弓随想 弓道愛好家がアーチェリーを理解するために~弓の文化論~

部屋の片付けをしていたら出てきた本です。アマゾンによると2019年に買ったらしいのですが、ちょっと読んで放り投げた本です。まだ売っているのかなと思ってアマゾンを覗いたらまさかの評価3.7とそれなりの評価でまだ販売中でした…どういう人が読んでいるのかわかりませんが、この本でアーチェリーを勉強しないでください。

パラッと読み返しただけで、

1. 昔は弓道家が和弓でオリンピックに参加していた → な訳はない

2.現代のアーチェリーは女性参加を即すために競技距離を短くした → 19世紀から違う距離です

3.ベアボウ部門は和弓と同じでウェイトを装着できない → できます

ということで、ご理解ください。

【追記】処分予定ですがコメントの返信のためにもう少しはこの本を手元においておきます。ただ、次の掃除では処分するので、コメントのタイミングによってはもう中身の再確認ができないかもしれません。


デファクトの標準、ATAとHDS

下記の記事同様、歴史編に組み込まれるべき内容だとは思うのですが、どこに入れるか迷っているので、単独の記事として書きました。

イギリスをスポーツとしての発祥の地とし、弓具はアメリカで進化したアーチェリーの道具にはインチ・ポンド表示が使用されています。これはデファクトスタンダード(事実上の標準)と呼ばれます。対となるものは、デジュリスタンダード(定められた標準)です。これがアーチェリーではメートルとインチがごちゃまぜになっている理由です。民主的に運用されているWAはアーチェリーの競技形式を「定める」権限があります。現在、多くの国ではメートルを採用しているので多数決によって、競技ではメートルを使用することが定められていて、強制力が存在します。

そのため競技ではメートルが使用されます。一方で、道具はWAの管轄ではなく、国際的な団体ではないものの、事実上の標準としてアメリカのATAがあります。世界最大のアーチェリーメーカー組合です。彼らによってアーチェリーの規格が決められており、そこでインチ/ポンドが使用されているため、道具は未だにインチ表示になっています。その歴史を少し。

14世紀のイギリスにもアーチェリー職人組合が存在していましたが、それらは競争を促進するための組織ではなく、むしろ競争しないための組合として存在していました。最初の現代的な組合が組織されたのはアメリカです。第二次世界大戦後、軍事需要がなくなったことで、ホイットの創業者のように多くの技術者が転職することとなり、アーチェリーメーカーがどんどん増えていきます。

規格が混乱する中、組合のような組織のアイデアは1947年の全米アーチェリー大会の際に発案されます。1953年の全米大会で、実際に45社のメーカーとディーラーが集まって合意に達して、アーチェリー製造販売業者協会(Archery Manufacturers and Dealers Association = AMADA)が設立されました(法人化は翌年)。その目的は、業界の標準規格を確立、ボウハンティングとターゲットアーチェリーを普及です。

1965年に名称がAMO(Archery Manufacturers Organization)に変更され、ディーラーとの関係が変化します。AMOはメーカーだけのための団体となります。

初期の規格(AMO標準)は1968年に制定され、弓の名称や弦の長さなどを定めたものでした。現在では、コンパウンドに関する規格などが加わり、22の ルールが「ATA 標準」として定められています。86年からこれらの規格は、AMOではなくASTM(米国材料試験協会)のガイドラインとして運営されています。

推測になりますが、規格を決めるときにディーラーまで口出してきたら話がまとまらなかったなど、揉めたのでしょう。規格が広く知られた後、94年、AMOは略称を変更しないで、名称をArchery Manufacturers and Merchants(商業) Organizationとして、再度ディーラー参加できる組織に変更されました。その後、2003年にATA(Archery Trade Association)となり、私達のプロショップにとっては、メーカーと直接話し合う場であるトレードショーで知られています。

日本では1960年代にヤマハなどのメーカーがアーチェリー事業に参入しますが、当時はアメリカにもまだATAの規格はありません。そのために日本では、それぞれのメーカーが独自の規格を採用していました。

国産メーカーは少なくとも8社はありましたが、表示ポンドの基準すらバラバラでした。ネジサイズ等は詳細の記録がないのでわかりませんが、最後まで生き残ったヤマハ(ミリ採用)とニシザワ(インチ採用)の2社でもネジのサイズが違っていたので、過去にはもっと混乱していたのではないかと思います。まぁ、アメリカも初期は同じような状況で、それを主要メーカーが組合を作って話し合い、規格を統一していきますが、残念ながら日本ではメーカーがまとまることはありませんでした。21世紀に入って国産メーカーは消滅します。近年アーチェリーに新しく参入した西川アーチェリーはATA規格に沿って製造しています。

もう一つの事実上の標準はハンドルとリムの結合システムで、HDS(Hoyt Dovetail System)と呼ばれています。名前通り、ホイット社によって開発されたシステムだったのですが、ホイット社が特許を開放し他社にも使用させたために、現在ではすべての競技用の弓に採用されています。

この記事を書くに当たり、特許を再度読んでみましたが、私はこの特許がシステム全体のものだと思っていましたが、リムのピンとダボ(FIG.5)についてだけのものでした。つまり、リムボルトまでの距離は関係ありません。

21世紀に入り、ホイットはリムボルトからダボまでの距離を伸ばしたフォーミュラ規格を発表し、従来の規格をグランプリ規格と再定義しました。ホイットの商標ですので、他社ではフォーミュラ規格をF規格、グランプリ規格をILF(International Limb Fitting)規格と呼ぶことが多いですが、いずれもHDSシステムです(*)。

*HDS=グランプリ=ILFと勘違いしていました。申し訳ございません。フォーミュラもHDSです。


アーチェリーのねじの話 – 妥協の駆逐

咲きました☆

下記のアーチェリーの規格について書く前に前提知識として、ねじについて触れておきます。ねじの起源はわかっていませんが、「規格(互換性)」の誕生ははっきりと記録に残されています。1840年代にイギリスの工場でねじが大量生産されるようになり、それらの規格は工場内互換性を持っていましたが、工場間での互換性はありませんでした。

産業革命が起きたイギリスで、これを統合して、工場間での互換性を持たせることを提案したのが、ジョセフ・ウィットワースという技術者です。さて、これをどう統合するのか…そう、シングルラウンドと同じ妥協しかありません。彼は全国の工場からねじを取り寄せて測定し、その平均値を算出し、その数値に統一することを提案します。こうして生まれたのが、ウィットウォースねじ(ウィットねじ)です。ねじ山の角度は55度です。1841年のことです。

しかし、このねじ規格にはなんの科学的・技術的根拠もありません。平均しただけですから。とくに問題になったのは55度という半端な数値です。1864年、アメリカの学会でセラースがより作図・製造し易い60度を採用すべきと発表し、後にセラース規格としてアメリカで広く採用されるようになります。

合理的なデザインのセラース規格を参考にして、メートルねじの規格がSIねじとして19世紀末に定まります。こうして、3つのねじの規格が20世紀初頭に存在していたのですが、第二次世界大戦時にアメリカ・イギリス・カナダでねじの互換性がないために、武器に互換性がない問題が発生し、統一されたユニファイねじ(Unified=統一的)が誕生します。細かいことはさておき、当時の3国の力関係から、ユニファイねじはセラース規格とほぼ同じです。

https://www.nbk1560.com/より

戦後、メートルねじの規格は、インチねじにおけるアメリカのような覇権国がなかったために、ISO(国際標準化機構)が長い時間調整を行って、国際規格としてISOメートルねじを制定しました。インチねじの国際規格のISOインチねじにはユニファイねじがそのまま採用されました。イギリスで生まれ、アメリカにおいて発達したアーチェリー用具には、ユニファイねじ(=ISOインチネジ=JIS B0206)が一般的に採用されています。

妥協で生まれたウィットウォースねじは1968年にJIS規格で廃止されました。


日本にアーチェリーが伝わるとは

『國際畫報 = The international pictorial』2(11),大正通信社,1923-10(大正12年).

日本にはどのようにアーチェリーが伝わってきたのかについてですが、歴史編の中にどのように組み込むのかまだ悩んでいます。なにか根本が覆る発見でもない限り、趣旨がかわることはもうない段階ですので、一旦発表しておきます。これで指摘があったりして進展することも、これまでありましたし。

いまのようにスポーツとして確立されたのは、16 世紀にイギリスの王ヘンリー8世が、アーチェリーのコンテストを開催したのがきっかけでした。日本でアーチェリーが本格的に行われるようになったのは、1950年代後半に入ってから。その歴史は、まだまだ浅いものと言えます。

アーチェリーの歴史 https://www.archery.or.jp/sports/archery/

全ア連のウェブサイトでの記述において、日本とアーチェリーの関係については非常にふわっとしています。なぜ、ヘンリー8世をきっかけとしたのか。また、自分が全日本選手権に出られるとしたら、全ア連の中の人を問い詰めたいと思います(笑)。金襴の陣におけるフランス側の記述を根拠にしたとか言うのかな?9スコア制限に関する法律?

ヘンリー8世の部分は突っ込みどころしかありませんが、後半の記述は非常に優れています。アーチェリーが日本で「競技された」歴史は簡単です。一方で、グーグル検索の上位には日本におけるアーチェリーの歴史として「1939年 菅重義氏(当時の読売新聞ニューヨーク支局勤務)がアメリカから帰国し 日本の弓道界に紹介したのが最初です」とする記述があります。「アーチェリーを紹介」とはなにか、哲学好きなのでこれだけで白州2本イケます。

ということで、その哲学論争をおいておき、事実とその解説を羅列していきます。

by J.C. Hepburn『A Japanese and English dictionary : with an English and Japanese index』,Trubner & Co.,1867.

日本にArcheryが伝わるのは文献として1867年の和英辞書で確認できます。このアメリカ人によって書かれた和英語林集成は初の和英辞書とされていますので、一般にArcheryが知られたのはここで間違いないでしょう。1867年、Archeryは射(しゃ、いる)として翻訳されました。ただ、これはArcheryを伝えるためというよりは、実用的な意味で英語を翻訳・理解するためのものであり、関心は言語にあり、アーチェリーに関心があったわけではないのは明らかです。

Archery自身への関心は2つのルートを辿って、イギリスにたどり着くことになります。一つは軍部です。日英同盟によって、友人になったイギリス軍を模範とするために軍事訓練などの視察によって、Archeryが伝わってきます。最初の写真は大正時代の1923年の雑誌に掲載されたもので、資料不足によって詳細がわからないもののの、「常備軍ではなくともイギリス人はいつも射撃練習している」という軍事訓練とのつながりで、アーチェリー大会(王賞弓術大会)が紹介されています。Archeryは弓術として翻訳されるようになります。

『世界歴史大系』第18巻,平凡社,昭和9.

軍事関係におけるアーチェリーの研究はかなり進められており、大正7年の古今の兵器 (科外教育叢書)で「ホレースという弓術家は12回優勝した」といった細かい知識、昭和9年の歴史書には「オーマンがイギリス人の勝利の一部は彼らの光栄ある長弓隊に負うところがある(戦法史)といったのは、少し控えめに過ぎはしないかと思われるくらいだ」といった記述があり、戦史・戦術研究に携わっている人間には私が歴史編6で書いたような事は昭和初期にはすでに知られていたことがわかる。

英國庶民の弓術並に對蘇對佛戰爭

軍事・歴史家によるアーチェリー研究の中では1932年に「英國庶民の弓術並に対蘇(ロシア)対佛(フランス)戦争」が最もよくまとまっており、無料で公開されているので、どなたでもお読みいただけます。P.233(コマ数126)くらいからです。

萩原清次郎 著『英国を眺めて』中巻 B,丸善,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1278858 (参照 2023-03-25)

内山勗 著 ほか『新編弓術教範』,博文館,明40.8.

もちろん、もう一方のアプローチは弓道界からであり、明治末期に英国のアーチェリーの詳細が紹介されます。ただし、これは英語の百科事典の内容の要約に過ぎない。

『アルス運動大講座』第2巻,アルス,大正15-昭和3.

大正末期、名前が記録に残っていないものの窪田藤信の門人の一人がロンドンでアーチェリーの視察を行っており、競技方法や競技規則が手紙によって日本に伝わり、窪田藤信氏によって「英国に於ける弓道界の現状に鑑み所感を述ぶ」としてまとめられています。この手紙での報告には、すでに現代の弓道の審判員と同様の態度があり、下記のように英国の弓術を批判します。まぁ、テンプレですね…今後、同じこと聞いたら、「100年前にも聞いたわ」か「大正かよ」と言ってやろ。

我が国弓道の目的たる技術練習とともに精神修養並びに体育保全に重きを置きたるに比する時、(中略)彼の地の弓術たるやただ一つの娯楽的玩弄物(がんろうぶつ)に過ぎずして、一つも身心修養の精神なく、体育として欠く所がある。

弓道,『アルス運動大講座』第2巻,アルス,大正15-昭和3.p 55

昭和13年には当時のレベルとしてはほぼ完璧な形で「英国の射法」という本が大日本武徳会弓道範士で滋賀県知事・衆議院議員も務めた堀田義次郎によって書かれます。題名から分かる通り、英国の弓術を伝えるものであり、アッシャムの5節を、立脚または足踏(スタンディング)、弓構または矢番(ノッキング)、引込(ドローイング)、狙、持(ホールディング)、離(リリース)と訳し紹介しています。さすが国会議員にもなると他国の文化を露骨に批判はせず、「他山の石(*)として英国風の射法を紹介する」と書かれています。良いオブラートですね。

*「よその山から出た粗悪な石も自分の宝石を磨くのに利用できる」ことから「他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなる」という意味で使われてきました。(文化庁文化部国語課)

中身として堀田氏はアーチェリーを経験したことはないと推測され、ホレースの著書とロングマンのBadminton Library of Sports: Archeryの2冊を読んで、どちらも100ページを超える著作ですが、その中身を20ページにまとめた感じです。

著者は「弓道界の懸案であった射型統一のため、全国の著名弓道家からなる弓道形調査委員会が構成されたが、堀田もこれに参加した(wiki)」ほどの著名な弓道家だったので、彼によって定義された英国の射法が弓道界でのアーチェリーの理解のベースとなっていきます。

小原国芳 編『児童百科大辞典』10 (国防篇),児童百科大辞典刊行会,昭和12.

以上は、軍事家と弓道家という専門家の間での理解でしたが、そのレベルに達せずとも、1937年の児童百科大辞典でも、古代欧州弓手といったイラストで、アーチェリー(アーチャー=弓手)が紹介されてています。

さて、冒頭の1939年は、これまで述べてきた英国王賞大会の取材や、倫敦のアーチェリークラブへの視察、海外から輸入した文献の取りまとめではなく、日本に住む日本人が実際のロングボウに触れた日です。

白倉氏はこの日について「昭和12年の日米通信大会に尽力された菅氏が14年に帰国することとなったとき、アメリカ選手にメダルとサイン入りの矢を日本にいる勝者に届けることを依頼された。そこで関東学生弓道選手権の会場に行き、そこで、日本弓道の師範格に紹介された。望まれるままに、氏は日本で最初の矢を放った」と書いています…メダル届けるのに自分の弓なんて会場に持っていかないだろうから、確信犯ですねw

バーテンダー 7巻

この年表において、どの段階をもってアーチェリーが日本に伝わったのかの定義はないのですが、日付がしっかり判明している1939年を使う人が多いようです。ただ、さすがにそれまで日本人がアーチェリーを知らなかったということはありません。児童百科にも乗っている程度には知られています。

私としては、「英国に於ける弓道界の現状に鑑み所感を述ぶ」が出版された大正末期の方が正確かなと思いますが、出版日が本になく、国会図書館の記録でも「大正15-昭和3」とされていて、使いにくいのは間違いないでしょう。まぁ、菅氏以前はアーチェリーについての知識はイギリスからもたらされたものが多く、1939年以降はアメリカを経由して入っくるようになったというのは間違いないでしょう。

続きはウェ……ご購入ください★

日本のアーチェリーの歴史

1867年 Archeryという用語が伝わる

1907年 英国の弓術がアーチェリーとして英国百科事典の要約として文献で伝わる

1927年頃 ロンドンでアーチェリーを視察体験した弓道家によって詳細(競技規則等)が伝わる

1936年 東京オリンピック(中止)日本視察団がアメリカでアーチェリー大会に参加する

1937年 第一回日米親善通信弓術大会を開催

1938年 本格的な指南書・研究として「英国の弓術」が出版

1939年 菅氏が日本でロングボウ(米国の弓術)を披露 ← ここを始まりとする著者が多い



【更新】忘れてたAMADA/AMO/ATA/ASTM

引っ越しした家の庭には前のオーナーさんが植えた桜があり、咲きつつあります。

歴史編で取り扱った内容に間違いはないつもりですが、漏れはないのかなと…ありました!

【追記】記事完成しました。

昨日、「ものづくりの科学史」という本を読んでいたら、アーチェリーの道具の標準化の歴史について扱っていなかったことに気づきました。これから資料集めます。互換性…私の最初の弓はヤマハで、最初のPCは9821でした…互換性大好き♥


改訂しました。アーチェリーの理論と実践

*2013/5/20投稿(旧題 古いこと)、2023/3/19に加筆して再投稿

(加筆) ボジョレーの2016年を2023年に飲みましたが、熟成させることもできるのは本当みたいです。さて、現在の射形のベースとなっているスタイルを完成させたホレート・フォードの著作を2013年に翻訳しましたが、この10年で手直ししたいところ、解説を入れるべきところを、解説付き改訂版として再編集しました。下記リンクからダウンロードできます。(加筆ここまで)

【改訂版】アーチェリーの理論と実践 – The Theory and Practice of Archery ホレース・フォード 著 (PDF 3MB)

(以下、2013年の5月の記事ですので、最近の話ではありません)

長くブログを書いているといろいろな反応が返ってきます。誤字脱字はともかく、今でも覚えているのは、ミザールハンドルを間違って「アルミ製」と書いてしまったことなどで、お叱りを受けて直ちに訂正しました。逆に、正しいことを書いていてお叱りを受ける記事もあります。中国工場の製作技術の低さを批判したところ、それを売っているショップが自作していると勘違いされた読者が、作り手に対して経験不足と評したことを、大先輩でもあるベテランの販売店に対して経験不足と言ったと受け取られ、お叱りを受けました。

正しい知識もあれば、間違っている知識もありますが、一番怖いのは、正しいと思い込んでいる間違った知識・情報ではないかと思います。今回、コメントを頂いたのでお客様の間違いを正すことができましたが、コメントを頂かなければ、すっど勘違いで私が批判される事態が続いたのかと思うと…恐ろしいです。

単純に自分が間違ったことを書いてしまったなら自己責任ですが、受け取り手の勘違いによって思わぬトラブルや批判が生まれるのはなぜか。アメリカやヨーロッパでは、自分がやろうとしているような弓具の評価・レビューというのは当然の様にアーチェリー雑誌に掲載され、広く読まれています。欧米人にできて、日本人にできないはずはないでしょう。その違いはどこにあるのかと考えたのが、2月。

そして、「古いこと」…つまり、それは歴史があるのかないのか、正確には歴史が語られているのかどうか、そこに違いがあるのではないかと思うようになりました。欧米のアーチェリー用品のレビューには、1920年代から積み重ねられた知識と常識があり、レビューをする人間はその文法・文脈にのっとり、発言しているからこそ、誤解されずに、正しい情報が流通するのではないかというのが自分の現在の仮説です。対して日本のアーチェリーのメディアの多くの商業主義に上に成り立っているものです。商業にとって歴史は積み重なるものではなく、流れていくもので、過去はむしろ邪魔です。

有名な話ですが、これはボジョレーの毎年の”自己”評価です。

1995年「ここ数年で一番出来が良い」[1]
1996年「10年に1度の逸品」[1]
1997年「1976年以来の品質」[1]
1998年「10年に1度の当たり年」[1]
1999年「品質は昨年より良い」[1]
2000年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」[1]
2001年「ここ10年で最高」[1]
2002年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」[1]
2003年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」[1]
2004年「香りが強く中々の出来栄え」[1]
2005年「ここ数年で最高」[1]
2006年「昨年同様良い出来栄え」[1] (ウィキペディアからの引用)

さあ、どれが一番いい出来だかわかりますかね…「エスキモーに氷を売る―魅力のない商品を、いかにセールスするか」なんて本が出版されるくらいですから、商品にとって、マーケティングが全てなら、過去の話(歴史)を蒸し返されては、いろいろと困ることは想像できると思います。

日本ではアーチェリーの歴史がまとまった形、整理された形で存在しないことをいいことに、勝手に書き換えられたりしています。例えば、私たちも行っているハイスピードでの弓具の研究は、日本のヤマハが初めてだと某雑誌の記事には書かれていますが、アメリカでは1930年代から行われており有名な話です。その研究を1930年代に始めたの現在の弓具の形を作ったヒックマン博士です。ホイット氏(HOYT創業者)は彼に感謝の手紙を送っています。また、同時期には和弓の世界でも、旧海軍兵学校の協力のもと、120fpsで弓の動きを撮影し、弓の研究が行われていました。どちらも80年以上前の話です。

日本での戦前の研究は「紅葉重ね」でその写真を見ることができますし、ヒックマン博士は「Hickman: The Father of Scientific Archery」という伝記が英語で出版されているほどの有名人です。

現在のアーチェリーは19世紀の後半から、脈々と続いてきたもので、多くの研究によって進歩してきたものです。メディアにアーチェリーの記事を書くほどの人達が、これらの常識を知らないとは思えません。日本人には知られていないのをいいことに、商業的に歪曲しているのでしょう。

5月にホレース・フォードの本を翻訳したのをはじめ、ホイット氏のインタビューの編集など、弓具のレビュー以前に取り組むべきことがあるように感じます。

欧米にあって、日本にはない(と自分は感じる)のは、今に続く歴史を知っているかの差、そして、正しいアーチェリーの歴史を語ることで、日本でもそのようなものが、時間はかかっても熟成していくのではないかと思っている今日この頃です。


【改訂】ヒックマン博士とホイット氏の手紙

1978年にホイット氏はHOYTアーチェリーの経営権を販売しているので、現在のHOYTアーチェリーとは違うものの、そのホイット氏は20世紀を代表するアーチェリー業界のイノベータでした。そのホイット氏はヒックマン博士の研究した理論を参考にして弓の開発をしており、史料としての手紙を見つけました。

書いたのはHOYTアーチェリーのホイット氏(48歳)で、あて先はヒックマン博士(70歳)です。書かれたのは1959年1月29日です。訳はできるだけ英文に忠実にしています。

あなたは我々がここで得た結果について興味を持つだろう。使用した42~45ポンドブラケットの弓は(28″のドローレングスで)、#1816イーストンシャフトで190から200fps、1オンスの矢では170~179fpsの速度を計測した。だがこれはまだ序の口だ。我々はシングルとコンパウンドの異なる種類のコアテーパー、さらには様々な仕様の弓を使って実験している。また、現在の実験結果を見る限り、リムの稼働域が19 1/2~20″がリムの効率性を最も高める長さだと指し示しているようだ…あなたのスパーククロノグラフは、私がいままで一番興味を持っていたことに対して多いに満足できる結果をもたらしてくれた。精確なデータを得るということは、本当にゾクゾクするものであり、また私たちにとってそれぞれの弓のデザインの利点を評価する上で計り知れないほど重要な判断材料となる。この時代にヒックマンスパーククロノグラフを手に入れることができたことを、言葉では言い表せないほど嬉しく思っている。今までに私がしてきた投資の中で、これは最高のものだ。

ホイット氏がヒックマン氏に書いた手紙

文通仲間ということは知っていましたが、文面を見る限り、想像以上に情報を共有していたようです。
この手紙の背景について書きます。ヒックマンはアーチェリーの研究に、ピアノ会社が鍵盤の打鍵スピードを計測するために購入したアバディーンクロノグラフ(Aberdeen Chronograph)を使用していました。矢速を測定する機械です。しかし、ポータブルで直流電源で稼働可能な矢速計がほしくなり、自分で作り、海軍の主任研究員であるジョン P.クレーベンに宛てた手紙で(…なぜ海軍かは不明…アバディーンクロノグラフを開発したのは陸軍)

私はこの国においてアーチェリー関連の書物を最も多く所有している。だが不運にも、これらの資料は矢の弾道についてあまり多くの情報を提供してはくれない。1928年に私が計測をおこなうまで、誰もストップウォッチ以外の計測器以外で矢の速度を測ろうともしなかったのだ。そこで私はクロノグラフを使って、重さの異なる矢とデザインの異なる弓のそれぞれの組み合わせがもたらす矢の速度と加速度を計測することにしたのである。

ヒックマノ氏のジョン P.クレーベンに宛てた手紙

と書いていて、自分で開発した矢速計(スパーククロノグラフ)で多くのデータを採取して、多くの論文を書きます。また、戦時中はこれを改良して、リボンフレームカメラ(ハイスピードカメラ)を開発し、クロノグラフでロケットの飛行中の速度を計測し、撮影する仕事をします。

写真がその矢速計。その後、ホイット氏はこのアーチェリーのために作られた世界初の矢速計を、1958年にヒックマン博士自身から300ドルで買い取り、自社での実験に利用し、そして、この手紙につながるのです。ヒックマンに関するもう一つの話。現在では一般的にリムに使用されているグラスファイバーですが、これがアーチェリーで使われるきっかりになったのは日本と韓国です。

ロングボウはセルフボウであり、1つの素材で作られていましたが、複合弓のように違う素材を張り合わせて反発力を高めようとする発想が生まれます。違う素材をコアにはり合わせて反発力を向上させる作業をバッキングと言いますが、1930年代にヒックマン博士は、その素材に繊維を使うことを提案します。その素材とは「シルク」でした。今風でいうと、シルクファイバーリムです。

しかし、第二次世界大戦によって、シルクの輸出国だった日本から素材が手に入らなくなり、また、米軍もパラシュートを作るために、シルクを買い占めていたので、だんだんとシルクが入手できなくなります。そこでヒックマンはバッキングに新しく開発されたフォルティザン(Fortisan)繊維を使うことを提案します。これは商標で、現在ではポリノジックレーヨンと呼ばれている繊維だそうです。

この繊維はシルクの2~3倍の強さがあり、ヒックマン博士は1946年3月のAmerican Bowman-Reviewに、レイヨンファイバーのリムへの利用に関する記事を書きます。が、歴史は繰り返すといいますが、その後、朝鮮戦争が勃発(1950年)し、高性能レイヨンは又もや軍によってパラシュート製造用に買い占められ手に入らなくなります

そのため、レイヨンの代わりとして採用されたのがグラスファイバーです。ヒックマン博士もテストしたものの、具体的に記事にする前に、フレッド・ベアが1951年にウッドグラスファイバーのリム開発に成功します。構造としてはすでに知られているものだったので、アメリカでは特許には出来ませんでした(1953年にカナダで特許を取得)。こうして、第二次世界大戦がきっかりでシルク繊維がレーヨン繊維となり、朝鮮戦争でレーヨン繊維がグラスファイバー繊維となり、今に続くのです。

当時私はまだ業界の人ではありませんでしたが、聞く話としては、湾岸戦争で砲弾用にタングステン素材が、アフガニスタン紛争では防弾チョッキのために原糸用の繊維が入手しづらくなった歴史もあるようです。

*2013/6/3に初投稿、2023/3/15に一部手直ししました。


Eine lange Vergangenheit, doch nur eine kurze Geschichte. – 歴史編. これから

心理学同様にアーチェリーも「過去は長いが、歴史は短い」のではないだろうか。

アーチェリーをはじめ23年、アーチェリーを仕事として18年経ちます。それなりにはプロフェッショナルだと自負していますが、アーチェリーの歴史についてはいくつかの疑問があり、どこかのタイミングで取り組みたいと考えていましたが、日々の業務があり進まなかったところ、コロナと急激な円安がきっかりとなりました。

・なぜ洋弓と訳されたのか

・弓術はスポーツとしていつから行われているのか

・なぜロングボウはイギリスで生まれたのか

・なぜ、長距離派と短距離派が存在していたのか

・どのように今の競技形式になったのか

これの自分の疑問に対する答えが今回の一連の記事となります。自分としてはすべての疑問を解決できたと思います。

*記事の中で不明な点、納得いかない部分があれば、いつでもコメントください。

ただ、研究を進めるなか、新しい疑問が生まれてしまいます。それは「弓術はいつ生まれたのか」ということです。

進化論を信じれば人間は動物から進化してきました。動物というのは学びはしますが、訓練はしません。最近、ネズミがいないので、それらを狩る技術を子猫が習得できないという記事を見ましたが、私の理解では、動物は狩りを習得はしますが、習得後して練度を上げていく行為はしません。

人間でも歴史編2で取り上げたように、弓術を習得後、訓練はせずに、獲物がとれるかは神と意志とする文化があります。しかし、現在ではアーチャーは繰り返し練習を習得します。

動物から進化して人間はどこかのタイミングで、弓を引くだけではなく、その技術を日々高めるために訓練をするようになったはずで、それは弓術の誕生した日です。いつか、その時期を捉えられるよう、今後も精進していきたいと思います。

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なぜメンタルが問われるのか – 歴史編. 13

現在のアーチェリーはメンタルスポーツと言われています。2020東京オリンピックでも採用された、カメラや観衆見守られながら、30秒という制限時間の中で、交互に一射ずつ射る競技形式は間違いなくメンタルが問われる競技です。しかし、ここまで書いてきたように、アーチェリーは最初からこの形式だったわけではありません。

立射について、古代から中世までの弓術の指南書では度々「弓を耳の後ろまで引け」というアドバイスがされます。そのメリットは明らかですが、そのような指摘がされるということはそれが困難だったことを証明しているようにも思えます。クレシーの戦いのように自分向かって突撃してくる騎馬を目にしながら、所持している矢の本数に限りがある中、一射一射相手に向かって自分のペースで射るのは、間違いなくメンタルが問われる行為です。

ちなみに、騎射弓術ではこのようなアドバイスは見られず、ペルシャ弓術についてモハマッド・ザマーンによって書かれた教本では、「弓の弦の引き方は、眉毛引き、口髭引き、髭引き、脇腹引きの4種類がある」とされていて、弓をどう引くかは相手との距離を見計らいながら選択するものです。

シューティングラインに入っても、突撃してくる騎馬がいなくなってから、アーチェリーはメンタルが問われるものではなくなります。戦後の世界選手権で採用されたダブルラウンド(シングルラウンドを2回)は4日間に渡る288射もの積み上げです。1970年代までアーチェリーガイドで言及されるメンタル(精神力)は、競技のためでなく、競技によってメンタルが「鍛錬される」という効果です。

後述するようにシングルラウンドは決して愛されてきたわけではありません。1955年当時、WA加盟国はここに妥協点を見出したものの、見ていて面白くないことが問題になっていきます。2020年の東京はコロナの影響で無観客で行われましたが、改革はサマランチIOC(国際オリンピック委員会)会長の助言もあり、テレビ放送関係者と相談しながら、一つの対決をテレビの枠に合わせて20分に短縮など、「テレビ映え」がテーマとなります。

まず、1988年のオリンピックの決勝ではグランドFITAラウンドという各距離を8射(計36射)してのノックアウト方式にすることが、WA(FITA)総会で賛成40カ国、反対3カ国、棄権2カ国で決まります。反対がわずか3カ国なのはちょっとかわいそうな気もします。これによる競技時間の短縮で、1988年のソウルオリンピックでは団体も開催されるようになり、メダル数が倍になります。参加者(コスト)を増やさずにメダル数を増やすのはIOCの意図することろでもあり、近年はミックス戦も導入されています。

92年のバルセロナオリンピックでは、さらに協力関係を深め、競技方式の決定にはアメリカのNBCテレビのピーター・ダイヤモンド氏、オリンピック組織委員会のテレビ部門ディレクターのマノロ・ロメロ氏、スポーツチャンネルESPNのピーター・レイス氏が関わり、アーチェリーのライブ映像を配信することの明言を得て、90年の11月に競技方式が確定します。NBCテレビからは午後に決勝を行い、個人戦を2時間半以内、団体戦を3時間以内、16時前に終わらせることが要求されています。

新しい競技方法は現在の競技形式とほぼ同じで、オリンピックのためにテレビ映えするように開発されたため、そのままオリンピックラウンドと呼ばれます。この形式で行われたバルセロナオリンピックは、かつてないほどの成功を収めます。決勝では、テニスを観戦していた開催国スペインの国王フアン・カルロスが、スペインチームの成功を知り、アーチェリーの決勝戦を見るために急遽会場入りし、熱狂の中、スペインチームが金メダルを獲得。その様子は「アーチェリー会場は、選手、スタツフ、観客が互いに抱き合い、祝福するお祭りのようになった」とWAの会報に記録されています。

この成功により、1対1の戦いとテレビとの相性の良さが証明されます。93年のWAの会報に委員の意見として、FITAシングルラウンドが長すぎるのではないか、決勝が70mなのに予選で他の距離で競う必要があるのかという提案がされ、現在の70mだけを行う形式になっていきます。

すべては、テレビ映えのためでしたが、その結果として、アーチェリーは4日間に渡るシューティングスコアを積み重ねていくフィジカルなスポーツではなく、1射1射が大きな価値を持つ、3射の結果だけで勝敗(ポイント)が決まる、現在のメンタルを問われるスポーツへと変化していくことになりました。

やっと現在にたどり着きました。2000年以降のアーチェリーに関しては大量に資料どころか、その時代を生きた人もみんなお元気ですので、ここで終わり。


みんなのスポーツへの道 – 歴史編, 12

1972年 ミュンヘンオリンピック

スポーツとは何かが難しすぎるので、学問業界は近代(現代)スポーツという言葉を発明しました。お祭りなのか、宗教儀式なのか、軍事訓練なのか、遊戯なのか、そういった分別のややこしいものを一旦切り分けて、明確にスポーツとして定義できるようなものを近代スポーツとし、そこから手を付けましょうということです。

この記事をまとめているときに調べ物をしていたら恐ろしい質問が。高校生にこんな難しい問題が出題される学校ってすごいです、正しい回答ができる気がしません。大学どころか、院試レベルの問題なのでは…。この記事は国際スポーツの話。

国際大会の前に、まず数量化と呼ばれる段階を通過する必要があります。今の名称で言えば、公認記録です。記録は昔から残されて来ました。古代ギリシャではクロトンのファイルスが16メートル跳んだという記録が残っていますし、平家物語では20キロ以上する甲冑を着用した状態で不安定な船の上から6メートル(二丈)飛んだという記録が残されていますが、現代のアスリートの記録と比較した時、それらの記録は虚偽であるとする意見が一般的です。

数量化とは正確な記録を残そうをする作業です。例えば、1930年代に行われた日米通信弓術大会は、当然双方正しく記録し、相手側に伝えるという前提がなくては成り立ちません。イギリスで偶然にも19世紀前半には記録を正しく記録するようになります。当時はクラブごとに試合を行っていたために、勝者の固定化を防ぐために、優勝者は殿堂入りし、次の年の大会には出場できない決まりがありましたが、そのような制度から、ハンディキャップ制に移行していきます。年次大会までに行われた試合の点数からハンディを計算するため出場者全員の記録を残すようになります。これは当時としては非常に珍しいことで、フランスでは1900年に行われたオリンピックでも、出場者の点数どころか、出場者の名簿すら殆ど残されていません。

点数が正しく記録されれば、異国の地でアーチェリーの様子を窺い知ることができ、国際化につながっていきます。しかし、それだけで国際大会が順調に行われるわけではありません。日本では昨年にボウガンが基本所持禁止となり、ボウガンターゲットシューティングはあまり先が見通せない状況になってしまいました。その原因は複雑ですが、このグローバル化された21世紀でも、手弁当の組織が国際競技を運営する困難さは要因の一つだと思います。

アーチェリーのオリンピック除外を受けて、1931年にWA(世界アーチェリー)が設立されます。その目的は「オリンピック競技大会への参加につながる国際的なスポーツ関係を育成すること」にあり、再びアーチェリーをオリンピック競技にを第一目標としましたが、もう一方で、競技が民主的に官僚化されます。簡単にいえば、事務局、競技参加ではなく、競技を管理する組織ができたわけです。

ワールドカップ2012 at 日比谷公園

国際スポーツの定義はないので、国際大会を名乗りイベントを開催すれば自称はできるのでしょうが、世間に国際スポーツとして認められるような国際大会を行うためには、専門スタッフが常勤する事務局は間違いなく必要な存在です。

また、競技者と競技管理者が別々になった事でアーチェリー競技は官僚的に管理されることになります。1844年の全英選手権のように1日で開催する予定の競技について、ワロンドが書き残したように「天候が悪く、大雨による中断が何度かあり、昼食後さらに悪化した。5時に翌日に試合を延期することが決まり、延期によって発生した費用は分担することで同意した」というような恐ろしい事態はなくなります。翌日は仕事だよ…は当時の貴族には関係ない話か。

そして、もう一点必要なのは国際競技団体の民主主義的な運営です。全ア連のような加盟団体が票を投じて、国際競技団体が運営されます。これは決して簡単なことではなく、私は本当に尊敬するのですが、日本発祥の柔道は、嘉納治五郎氏の信念により、現在、全日本柔道連盟は国際競技団体のいち加盟国に過ぎません。柔道にかかわる議論に対して、たったの1票しか権利がないのです。功罪は柔道をやったことのない自分には語れませんが、運営に関わる広範囲の権利を国際団体に移譲したことで、武道の中で唯一オリンピック競技になったのです。

1950年代にWAはシングルラウンドという統一された競技形式を導入し、72年のミュンヘンオリンピックでその目的を達成します。以降はオリンピック競技に採用され続けることが目的になります。

東西冷戦の影響はWAだけではなく、1980年代のすべての競技団体を苦しめます。1979年に東ドイツで行われた世界ターゲット選手権では、台湾代表チームの国家を掲揚することを東ドイツ政府が許可しませんでした。また、中国がWA(FITA)に加盟したことで、台湾チームとの政治的な問題が起こり、81年にチャイニーズタイペイとすることで問題をなんとか収めます。80年と84年には政治的な理由によるオリンピックボイコットが起こり、ソウルオリンピック前には単独開催中止を目的としたテロ(大韓航空機爆破事件)が発生し、スポーツは政治に翻弄されます。

一方で、モントリオールオリンピックでは10億ドルの赤字が発生し、オリンピックというイベントは変化することを求められます。幸運な事にアーチェリーは80年モスクワのソ連と、84年ロスのアメリカがともに強豪国で、国威発揚の視点から競技が除外される可能性はありませんでした。

問題は次のオリンピックです。当時の会長と事務局長の回想によれば「ロサンゼルスからの帰り道に計画を練り始めた。ダブルFITAのラウンドを見るのは、絵の具が乾くのを見守るようなものだ」と当時の競技形式をより面白いものに変更することを計画します。

国際スポーツとなったアーチェリーは、その地位を維持するための戦うことになります。

参考

アレン・グートマン著 ; 清水哲男訳, スポーツと現代アメリカ, TBSブリタニカ, 1981

FITA Bulletin officiel