久しぶりの業界昔話1。

政治家とか、昔の、20年前の話を掘り起こされたりして大変なんだなと思いますが、このサイトではすべての記事をアーカイブして置こうと思っていましたが、お客様の意見によって、自分が責任を持てる直近10年ほどにしようという方針に変えました。昭和の生まれです。断線したらクリップで止めときゃなんとかなるだろという…マネはしないでください。ど根性昭和の話で言えば、今どきの若い子は小学校で習わないかもしれませんが、漏電している可能性のある部分を触るときは(そもそも触らないでください)、通電して筋肉が収縮する方の逆側で触ってください。通電して収縮する方で触ると、感電した時に離そうとしても離せなくなってしまいます。

@oga_chisatoさんより

検索したらばっちりの説明がありました。接触部を蹴っ飛ばせと習いました(靴底はだいたい絶縁体なので)。こういうことです。まぁ、時代も令和なのでこんなど根性の教育も行われていないと願っています。それだけ日本国が先進国になったということだと思います。

それはともかく、久しぶりに業界の話、自分がアーチェリーショップを始めたきっかりの時代の話を少し書こうかなと思います。最初の頃(2007年頃)、業界の体質に対して批判的な記事を書いた記憶はありますが、最近、後輩のインタビューを受けた時に、成り立ちを話し事を再構成しました。

JPアーチェリーはそろそろ15年目になりますが、ショップの始まりは、たまたまでした。ちなみに、2000年以前のアーチェリーショップの内側に関しては知識がないので、ここでは取り上げません。というか、わかりません。

私は最初に渋谷アーチェリー(2005)で仕事しましたが、当時、業界全体が大混乱に陥っていました。それは、2001年にヤマハがアーチェリーが撤退したからです。この記事を書く前に検索してみましたが、当時の業界の混乱を描いている記事はありませんでした。という事であまり知られていないことなのかなと思います。

ヤマハが撤退したことでなにが起こったのか。一言で言えば、老舗のベテランのアーチェリーショップが仕事をできなくなってしまったのです。ヤマハ(及びその他の日本メーカー)は日本人のためアーチェリーを目指していたので、代理店に対して、アーチェリーの教育は行っていましたが、英語の教育はしていません。自社への依存度を高めるためにも、仕事をすべて日本語で行っていました。つまり、ヤマハがあった時代には、日本語だけできれば、アーチェリーの仕事ができたのです。

しかし、今のアーチェリーを考えれば、日本のメーカーは本当に僅かです。2001年にヤマハがアーチェリー事業から撤退したことで、アーチェリーショップの経営は日本語だけではできなくなりました。2005年頃でもメインのメーカーはホイット・ウィン・サミックでした。どれも、日本語で仕事できる相手ではありません。それによって、大手以外のプロショップはメーカーから仕入れができず、大混乱しました。

ちなみに、私が渋谷アーチェリーから独立したのは、勤務していた部門が山梨に移り、新宿に流通部門自体がなくなってしまったので、退職したわけですが、私が独立したときにも、旧友にしんどいと聞いたことがあります。JPアーチェリーが1000円で販売しているものを、900円で仕入れているプロショップからクレームがあったらしいです。

私達は当時メーカー出してで300円のものを海外メーカーから仕入れて、輸送の手配をして、通関して、1000円で販売しています(原価は500円くらいかな)。それに対して、仕入れ、在庫リスク・通関業務・保税地からの輸送などすべて英語ができる代理店にまかせて、仕入れしたら、仕入原価が900円になり、JPが1000円で販売しているのだから、もっと安いはずだと本気で言っているプロショップがありました(だったお前やってみろよと)。

ヤマハとの取引に慣れすぎて、日本語で仕事ができる事自体に付加価値が乗っかっている(=その分仕入れ価格に加算されている)ことに気づいていないプロショップが多かった時代でした。

なので、JPを立ち上げたときは、英語で仕事ができるだけで、競争優位に立てる時代で、タイミングが良かったのかなと思っています。

続く。

*まだ業界にいる人もいるので一部脚色しています。

*英語ができれば偉いという話ではなく、英語ができないために、その業務を代行させるのに対価を払う意識がない人がいたという話です。


WAからのわかりやすいメッセージ。

昔(2011年かな)、某連盟の事務局から意味不明なこと(金よこせ)と言われて、揉めたことがありました(翌年ある程度寄付をしてブース出せました)が、WAからは予想通りベアボウ部門に対して、しかし、確かにメッセージがありました。

次回の世界選手権へのベアボウの参加は102対84で否決されました。この内容自体はともかく、コストによって否決されました。

メッセージは明白です。リカーブ部門はオリンピック種目ですので、スポンサーは付きます。コンパウンド部門はベアボウ部門とお同じ程度の参加国だと思いますが、ベガスシュートの優勝には500万円の賞金がつきます。

リカーブ(オリンピック)とコンパウンド(ハンティング)には資金に後ろ盾があります。ベアボウ部門にはそれがあるのか。現実として、この問いに答えが出せれば、追加されるでしょうし、答えられなければベアボウ部門は難しいのでしょうということでしょうね。

ちなみにWAの言いたいことが間違っているとは思いません。お金がなければ何も出来ないのはそのとおりでしょう。


【再掲載】WIN&WINの社長が語るアーチェリービジネス。

park.jpg(2011年のインタビューです)

WIN&WINの社長パクさん(写真右の方)へのインタビューです。インタビューの原文は英語ですが、話したら日本語でもと言うことになりましたので、訳してみました。


「私の心が導いてくれた場所」

韓国を代表するアーチェリー企業WIN&WINの社長とのインタビュー。WIN&WINの歴史と・未来について。

韓国を代表するアーチェリーメーカーWIN&WINの歴史は、情熱にあふれ、心の赴くままに身を委ねてきた一人の男の歴史であると言える。CEOのパク・キュン・エラは「代表取締役」という役職以上の人間であると感じられた。韓国代表選手団の監督であったという経験を持っているだけでなく、アーチェリー全般の知識も豊富であり、製品すべての企画にたずさわり、責任を持って商品を製作している。ソウル市内から数キロ離れた場所にWIN&WINの本社がある。そこで私は”カリスマ”に出会った。

※以下より、インタビュアーをI、パク・キュン・エラをPと表記する。

I:私たちが本社に到着するとまず韓国古来の弓矢を使用したデモンストレーションを見せて下さいましたね。この韓国古来の弓矢はあなたの人生においてどんな役割、存在なのですか?

P: 私にとって、アーチェリーは人生です。たくさんの喜びを味わうことができ、そして、世界中のアーチャーに対して販売者として関わることができる。アーチェリーの他にゴルフもします(**)。しかし、これまでの様々な経験を思い出せば、韓国古来の弓が私自身を形成しており、癒しとしての役割も担っていたことに気づきました。

アーチェリーは本当に私の人生であると思っていますが、もちろんアーチャーとして生まれてきた訳ではありません。中学生の時にアーチェリーを始めました。中学校にアーチェリークラブがあり、クラブを運営していた男性と知り合いになりました。その方は現在韓国アーチェリー連盟の役員の方で、なにも知らない私に熱心にアーチェリーを教えてくれました。私がここまでアーチェリーに対して情熱的でいられるのは、彼のおかげだと言っても過言ではありません。ちなみに彼の娘さんにもお会いする機会も与えていただきました(現在私の嫁です 笑)

I:アーチェリー用品を販売する会社を設立した際、ゼロからのスタートということでリスクは全く感じなかったのですが?それとも少しはありましたか?

P: 会社の設立までの経緯を説明します。あなたの質問の答えになってないと思われるかもしれませんが、1984年から韓国代表の男子チームの監督をやらせていただき、なにも問題のない環境でした。韓国男子はフランスやロシア代表よりも弱い時代でしたが、選手のパフォーマンスもチームの方向性も良い方向に進んでいました。

私はとにかくベストなコーチになることが第一の目標でした。ナショナルチームでの指導というだけでなく、セミナーや講演会などを開き、知識を世界中に広めることが目標でした。

その後、チームは強くなり、1991年に”あの”アメリカに韓国代表チームの監督として招いていただいた際に、この役職に対して設定した目標は達成されたように思いました。当時私はまだ若かったせいか、もう一つ夢を持つ必要性、新しい目的を持つ必要性を感じました。
リスクに関しては考えてませんでした。最高の弓を作りたいという一心で、一種の夢のような感じですが、心が赴くまま夢に向かって取り組みを始めました。

I:困難や苦難はありましたか?またどんなものでしたか?

P: 最も苦しんだのが資金での問題でした。最初の資金は3,000万円でしたが、試作や設備投資のために2年間で貯蓄もすべて使ってしまいました。お金はもうありませんでした。資金面以外では、やはり理想の弓具を作ることの難しさです。しかし、友達や信頼できる人たちに囲まれ、状況を打破する事が出来ました。

次には、販売する商品に関して苦労しました。この点に関しては、2004年のアテネオリンピックの際、自社製品が様々な問題を抱えており(***)、オリンピック後の半年間は商品の生産を止めざるを得ない状況にまでなり、本気で事業をやめるかどうか考えました。今思い返してみてもとても難しい時代でした。

I:現在のWIN&WINの哲学はなんですか?

P:WIN&WINは世界中のアーチャーに影響を与える会社となり、知名度も増しましたが、その点は大して重要ではありません。何が一番大切かというと、夢を共有すること、そして、その夢を叶えるための前進するという確固たる意識が大事です。
これまでの経験の中で自分が「絶対に乗り越えたい」と思ったことを、確実に乗り越えてきたからこそ、今があると思っています。アーチェリー用品の販売する会社を作りたいと思ったとき、まず私がしなければならなかったことは安定した収入を得ることができたコーチの職と一流のコーチングの経験を捨てて、ゼロからスタートすることでした。

会社設立の時の話を聞かれると、私はいつも自分の理想、世界で、最も優れている弓を作りたかった、という気持ちから話をします。それは今でも持っている思いです。それ以外の事は、正直、大して重要ではありません。私のモチベーションであり、私の支えて来た”哲学”はそれだけです。

I:あなたのこだわる「世界で最も優れている弓」とはどんなものですか?

P:それは、高性能であり、かつ、低価格である弓です。メーカー間の競争は、特に技術面においてアーチェリー競技に良い影響を与えていると思います。また、これはアーチェリーメーカーにとっても良いことです。なぜなら競争は市場に活気を与え成長を促すからです。競争が激しくなれば激しくなるほど、市場は早いスピードで成長します。

I:あなたは「社長」という今の地位・役割を楽しんでいますか?

P:楽しんでいないとは言えないと思います。これまでのわが社の実績に関してとても嬉しく思っています。しかし、最高の・完璧な弓を作るための挑戦に終わりはありません。HoytとWIN&WINの間での競争を客観視したとき、売り上げでは私たちはHoytを超えたと思う部分はあります。しかしながら、歴史に裏付けされた実績という面からみると私たちはまだHoytに負けています。
今の競争は、「良い競争」であり、私たちを成長させてくれる競争です。競争があるからこそ私たちは常に革新を続け、テストを重ね、視野を広げる努力をしております。性能と価格での競争は良い競争です。ただ、お金をばらまくような資金面での競争はしたくありません。

I:WIN&WINの生産体制はどのようにしているのですか?

P:WIN&WINは2か所の工場を持っています。ひとつは韓国南部にあり。ここでは主にリムを製造しています。もう一つは中国にあり、ここでは主にハンドルを製造しており、その中でも中級クラスの物とSF Archeryの製品を製造しています。それぞれおよそ300人の従業員を抱えています。リカーブとコンパウンドボウのどちらも製造するHoytとは異なり、私たちはリカーブだけの製造を行っています。

I:なぜコンパウンドボウ市場には参入しないのですか?あなたの個人的な意見ですか?また、技術が不十分なためですか?

P:もちろんコンパウンドボウ市場への参入は大きな一歩となるでしょう。しかしそれは私の目標の中に含まれているものではありません。これまでも、そして、これからもコンパウンド部門への参入の計画はありません。なぜなら、私達はリカーブ部門において明確なコールを設定し、取り組んでいるからです。

一度にいつくものボールをジャグリングすることは困難です。正直な話、興味をそそる市場ではありますけどね…。

I:あなたに初めてお会いしたとき、1990年代に活躍した著名なアメリカ人コーチを超えることが目的かどうかを聞きました。現在はアーチェリー製品の製造という点においてアメリカ人の製造者を負かしてやりたいという気持ちはありますか?

P:Hoytやその他の業者に対して「負かしてやりたい」とは言うつもりはありません。でも、私の中では常に「アメリカだったら」という気持ちはあります。アーチェリー選手だったとき、またコーチだったときもです。心のどこかでアメリカと競争しているという認識がいつもあります。
この質問は、私がアーチェリー選手であった時代を思い起こさせてくれます。当時、世界のトップ選手と言えばアメリカのリック・マッキーニ(1976-1992年までのオリンピックに4回出場、うち銀メダル2回)か、ダレル・ペース(オリンピック3回出場、うち金メダル2回)でした。選手だった当時も、今も、やはり常にアメリカ人に勝ちたいという思いは強く持っているかもしれません。選手時代、アメリカ人に勝つ能力はあったと思いますが、国際試合での経験をはじめとして、私達は経験が圧倒的に足りませんでしたので…。

ただ、私の会社という視点から見ると、繰り返しにはなりますが、どこかのメーカーに「勝ちたい」と思っているわけではありません。相対的な競争ではなく、絶対的に「完璧な弓」を作りたいという思いだけです。

I:リカーブ用に新しい商品がデザインされたとき、一連の企画の中で、どの段階であなたは参加されるのですか?

P:WIN&WINには、新しいアイデアの探求・既に存在する商品の改善などを行う調査開発チーム(research and developing team)があります。基本的に私はクリエイティブでいることに努めており、新しい商品に対しての私の考えをこのチームに直接伝えることもあります。工場にいるときは、その仕事がメインです。基本的に私は24時間全てアーチェリーのことを考えています。

I:バイター(ドイツ・バイター社CEO)は常に自分のベッドの横にノートを置いて、いつアイデアが浮かんでも良いように対策を取っていたといいます。あなたはどうですか?

P:(笑って)私も必ずベッドの隣にノートを置いています!ノートは発明者の必需品ですね。ベッド横にノートを置くのは、どのメーカーでも、広く行われていることかもしれませんね。そう思いませんか?

I:INNO CXTハンドルやINNO EXリムの販売を開始してちょうど一年を迎えますね。この商品の販売実績に対して満足していますか?経営面と技術面の両方からお願いします。

P:INNOモデルとINNO CXTモデルを比較すると、売り上げは40%の成長を記録しました。これは素晴らしい実績です。CXTモデルを購入いただいた方からの評価もよいです。INNOでは正確さと安定性を重視していたのに対し、新しいCXTモデルではさらにリリースの際のストリングの動きを重要視しました。CXTモデルでのストリングの動きは限りなく真っ直ぐです。そのためストリングが腕に当たることはほとんどありません。この技術は私たちが開発に尽力して来たもので、着想から完成までかなりの月日を要しました。今後もこのような技術開発を積み重ね、更なる革新を目指して行きたいと思います。

I:次に開発に携わりたいと考える商品はありますか?

P:現在サイトやスタビライザーなどのアクセサリーを中心に開発・改善を進めております。しかし、いつまでもこれらの商品開発をメインとするつもりはありません。会社は、リカーブの”弓”をメインの商品として取り扱っています。

あなたが聞きたがっている事は分かります。矢の話をしましょうか?

I:矢の話をお願いします。学校などで見かけることが多いので…

P:わずかではありますが、韓国人のユース向けに数種類製作しています。ただ、商品として販売はしておりません。矢の生産量も少量です。今後発展させていきたい商品とは考えていません。

I:韓国旅行の最中で若いアーチャー、特に大学生に出会うことが多かったように思えます。韓国で最大のアーチェリーブランドとして、国内にはどのようなメッセージを発信したいと考えますか?

P:私は若さは人生の中でとても大事なものであると考えます。WIN&WINの最高責任者として、他人の人生にどのぐらい影響を与えられるかわかりません。ですが、私は若いとき単純に安くて性能の良い弓を作りたいと思いました。今の私の役割は、アーチェリー市場を繁栄させ、成長を促し、多くの人に良い商品がいき届く環境を作ることです。私たちの責任は「アーチェリーに関する分野であれば、その需要にこたえる」というものだと考えています。

韓国では製造者が直接消費者を関わることができるシステムはありません。しかし、いずれそのようなプログラムができることを望んでいます。アーチェリーブランドの責任者として、消費者のニーズにこたえていくことが義務だと考えています。

I:あなたにとっての永遠のトップ・アーチャーは誰ですが?その理由も教えてください。

P:キム・スーニョンです。いろいろなトップ・アーチャーの、いいところをすべてを持っている選手だと思っています。最近のアーチャーのポスターに写っているような選手の、その射ち方の原点がキム・スーニョンの射ち方なのです。

キム・スーニョンが成功するまで、7秒程度でうつことが主流でした。彼女は早くうつことの必要性・重要性を広く知らしめました。彼女の集中力には誰も勝つことは出来ないでしょう。同じように、今のトップ・アーチャーも国際大会という大舞台で、最新のうちかたを世界に向けて発信していくべきなのではないかと思います。

I:ロバート・ルイス・ドレイファス・アディダス前CEOは、「スポーツでは結果が全てだ」と言っていました。あなたはこれに対してどう思いますか?

P:私も大会や競争は勝つという結果を得るためだけにあるものだと思っています。ですが、その中に「楽しさ」もあることを忘れてはいけません。楽しむことこそがスポーツの醍醐味であり、競争相手とも共有するべきものなのです。

*インタビューは韓国で行われました。

**噂によるとゴルフの腕前はELIの社長(リンク先の後ろ姿で映っている方)が業界トップらしい。

***2005年頃にXQ-1リムの全出荷分のリコール(交換)をしてます。


アーチェリー貴族と紳士淑女のスポーツ(笑)

最近、ベアボウとパラ選手の問題で競技規則について少し書いてきました。現状のルールに特に不満はありませんが、なぜ、日本だけ襟付きにこだわっているのか全く理解できません。高校時代は白い靴下と白スラックスの指定まであったと記憶しています。

UASアーチェリー FBより

上の写真は直近の全米ターゲット選手権の写真で、主に優勝したトップの選手ですが、日本のルールだけとほぼ試合に出られません。しかし、日本のアーチェリーは、貴族(社交場)→ターゲットにつながる本場イギリスではなく、南軍→ハンティングのアメリカから輸入されたはずなのに、なぜなのでしょうか。

高校生の時、あまりアーチェリーに詳しくなかった時に関係者に聞いたら、アーチェリーは貴族のスポーツ発祥だから、服装のルールが厳しいのですと言われ、納得しちゃいましたが、貴族だけあって、葉巻吸いながらやってますからね。それも認めてくれたら(アルコールはドーピングで禁止)、襟付けでもいいや。

以上、貴族の競技風景をお楽しみください。たしかにみんな白スラックス。


歴史なんて調べて何しているのか?

(アーチェリー教本 2000)

歴史を勉強して、古い資料を調べ上げて何をしているのか。よく聞かれます。最新の情報でも仕事はできるのですが、やはり正しい理解に、歴史は欠かせないと感じています。チューニングに興味を持った方なら、上の写真を見たことはあるかもしれません。グルーピング・ピボットポイント・弓のセンターの3点の関連性を示した資料ですが、これを読んでどう思いますか?

これは全ア連のアーチェリー教本(2000年版)に掲載されているものですが、初心者だと、これを正しいと信じてしまうかもしれません。しかし、実はこのデータは全く価値がないものなのです。

なぜでしょうか。アーチェリー教本では全て明らかにされませんが、実はこのデータは70年代前半のものです。つまり、50年前のデータなのです。まず、間違いなく、カーボンシャフトでのデータではありません。また、実験をしたことのある人であれば、誰もが思うであろう疑問があります。6cm/5cm/4cmで実験して4cmが一番グルーピングしたら、誰もが、じゃ3cmと思うでしょう。しかし、それのデータはありません。そのことから推測するに、ウッドボウでのデータではないかと考えられます。NCハンドルであれば何でも可能ですが、ウッドハンドルでは強度的に限界があります。また、表中の表現から、プランジャーを使用していない(普及し始めたのは75年)と考えられます。

つまり、ウッドボウ/グラスリム/アルミシャフト/ダクロン弦/プランジャーなしという条件下でとられたデータなのです(赤字は確定、黒字は山口の推測)。そんなデータが今の時代に価値を持つでしょうか? 2000年でもNCハンドル/カーボンリム/カーボンシャフト/FF弦/プランジャーは存在していました。

ちなみに、このデータを提供したヤマハ自身、80年代にはピボットポイントにできる限り近いほうが良いという実験結果を自ら否定しています。つまり、70年代から5年程度の間しか価値がないデータなのです。こういった判断を歴史を学ぶことでできるようにしているわけです。

しかし、それでもアーチェリーはわからないことだらけで面白いです。写真のとおり、50mでも回転力のぜんぜん違う40m(1-9/16″)のノーマルスピンと64mm(2-1/2″)のガスプロのベインが同じところに刺さるのです。まじでなんで…。


1955年 New Guide to Better Archery

1955年に執筆されたアーチェリーガイドブックの1962年版が届きました。これから読み込んでいこうと思っています。

特にアメリカで書かれたものですが、今まで翻訳した本でもハンティングの部分の翻訳を省いたりしましたが、せいぜいブロードヘッドチューニング程度の内容でしたが、こちらの本ではハンティング後の解体の仕方まで解説してくれています。今でもあるのかわかりませんが、当時ハンティングでは40ポンドの逆ポンド規制(40ポンド以上を使うこと)が存在していたそうです。

今ではまず見ないレンジファインダーという装置。自分の射場で的近くの木の根元を狙っているなら、そこにマークを付け、試合会場の同じ距離の的で、自分のエイミングポイントになにか目印がないかを探すのに使います。アイスバーの棒で自作するらしいです。


コンパウンド編はPSEになりそうです。

リカーブチューニングはホイットの話が中心となってしまいました。というのも、他のメーカーは歴史が短く、リカーブを真剣に作り続けていたのが、ホイットだけだったからです。ホイットよりも古いメーカー、例えば、ベアなどは途中からコンパウンドほメインとしていて、話が繋がりません。日本メーカーは21世紀にまで残っていません。

さて、コンパウンドはどうか。67年から製造が始まりますが、発明者のアレンはあまり作る方には積極的ではなく、当初は特許権を売って開発費を回収しようとしていたようです。ちなみに発明者のホレス・ウィルバー・アレン氏は73年に会社に特許を譲渡し、79年に交通事故でなくなってしまいます。その後、譲渡された会社は特許をめぐる法廷闘争に発展しますが、その話は置いておきましょう。ちなみに、その法廷に提出された資料によって、特許使用料は弓の販売価格の5%~5.5%だったそうです。思ったより安いかな?

70年代初めに、コンパウンド黎明期に作っていたのは、Allen / Wing / Groves / Martin / Olympus / Carol / PSE / Jennings の8社でしたが、現在でも続いている会社はPSEとMartinしかなく、その中でも、PSEとは弊社のコンパウンド部門立ち上げ時(2011年)からのお付き合いですので、コンパウンドのチューニングに関しては、PSEにお世話になりたいと思います。


やっぱり弓は射ってこそいいもの!

約30年前の弓なので射てるか心配でしたが、なんの問題もなく、非常にいい感じで射てました。下リムがフルドロー時に少し音がするので、再チューニングが必要です。あと、マウンティングホール(プランジャーホール)が一つしかないので、ベアボウレストを確実に固定できない&プランジャーの出し入れする時にレストがずれてしまいます。はじめて、ホールが2つあることのありがたみを感じたかもしれません。

普通のベアボウの練習があるので、この弓は一旦インドアシーズンまでお休みです。


壮大な話かと思ったら、10分かからなかった…ヤマハILFモジュール。

一瞬で終わってしまいました。最近古い資料などを調べたりしていたのでヤマハのハンドルについて、ちょっと詳しくなっていたのですが、友人から先日入手したHOYTのゴールドメダリストをヤマハにつけて射っちゃえと言われハテナ?

しかし、調べると実際にヤマハのハンドルにホイットのリムをつけて射っている人がいました。確かに言われてみれば、構造的にはできますね。

【ReStart アーチェリー】YAMAHAのハンドルにHOYTのリムで矢を射つ (ニコニコ動画)

ということで、10分位で適当に設計図書いて、作ってみました(作るのには1時間かかりました)。

ハンドルにはピッタリと装着できそうです(穴は精度が3Dプリンタで出ないので、ドリルで実用の精度出します)。リムにもピッタリ装着できました…えっ?

という事で、企画として面白いかなと思ったのですが、記事を書く時間を入れても30分もかかりませんでした。まぁ、すごいのは3Dプリンタなんですけど。

この部分を7mmで設定していますが、この厚みを変更することでポンド/ティラー調節できます(CADなら10秒でできます)。という事でモジュールの話…終わりました。

射ってこそアーチェリーなので、もう少しいじって、αEXハンドルに負荷をかけたくないので、重い矢を使えば、弓に比較的優しいインドアでも出ようか考えています。


【追記】アーチェリー競技の歴史をすこし。

前の記事で昔の世界選手権に触れたので、どんな競技をしていたのかについて少し触れておきます。今のように70mwからのトーナメントという形式では競技されておらず、今の競技形式の元になったものは30年前の1987年から採用されています。

もともと、アーチェリーの始まりはイギリスの貴族のスポーツでした。アーチェリー場は社交場のようなもので、それぞれの地域で楽しまれていました。そのために、アーチェリーの射場にフォーマットはなく、自分の地域のアーチェリー場の大きさに合わせて、競技が行われていました。

18世紀には、試合が200ヤード(182m)で行われ、888本中5本しかヒットしなかったという記録まであります…それアーチェリーか?と思ってしまいます(笑)

さて、1844年に現在の射場のフォーマットとなるヨークラウンド(*)が導入されます。このときに長距離は100ヤードと定められました。約91mで、この後、1931年にFITAがヤードではなく、メートルを使用していたヨーロッパに誕生したことで、90mとされました。

*海外の資料ではヨークラウンドが最も長い歴史のあるアーチェリー競技(ナショナルフォーマット)とありますが、日本の通し矢のほうが歴史があるきがします。通し矢もローカルルールではなく、全国から参加できたはず。

ヨークラウンドは100yd(91m)を72本、80yd(73m)を48本、60yd(55m)を24本射つというもので、計144本(1440ラウンド)を射つという本数もここから来ているとされています。

20世紀に入り、国際大会というものが行われるようになります。1900年のオリンピックでは”au chapelet 33m”という形式などが採用されますが、これがどういったものだったのか、知られていません。というか、そもそも出場者が6人で、3人は誰だったのかという記録すらないです。

1930年代にFITA(WA)の世界選手権が始まります。当時は男女で同じ距離で競技しており、70m/50m/30mで競技されていました。その後、男女で競技距離が別々となり、長距離(LD)と短距離(SD)を交互に4日間に渡って射つというフォーマットが定まっていきます。55年の世界選手権では長距離は男子の場合90/70/50mの3距離、短距離は50/35/25mの3距離でした。

1957年にFITAは長距離を90/70(女子は70/60)、短距離を50/30にすることを定めます。ショートハーフ(半分の短距離だけ)もこの時生まれました。ただ、4日間の競技(試合に出るために4連休)は貴族ではないアーチャーにとっては現実的ではないため、1-2日あれば開催できるシングルラウンドが一般的で、世界大会に採用されてた形式をダブルラウンドと呼びます。

その形式が30年近く続いた後に、FITA(WA)がメダルを増やして欲しいというIOCの方針に合わせて(と言われている)、現在のランキングラウンド→トーナメントラウンドという形式にうつっていきます。これにより、男子個人・女子個人の2タイトルが、東京オリンピックでは男女個人・男女団体・男女ミックスの5タイトルまで増えました。決勝戦の数が多いほうが放○権が…まぁまぁ。

【追記】根拠のジム・イーストン氏のインタビューを見つけました。

もう一つIOCに歓迎されたのが、団体戦を設けたこと。団体戦が加わったことにより、6個金メダルが増えた。従来の倍以上の数になりました。

雑誌アーチェリー 1998年

その後、ランキングラウンドの距離が70mだけとなり、現在の70mwが主要な競技となります。詳細は上記の記事を読んでいただければわかると思いますが、2011年にリカーブとコンパウンド競技を差別化するために、リカーブにマッチプレイ(ポイント制)が導入され、今に至ります。

WAって結構IOCの言うこと聞くんですね(笑)仲良しなのは良いこと♪

タバコくわえて弓具検査。

的前でもみんなで一服。1961年の世界選手権、そりゃ、1日72本、288本射つのに、4日もかかるわけで…自由な時代ですね。自分がアーチェリーを始めたときにはもうシューティングライン前方は禁煙だったと記憶しています。