、勝ち残りのグランドラウンドに移行していきます。ロスから5年後、1989年の会議では、

サマランチIOC会長は、特にFITAグランドラウンドの採用に関して、近年のFITAの進歩について語りました。IOC会長は、メディア、特にテレビに対してアーチェリーのイメージを改善するための努力をすることを勧めています。

FITA Bulletin officiel No 41, 1989, P9

ここまで書きましたが、あくまでもWA(FITA)はオリンピックのための組織ですので、IOC会長に言われたら、当然その方向性に進んでいきます。テレビ放送との相性の良い競技形式の探究が始まります。続く。


シングルラウンド(1440ラウンド)の誕生

チューニングマニュアルを書き終わり、3000部以上ダウンロードされました。読んでいただきありがとうございます。もちろん、今後も最新の情報にメンテナンスしていきますが、次に着手すべきはアーチェリーの歴史だと思っています。

おそらく、このサイトを訪問している方の多くはあまり関心がないかもしれませんが(実際アクセス数はあるものの滅多にコメント付きません(T_T)、何事もしっかりとここに至る経緯・歴史をしっかりと知っておかないと、正しい場所にたどり着けないのではないかと思っていますし、チューニングマニュアルを書くときにも多くの過去の文献にあたってきました。

弓道の歴史はかなり詳細に文献として残っているのに対して、アーチェリーの歴史は、特に日本語で書かれたものは、なぜかありません(自分調べ)。もしありましたら、教えていただければ幸いです。書籍でも、論文でも、プログなどでも見つけることができませんでした(*)。

*個人のインタビューのようなものではなく、裏付けがあるものに限る

日本におけるアーチェリーの歴史

このようなサイトで貴重な写真を見る事はできますが、今後どうなっていくのでしょうか? 日本のアーチェリーの歴史に関して、どこかで管理・保管しない限り、失われる一方で良いのか。アメリカでは、イーストン財団が貴重なアーチェリーの資料を保管し管理していますが、日本でもやるべきではないかと思っています。自分ができる範囲でのことは努力していこうと思ってはいます。

こちらは日本で書かれた2番目に古いアーチェリーガイド。最も古いものに「洋弓手引書」という物があるらしいのですが、入手できていません。情報ありましたらお願いします。サイトピンの使用が認められ、クリッカーが日本に上陸し(*)、スタビライザーが禁止されていた時代に書かれたものです。

*白倉 仲, 武山 秀. Archery に於ける Klicker. 体育学研究. 1967;11(5):218.

今回の記事は現在では滅多に行われていないシングルラウンド(1440ラウンド)の誕生に関するものです。この競技形式は登場まで、どこでも行われておらず、妥協の産物であることはあまり知られていないと思います。下記の記事「歴史をすこし」をより詳細にしたものになっています。

事の始まりはオリンピックです。それぞれの国が独自の文化のもとアーチェリー競技をしている中、1896年に再開されたオリンピックの第二回大会、1900年のパリ・オリンピックからアーチェリー競技が追加されます。パリ・オリンピックでは、当時フランスで人気のあったAu Cordon Dore 33mなどの競技が行われますが、どのようなルールだったのかは記録に残っていません。ただ、33mでの競技だったと思われるので、メインを100ヤード(91.4m)で行われていたヨークラウンドに比べると短距離の競技だったようです。開催国フランスとベルギーとオランダの3カ国が参加しました。

つぎの1904年アメリカのセントルイスで行われたオリンピックでは、独自のアメリカンラウンド(22名参加)とともに、イギリスのヨークラウンド(16名参加)も競技に採用しています。ただ、海外からの参加選手はなく(イギリス・アメリカ間は船旅で片道5日間)、全員アメリカの選手で競技が行われます。こちらは長距離の競技です。

王室の庇護のもと、貴族のスポーツとして競技されたイギリスのヨークラウンドは100ヤード(91.4m)をメインとしていました。これは射場が貴族の社交場として機能していたためです。アメリカではメインがハンティングだったので、ターゲットでも50/60ヤード(54.8m)がメインでした。対して、フランスやベルギーではより娯楽色の強い参加のしやすい短距離で競技が行われていました。ベルギーではPopinjayと呼ばれる競技が人気です。

ポピンジェイ(wiki英語版の機械翻訳) - ポピンジェイの目的は、人工の鳥を止まり木から叩き落とすことです。止まり木は、90 フィート (27 m) のマストの上にある横木です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Popinjay_(sport)

1908年のロンドン・オリンピックはもちろん長距離のヨークラウンドで行われ、フランス、アメリカから選手が参加しました。第一次世界大戦をはさみ、オリンピックが再開された1920年にはベルギーで開催されますが、競技方式はIndividual Fixed Large Bird で行われたと記録されており、これはおそらく現在の3Dアーチェリーのような、擬似的な狩猟競技と推測され、鳥を射るので的のサイズ的に短距離で行われたと推測されます。ベルギー・フランス・オランダの選手が参加しました。

開催ごとに競技方式が異なる状況に対して、1921年に行われた第七回オリンピックコングレスで、統一ルールの導入を求められたものの、アーチェリーは国際競技団体すらなく、競技方式を統一できず(*)、1924年のオリンピックよりアーチェリーとフィールドホッケー、ゴルフがオリンピック競技から削除されました。

*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22

この問題を解決するために、1931年に国際団体の世界アーチェリー連盟が創立されます。当初の参加国は、フランス、チェコスロバキア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ合衆国、ハンガリー、イタリアの7カ国で、日本などの弓による競技(アーチェリー)が行われている国に参加要請を送ります。送付した国のリストはないものの、日本とエジプトの競技団体からは返信がありました(*)。

*Robert J. Rhode, HISTORY OF THE FEDERATION INTERNATIONALE DE TIR A L’ARC VOLUME I 1931-1961, P12

このときの日本側の反応についての記録を読むと、双方に大きな認識の違いがあったようです。連絡を受け取った大日本弓道会は世界アーチェリー連盟(WA/FITA)を「国際洋弓連盟」と受け止めています。つまり、洋弓の世界より和弓の世界と「交流」を持ちたいという連絡であると受け止めていたのに対して、WA側は最終目的はオリンピックへの再採用ではあるので、課題は弓術(アーチェリー)としての国際大会での競技方式の確立であり、「加盟」と「参加」をして欲しいという要請であり、初めからボタンの掛け違いがあり、日本側はその後連絡を絶ち、対応をしなくなります*。

*入江 康平, 昭和前期における弓道の国際交流について, 武道学研究, 1974-1975, 7 巻, 1 号, p. 29-30

当時の和弓側(大日本弓道界)の「弓術というだけでは意味が狭い。ただ弓に矢をつがえて的に当てることの技術が弓術である。これ以外のことは厳密にいえば、弓術の範囲には属せずして弓道の範囲に入る」(*)という意見、弓道は弓術とは違うという意見と、弓は、ターゲットアーチェリーで使用されるもので、常識的に「弓」という言葉に適合していれば、どのような形状でも使用することができる(競技規則)という弓道は弓術の一つであるというアーチェリーの定義は今でも多くの誤解を生んでいるように思います。

*根矢鹿兒 弓道の本義.弓道,87:1-3, 1919

さて、1931年に国際的な統括団体は設立されたものの、世界選手権の競技方式はなかなか決まりません。問題はイギリス、アメリカ、スウェーデンが90mや70mの長い距離で競技していたのに対して、フランス、ベルギー、オランダは25m、30m、50mの短距離で競技をしていたこと。それに最適化された射法を用いていたことです。例えば、ハイアンカーでは物理的に90mを競技することが困難で選手は新しい技術の習得が必要になります。

1931年の第一回世界選手権では、50m/40m/30mという形式が採用されます。1932年の世界選手権では70m/50m/30mという形式が採用されます。イギリスからは全距離を122cm的で行うことが提案されますが、ポーランドとフランスの協会の反対により、30mでは80cm的を採用することが決まりました。

1933年のイギリスで行われた世界選手権では、男子が90/70m/50m/30mという形式に変更されます。女子は引き続き70m/50m/30mで、競技する本数に差異があります。この年から10リングが導入されます。

1934年の世界選手権に向けての1933年の協議会でシングルラウンド形式(男子90m/70m/50m/30m各36射)という形式が提案され、6カ国賛成(イギリスは棄権)という投票結果によって確定し、ここで初めて、どの国でも競技されていなかったFITAシングルラウンドという競技形式が、短距離派と長距離派の妥協のもと誕生します

ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。

1953年の会議でMr.Neerbye氏(*)より競技者の増加に伴い競技時間が長くなりすぎているために参加者の削減が提案されました。2年間の委員会での議論を経て、1955年の会議で競技者の削減ではなく、競技する距離を削減することで競技時間を短縮する方向となり、再度シングルラウンドをFITAラウンドとして採用することが決まり、その後、1985年まで採用され、その後は2011年まで予選ラウンドにて使用されました。

*FITA Bulletin officiel No 13, 1953, P7

以上、FITAシングルラウンドは短距離から長距離までまんべんなく網羅した試合形式というよりは、国際的な合意形成が必要な中、妥協によって生まれた試合形式と考えるべきかと思います。

1921年から34年間かけてWAはアーチェリーの国際大会のルールを統一することに成功し、さらにその10年後の1965年の10月に72年のオリンピックに再採用されることが決まりました。

WAの過去の議事録は1931年の第一回目から下記のサイトで確認できます。すべて私が生まれる前の話ですので、過去の文献により構成しているために参考文献が大量になってしまい、読みづらかったら申し訳ございません。


初期におけるセンターショットの研究

1942年、初期のセンターショットボウに関する研究についての資料を入手したので、一部翻訳してみました。ここからのモダンリカーブボウが誕生していきます。

A/B

In this group of experiments the arrow had no freedom to offset the faulty three finger release as it had to pass right through the center of the arrow rest.

PERFORMANCE CHARACTERISTICS OF CENTER SHOT BOWS AS AFFECTED BY TYPE OF RELEASE, ARROW SPINE AND GLOVE TIP THICKNESS By L. A. QUAYLE Cleveland, Ohio 1942.2 Bowman Review.

この実験では、矢はレストの中心を通らなければならないので、3本指リリースの不具合を相殺する自由はない。

Experiments Using Bows “C” and “D”

All arrows irrespective of their material, length, diameter or spine grouped around the point sighted whether shot with three-finger, pinch or mechanical release, with a glove or with bare fingers.

With the type of arrows rests used on “C” and “D” bows, the arrows were free to move to the left (bow held in left hand) without obstruction and the arrows had an opportunity to readjust themselves after receiving the side push caused by the string going around the finger tips, and they there fore grouped around the point aimed at.

弓「C」と「D」を使った実験

すべての矢は、素材、長さ、直径、スパインに関係なく、3 本指、ピンチ、メカニカル リリース、手袋または裸の指で射ったかどうかにかかわらず、サイトポイントの周りにグルーピングしました。

「C」と「D」の弓に使用されているアローレストのタイプでは、矢は妨げられることなく左に自由に移動でき(RH)、矢は弦が指先を通る時に起こるサイドプッシュ(*写真)を受けた後、自分自身を再調整する機会があり、狙ったところにグルーピングします。

サイドプッシュ

Tests Using Pinch Release

With the pinch release or its equivalent in a mechanical releasing device, all four sets of arrows shot from all four bows grouped around the point sighted on, the sight being kept in the vertical middle of the bow at all times and adjusted vertically to take care of the different weights of the arrows in the different sets.

If matching target arrows for spine to a fine degree is as difficult and important as many archers appear to believe, then the center shot bow of proper design has an advantage over other types, in that arrows of greatly different spines will group together on the target without any allowance being made for differences in spine.

トリガーリリーサーを使用したテスト


トリガーリリーサーを使用して、4 つの弓すべてから発射された 4 セットの矢すべてがサイトポイントの周りに集まり、サイトは常に弓の垂直方向の中央でよく、異なるセットの矢の異なる重量に対応するために垂直方向にだけ調整されます。


背骨のターゲット矢印を細かく一致させるのが難しい場合、多くのアーチャーが信じているように、適切な設計のセンターショットボウは、スパインの違いを考慮せずに、大きく異なるスパインの矢がターゲット上でグルーピングするという点で、他のタイプよりもメリットがあります。

The center shot bow also has the advantage that very light arrows may be shot with heavy bows giving flatter trajectories than are possible with bows that force the arrow to bend in order to go around it.

The 28″-7/32″ diameter 290 grain “Z” arrows performed very well when shot with a 45 lb. “D” type bow. This “Z” arrow has so little spine it became permanently bent when shot just once with a 45 lb. bow of conventional design.

センターショットの弓には、非常に軽い矢を高いポンドの弓(*)で射つことができ、クリアランスのために矢を迂回させる弓よりも、平らな弾道を与えることができます.

*注 50ポンド・28インチ引きの場合、ロングボウ、センターショットリカーブボウ、コンパウンドボウの順にエネルギー効率が高まるのに対して、推奨スパインは順に、400(ウッドアロー)、450(X10)、470(X10プロツアー)と柔らかく軽い矢が適合します。

直径 28″-7/32″ の 290 グレイン(スパイン 0.280) 矢は、45 ポンドの “D” タイプの弓で射つと非常に優れた性能を発揮しました。 この矢はスパインが非常に小さいため、従来の設計の 45 ポンドの弓で 1 回だけで曲がってしまいます。

No doubt hundreds of center shot bows have been made and shot but it is seldom that one is seen in use. However, as indicated above, properly designed center shot bows have certain inherent advantages which, when more generally recognized, should increase their use considerably, and may become the favorite type with many archers.

間違いなく何百ものセンター ショットボウが作られ、テストされていますが、実際に使用されているものはめったに見られません。 ただし、上記のように、適切に設計されたセンター ショットボウには固有の利点があり、より一般的に認識されるようになると、その使用が大幅に増加し、多くのアーチャーに好まれるタイプになる可能性があります。

PERFORMANCE CHARACTERISTICS OF CENTER SHOT BOWS AS AFFECTED BY TYPE OF RELEASE, ARROW SPINE AND GLOVE TIP THICKNESS By L. A. QUAYLE Cleveland, Ohio 1942.2 Bowman Review.


Royal Company of Archers / 迎え酒

護衛がロンクボウのアーチャーなのはびっくりしました。ブレースは状態しないで護衛するのですね。

ロイヤル・カンパニー・オブ・アーチャーズ(Royal Company of Archers, the Queen’s Bodyguard for Scotland )はスコットランドにおける儀式の際に国王・女王を護衛する名誉職。1676年私的なアーチェリークラブとして発足し、1703年再建。ジョージ4世時代の1822年より護衛任務に就く。入隊資格はスコットランド人若しくはスコットランドと繋がりが深い人物であること。選挙により選ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%B5_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)

話が変わりますが、自分はウィキペディアを調べ物に結構使いますが、言語には思想が結びつくので、言語が変わると書いてあることが全く違っていたりします。先日、久しぶりに迎え酒をしてみたら、結構効いたので、迎え酒について調べてみまたのですが、

いわば迎え酒による対処は「気のせい」「その場しのぎ」と考えられている

迎え酒 - 日本語のウィキ

迎え酒には効果がないと書かれているのですが、参考文献が適当すぎるだろ…医学的なことの根拠がブログレベルの記事と、文芸社だから読んでないけどおそらく文化について書かれた本って…と思い、英語版を見てみました。

In the second, hangovers are partly attributed to methanol metabolism.[15][16] Levels of methanol, present as a congener in alcohol, have been correlated with severity of hangover[17][18] and methanol metabolism to the highly toxic formate via formaldehyde[19] coincides with the rate of appearance of hangover symptoms.[20] As both ethanol and methanol are metabolised by alcohol dehydrogenase – and ethanol is a much better substrate for this enzyme – drinking more of the former then effectively prevents (or delays) the metabolism of the latter. As pure ethanol consumption has also been found to increase endogenous levels of methanol,[21] presumably for this reason, this suggests that if “hair of the dog” works in this way it effects a temporary hiatus rather than a cure.

迎え酒 - 英語版

AI翻訳(一部修正)

二日酔いはメタノール代謝に一部起因する[15][16]。アルコール中の共伴物質として存在するメタノールのレベルは二日酔いの重症度と相関しており[17][18]、メタノールからホルムアルデヒドを介して猛毒のギ酸塩への代謝は[19]、二日酔い症状の発現速度と一致する。[20]

エタノールとメタノールはともにアルコール脱水素酵素によって代謝され、エタノールはこの酵素にとってはるかに優れた基質であるため、エタノールを多く摂取すると後者の代謝が効果的に妨げられる(または遅延する)。純粋なエタノールの消費はまた、おそらくこの理由のために、メタノールの内因性レベルを増加させることが見出されているので[21]、これは、「迎え酒」がこのように機能する場合、治療というよりも一時的な休止に影響を与えることを示唆している。

たった2クリックで、より詳しく知るための論文レベルでの情報とともに知りたいことを知ることができます。迎え酒の効用は二日酔いの原因である代謝を遅延させることで、一気に来る痛みをゆっくりと進めさせることにあるとのことでした。

今はAIにより機械翻訳のレベルも上がっていますので、日本語で調べて答えが見つからない場合には、英語や、繋がりが深い言葉、ワインだったらフランス語で調べたり、ウォッカだったらロシア語で調べたりすると、白酒なら中国語で、簡単に答えが見つかる場合が多いので試してみてください。

日本語のウィキに海外の研究では違う結果が出ていることを追記しました。