古い時代になると、解釈が難しい事が多々発生します。例えば、この特許を日本メーカーも使っていた(ホイット氏が特許権を主張しなかった)のですが、ネットがない時代、知って使っていたのか、この特許を知らなかったのかは、想像するしかありません(*)。
*途中から主張するためにホイットは特許番号を発表したので、どこかの時点では知っていたと思います。
また、ネットがない時代には1984年に日本選手団がルール改正(プランジャー/ストリングウォーキング解禁)を知らずに、世界フィールドに出場して惨敗するという事件が起こっています…恐ろしいです。。
さて、この記事ではチューニングの歴史について触れます。
1960年代までに(今の意味での)チューニングという概念は、ほぼなかったと理解していいと思います。1971年の世界選手権でも、3位の選手は自作の弓(セルフメイド)で出場しています。ウッドの弓というのは、そもそも職人が、木から作っていくので、特注するとしてもそれほど大変なことではありません。また、多少の技術があれば、選手自身で、完成品を再度削っててティラー出しすることも可能です。
チューニングという概念は、職人が1本1本作るウッドボウから、金属製に移行する過程で必要性が生じてきます。弓は製造された段階で、完成されており、それをユーザーが再加工することは困難とあり、調整できることが求められます。
トップ写真はおそらく現代的な意味での最初のチューニング機構、アジャスタブル・レスト・プレートです。
ところでレストはどこに貼りますか?
いまこんなことで悩む人はいないと思います。プランジャーを使って射つなら、プランジャーホールに貼るしかありません。しかし、プランジャーがまだ使用されていなかった時代(1971年解禁)、レストはどこにでも貼ることができました。
ウィンドウの中であれば、どこにでも貼ることができましたが、今のプランジャーの出し入れで調整していた軸では調整できません。今のスーパーレストのように接着ベースの厚みを変更するくらいしかなかったのですが、ホイットはこの部分調整可能にしました。
Fig4 36番のツマミを回していくと、12番のプレートを出し入れできます。このプレート上にレストを貼れば、レストの位置を変更できます。Fig2 36番の のツマミを回していくと、12番のプレート上の10番のレストを出し入れできます。
これによって、センターショット調整というチューニングが生まれます。1960年代後半から1975年あたりまでのチューニングです。
1971年にプランジャーの使用がFITAで解禁されますが、感覚に頼るところが多かった時代の選手はなかなか保守的で、私ならすぐ飛びついた気もしますが、4年後の75年の世界選手権でも、使用選手は70%程度だったようです。
プランジャーが解禁されたことで、アジャスタブル・レスト・プレート(テーブル)は廃止され、プランジャーホールが標準装備になります。プランジャーに抵抗があった選手は上記のような、プランジャーホールに取り付けできる、レストプレートを使用していました。ただ、70年代後半にはほぼすべての競技的アーチャーがプランジャーを使用するようになります。
同時にセンターショットの調整もレストのチューニングではなく、プランジャーを出し入れして行うチューニングとして変化していきます。
【歴史の流れ】
1960年代前半まで - 職人に依頼するか、自分で加工してセンターショットを出す
1960年代後半から1971年 - レストを動かすことでセンターショットを調整する
1971年から現在 - プランジャーの出し入れをすることでセンターショットを調整する
Ryo
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