飛び道具の卑怯が難しすぎた

和泉屋市兵衛 勇魁三十六合戦

矢で死亡した武将がぜんぜん見つかりません。絵の源義仲は平安時代。江戸時代について書かれた本に良く「飛び道具は卑怯だとされた」という表現を目にします。それ以上踏み込んだ文献がなかったので、自分で調べて理解しようと思ったら、難しすぎて断念した話です。まず、江戸時代に入り、時代は平和に…

その一方で幕府は林羅山(一五八三~一六五七)その他の学者を使って、大名の関心を鉄砲からそらせるための思想宣伝もおこなっている。羅山は朱子学の大家として家康の知遇を得た人で、 秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、学問や政治上の諮問に答えている。飛道具は武士道に 反する卑怯なものだとか、鉄砲は身分いやしい足軽があつかうもので武士が手にするものではないという思想は、彼によって創始された。この思想攻勢はかなりの成功を収めたとみてよい。

奥村正二 著『火縄銃から黒船まで : 江戸時代技術史』,岩波書店,1993.7.P33

それ故に「飛び道具は卑怯なり」ということにして、武家階級の温存を図ったのであります。こうして、江戸時代の武家政権は強固にされました。

川瀬一馬 [著]『日本文化史』,講談社,1978,P230

江戸時代になって林羅山などが”飛び道具は卑怯である”とか“刀は武士の魂”、”鉄砲は足軽のもので、いやしくも武士が扱うものではない”などと主張しているが、これを裏返せば、幕府の対藩対策として諸藩が鉄砲を保有することが軍事上問題であるとする見解であり、武器としていかに有効であるかの証左に他ならないものであったといえ

第三章 中世 P.246 (書名のメモをなくしてしまい一生懸命捜索中です…)

ここで、具体的な林羅山という名前が出てくるのですが、この人は将軍四代にわたって仕えて、様々ルールを定めていったとされています。例えば、武家諸法度という武家法では、1615年、大阪の陣直後に発布したものには、その第一条に「文武弓馬ノ道」とありますが、1683年の改定で「弓馬」は削除され、「文武忠孝を励まし,礼儀を正すべき事」とされました。同時に、武士階級の中にさらに細分的な階級を設け1、明示的にその服装を「弓鉄砲の者は絹紬・布木綿の他は着てはならない(弓鉄砲之者、絹紬・布木綿之外不可着之)」とした。1615年から1683年までに弓は武士にとって最大の責務から、絹紬・布木綿しか着てはいけない階級にまで落ちたことがわかります。

「千代田之御表」 「小金原牧狩引揚ノ図」

ここまでは順調だったのですが、ここで私が超えられない壁に直面します。「卑怯」という日本語の解釈です。弓矢や鉄砲による趣味としての狩猟は、江戸時代に入ってからも、多く記録されていて、吉宗将軍(八代)も参加しています2

以上、私のたどり着いた結論は「卑怯」という言葉の当時における解釈に対する正しい理解がないとこの話は詰むです。以前に書いた記事で、ヨーロッパでは弓は神が忌み嫌う武器として…そこまで強い言葉を使うなら現代日本におけるクロウボウのように禁止されるのかと思いきゃ、そうではなく、キリスト教徒には使うなと、異教徒に対しての使用は禁止されませんでした。同様に12世紀の平治物語には、平民に武士が弓に射られることを嘆く表現があります。違う信仰、違う身分における道徳の断絶がある時代です。

予想するに林羅山の思想3も同様のものであり、多くの本が無批判に引用している武士に「飛び道具は卑怯」というほど思想のは存在せず、あくまでの一部の武士階級の特定目的の飛び道具の使用に対する忌諱にすぎなかったのではないかと思います。

ただ詳細に、当時の武士の間における卑怯論を論じることができるほどの能力は私にないので、当分の間、ここまでの理解に留まることにします。参考になる文献などご存知の方がおりましたら、コメント下さい!!

  1. 隈崎渡 著『戦国時代の武家法制』,国民社,昭和19.P.333 ↩︎
  2. 小和田哲男 著『乱世の論理 : 日本的教養の研究室町・戦国篇』,PHP研究所,1983.10. ↩︎
  3. [キョウ]穎 [著]『林羅山の思想』,[[キョウ]穎],1999. ↩︎

アーチェリーとスーパースロー撮影の歴史

アーチェリーとハイスピード撮影についてのコメントが来ました。それに関しては別途返信ましたが、考えてみれば、このテーマについてちゃんとした情報発信をしてこなかった責任はあるので、まとめてみることとしました。

現在では動画と写真という概念がありますが、20世紀前半には同じものでした。写真を連続で撮影して、それを連続再生したものが動画です。記録映像で見たことがあると思いますが、当時は手回し撮影機で動画(連続写真)を撮っていました。手回しなので、現在のように30fpsと設定すれば、勝手に毎秒30枚の写真を撮ってくれるわけではなく、カメラマンの技術で一定にする、この記事を書くにあたって初めて知ったのですが、そのずれを更に上映する機械も手回しだったので、カメラマンの撮影速度のブレを上映技士が補正してあげていました。そのために定まったフレーム数という概念はなく、大正時代の日本映画は約11-13fpsと約20%程度の誤差もあります1

浦上栄、海軍兵学校関係者協力、120fps

カメラに自動設定がなく、手で調節できるわけですから、スローモーションを撮るためには「高速度」でレバーを回せばよいだけなので、高速度撮影と呼ばれます。時期を特定することができませんでしたが、戦前には弓道の動作分析に海軍の120fpsの高速度撮影写真機が使用された記録があります2

機械を速く回せばいいと言っても物理的な限界があるわけで、1951年に出版された「高速度写真: その問題と限界」3によれば、当時のカメラを250fps以上で回転させるとフィルムが損傷して判読できなくなったり、場合によってはカメラ自体が文字通りバラバラに分解してしまうという問題が発生するようです。まぁ、そりゃそーだろと思いますが…。

米国映画テレビ技術者協会は1949年の会合で250fps以上4で撮影できるカメラをハイスピードカメラとして定義づけます。現在に至るまで定義は変わっていないように見えますが、今は10fps低い240fps以上のカメラをハイスピードカメラと呼ぶことが多いと思います。

当時、高速度カメラでは回転プレズムという仕組みによって250fpsを達成していたようですが、この仕組みの限界点が10000fpsで、それ以上はスーパーハイスピードカメラと呼ばれ、ストリップカメラという別の仕組みが導入されているそうですが、ここでは取り扱いません。

上記は1980年代の1000fpsの撮影に使用されたシステムです。見ての通り、カメラはちょこっとあるだけで、それに比べシステム全体は大変な大きさです5

こちらはハイスピード撮影の父と呼ばれたハロルド・エジャートンによって、1939年に撮影されたアーチェリーの連続写真です。300-500fps程度で撮影されたものと推測します。1940年前後にはすでに500fps程度の撮影機材は存在していました。しかし、1990年頃までアーチェリーにおけるハイスピードカメラの利用は屋内に限定されていました6

ここで冒頭の1986年にバイター社によって撮影された8000fpsのフィルム式ハイスピードカメラによる映像になりますが、8000fpsの場合、シャッタースピードは16000-20000程度設定する必要があります。つまりシャッターは写真1枚につき1/20000秒しか開かないので、直視できないほどの光が必要になります。これが2個前のシステムでカメラ以外の装置がたくさんある理由です。また、核爆発など高速度動画が比較的早い時期に収録されているのは、撮影対象自体に十分な明るさがあったからです。

https://www.apex106.com/monthly/202012/

2000年代のカメラ機材のデジタル化によって、ハイスピードカメラの低価格化が進むと同時に、センサの改良も進んでいきます。よく少ない光でも補助光源を使わず、センサの感度を上げることで実用的な画像を取得してくれます。上の写真はApexレンタルのブログのものですが、目では真っ暗でもISO409600(α7S III)ではこれほど明るく映ります。

オリンピック競技中に撮影のためにバイターの動画のように選手に光源を当てるわけには行かないので、センサの感度が太陽光で実用に耐えるようになった、2010年代後半にハイスピードカメラが中継でも使用されるようになります。

Paris hosts archery test event for 2024 Olympic Games

これはパリオリンピックテストイベントで撮影されたハイスピード動画(240fps)を明るさ無加工で切り出したものですが、放送で使うには暗すぎる印象です7。まぁ、問題点・不具合を見つけるためのテストイベントなので、ここから1年間の調整がされて、2024年の見事なライブ中継に繋がっていくわけです。

パリオリンピックでは選手は背(体の引手側)が南に設定されており、南側からハイスピード撮影がされているので、十分な太陽があれば、この条件では240fpsまで自然光で、違和感のないハイスピード動画が撮影できるところまで技術は進化しています。

一方で研究目的ではないアーチェリー放送の場合は16倍速スローで十分です。現在ではテレビは30fpsなので480fpsが16倍速になりますが、一般的なパソコンで60fps(60Hz)で、人間の目は240fpsまで差を感じることができので8、今後テレビが1秒あたり240フレームで表現された場合、16倍速スローは3840fpsに相当します。ここが技術の終着点です。その時代まで人間が画面視聴するのかはわかりませんが…2028年ロスオリンピックではどんな動画が見られるか楽しみですね。

  1. 入江良郎,無声映画の映写速度:日本の場合(下) ↩︎
  2. 浦上 栄 (著), 浦上 直 (著), 浦上 博子 (著),紅葉重ね・離れの時機・弓具の見方と扱い方,1996 ↩︎
  3. Van Oss, Willis Burton, High Speed Photography: Its Problems And Limitations, 195 ↩︎
  4. Maynard L. Sandell, “What is High Speed Photography?” Journal of the Society of Motion Picture Engineers,52:5, March 1949 ↩︎
  5. Dalton, Stephen,Caught in motion : high-speed nature photography,1982 ↩︎
  6. Harold Eugene Edgerton, James Rhyne Killian, Flash!: Seeing the Unseen by Ultra High-speed Photography,1939 ↩︎
  7. Paris hosts archery test event for 2024 Olympic Games ↩︎
  8. 肉眼を凌駕するカメラの「目」、進化止まらず イメージセンサー[ソニー、キヤノン] ↩︎

【写真集】世界弾弓コレクション

(2024.8.14)追加

分類し研究する前にはまず資料を集めるところからです。結構大変。

660117
1981 タイ 82-7-1 ペンシルベニア博物館
660044

弓は竹(ไม้ไผ่บ้าน Mai Phai Ban、Bambusa sp.)で作られ、弦はปอป่าน(Po Pan、Boehmeria nivea (L.) Gaudich)で作られています。ペレットホルダーは竹と籐で作られています。ハンドルは木材の一種であるไม้ฟาก(Mai Fak)で作られています。これらのペレット弓は50年前に使用されなくなりました。この例は、若い頃に使用していたBuali(นายบัวลี)という老人によって作られました。ウサギや鳥を撃ったり、牛や水牛、強盗を駆除したりするために使用されました。所有者によると、歯が折れることがあるそうです。

1890以前 ベトナム 1890.41.1.1 オックスフォード(Pitt Rivers Museum)
1931年位前 インド ビハール州 チョータ・ナグプール 1931.28.2 同上
1960 アフガニスタン 2013.3.14310

1960年9月、バシュガル渓谷、カムデシュ。1960年までにヌリスタンでは狩猟に弓矢は使われなくなったが、少なくともバシュガル渓谷では、二重弦の「ペレットボウ」はまだ普通に使われていた。鳥や果物を狙う小石を射るため、あるいは友人と即席の競技をするために、ほとんどすべての若者が弓を持っていた。しかし、1966年と1967年には、バシュガル渓谷でこれらの弓を見かけることはほとんどなかった。写真 写真:S.J.

Edelberg & Jones , Nuristan, P.122-123
1884年以前 タイ 1884.15.31
1902-03年 ミャンマー 1903.16.2.1
1939年以前 ミャンマーかタイ 1939.7.21
1874年以前 ミャンマー 1884.15.34
1867年以前 アッサム ナガランド アルナーチャル・プラデーシュ 1884.15.37
1874年以前 1884.15.36.1
1957年以前 ブラジル セレンテ 1957.2.43B
1928年以前 インド コニャックナガ 1923.85.548
1923年以前 インド 1923.28.14
1915年以前 インド アンガミ・ナーガ 1923.84.109
1951年以前 マレーシア 1985.11.1.1
1934年以前 ミャンマー 1934.81.17
1932年以前 ハングラディッシュ 1932.89.82
1903年以前 パラグアイ エンゼット 1903.19.102
1899年以前 中国 瀋陽 1899.74.17
1902年以前 タイ・チャン 1902.88.66
1874年以前 アッサム ナガランド 1884.15.35
1928年以前 インド・ナガランド 1923.85.549
不明 インド・インパール 2017.191.1
1899年以前 ミャンマー 1889.29.16
1902年以前 タイ 1902.88.59
1902年以前 タイ ナウンチックバン サイカウ 1902.88.57.1
日本製とされている(多分違う) 1894.7.1.1 / 1894.7.1.2

ここから大英博物館

19世紀 タイ As、Bs.95
19世紀 アジア: ヒンドゥスタン 8349
19世紀 タイ +.5563
アジア 1954,07.128
アフガニスタン: パンジシール渓谷 As1974,15.8.b
インド 1933,0715.165
19世紀後半 ベトナム +.4788
ゴンド族 インド: マディヤ プラデーシュ州 (州): チンドワラ地区 1933,0715.166

ここからケ・ブランリー美術館(フランス語 Arc-fronde)

1930 タイ・パタニ 71.1933.61.8
1930 タイ・パタニ 71.1933.61.7.1-2

ドレスデン民族学博物館

F 2003-1/E0396
ムドゥガラ (場所)、1927.04.03 F 2003-1/E0397

国立民族学博物館(日本)

インド・パハリ H0003579
インド・パハリ H0003580

国立民族学博物館(日本 – 弾弓と分類されていないもの)

中国 H0020567 弓
海南島 鳥狩猟用 弓 H0190938
中国 ヘジェ;赫哲 鳥狩猟用 弓 H0129937
カイオワ ブラジル連邦共和国 鳥狩猟用 弓 H0009146  
ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連) ウズベク 鳥追い用 弓 H0098906 

*現地名 ルーク ドリヤ オプギワニヤ プチッツ(ロシア語)лук для отпугивания птиц

ヌーリスタン アフガニスタン共和国 弓 K0006564
ガズニ アフガニスタン共和国 K0006566
タイ王国 弓 H0095615
タイ王国 弓 H0095616
ラフ タイ王国  投石用 弓 H0125405
コン・ムアン タイ王国 投石用 弓 H0125479
パキスタン・イスラム共和国 投石用 弓 H0189878

 

Grayson Archery Collection(ミズーリ大学博物館)

1850年 東南アジア、ビルマ 1992-0203
19世紀末20世紀はじめ インド 1992-0204
19世紀後半 インド 1992-0205
19世紀末20世紀はじめ インド 1992-0206
19世紀末20世紀はじめ ビルマ 1992-0207
19世紀後半 インド 1995-0707

民族学博物館(ベルリン)

ブラジル・マトグロッソ VB 4821a、b
1904年 中国チベット IB4067

スミソニアン博物館

1960-1967 ネパール・マガール E433403-0
1968 ブラジル・クリカティ E426127-0
1968 ブラジル・クリカティ E426129-0
1968 ブラジル・クリカティ E426131-0
シーサンパンナ・タイ族自治州 中央研究院歴史哲学研究所 1935 A00000197 

マンチェスター博物館 現在検索サービスの更新中

ゲンブリッジ博物館 写真リクエスト中

弾弓はどんな弓なのか

前回の記事で世界の博物館データベースから54本の弾弓のサンプルを集めたので、これを分析することで、弾弓とは一体どんな弓なのかを明らかにしたいと思います。きっかけは、正倉院の弓について調べていたときに

弦の中央下方に弾丸を受ける楕円形の座(独:Kugallager)を作り出すが、弾丸をどのようにつがえたのかは不明である。

奈良国立博物館編,正倉院展,2020

大量の弾弓についての資料があり、その使用動画含めメディアがある中で、おそらく誰も手を付けていないからわからないだけで、弓の知識があれば、この解明は難しくないだろうと考えて、着手しました。

タイの弾弓1

ひと目でわかるように弾弓には2つのデザインがあり、左側の通常のいわゆる”弓”を使用しての弾弓と、右側の2本の弓を左右対称に組み合わせて弾弓とするものがあります。右の弓は洋弓の世界において、20世紀後半にやっと達成したセンターショットという理想を遥か前に達成しています。非常に高性能な弓だったと考えられますが、サンプル54本に対して3本しかなく、一般的な弾弓は左側のデザインのようです。

また、この絵はライプツィヒ民族学博物館で研究をしていた方が論文に掲載したものですが、1943年の空襲で30,000点以上の収蔵物が破壊され、この論文に取り上げられているドイツの博物館にあった弾弓の多くは戦争によって破壊されました。残念です。

1900-1901年にかけてドイツり民族学者によって行われた中央ブラジルの先住民族の記録には弾弓のことが詳細に記録されています2。弾弓の一番の特徴として、弓矢と違い同一ライン上では、弾がそのまま弓・握っている手にあたってしまうので、「弓がねじれるという特徴がある」としています。

左:P198、右:P229

同じ民族が使用している弓と弾弓は明らかに違い、弾弓は弓の流用ではないことがわかります。アーチェリーでもリムのねじれは良くないとされているように、リムはねじれないほうが矢はまっすぐに飛び出します。そのために右の弓はリムに厚みを持たせて、ねじれにくい構造になっています。弓をねじる原因につながるグリップもありません。

対して弾弓では逆にリムが薄くしっかり握るグリップであり、そこでねじれを発生させることで、弾道が斜めになり、発射された弾が手や弓に当たらなくなるという構造になっています。

https://www.touken-world.jp/tips/65943/

写真左が19世紀に作られた弾弓(中国か日本製)の断面で、右側はその200年ほど前に完成された和弓の断面ですが、上下の方向に、的中で言えば、左右(3時9時方向)に和弓はねじれにくい構造をしているのに、弾弓の方はねじれやすい構造です。

これは多くの弾弓に見られる設計で、リムに相当する部分は、横に広く的方向には弾性はあるが、厚みを薄くしてねじれやすくし、グリップに相当する部分には木を当ててしっかりと握れるようにして、手首を外側に返すように弓に回転する力を与えた状態で射ちます。また、(厳密には違うが)上下方向は弾の位置と握る部分の位置をずらすことで、弾が問題なくクリアするように工夫しています。

https://www.youtube.com/watch?v=8gl6LDwVjn4

弓道の弓返り同様の物理が働いていると思いますが、弓道の弓返りがフォロースルーの一つであり、しなくても矢は飛んでいくのに対して(3時に外れちゃうけど)、弾弓では自然に起こるのを待っていては弾が弓に直撃して大惨事になるので、意図的に弓を握って弓を回転させています。また、この射手の場合には、的方法に弓を押し込んでもいます。元の動画を見ていただれば、10mほど先の小鳥サイズの的にほとんど当てているので熟練した弾弓の射手だと判断します。

多くの記録では、弾弓は鳥などの小動物を猟るのに、または、子供に弓を教えるために使用されるとされていますが、弾弓は引き方は和弓などのいわゆるモンゴル式に近いので、何かの関連があるかもしれません。

同じく南アメリカ(パラグアイあたり)を旅行した博物学者のドン・フェリックス・デ・アサラは、弾弓について「ヨーロッパの子供たちがこれを練習すれば、こんなにたくさんのスズメはいなくなるだろう」と書いていることから、ヨーロッパ地域では弾弓は広く使用されていなかったようです3

最後に8月中の何処かのタイミングで実際に弾弓を作ってみて、実践してみたいと思っています。これまとめて、奈良国立博物館さんに送ったら読んでいただけるかしら?

  1. Von Gustav Antze,Einige Bemerkungen zu den Kugelbogen im städtischen Museum für Völkerkunde zu Leipzig.1910 ↩︎
  2. Indianerstudien in Zentralbrasilien : Erlebnisse und ethnologische Ergebnisse einer Reise in den Jahren 1900 bis 1901 / von Max Schmidt. ,P199,Credit: Wellcome Collection. In copyright ↩︎
  3. Azara , Don FELIX DE : Voyages dans l’Amérique méridionale, par Don Felix de Azara,
    Commissaire et Commandant des limites espagnols dans le Paraguay depuis 1781
    jusqu’en 1801.t.2, 1809,P66-67 ↩︎

近代の弾弓 中世~20世紀

Accession Number: 79.2.441 MET
弦に弾弓用の革製アタッチメントがあり、右のテーブルの上に弾(玉)がある

弾弓について、近代の使用などの情報を追加するものです。弾弓自体に関しては、前回の記事をご確認ください。

弾(石)と鏃は出てきても、弓もスリングも多く出土しない

前回、弾弓についての記事を書きましたが、調べていくにつれて、弾弓の研究が少ないこと、その理由として、2000年前の弓、弦やスリングがセットで出土することはまずなく、弾(石・陶)や鏃は出土することが多いこと、そして、考古学者は往々にして、鏃は弓の存在の証であり、弾はスリングの存在と結びつけたがり、その他の可能性を考慮しません。そこで現代まで続く弾弓の記録をまとめてみることにしました。

G 3997 © Réunion des musées nationaux – Grand Palais, 2023

これはトップの写真と同じ場面を描いた中国の皿(美術館提供の画像の解像が低い…)ですが、中国の戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀頃)に成立したとされる春秋左氏伝の一場面です。

霊光は不徳であった。物見櫓の上から石を弾いて、下を通る者が慌てて避けるのに興じたりした。

常石茂 著『新・春秋左氏伝物語』,河出書房新社,1958.P.170

まぁ、とんでもない王様なわけですが、不名誉なことに「石を弾く」という表現はこれが最古で、当時の道具を考慮すると、弓で弾いていたと考えられています。その1000年後に唐か、唐の物を模した正倉院の弾弓が日本に伝わっていますし、その後、14世紀に書かれた大元聖政国朝典章(政治書)では弾弓規制に触れており、

都城の小民、弾弓を作り及び執る者は、杖打ち77回、その家の財の半を没す。

梅原郁,(訳註)中国近世刑法志(下),創文社

と、都市住民には弾弓の所持を禁止することが書かれており、この時代でも平民に用いられていたことがわかります。実は20世紀に入り、中国で弾弓の一大ブームが起こるのですが、それは後半に。

この本は16世紀のはじめにドイツで書かれた技術書ですが、ここには弾弓が描かれています。5世紀までの状況についての資料は全くありませんが、多くの学者はヨーロッパでは弾(玉)を飛ばす手段としては、弓ではなく、スリングであったと考えています。この状況が変わっていくのは権力者の領地に対する所有の概念の変化で、国は領地は王の所有物であり、そこに生息する動物もまた王の所有物であり、庶民に対する狩猟規制が導入され始めます。

Pietro Longhi 弾弓による鴨狩 18世紀 ヴェネチア

庶民は当然のような反発して密猟をはじめますが、大型の狩猟具は見つかる可能性が高いので選択されないようになり、小型の罠など密猟に適した狩猟具が選ばれるようになっていきます1

一方で、(日本の戦国時代の)戦後に武士の間で火縄銃が実用品から贅沢品に変化してように、ヨーロッパ貴族の間でも狩猟用具は豪華なものに変化していきます。クロスボウも弾弓(弾弩弓*)として再デザインされ、貴族にふさわしい装飾が施されるようになります。

*弾弩弓って…「弾」「弩」「弓」3つとも単体で弓という意味あるよ…

Pellet Crossbow 1550-1600年 イタリアか南ドイツ Accession Number: 29.158.651 MET
Pellet Crossbow 16世紀後半か17世紀 フランス Accession Number: 14.25.1584 MET
下に(左から順に)クロスボウ、銃、弓、弾弓が置かれている2

用途としては、鴨やうさぎのような鳥・小動物に用いられたようです。現代でもスリングの一種として、弾弓タイプのクロスボウは規制されていないので、どこかで使用されているかもしれません。このタイプのクロスボウは日本でも規制対象ではない可能性が高いです。

https://www.mandarinmansion.com/item/chinese-pellet-crossbowより

では、中国はどうだったかというは写真は20世紀前半の近代中国弾弓(写真はオークションサイトより)ですが、戦後一大ブームになります。

北京市のガイドブックで推奨の雀の駆除方法3

戦後、中国の毛沢東が四害駆除運動として雀の駆除を指示し、そのガイドブックの中で、弩、及び、弾弓が推奨されたことから、中国におけるこれらの需要が一気に高まります。中国の研究者Stephen Selbyが当時を知る弓職人にインタビューした記事では、職人は匿名を条件に雀の駆除運動によって一気に需要が高まり、しかし、その3年後に雀が実は昆虫も食べていたことが毛沢東にも理解され、生態系が著しく変化したことで、1000万以上が餓死する事態になり、もはや、雀を駆除するどころではなく、ソ連から25万羽輸入する事態になったことで、当然弓に対する特需はなくなり、現在に至るとのことです4

wiki「打麻雀运动」より 標語は「みんな雀を殺しにおいで」

このインタビューがされた1999年には北京に7つの弓職人店があったようですが、現在ではどうなっているのでしょうか? 戦前に中国で弾弓を購入した研究者の方も何人かいるそうなので、探せばどっかにあるのかな。続く。

  1. Almond Richard, Medieval Hunting, 2003 ↩︎
  2. Baillie-Grohman, William A. (William Adolph), Sport in art; an iconography of sport during four hundred years from the beginning of the fifteenth of the end of the eighteenth centuries.1913 ↩︎
  3. 除害灭病爱国卫生运动手册 (中央爱国卫生运动委员会办公室), 1959,北京 ↩︎
  4. https://www.atarn.org/chinese/juyuan/juyuan.htm ↩︎

NFAAありがとうすぎる!!

ぜんぜん違う調べ物をしていたのですが、いつの間にか、NFAAが雑誌アーチェリー(Archery)のバックナンバーを1927年から全部公開してくれていました!! 論文や本はそう頻繁に出版されないので、定期的に、短い間隔で出版される雑誌は非常に重要な情報源です。本当にありがとうございます。

こちらはメモしていたいつか探そうとしていた記事。60年代の弓の作り方です(U.S.Archery)。勉強させていただきます。

National Field Archery Association 

世界最古の檠(ゆだめ)

http://news.jznews.com.cn/system/2023/03/17/030035603.shtml

前の記事で中国の檠(ゆだめ)について触れたので、中国で最近発掘されたおそらく世界最古の弓のジグについて少し。他にも檠は発掘されていると思いますが、ただの棒なので、弓が隣でセットで発掘されない限り、檠として考古学者によって分類されるのは絶望的だと思います。

*ネット記事で構成しています。詳細は秦俑坑出土弓弩“檠”新探という論文にあると考えていますが、一般人が利用できる国内の図書館になく、読めてはいません。東大にはあるらしいが…

東京大学東洋文化研究所

東京大学にお邪魔して、該当の論文を複写させていただきました。ありがとうございます。

この時代(2200年前)の弓以外のアクセサリーが発掘、または、正しく解釈されることは本当に珍しいのですが、兵馬俑1号坑の前回の発掘では、銅の棒が出土しています1。復元後の写真の弦の内側に見えるもので、長さは50cm・直径0.3cmの銅の棒で、保管時(クロスボウは基本ブレースしたままで保管する)の弦の伸び・リムの変形を抑え、発射時のリムへの負担を抑えるという役割をするものです。

そして、今回の第三次発掘(20092)では、写真のように完璧な位置で檠(檠木)3が発掘され、トップ写真のようにリムの形状の整えるものであるとして発表されました。長さ40cm、直径3cmで穴が3つ空いている木片です。弓から2mでも離れていたら正しく解釈される可能性は絶望的ではないかと思います。

Artist Archeryより

よく考えれば、金属が非常に高価であった時代に現代のようなジグでクランプを大量に使用して固定することなど出来ないので、木と糸による固定でリムを形成していたのでしょう。檠で形成するとは書かれていても、具体的にどのようなやり方で、というのは記録等残っていませんでした。古代の弓づくりを理解するための貴重な資料だと思います。

青阳弓箭より

その後、清(300年前)の時代には「弓挪子」というものが使用されるようになります4が、このジグの構造は単純ですが、これを使用するためには材料のサイズを確実に一定にする必要があるので、材料の供給・加工技術が高度化してから清よりはもう少し前なのかと思います。

  1. 秦始皇兵马俑博物馆 [编],秦始皇陵铜车马修复报告,1998 ↩︎
  2. 李洛旻,《荀子》「接人則用抴」解詁及其禮學意涵,《中國文化研究所學報》第68期,2019, ↩︎
  3. 秦俑坑出土弓弩“檠”新探 ↩︎
  4. https://www.bilibili.com/video/BV1cJ4m1A7ex/ ↩︎

狩猟に使われたローコスト・クロスボウ

Annual report of the Board of Regents of the Smithsonian Institution 1936.P439

クロスボウについては特に専門ではありませんが、原始的な狩猟用に使われているクロスボウに関する情報が少なかったので、まとめて記事にしました。クロスボウの起源は(地域としての)中国のあたりで、紀元前7世紀頃とされていますが、記録に残っている物、出土しているものはほとんどが武器・副葬品として製作されたもので、贅沢に高価に金属が使用されています。

ナイジェリア、ベナンの戦士によって使用されていた物(裏返し)
The Trustees of the British Museum. Asset number 1613686494
The Origin Of West African Crossbows

では、庶民が狩猟に使用していた「低価格」なクロスボウはどんなものだったかというと、原材料は木と糸…ほぼセルフボウですね。引いた弦を上の溝に入れて固定し、発射時にはピンで下から弦を押し上げて発射するという至ってシンプルな構造になっています。狩猟具は武器や副葬品と違い、作りはシンプルで、金属も使われていないために、古いものが出土することはほぼないのですが、現在でも西アフリカやアジア、20世紀前半のノルウェー(捕鯨のためなので多分もう使ってない)とネイティブアメリカンによって使用されています。

見ての通り、ストロークが短いので、強い矢を発射することは出来ず、西アフリカでは4-5m(15フィート)の距離で小型動物か毒矢との組み合わせで使用されました1。伝播としてはアジア島しょ部へは直接中国から、またはベトナムを通してと考えられており、東アフリカにはクロスボウ文化がことから、ヨーロッパからは陸伝いではなく、船によって14-15世紀にクロスボウが、航路的にヨーロッパに近い西アフリカに伝わったと考えられています2

また、ベナン地域には独自の伝説が存在し、

ベナンの伝承では、普通の弓を発明したオバ・エウアレの治世に生きたベナンの神格化された英雄の一人、イシのアケ・オブ・イロビ(Ake of Ilobi)がクロスボウの考案者でもあるとされている。

https://www.britishmuseum.org/collection/object/E_Af1940-22-2

とされていますが、専門家の間ではアフリカ土着の発明品ではないとする学者が多数派のようです3

山陰中央新報より

もちろん、日本でもクロスボウ(弩)は使用され、近年出土していますが、いずれも、金属製のトリガーで使用するタイプのもので、庶民が使うような低価格クロスボウはまだ発見されていません。上の記事、専門家がクロウボウを復元してその性能実験を行っていますが、もう違法な研究になってしまったのでしょうか。これから日本における弩の研究はどうするんですかね。残念です。

  1. Paul Belloni Du Chaillu, Explorations & Adventures in Equatorial Africa ↩︎
  2. Henry Balfour,The Origin Of West African Crossbows,1911 ↩︎
  3. Newsletter of the African-American Archaeology Network,Number 16, Spring-Summer 1996 ↩︎

墨絵弾弓 正倉院の引かない弓  

八幡一郎 編著『弾談義』より

【修正】白川様より連絡いただき、呉越春秋の日本語訳の一部を変更しました。

正倉院の宝物庫にある墨絵弾弓(すみえのだんきゅう)というものがあります。この「弓」についてはあまり知られていないようなので、今回は弾弓についてです。最初にすごく簡単に説明すると、弾弓は土を固めた玉とか、丸い石を飛ばすための弓のことです。

https://yushu.or.jp/

正倉院の墨絵弾弓の弾弓はあまり知られていないと書きましたが、「墨絵」の方は有名で、何度も特別展などで展示されていて、人気で切手にまでなっています。弓であることが全くわからない切り抜きをされていますが…。墨絵弾弓は弓であるというよりも、その書かれている墨絵に興味を持たれていて、書かれているのは最古のサーカス(散楽)です。この絵は「演劇風俗史上逸することの出来ない重要なもの1」とされています。

「正倉院の弓」と書きましたが、この弓が日本で製造されたのかは不明です。絵は中国甘粛省の壁画にあるものと近似していて2中国のものであるのは間違いないのですが、弓の特徴は日本の弓に近い特徴を持っています。そのため、2020年時点での公式見解は、中国・唐または奈良時代(8世紀)となっています。

考古学者による研究の弓の引き込み量がでたらめと書きましたが、と、同時に、この論文では出土した「弓」を扱っているに過ぎないのに、無意識にそれが弓矢であると大前提で考えています。

インド高原の未開人 : パーリア族調査の記録

正倉院の弓は8世紀とされています。この時代まで、日本には弾弓はありました。である以上、少なくとも8世紀以前の弓は「矢」を射つものであると精査せずに定義することは出来ないはずです。論文では15cmしか引けない事を、矢が射てないとして、実験結果として拒否する態度を取っていますが、しかし、15cmは弾弓として十分な性能です。

最初に弾弓の説明を簡単にしましたが、弓矢は投槍器(やりを投げる)の延長上に誕生したとされています。一方で、弾弓はもうお分かりのように、投石(石を投げる)の延長にあります。

弩は弓より生じ、弓は弾より生じ、弾は古の孝子に始まったと聞いております | 臣聞弩生於弓,弓生於彈,彈起古之孝子。

呉越春秋勾踐陰謀外伝第九

2000年前に書かれた「呉越春秋」では、弾弓から弓矢が、弓矢から弩(クロスボウ)が生まれたとしていて、まぁ、弓矢の誕生には「弓」と「矢」が必要ですが、世界最古の武器(?)である石はどこにでもあるので、「弓」だけで弾弓は成立するわけですから、弓矢より先にあったと言われても納得はできるでしょう。一応、続きとしては、

昔は、人民は質朴で、腹が減れば鳥獣を食べ、喉が渇けば霧露を飲み、死ねば白茅で包み、野に投じられました。孝子は、父母が禽獣に食べられるのに忍びず、ゆえに弾を作ってこれを守り、鳥獣の害を絶やしました。ゆえに歌に「竹を断ち、木に属し、土を飛ばし、害を逐う」というのは、このことをいうのです。ここにおいて、神農・黄帝は木に弦を張り弧を作り、木を削って矢を作り、弧矢の利点は四方を威圧しました。黄帝の後、楚には弧父がいました。弧父は、楚の荊山に生まれ、生まれて父母がなく、子供の時、弓矢を習い、射て外すことはありませんでした。その道を羿に伝え、羿は逄蒙に伝え、逄蒙は楚の琴氏に伝えましたが、琴氏は弓矢は天下を威服するのに足りないと思いました。この時、諸侯は互いに撃ち合い、兵刃は交錯し、弓矢の威力では征服することはできませんでした。琴氏はそこで弓を横にし臂に付け、引き金を設けて、これに力を加え、そののち諸侯を征服することができました。

白川祐, 呉越春秋勾踐陰謀外伝第九 日本語訳 https://haou.shirakawayou.com/page-614/

弾弓は鳥を射るものの道具で、孝子(親孝行な子)はこれを用いて、両親の屍に群がってくる鳥を根絶やしにしたとしています。鳥に用いたことは、現在も弾弓を使用する民族の記録からも確かめることが出来ます。

The Flute and the Arrow 1957

(弾弓は)弦の両端に小さな横木を取り付けて弦を2つに分け、2本の弦の中央部を布で連結しておく。そして、この布の部分に小石をはさんで引き絞り、飛ばす弓だ。これだと、矢で射たのでは肉が飛んでしまう小鳥などの小動物を猟るのに適している。

佐々木高明 著『インド高原の未開人 : パーリア族調査の記録』,古今書院,1968.P109

弓矢も道具として手に入れた後でも、弾弓が実用的なもので、弓矢に取って代わらなかった理由としては、上記のように、オリンピックポイント(シャフトと同口径)ではなく、大きな鏃で小動物・小鳥を射てしまうと、食べることが飛んでいってしまって、食に適さないからだとしています。

実際の弾弓の引き方、利用の仕方はThe Flute and the Arrow 1957(邦題 ジャングル・サガ)で確認できます。現在のユーチューブにアップされているものでは、16:30あたりからです。

The Flute and the Arrow 1957(邦題 ジャングル・サガ)

【追記】

考古学において、石が武器として研究されないのは、槍や矢などの武器のように刺す武器と違い、骨に使用した痕跡を残さないためだと考えます。

  1. 岡田譲 編著『正倉院の宝物』,社会思想研究会出版部,1959. ↩︎
  2. 奈良国立博物館編,正倉院展,2020, ↩︎

ヨーロッパ最古の矢じりと日本への伝播

マイクロポイント(10mm以下)

自分は最近知った情報なのですが、ウィキペディアは去年の10月には更新されていました。こういう情報のアップデートをいち早く知るにはどういたらいいのだろうか。これまで最古の矢じりはアフリカの7万年前のもの1とされていましたが、昨年の論文で54,000年前のフランスのマンドリン洞窟から矢じりが発見されたそうです2。ヨーロッパ地域では最古の矢じりとなります。これまでヨーロッパの弓矢の最古の証拠は約10,000〜12,000年前のものとされていて、多くのアーチェリー関係の本でも、1-2万年前を採用していますが、こうなってくるとやはり、弓矢の歴史を7-5万年前とする説が有力になってきましたね。

発見された213個の矢じり(仮)はサイズによって分類されて、写真下の数字1は弓矢、2は投槍器、3はやり投げ、4は両手で突くを示していますが、10mmは未満のものはそのサイズから矢として使用されたと断言して良いとしています。

そして、あとはやることといえば、前の記事で紹介した再現してヤギを射ることですね。

こちらのチームも再現して、いろいろな投射方法によって吊るされたヤギに当てて、その結果を統計分析しています。今回の論文の写真3はヤラれる前のヤギだったのでモザイクをする必要がなく助かります。

こちらは2021年の段階でのおおよその弓矢の証拠の分布です。ちなみにKaは1000年(kilo annum)という意味です。ここのフランスが大幅に更新されたということになります4

論文の最後には参考文献が書かれているのですが、それをなんとなく眺めていたら、「日本における最初の人類による弓矢技術の使用5」という面白そうな論文を発見しました。ちょっとちゃんと読む時間がなかった&この記事とは直接関係ないので、AIに要約させてみたのですが

本研究は、日本の初期後期旧石器時代の台形石器が狩猟用の矢じりとして投射されていたことを示しています。これにより、人類が日本列島に到達した時点(38,000年前)で、すでに弓矢技術を持っていた可能性が示唆されます。この技術は、森林が豊かな環境での狩猟において重要な役割を果たしていたと考えられます。

https://www.perplexity.ai/ with GPT4-o 

と38,000年ほど前から日本で弓矢が使用された可能性があるとのことでした。これに関連する記事を書くかはわかりませんが、心に留めておきます。

  1. Marlize Lombard, Quartz-tipped arrows older than 60 ka: further use-trace evidence from Sibudu, KwaZulu-Natal, South Africa, Journal of Archaeological Science, Volume 38, Issue 8, 2011, ↩︎
  2. Laure Metz et al. ,Bow-and-arrow, technology of the first modern humans in Europe 54,000 years ago at Mandrin, France.Sci. Adv. ↩︎
  3. Laure Metz, Supplementary Materials for Bow-and-arrow technology of the first modern humans in Europe 54,000 years ago at Mandrin, France ↩︎
  4. Lombard, Marlize & Shea, John. (2021). Did Pleistocene Africans use the spearthrower‐and‐dart?. Evolutionary Anthropology: Issues, News, and Reviews. 30. 10.1002/evan.21912. ↩︎
  5. Katsuhiro Sano, Evidence for the use of the bow-and-arrow technology by the first modern humans in the Japanese islands, Journal of Archaeological Science: Reports, Volume 10, 2016, ↩︎