この記事は2023年3月9日に書かれたものです。最新の情報とは異なる可能性があります。ご注意ください。

フィットネスとしての復興 – 歴史編. 8

イギリスのあらゆる記録に17世紀にアーチェリーは衰退したと書かれていますが、その理由は時代です。一つはアーチェリーが法定スポーツではなくなったこと、これにより、アーチェーと地主の間でトラブルが頻発します。もう一つは政治です。ホーレス・フォードはその著書で1625年にチャールズ1世が引き続きアーチェリーを庇護するよう指示したものの、1633年までロンドン市議会はこれを無視し続けたと書いています。それもそのはずで、その後、議会側勢力と内戦となり議会側が勝利し、王様は処刑されます。世界史で習ったピューリタン革命です。その後も名誉革命が起きたりと、イギリスでは混乱が続きますが、20年間活動記録のなかったアーチェリー団体のロイヤル・アーチャーズ・カンパニーが1704年にアン王女から権利に関する勅許状を得たことから、この時期には情勢は落ち着きつつあったのではないかと思われます。しかし、初期の広大なフーチェリーフィードルを使用したアーチェリーが1761年以降に行われた記録はありません。

(ここからの話は以前にも記事にしており、それらを再編集しています)

現在につながる近代スポーツとしてアーチェリーを広めたのは、ランカシャーの”貴族”であるアシュトン リーバー卿です。貴族についてはaristocratとの表記ですが、後で検討します。

これまでのイギリスではアーチェリーはそれ自体が目的ではなく、その結果として獲物を捕える、軍事力の強化、または勝負事(賭博)が目的でした。しかし、彼は「長時間机に近づきすぎて、胸を机に押し付けすぎたことによる胸への圧迫を軽減する」ために、アーチェリーをすること自体に価値を見出すフィットネスとして採用しました。この考え自体は新しいものではなく、リチャード・ミュルカスタは1581 年の著書で「医師たちは、アポロンとアスクレピオスをアーチェリーの代表にして守護者とするという点で、健康のためにシューティングすることを十分に称賛しているようだ。」と書いています。https://www.gutenberg.org/files/62025/62025-0.txt

この考えのもとに仲間が集って、イギリス最古のアーチェリー協会「the Toxophilite Society」を設立します。1781年、協会の会計によれば、最初の支出は「ブランデー、ラム酒、ワイン、ジン、真鍮のコルク抜き」だったので、運動してパーティーするカジュアルな競技団体だったようです。

1787年に王室がパトロンになって高価な賞品を提供するようになると会員は急激に拡大し、多くの協会ができ、the Toxophilite Societyのメンバーは1784年に24人だったのが、1791年には168人に拡大します。ここで検討すべきは「貴族」という言葉です。当時の人口を考えると、ここで語られているのは純粋な「貴族」だけではなく、「地主貴族(ジェントリ)」も含まれると考えられます。後のジェントルマンになっていく人たちです。

当時のアーチェリー大会は現在のものとは大きく違い、Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回して競技を行いました。会員たちはこの日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進し、会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射されました。矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られます。

射的の後には晩餐会や舞踏会が開かれ、詩や歌が披露されることもあり、裕福な協会はロッジを建てて祝宴を開き、小規模の協会はマルシェや地元の居酒屋を利用したようです。

アメリカの19世紀の本ではクリケットとの比較について語られていますが、アーチェリーは軽い運動であったために、1780年にできた協会では女性の参加が許可されます。男子の弓が46-50ポンド程度だっのに対して、女性の弓の強さは24-32ポンド程度です。表示ポンドだと考えられるので実質はもっと低かったでしょう。多くの協会は女性に開かれ、成人男子の義務だったアーチェリーは男性貴族たちの飲み会を経て、男女貴族の社交場になります。

the amazon archers of england より

男性のアーチャーは、優雅で優美な女性のアーチャーを賞賛し、楽しんだに違いありません。 ここでは、当時の多くの町に建設され、性的観戦や求愛の場として悪名高い新しい公共の文化施設との類似点をえがくことができます。 実際、これは集会室、遊園地、劇場、ホールの存在理由の一部でした。 アーチェリーは、キューピッドとその弓矢というロマンチックな連想とともに、男女が対等(The Social equal)に出会い、眺め、楽しむ機会を提供したのです。

Archery, Romance and Elite Culture in England and Wales, c.1780–1840.

当時のアーチェリー協会には厳しい入会資格があり、そこに入会できるということは広義的な意味で貴族であり、身分が対等だったので、当時の社会的に適切な出会いの場になったというわけです。実際に会員同士が結婚したという記録も残っています。以前に取り上げた大陸側の射撃祭も、身分関係なく売春婦も参加したものだったので、そちらもある意味”対等”な出会いの場だったかもしれません。

the book of archery より

飲み会から社交場、さらに出会いの場という認知されていったことで、アーチェリー大会は更に豪華なものになっていきます。1791年、Royal Toxophilite Societyの設立によるアーチェリーの復活から11年後、多くなっていたすべてのアーチェリー協会の公開ミーティングがBlackheathで開催されます。1792年と1793年にも同様のミーティングが開催されたものの全国アーチェリー大会はここで終了します。

革命と内戦によってアーチェリーが中断さりた17世紀同様、ナポレオン戦争(1799-1815)により、多く貴族が駆り出されたことで、アーチェリー競技がまたもや衰退し、1815年のワーテルローの戦いでイギリスの勝利が確定し、貴族たちが帰国するまで続きます。戦後にアーチェリー大会は豪華さ絶頂期に達します。

大きな大会(飲み会)になると参加者は1000人を超えていたようで、貴族たちは持ち回りで自分の屋敷や、クラブハウスで大会を主催していたので、みんな大会に行くのは楽しみでも、自分が主催の順番になると困ったことになっていたようです。

この状況を変えたのは産業革命で、金持ちとして貴族(地主)の他に資本家が台頭してきます。18世紀までは多くの協会は、紹介制は当然のことながら、紹介があっても、入会には3世代にわたる血統書の提出を求めて、審査したりしていましたが、アーチェリー大会の開催に多大な資金がかかるようになり、お金を持っているだけで入会できるようになっていきます。

さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終え、閉じたコミュニティではなくなり、純粋にアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備に向かっていきます。こうして、フィットネスを兼ねた社交競技から純粋なスポーツへの道を歩んでいくことになります。

現代のアーチェリー技術を築いたホレース・フォードは、この時代をこのように語っています。

残念ながら、かつて 18 世紀の終わりと、今世紀の最初の半分の間に輝いた「比較できないほどの素晴らしいアーチャーたち」から得るものは何もない。

アーチェリーの理論と実践
Royal Toxophilite Society Hallの内装

アメリカアーチェリーの祖であるモーリス・トンプソンも著書の中でイギリスに触れ、

「Royal Toxophilite Society」は女王の後援を受けており、美しく装飾された敷地の中に、古いイギリス様式の壮大な宴会場を所有している。アメリカでは、「Wabash Merry Bowmen」と「Staten Island Club」がある。もてなし上手な友人の指揮のもとで開催されるプライベートな社交場で、数人の気の合う仲間を呼び寄せて午後のひと時を陽気に過ごし、シンプルでカジュアルなディナーで締めくくります

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878

と書き、イギリスの豪華絢爛な宴会場で行われるアーチェリーは本質的ではないと批判しています。この時代に競技はフィットネス的なものでしたので、アーチャーの技量は低く、この時代のアーチャーが高く評価されることはありませんが、アーチェリー競技の復興のきっかけとなったことは間違いありません。


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Ryo

(株)JPアーチェリー代表。担当業務はアーチェリー用品の仕入れ。リカーブ競技歴13年、コンパウンド競技歴5年、2021年よりターゲットベアボウに転向。リカーブとコンパウンドで全日本ターゲットに何度か出場、最高成績は2位(準優勝)。次はベアボウでの出場を目指す。

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