WAがヤマハの1989年の広告をアップ、日本のアーチェリーメーカーは甦るか。

世界アーチェリー連盟(World Archery)がフェイスブックで1989年のヤマハアーチェリーの広告をアップしました。”すべての競技者にグッドラック”、感染症のかからないために対策も必要ですが、運も必要なのかもしれません。

以前には多くの国産のメーカーがありました。もう一度そんな時代が甦ると楽しいでしょうが、そのためには、まずはなぜ負けてしまったのかの反省が必要だと思います。過去の記事ですが、お時間ありましたら是非。

我々は技術で負けたのか。国産アーチェリーがベガスで発表。


アマゾンに偽物、ご注意を。

私がプロショップを始めたころ、いや、その前からアーチェリー業界にはパクリ問題がありました。もちろん問題ですし、そういうものを販売する側は姿勢を問われるところがあると思います。

しかし、2-3年前から別の大きな問題が発生しています。それはブランド名・商品名ごとコピーした偽物です。上の商品、購入はしていないので断言はできませんが、送料込みで900円弱で本物のTRU-FIREのリリーサーが購入できるとは思えません。それがアマゾンで販売されています。偽物である通報することはできないようです(購入しないとできない)。

しかも、アマゾンでそれなりに売れています。

「偽物」に関してはアーチェリー業界のノウハウは多くないと思います。正直、自分もTRU-FIREの正規品を販売する側として、どう行動すべきかわかりません。。。これから勉強します。時間差で、アーチェリーのようなニッチな業界も、偽物と向き合わないといけない嫌な時代になりましたね。


ピアソン社のカタログで見るリカーブボウとその長さ

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b31969先日、ベン・ピアソン(Ben Pearson)社の古いカタログが手に入ったので、少し歴史を振り返った記事です。古い技術書やアーチェリーに関するトピックを読むと、(今の知識からすると)なんでそうなるのとなりますが、その時代背景を知れば、どのような環境で書かれたものかがわかれば、それはそれで納得できるものだと思います。

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b358こちらは1958年(58年前)のカタログです。まず、驚きは弓の長さ表記でしょうか。5’4″とは5フィート4インチという意味で、換算すると64インチです。ただ、この時代の弓の長さは現在とは異なり、ハンドルとリムの長さを測ったものです。そこから4インチ引いたものを弦として購入していました。以前にも書きましたが、今の時代ではそのような測り方はしません

いつの時代に弦は関係なく、ハンドルの長さを測っていたんだと思って探していましたが、ワンピースボウの時代の初期の話のようです。この話はアーチェリー教本(2000年改定版)で見つけました。

「”弓の構造がテイクダウンボウ(*)が主流になって、従来(**)の弓の長さの測定法では不都合を生じ、”マスターストリング法”という新しい測定法が取り入れられた。」

P.26 ヤマハ 伊豆田さん担当の章より

*ハンドルとリムが分解できる弓
** この本の初版は1988年なので、文字通り「従来」ではない。

弓の長さとはなにか についての簡単な解説

弦と無関係に弓の長さを測るという行為は非理論的なようにも見えますが、しかし、カタログを見る目とブレースハイトいう概念がないのがわかります。という風に書くと語弊がありますが、リムの素材の関係などで、ブレースハイトというものが調整されるべきものという概念がなかったという意味です。6インチ前後が推奨ブレースハイトではない弓が存在せず、弦の素材は”Lay-Latex”という使えば変わってくるものだったので、ブレースハイトがどうこうという意識が存在していなかったようです。ですので、弓の長さを測るときに弦を考慮する必要がありません。納得です。

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b36363年です。このころになると、推奨ブレースハイトが登場します。このカタログでは高いもので8インチ、低いもので6.5インチと1.5インチの幅が出るようになりましたが、これは設計差ではなく、概ねにサイズ(弓の長さ)に比例したものです。つまり、今でいうと64インチは低く、70インチは長くといったことです。

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b363%e5%bc%a6ブレースハイトというものが意識され出した理由はおそらくダクロンという新素材の登場によって、ブレースハイトが管理でき、チューニング可であるという認識が出たものによるものでしょう。弦の素材カタログがかわり、58年には弓のサイズで注文するのみ(弓のサイズ=弦サイズ)でしたが、63年からは弦の長さでも注文ができるようになりました。66インチでも、いろいろなサイズが使えるようになります。

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b36868年、ピアソン社のカタログからフィート表記が消え、インチのみの表示に一気に変わります。また、このころから設計にブレースハイトが入り込み、60インチで8.5インチと7.5インチの弓が出るようになってきます。ブレースとハイトが弓のサイズと比例しなくなってくるのはこのころです。新しい素材などの採用が進んだ結果でしょう。使用されている素材もスペックして書かれるようにりました。

%e3%83%94%e3%82%a2%e3%82%bd%e3%83%b37373年、ピアソンのカタログの表記にAMOの表示が登場します。このあたりで弓の長さの測定方法が変わっていったものと推測されます。

弓の長さを弓自体の長さではなく、弦の長さから測定していくのは、当然ですが、弦の長さが弓の長さを決めるからです。ですので、現在の測定方法に違和感がある人はいないと思っていますが、その根本には教本にもあるようにマスターストリングという”概念”が必要とされます。

58年から73年までの15年間で、弓の測定方法が変わっていったのは、リカーブボウを取り巻く環境が変わったためであることがわかるかと思います。図面上でしか存在していなかった”マスターストリング(*)”が、それを実現できるだけのクリープ/ストレッチのない原糸が登場することで、机上の空論ではなくなっていきます。

*厳密にヤマハにおいて”マスターストリング”がどう定義されていたのは資料がなく、ATAが使っている意味で使用しています。

これはピアソン1社だけを見た流れですが、伊豆田さんが書かれたように、今では誰もが使っているテイクダウンボウが登場することで、この流れは不可逆的になったのでしょう。

今では、知っている限り、全メーカーがATAのルールにのっとってサイズ表記をしています(*)。

*一部の小規模メーカーは独自の基準で製造しています

参考にしました。

Measuring Traditional Bows and Bowstrings
http://www.bowhunting.net/artman/publish/TailorMaidMeasuring.shtml


【布教活動】札幌・The Bow bar 行ってきました。

IMG_20150619_235612飲み屋でのお話。

6月の全日社会人ターゲットで札幌に行ってきましたが、事前に面白そうな飲み屋がないか調べていると「The Bow bar」というお店を発見!アーチャーとしてこれは行かなければいけないということで、ジンギスカンを食べてから訪問しました。

11536062_10207333155389739_2848751804445995676_nお店はとても素敵な感じで、シガーにお酒はジントニック、古いムートンのフィーヌ、そして、最後に頂いた80年代瓶詰めのロマーノ・レヴィ(ニガヨモギ)は完璧な味わいでした。

921365_574108309291143_1706422414_oさて、夜も更け、オーナーバーテンダーさんとの話はアーチェリーに。上記の写真が店内に飾られていた弓と矢のエンブレム。デザイン自体は友人に任せたということだったので、この弓は何だろうかという話題に。

まず、一見してわたることはリムの上下の長さが同じ。和弓やローマの弓は上のリムが長いので却下。もう一つは、リムがリカーブしていること。これでリカーブしていないイングリッシュロングボウやアメリカンネイティブ(インディアン)の弓も候補から外れます。

残る候補はトルコ弓、モンゴル弓か中国弓ということになります。ここから専門的な話になるので、うまく説明できたかわかりませんが、一つ注文すべき点はハンドルがストレートであること。中国弓は地上で使用されることが多かったために、リフレックス設計でブレースハイトを低く設定してパワーストロークを長くとるものが多いので候補から外すと、残るはモンゴルとトルコだけになります。モンゴルもトルコも弓自体の設計でもお互いに影響を受ける存在でしたが、この理由は双方ともに騎兵隊が弓を使用する事が多かったために、馬上からの射で安定性を得るためにハンドルがストレート、または、デフレックスで作られていたことです。

さて、そのどちらが正しいかとなると悩ましいところですが、その判断ポイントは長さです。同じような設計でも、トルコ弓が世界最強と呼ばれているのは、その短さで、多くは30-35インチほどだったとされています。対して、モンゴル弓はもう少し長く、40-50インチ以上程度のものでした。しかし、エンブレムに登場している獅子は…ライオンだとしても、その大きさは3mほどになってしまい、そのような弓は存在しません。ということで、今回は獅子ではなく、対となる矢の長さをスケールとすると、30-35インチのトルコ弓が最も近いものになるかと思われます。

次に矢ですが、これはどう見ても一つの素材から出来上がっているものには見えません。若干装飾すら施されている後半部分と鋭く滑らかな矢の先端部分から構成されています。これをクラシックな矢(カーボンやアルミではなくてウッド製)として考えると、これは一つの木からできているセルフシャフトではなく、2つの木から出来上がっているフッテッドシャフトになります。スティールと呼ばれる中央から後半部分は湿度に強く木目がまっすぐで軽い素材が選ばれますが、獲物に当たる先端部分(ヘッド)は、威力を高めるために手に入る材料の中で最も硬い木材が選ばれます。

この二つの素材を三角ハギによって接合し、矢が完成します。

ということで、こちらのバーの弓はトルコ弓、矢はフッテッドアローというのが私の推測です。

小一時間アーチェリーネタで盛り上がりましたでしょうか。札幌でアーチェリーの布教してきました♪

ちなみにこちらのお店が”Bow”なのはアーチェリーとは関係なく、オーナーバテンダーさんの名前に”矢”の文字が入っているからそうです。


ゴールドは本当のゴールドだった

アーチェリー的の歴史今週は台風ということだったので、射場での練習を減らして、筋トレを増やして、残りの時間は勉強に使いましたが、意外と天気のいい日々で若干の後悔です。

ターゲットアーチェリーでは的の真ん中は黄色ですが、よく”ゴールド”や”10金”と呼ばれていますよね。その理由について記事にしてみたいと思います。

現在のアーチェリーのルールの多くはイギリスに起源を持ち、そのルールがアメリカに伝わり、アメリカから戦前に日本にもたらされました。

アーチェリーがスポーツとして楽しまれ始めたのは16世紀ごろだと言われています。18世紀までは各クラブで距離・的・採点方法を独自に定めていました。しかし、スポーツとしてアーチェリーが拡大するにつれ、地域のクラブがナショナル選手権(全英選手権)をホストするときに、このローカルルールが問題となってきます。そこで、当時のイギリスのリージェント王子(のちにジョージ4世)が、スコアリング(的と得点帯)のスタンダードを制定するよう指示し、17世紀から存続するフィンズブリークラブのルールをベースとして、18世紀末には現在の形に近い、金・赤・銀(白)・黒・白というターゲット的のスタンダードが出来上がります。この配色はプリンスカラーと呼ばれています。

ちなみにその時には各射場の物理的な問題で射つ距離は統一されず、距離が統一されるのは19世紀(1844年のヨークミーティング)でした。

さて、現在の馴染みの的になるまでは、ご存知のように2つの変更がありました。一つは「アーチェリーの理論と実践」のまえがきも執筆したC.J.ロングマンによってなされた提案で、真ん中の金(ゴールド)は富の象徴として「プリンスカラー」の名に非常にふさわしいものでしたが、光り輝く金は想像の通り、天気のいい日には太陽を反射し、非常にエイミングしにくい的になってしまいます。

そこで彼は協会に、ゴールドという名前をのままとして、色を太陽を反射しないマットイエローにすることを提案し、19世紀末に承認されます。この時にほかにも追加されたのは黒のブルズアイ(Xマーク)と色の間に配置されたラインです。

もう一つの変化は個人の提案ではないので、自分が知る限りでは根拠となる確かに文献はないのですが、1870年代にイギリスのターゲットの配色がアメリカに伝わり、その後アメリカでアーチェリーが広まるとともに、白が2色では点数間違いをしやすいという理由で、当時インナーホワイトと呼ばれていた得点帯を薄い青とするようになり、それが一般化して広まったといわれています。

という流れで的は現在の色となりました。弓道も遠的の得点的ではアーチェリーと同じ配色を使うそうですが、その配色がアーチェリーをそのままパクったものなのか、和弓独自の歴史で定まったものなのかはわかりません。

本当にゴールドの的も射ってみたいですが、太陽の光がちょうどよく反射する時間帯だと…何ともならない感じになりそうです。

明日はロングマンさんに感謝しながら、マットイエローのゴールドを射ってきます。

では。


Field Archery – A Complete Guideが届きました。

DSC_0969数少ないフィールドアーチェリーの技術ガイドブック「Field Archery – A Complete Guide」をついに手に入れました。販売用ではなく、勉強用です。

フィールドの世界はほぼWAルールで統一されているターゲットアーチェリーの世界と違って、WAだけではなく、IFAA/NFAA/NFAS/GNAS/EFAAなどと非常に多くの協会・ルールが存在していて、いつかはしっかりと理解しないといけないと思っていましたが、その解説もたっぷり入ってました。これから読み込みます。


【更新】ティラーって何でしょうか

8499先日、お客様からティラーハイトについての質問がありました。問題自体は山田に引き継いで解決したという連絡がありましたが、ティラーとは何かについて記事にしたいと思います。

グーグルでティラーハイトとは何かを調べてみると、適切な説明をしているページを見つけることができます。しかし、ティラーハイトとは一つの言葉ではなく、ティラーの高さ(ハイト=Height)という2つの言葉です。ノッキングポイントがノッキングをする点(ポイント=point)を意味するのと同じです。ノッキングというのは、矢をつがえることだということは知られていると思いますが、ティラーとはどういう意味でしょうか。

冒頭の写真。この写真に写っているのが「ティラー(The Tiller)」というものです。ティラーとは弓のチューニングに使う道具の名前なのです。ご存知でしたか?

さて、この道具はどう使うのでしょうか。

image019(↑http://www.projectgridless.caより)
ティラーという道具はこのようにして使います。簡易型のドローイングマシンといったところでしょうか。古くからの弓というのはハンドルとリムが明確にはわかれておらず、このティラーという簡易型のドローイングマシンに弦をひっかけたとき、弓の任意の点から弦までの距離をティラーハイトと呼び、どこかの点だけを取って測定するのではなく、全体のバランスを見ながらチューニングを行っていました。この作業はティリング(Tilling)と呼びます。実際にはチューニングというよりも、ハイトを高いしたいところを削っていくという弓の製作の一環と考えたほうがよいかもしれません。

その後、リムとハンドルが2つのパーツとなり、ILF(HDS/GP)規格などによって、ティリング作業がリムを削って行うものから、ハンドルに対するリムの角度を変更することで行うようになったのに伴い、このティラーという装置の出番はなくなっていき、ティリング作業はティラーボルトでリムの角度を操作することで行われるようになります。


ティリング(Tilling) 弓を削りながら全体のカーブを整える作業
ティラー(Tiller) その時に使用する道具
ティラーハイト(Tiller Height) ティラーという簡易型のドローイングマシンに弓をひっかけた時の弦から弓までの距離

というのが正しい言葉の意味です。

その中で、競技アーチェリーでは、まず上下リムの形状の同一性は確実に確保されています(*)。なので、上下、各一か所だけティラーハイトを測定してやれば十分です。なので、現在のチューニング手順では上下一点だけを測定。その場所の高さをティラーハイトとし、その値を調整して弓の状態を改善していきます。

image0109
*上下のリムが同じ形状という意味。自分で弓を作ったり、ジグや金型を使用しないで削り出す手作り弓の場合はチェックが必要。以上、小ネタでした。

ティラーハイトという言葉は有名でよく知られていても、ティラーが知られていないのは、ティラーボルトの登場によって、ティラーが必要のない道具(*)となってしまったのが原因かと思います。

Brace_web
*Beiter Braceという同様の機能を持つチューニングツールがバイターから出ているので必要がないというのは言い過ぎかもしれません…。


弓のはじまり

994140_10152639420013665_1117413246588881845_nアクセル(Axcel)の中の人のフェイスブックより。

日曜日まで休みをいただいております。

弓の原型を何とするか。いろいろな意見を持つ人がいますが、その中でも、この「アトラトル」と呼ばれる矢を投げる力を増幅させるための道具を弓の原型とする意見にはなかなか説得力があると思っています。


手で矢を投げた時の力を、最大で200倍に増幅してくれるそうです。上のビデオで作り方を紹介していますが、ティリング(Tilling)などが必要な弓と比べると、作り方もいたって簡単です。

では、今日も練習に行ってきます。


HOYTの創業者 Earl Hoyt Jr. インタビュー

以前に、WIN&WINの社長のパクさんのインタビューをブログに掲載したことがあります。2年近くたちますが、今に続くことがいろいろと書かれていると思います。
ネット上には正しい情報もあれば、正しくない情報がありますが、HOYTの創業者に関して言うと、検索するといくつか記事がありますが、どれも彼が書いた文書やインタビューを読んだ自分の印象とは全く違います。HOYTの創業者の考えに関しては、本人の著書やインタビューなど、資料が豊富にありますので、今回は4冊の本から、抜き出し、一つの記事にまとめてました。


下記はHOYTの創設者のホイット氏(Earl Hoyt Jr.)のいくつかのインタビューをつなぎ合わせて、編集したものです。ベースになった記事は、下記の4冊の本で読むことができます。
・Archery (1972) 著者 Earl Hoyt, Don Ward
・Traditional Bowyers Encyclopedia (2007) 著者 Dan Bertalan
・Vintage Bows – 1 (2011) 著者 Rick Rappe
・Legends of the longbow (1992) 著者 多数

赤字は実際のインタビューを翻訳したもの。黒字は自分の補足です。補足も論点はずれていないと思いますが、実際のホイット氏の発言は赤字だけですのでご注意ください。



Eddie Lakeから変身

1930年代のミズーリ州セントルイス…エディ・レイク(Eddie Lake)というギターリストが毎晩地元のダンスホールを盛り上げていた。彼のバンドはラジオでも有名になったが、1938年に彼のバンドは解散することになる。このエディ・レイクこそがのちのアーチェリー界に、ホイットとして記憶される偉大なイノベータである。

* Eddie Lake はホイットがラジオ局からギターリストとして響きがよくないと指摘されて使用していた芸名。

弓との出会いとアーチェリービジネス
ホイットが弓と出会った時、弓には2種類しかなかった。リカーブか、コンパウンドかではなく、「誰かが作った弓」か「自分で作った弓」かだ。ホイットのアーチェリーとの出会いは、アローポイントに始まる。学校が友人から滑らかなアローポイントを貰い、その美しい流線型のデザインに夢中になった。1925年、14歳の時にボーイスカウトのマニュアルを読んで、ヒッコリーの弓を自作した。しかし、ヒッコリーはねじれに弱く、2つ作った弓をどれもすぐにねじれてしまった。

そこで、ボーイスカウトではなく、アーチェリーの専門誌を購入して、専門の知識を仕入れることにした。「Ye Sylvan Archer」という雑誌は当時唯一のアーチェリー雑誌だった。それを購読し、そこに広告が出ていたHunting with the Bow and Arrow(1923)という購入し、そこから専門知識を学びとり、オレゴンからイチイの一枚板を購入して、初めての実用的な弓を作り始める。

*これは所謂セルフボウというもので、一枚板からできている。そのほかにバックドボウやコンポジットボウなどがある。

1931年、大恐慌の中、ホイットは父親と副業で矢づくりの仕事を始める。30代の時、景気が回復したのを受け、セントルイスのワシントン大学に通い、エンジニアリングを学ぶ。昼は大学と父親の会社の手伝い、夜はギターリストという生活を送る。

*アメリカでは社会人学生は珍しくない。

40代初頭がホイットの人生の転機だった。大学を卒業したホイットはカーティス・ライト航空のエンジニア部門(のちのマクドネル航空)に職を得ていた。しかし、父親の会社が戦争の影響で倒産したことにより、父親は矢づくりが副業から本業となる。自分も週60時間の本業をこなした後に、父親の矢づくりを手伝うようになる。
しかし、1946年に矢作り職人として多くの顧客を持っていた父親が病に倒れ、ホイットはアーチェリービジネスから手を引くか、エンジニアとしての職を辞すかの選択をすることを迫られ、彼の決断がアーチェリーの歴史を変えることとなる。

「アーチェリービジネスに舵を切ったことは、最初のうちは間違った決断だと思っていたんだ。マクドネル航空での良い仕事を離れてから最初の3、4年、アーチェリーの仕事の出来はひどかった。でも4年目から風向きが変わったんだ。それからは右肩上がりさ。その傾向はずっと続いていた。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.183)

ホイットは1946~1978年までアーチェリー業界のトップを走り続けた。1978年、ホイットは会社の経営権をCML Groupに売却し、5年後の1983年に経営権はイーストンに、さらに売却された。その間、ホイットは社長から退いたものの、副社長と研究部門の責任者、コンサルタントとして、かつて、オーナーだった会社に籍を置いた。
ホイッとはアーチェリー業界団体(AMO 現ATA)の理事としても、活躍し、現在のアーチェリーの道具に関する基準(AMOスタンダード)の95%以上に関与している。

ハンターとして
ホイットはハンターでもあったが、あまり、情熱的とは言えなかった。

「あるときフレッド・ベアーと話したけど、彼は僕に言ったんだ。彼のハンティングに対する情熱は、対象が何であれ、大きな獲物を仕留めることだってね。僕は逆にそんな欲望は持ったこともなかったね。…中略…いまでは獲物を仕留めることはまったく重要ではなくなってしまった。一番大切なのはハンティングのその場にいるということなんだ。…中略…単純に僕は大自然の中で獲物を追い回すことそのものを楽しんでいるんだよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.185-186)

*フレッド・ベアーは当時のトップメーカーBear Archeryのオーナーで、伝説的なハンター。

ロングボウの思い出
今でこそ、リカーブボウメーカーとして知られるホイットだが、彼はロングボウを作ることから始めた。ロングボウを作るとき、特にひいきしていたのは、オーセージだった。

「僕はオーセージをちょっとひいきして使っていた。すごく丈夫な木だからね。ハンティングボウには特にそうだったよ。イチイの方がより引き味が優しいシューティングボウになり、ターゲットシューティングには最適だった。でも僕がオーセージを好んで使っていたのは、それがミズーリ原産であり、丈夫で良いハンティングボウを作るのに向いていたからさ。
あとは手に入れやすかったということもある。でも、外に出てオーセージを見つけてそれを切り倒し、そこから弓を作るという単純な話でもない。山を1マイルほど下っていっても、弓を作るのに十分な均一性とまっすぐさを持っている木を見つけることは簡単ではない。何故ならオーセージは大抵曲がりくねって育ち、一枚板から作ることはほぼ不可能だ。普通は木をフィッシュテールして接ぎ合わせる。そうすれば同じ丸太から接ぎ木を取ることができるから、同じ性質を持ったウッドを両方のリムに使うことができる。」

(Traditional Bowyers Encyclopedia P.186)

現在の弓からは異様に見えるが、当時はレストがなく、シューターのこぶしに矢を載せてシューティングしていた。そのために、羽のトリミングをしっかりしないと、射ったときに、羽の筋が拳の肉をえぐって飛んでいく、しかし、アローレストとしての機能を果たしてきた、傷だらけの拳は、むしろ、ホイットには誇らしいものだったようだ。

ホイットの執務室のオーセージのロングボウの横には、古いスタティクリカーブボウがある。

*リカーブの深さにより、セミリカーブ・スタティックリカーブ・フルワーキングリカーブの3種類に分類される。

「僕はカムやスタティックリカーブから、シューティングが滑らかでより効率的なリカーブに移っていった。歴史的に見るとこの進化は比較的最近できたものだ。最初のリカーブは30年代後半に登場した。そのタイプのリカーブを最初に作ったのはビル・フォルバース(Bill Folberth)だった。彼は情熱的なアーチャーであり、イノベータであり、初めてリカーブを導入した人物だった。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)

*Folberth Bowのオーナーで、弓のラミネートやリカーブに関する特許を持つ(US2423765)。

執務室にはほかにもいくつもの思い出深い弓がある。1947年、ホイットは初めてリムのダイナミックリムバランスを得ることに成功した。つまりは、上下のリムの長さを初めて同じにした弓を作った。昔の弓のグリップはただの棒のようなものだったが、1948年にはピストルグリップを弓に搭載した。1951年には安定性を向上させたデフレックスボウと、パフォーマンス重視のリフレックスボウの製造を開始。60代の時には、ハンドルに安定性を持たせるために、ハンドルの重さを増やすこと仕組みを開発。ウッドハンドルに穴をあけて、その中に鉛を入れるというものだ。

「あるとき僕は弓にウェイトを入れるという発想がミスだということに気がついたんだ。より伸ばした状態のウェイトがあればもっと良くなると考えた。スタビライジングの原理を説明するために僕が挙げた例は、箒を柄の端で持って、その移動への抵抗の感覚を掴むということだった。そうするととても速く動かすことはできない。でも柄の真ん中で持つと、さっきと比べて驚くほど動きへの抵抗はなくなる。これが単純な物理の法則を用いたスタビライザーの原理の説明だ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)

1961年、ホイットはこの原理を利用したスタビライザーが搭載された弓を持って、アルカンザスのホットスプリングスでおこなわれたナショナルフィールドアーチェリーアソシエーションチャンピオンシップに行った。会場では「ドアノブ」と馬鹿にされたものの、この弓を使用したロン・スタントンが、新しい弓で新記録を樹立し、その仕組みは一気に有名となった。

グラスからフォームへの挑戦
1970年代前半、エキゾチック・ハードウッドの値段が高騰し、低価格の金属ハンドルが人気となった。ホイットは、エキゾチック・ハードウッドから、メイプルに変更するものの、結局は1973年にすべてのラインナップが金属ハンドルになる。

リムでは、まずグラスファイバーを研究した。グラスファイバーをリムに使用することに関して、ホイットは決してトップランナーではなかったが、熱心に研究した。特に注目したのはグラスの色。もっとも性能が悪いのはグレーのグラスファイバー。グレーの顔料が接着材に影響し、接着が不完全になってしまう。白もダメだった。白のグラスファイバーを作るのには大量の顔料が必要で不純物が増えてしまう。日光の影響を抑えるためには、リムは黒にしないという大原則があったが、黒のグラスファイバーは一番性能がとてもよかった。もちろん、透明のファイバーもよいが、黒とは大差がない。

ホイットの次の挑戦はフォーム素材だ。

「初めてファイバーグラスを使い始めたとき、ウッドコアボウと呼ばれているもののコアがイチイだろうとオーセージだろうとなんら代わりはないと思った。だってそれ自体がより性能の高いモジュラー素材に挟まれてしまっているからね。この素材、ファイバーグラスは非常に素晴らしい素材で、矢を推進させるエネルギーに長けていた。そのために、ウッドコア基礎(glue base)とスペーサーにすぎなくなってしまった。コアの重さ以外は、もはや弓のダイナミックな物理特性に影響を与えることはない。

コア材にブレークスルーができた。それは比重がメイプルよりも軽いプラスチックで、直径60マイクロンほどの微少中空体からできている。この素材は非常に高い耐久性能がある。必要な物理的特性をすべて持ち合わせ、湿度の影響を全く受けず、熱や寒さにも強い。僕たちの新たな特許技術のシンタックスフォームコアはすべての面でよくなっている。これが長年に渡る「コアウッド」のスタンドダードとなる可能性は高いと思っている。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.189)

*シンタクチックフォームのこと。微細中空ガラス球入りエポキシ樹脂。

しかし、フォームコアの製造はとても困難だった。まずは、フォームの内側には気泡が含まれているが、この大きさを均一にすることができなかった。試作品はすいすいチーズのように気泡は大きさがバラバラで、とても均一ではなかった。また、完成したフォームの加工も困難だった。マイクロスフェア構造という特性のために、ブロックからラミネートするために切り出すとき、グラスファイバーの何倍もの負荷が機械にかかり、刃がすぐにボロボロになってしまうのだ。いくつかの困難を乗り越えたホイットのシンタクチックフォームコアリムは、いくつもの世界記録を塗り替えることになる。

スピードよりも安定性
リムの性能には多くの面がある。ホイットが最も重視していたのはリムの安定性だ。スピードよりも、リムが安定して正確に、ミスに対する許容性が大きい事を重視して設計していた。安定性・スピードのほかにも、スムーズさや、効率性、振動の少なさなども必要だが、すべてを一つのリムに盛り込んだ究極のリムはまだ存在していない。すべてのメーカーは、優先順位をつけて、妥協しながらリムを設計している。

「メーカーによってそれぞれが異なる特定の能力に力を入れているのが分かる。多くは精確性を犠牲にして、スピードに傾倒している。しかし、高いパフォーマンスから発生するストレスによって、弓の寿命は縮んでしまう。どの能力に力をいれるか、重要度はそれぞれ異なる。僕の場合、最も優れた弓とはこれらすべての要素のバランスが良く取れている弓で、かつ安定性に重きを置いているものだ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.191)

コンパウンドとクロスボウ
矢作り職人としてアーチェリー業界でのキャリアをスタートさせ、ロングボウの製造からリカーブボウの製造に移行したのち、ホイットはコンパウンドボウの製造をスタートする。アーチェリーのマーケットは大きく変化し、アメリカ最大のマーケットであるハンティングボウはロングボウ/リカーブボウからコンパウンドボウにかわっていく。1970年代にその変化についていけなかったアーチェリーメーカーの多くは破たんした。シェークスペアのアーチェリー部門やウィング・アーチェリー(世界初のテイクダウンボウを開発したメーカー)などだ。

「僕は昔コンパウンドに対して偏見のようなものがあった。昔の古い会社はみんなそうだった。ベアやピアソン、他の先人たちもみんなコンパウンドに背を向けていた。彼らはみな、それを弓とは思わなかったんだ。僕らは偏見にまみれ、視野が狭かった。」

「僕にとってクロスボウは、(ロングボウと)歴史的には対等でも、ロングボウほどのロマンスが感じられない。この主張は議論する余地があることは分かっている。でも僕は、クロスボウが人気のあるものになるとは考えていない。その鍛錬には、手で握って、手で引いて、手でリリースする弓ほどの挑戦が必要ないように思える。当然、クロスボウに情熱を注いでいる熱狂的な人たちがいて、彼らが自分のやっているスポーツを促進しようとしていることも理解できる。それは僕にとっては関係のないことだけど、彼らの成功を祈っているよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.198)

ホイットはコンパウンドボウを開発し、販売する決断をする。一方で、クロスボウとは距離をとり続けた。今でも、ホイット社はクロスボウの製造はしていない。
ホイットのインタヒューを読むと、やはり、現在のアーチェリーメーカーの開発者とは明らかに違う。最高の競技用リカーブボウを開発していたものの、用語の使い方(self bow – backing – working recurve)や考えは、ロングボウの開発者そのものだ。

ホイット社を78年に売却した後も在籍していたが、のちに、ロングボウ職人のJim Belcherとともにロングボウ中心のアーチェリーメーカー(Sky Archery … ホイットの死後マシューズに売却)を立ち上げたことからも、やはりロングボウを作りたい気持ちは強くあったのではないかと思う。