ヨーロッパ最古の矢じりと日本への伝播

マイクロポイント(10mm以下)

自分は最近知った情報なのですが、ウィキペディアは去年の10月には更新されていました。こういう情報のアップデートをいち早く知るにはどういたらいいのだろうか。これまで最古の矢じりはアフリカの7万年前のもの1とされていましたが、昨年の論文で54,000年前のフランスのマンドリン洞窟から矢じりが発見されたそうです2。ヨーロッパ地域では最古の矢じりとなります。これまでヨーロッパの弓矢の最古の証拠は約10,000〜12,000年前のものとされていて、多くのアーチェリー関係の本でも、1-2万年前を採用していますが、こうなってくるとやはり、弓矢の歴史を7-5万年前とする説が有力になってきましたね。

発見された213個の矢じり(仮)はサイズによって分類されて、写真下の数字1は弓矢、2は投槍器、3はやり投げ、4は両手で突くを示していますが、10mmは未満のものはそのサイズから矢として使用されたと断言して良いとしています。

そして、あとはやることといえば、前の記事で紹介した再現してヤギを射ることですね。

こちらのチームも再現して、いろいろな投射方法によって吊るされたヤギに当てて、その結果を統計分析しています。今回の論文の写真3はヤラれる前のヤギだったのでモザイクをする必要がなく助かります。

こちらは2021年の段階でのおおよその弓矢の証拠の分布です。ちなみにKaは1000年(kilo annum)という意味です。ここのフランスが大幅に更新されたということになります4

論文の最後には参考文献が書かれているのですが、それをなんとなく眺めていたら、「日本における最初の人類による弓矢技術の使用5」という面白そうな論文を発見しました。ちょっとちゃんと読む時間がなかった&この記事とは直接関係ないので、AIに要約させてみたのですが

本研究は、日本の初期後期旧石器時代の台形石器が狩猟用の矢じりとして投射されていたことを示しています。これにより、人類が日本列島に到達した時点(38,000年前)で、すでに弓矢技術を持っていた可能性が示唆されます。この技術は、森林が豊かな環境での狩猟において重要な役割を果たしていたと考えられます。

https://www.perplexity.ai/ with GPT4-o 

と38,000年ほど前から日本で弓矢が使用された可能性があるとのことでした。これに関連する記事を書くかはわかりませんが、心に留めておきます。

  1. Marlize Lombard, Quartz-tipped arrows older than 60 ka: further use-trace evidence from Sibudu, KwaZulu-Natal, South Africa, Journal of Archaeological Science, Volume 38, Issue 8, 2011, ↩︎
  2. Laure Metz et al. ,Bow-and-arrow, technology of the first modern humans in Europe 54,000 years ago at Mandrin, France.Sci. Adv. ↩︎
  3. Laure Metz, Supplementary Materials for Bow-and-arrow technology of the first modern humans in Europe 54,000 years ago at Mandrin, France ↩︎
  4. Lombard, Marlize & Shea, John. (2021). Did Pleistocene Africans use the spearthrower‐and‐dart?. Evolutionary Anthropology: Issues, News, and Reviews. 30. 10.1002/evan.21912. ↩︎
  5. Katsuhiro Sano, Evidence for the use of the bow-and-arrow technology by the first modern humans in the Japanese islands, Journal of Archaeological Science: Reports, Volume 10, 2016, ↩︎

日本における複合弓の誕生

聖徳太子が用いたとされる丸木弓

私のような素人にできるものはほぼないのですが、「それぞれ」の分野には諸先輩が残した大変優秀な研究があります。考古学・古代史・日本書紀研究・中国史・弓道の分野に研究結果が点在しており、まとまっていなかったものを「日本の複合弓化」という軸でまとめたものになります。

上の写真は奈良時代(8世紀)の丸木弓ですが、これはいわゆるセルフボウで木を削って作っていくわけですが、これは日本の弓というよりかは、世界中で初期の弓は間違いなくこれでしょう。木の棒を削って弾性を持たせた最も単純な弓です。

世界中の多くの地域でこの単純弓からより反発力の高い複合素材の弓に進化していくわけですが、その時期は地域によって異なり、日本では8世紀から9世紀に丸木弓のバック側(的側)に竹を張り合わせた伏竹弓に進化していきます。

前の記事で600年頃から正式に中国との交流が始まったと書きましたが、早速610年に膠が日本に伝わります。異なる素材から1つの弓を製造するのに欠かせないのは接着剤です。膠は現在でも和弓の製造に使われているほど優れた接着剤です1。この素材と製法が日本に伝わるのは複合弓誕生の最低条件です。

761年に中国(唐)は安史の乱によって乱れた軍備を整える目的で、日本に武器の見本等を与えたうえで、弓を作るための牛角を贈ってほしい要求し、それに応じて牛角7800隻を備蓄し送ることを決定しています。輸送船の座礁により届かなかったようですが…。

Peter Dekker, Manchu Archery

上の写真は角弓を分解したものですが、にんじんのピーラーのように牛の角(70-90cmほど)をスライスした物(①)を弓のフェィス側に張ることで反発力を高める役割をします。唐が弓ではなく、その素材を日本に求めて提供していることから、角弓の作り方自体は遣隋使の時代(600-618年)に日本に伝わった2とされているものの、当時の日本には牛角複合弓を製造する事をしなかった(できなかった)と言えます。

明治前日本造兵史より

一方で、この頃(8世紀)の遺跡からは、すでに複合素材弓が発掘されています。上は伏竹弓の断面図ですが、下の部分の木だけで出土しています。つまり木に何かを張り合わせた弓であることはわかるものの、張り合わせた素材は失われているので推測するしかない状態です3。木と組み合わせる素材は動物の角・腱・他の木材であることが多いのですが、同時期に中国に大量の角を送っていることから、これらは竹とのペアではないかと推測されます。

11世紀ごろには明確に「伏竹弓」という日本語が登場するので、この頃の和弓は竹とのペアであったことが確定します。その後は、いろいろなパターンで竹と木を組み合わせることで、和弓が進歩していきます。複合素材弓となったのちの進化については詳しく研究されているので、それらをご参照ください4

今後7世紀の遺跡からも複合素材弓と見られる弓が発掘され可能性がないとは言えませんが、現状では7世紀前半に日本に膠による接着技術が伝わってから100年程度の期間で日本人が独自の複合弓(木+竹)を作り上げたと言えます

最後に話は少しそれますが、日本書紀には韓国(百済)に支援として大量の矢を送った記録(27巻では10万5)が存在していますが、大量に弓を送ったという記録はありません。当時の記録を見ても、現在の韓国の伝統弓を見ても、韓国の弓は中国に大きな影響を受けているので、矢は共通のものだったので送ったけど、使っていた弓は大きく違うので送らなかったと理解していますが、違う説として、日本が当時韓国(百済)と武器の共有化政策を行っていたという説があります。公開されているので良かったら読んでみてください6。武器の共通化(標準化)のメリット7は現代ではよく知られていますが、6-7世紀にその理解があったのかについては個人的には疑問です。

今回は道具についてでした。来週を目処に国際交流の日本への影響の弓術の影響についてまとめて終わりにしたいと思います。

  1. 寒気と技で理想のカーブ「にべ弓」最盛期 兵庫・上郡 ↩︎
  2. 陳睿垚,七世紀における日本の礼制継受–薬猟を視点として,愛知県立大学大学院国際文化研究科論集,2022 ↩︎
  3. 津野 仁. 古代弓の系譜と展開. 日本考古学 / 日本考古学協会 編. (29) 2010.5,p.81~102. ↩︎
  4. 日本学士院日本科学史刊行会 編『明治前日本造兵史』,日本学術振興会,1960. ↩︎
  5. 日本書紀・現代日本語訳(完全訳) ↩︎
  6. 原始和弓の起源 2015年『日本考古学』 ↩︎
  7. 橋本毅彦,「ものづくり」の科学史 世界を変えた《標準革命》,講談社学術文庫,2013 ↩︎

【後半追記】メモ:初期弓術の日中交流について

弓術の日中交流についてこれから記事を書いていくわけですが、書く前から、自分でも混乱しています。この記事は現状では意味不明な点もあるかもしれませんが、今後、修正して良いものに仕上げていきます。ご理解ください。

一番の問題は和弓も中国の伝統弓道とも、ある程度距離がある立場なので、日中のお互いの気持がよくわからないのです。

中国との交流は4・5世紀頃、応神天皇以降ですが、日本文化への影響は多大。弓についての文献も多く、周礼や後漢書、特に礼記(中国、儒教の経書で五経の一つ)の「射義」の思想は日本の弓に大きく影響し、現在の弓道読本の冒頭にも記されています。日本古代からの弓矢の威徳の思想と、中国の弓矢における「射をもって、君子の争いとなす。」という射礼思想礼から、朝廷行事としての射礼の儀が誕生

全日本弓道連盟 - 弓道の歴史

日本の弓道連盟は、中国との交流は日本の弓道に大きな影響を与えたということをホームページでも認めているのですが、では具体的にどんな交流があり、どのような影響があったのかについては、私が調べた限りでは調査も研究も行われていません1。和弓側は影響は認めるが…以上。という態度のようです。

一方で、中国では伝統弓道が日本の和弓に与えた影響について研究はされていますが、馬明達(国華南師範大学体育学院客員教授、国際武術研究会創立者)によって書かれた論文2では、「錬金術師の徐福が日本に渡ったという伝説を信じるなら、中国の優れた弓術と高度な弩の技術は、秦の時代には早くも日本に渡っていたことになる」と書き、江戸時代に徳川吉宗が中国弓術の観覧を行ったというだけの記述から「清朝初期(17-18世紀)まで中国の弓術が日本に多大な影響を与えた証拠」としているが…。

現在、私に見えている景色は、和弓には中国の影響が大きいと認めつつも深入りしたくない日本側と、伝説まで引用して江戸時代中期まで大きな影響を与えているとする中国側の態度です。どーしましょう。ということで、まずは思想と事実関係の整理から始めます。

最初に中国側で弓についての記録が登場するのは魏志倭人伝ですが、280-297年頃に書かれました。議論があるところではありますが、伝聞とされていて、実際に弓の技術についての交流はなかったと推測できます。

予想される最初の交流は遣隋使(600年~)で、当時の記録に護衛としてアーチャーが船に乗っていたと書かれています。当然、日本の弓矢を所持して状態で中国にたどり着いているので、文書に残らないレベルと、現地において中国と日本のアーチャーで交流の始まりはこれ以降でしょう。

659年、伊吉博徳が唐の皇帝・高宗と謁見を行い、蝦夷の男女2名を献上し、彼らは頭に瓢箪を乗せて、数10メートルの距離から矢を放ち、全矢命中したと記録されています3。このあたりから弓術の交流が記録され始めます。

735年、17年にも及ぶ遣唐留学した吉備真備は帰宅時に大量の弓矢を持ち帰ったことが記録されています4。その後、吉備は軍師・軍事家として大活躍しました。遣隋使・遣唐使で、日本は中国から多くの知識を得たものの、そちらの知識をどう評価するのかという点において、中国で兵法を学んだ吉備が、数々の戦で勝利した史実は、持ち帰った知識の価値を大いに高めたと考えます。

吉備大臣入唐絵巻

実際の弓術の交流の最古の記録は715年の射礼です。射礼とは483年から宮中で行われていた弓術競技です(*)。そこに日本に派遣された海外の使者(蕃客)が参加する事で日本初の弓術による国際交流が始まります。射礼には自国の弓で参加することになっていました。647年に高麗・新羅(朝鮮)、740年には渤海(中国東北部からロシア沿岸地方にあった)が参加している記録があります。

*日本書紀は正確ではないとされる部分が多いですが、蕃客が実際に来ていたという部分に対する批判はありません。

高句麗古墳壁画の図像構成5

どのような弓で参加していたのかの記録はありませんが、当時の他の記録を見る限りでは、短いオーバードロータイプのリカーブボウ(角弓)だったと推測されます。この射礼の意義として、大日方は「全官人(日本人)が同じ形状の和弓を所持して射る、蕃客(外国人)はその国の異型の弓で射る。これによって、天皇に対す全官人の服従奉仕と、諸蕃(海外)の従属という天皇を中心とした礼的秩序を表現する儀式となる」としています6

  1. 武道全集,弓道講座,現代弓道講座,弓道 : その歴史と技法,弓射の文化史 原始~中世編,を調査しました ↩︎
  2. Ma, M. (2023). Chinese Archery’s Historical Influence on Japan. In: Chao, H., Ma, L., Kim, L. (eds) Chinese Archery Studies. Martial Studies, vol 1. Springer, Singapore. ↩︎
  3. 令人戴瓠而立、數十歩射之、無不中者。(唐会要 100巻 蝦夷国), 令人戴瓠立數十歩,射無不中(新唐書 220巻 列伝第145 東夷 – 日本) ↩︎
  4. 東野治之,遣唐使と正倉院,岩波書店, 2015,P32-33 ↩︎
  5. 南 秀雄,高句麗古墳壁画の図像構成 : 天井壁画を中心に,1995-03-25 ↩︎
  6. 大日向克己 [著]『古代国家と年中行事』. https://dl.ndl.go.jp/pid/3103800 (参照 2024-06-22) ↩︎

note : 仁徳天皇十二年(324年)秋七月三日、高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉った。との日本書紀の記録は虚偽だとされている

考古学にごめんなさい

マイナビ進学より

考古学と聞いてどんなイメージでしょうか。私はまさに上記のようなイメージで、発掘されたものを分類して、分析して、保管して、資料にまとめる、まぁ、文系+体育会系の体力(*)のお勉強だと思っていました。

*ただ最近映像を見ると学者自身ではなく若者を動員しているようです

現在では、1983年から発掘調査が行われているシブドゥ洞窟(Sibudu Cave)で発見された7万年以上前の矢じりなどが最古のものとされています。弓と矢は10万年以上前から使用されていると”推測”されているので、考古学における「最古の弓の記録」はさらに更新されていくのでしょう。

弓術はいつ誕生したのか – 歴史編. 2

そのために呑気にこんな馬鹿な文書を書いてしまいましたが、反省です。現在、先史時代(文字がない時代)の弓についてもう少し理解を深めようと思っています。

Multidisciplinary Approaches to the Study
of Stone Age Weaponry

私の理解は2000年代に出版された本のレベルにしかないので、最新のものを探してみたら、2011年にドイツで行われたワークショップ「石器時代の兵器研究」をまとめた本を見つけました。もちろん、これでも13年前なので最新とは言えませんが、日本の研究者も参加していますし、ここをスタートにしていろいろ読んでいます。

投げる手の上腕骨後屈角度

そこで最新の考古学に触れ反省しています。想像していたものと全く違うレベルでの議論がなされています。例えば、いつ頃から物を投げていた(遠距離投射武器)かの時期の特定のために、スポーツ医学での上腕骨後屈角度の非対称性研究という研究を、発掘された化石の標本と比較して、「野球肘」のような状態が後期旧石器時代の中期(約4万年前から1万3000年前)から見られることから、この時代には物を投げていたと推測するわけです1

*関係ないがUpper(アッパー) Paleolithic demonstrateが後期旧石器時代なのは納得いかない…お前は前期だろ。

(解像度を下げる処理をしています)

または、尖った石が遺跡から発見された時、それが槍の先についていたのか、矢の先についていたのかを目で見て判断することは主観に過ぎないので、「尖った石がどのスピードで動物に当たると、(矢or槍の先端は)どのように損傷するのか」を研究することで2、発見された尖った石についた傷から、どちらの用途で使用されたものであるのかを特定しています。うん…全然教授先生が「こうだ!」と叫ぶ世界ではなく、しっかりとした科学でした。ごめんなさい。マイナビ進学さん…これ文系か??

ということで、私はもっと古いものが見つかれば、弓の歴史はどんどん長くなると考えていましたが、これより前の人類は物を投げていなかったという研究も十分に可能でした。現状、8万年前が限界値で、①8万年前のアフリカ、②5万年前にアフリカから進出した人類、③5万年~4万年前のアフリカ・近東・ヨーロッパ地域の3つの説3が有力とされているようです。

いつかは10万年とか言って申し訳ない。勉強します。

  1. Jill A. Rhodes, Steven E. Churchill, Throwing in the Middle and Upper Paleolithic: inferences from an analysis of humeral retroversion, 2006 ↩︎
  2. Multidisciplinary Approaches to the Study of Stone Age Weaponry, 2016 ↩︎
  3. John J. Shea, The origins of lithic projectile point technology: evidence from Africa, the Levant, and Europe, 2005 ↩︎

射法の分類についての研究たち

アーチェリー場の開拓がほぼ終わり、現在は安全対策でまだ不十分な点があるので、危ないことしない知り合いに限定してオープンしています。5月まだ終わっていませんが、5月の売上は5000円ほどになりそうです。流行るものでもないと思うので、このペースで良いのかなと思っています。

20本くらいいた、来年はツイッターでお知らせします

2年前にアーチェリーの歴史に関して簡単にまとめてみました。他の記事と違い、今でも、新しい情報があれば追記したり、書き直したりしてメンテナンスをしていますが、モースの射法の分類について翻訳したので、今年の後半は射法の歴史について取り組んでみたいと思っています。

まず、この記事は射法の分類研究の現在の状況についてまとめました。

1885年の「古代と現代のリリース 射法について」でモースは壁画・彫刻・絵画などから、リリースをおおよそ3つのタイプに分類しました。発表されたのは学会誌だったので、著書の最後には「もっと情報を私に送ってください」とあります。37年後の1922年に、彼はその間にさらに収集した情報をもとに「ADDITIONAL NOTES ON ARROW RELEASE(矢のリリースに関する補足説明)」を発表します。しかし、人類学者のモースの関心は射法とはなにかにあったわけではなく、彼はひたすら、リリースについての資料収集に注力しました。

アメリカ先住民の研究中心に行っていたクラーク・ウィスラー(Wissler Clark)は1926年の著書1の中で、モースの研究と自身の資料を元にこれらの射法の分布を示しました。

そのうえで射法の分布地域に連続性があると定義して北極を中心とした地図に示すと、モンゴル式(C)を中心として、A→B→Cという順序が存在するのではないかと示唆します。彼もモース同様「埋もれているものがたくさんある、それらを手の構造と心理学の見地から考察すれば、より深い洞察が得られるだろう」と最後に研究は続くとしています。

1927年にアルフレッド・L・クローバー2は地域連続性ではなく、同じような射法が確認されている地域を線でつなぐことで、射法はそれぞれにいくつかの地域でそれぞれ独自に発生したのではないかという説を発表する。

これらの研究者はいずれも著名な学者であり、クローバーは文化人類学の教科書を書いたほどの人なのですが、しかし、私でも論破できそうなほど出来が悪いのです。一般的に偉い学者が間違っていて、何者でもない私の方が正しいことなんて起こる確率は非常に低いですが、時代を考えれば、同時期には今では権威となったノーベル賞すら間違っている説に与えられていました。ウィキに書かれている言い訳を引用すると、

今日、フィビゲルのノーベル賞が誤りだったと結論するのは簡単だが、歴史的に見て妥当ではない。その時代においては、一般的な知識に基づいた正当なものである。1920年から1930年の間の癌研究の状況を分析すれば、なぜフィビゲルが受賞したのかを理解するのは難しいことではない。フィビゲルは誤ったが、時間だけがそれを指摘することを可能にした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%93%E3%82%B2%E3%83%AB

おっしゃるとおりだと思います。以前にマックス・エーンスについてのコタツ記事を書きました。2024年、そこの出ている情報はすべてネット上で収集可能ですが、100年前なら、まずドイツ語の原著の入手だけでも莫大な費用と時間を要したのでしょう。調査をするための環境が違いすぎます。

当時の人類学の評価について調べてみると「ドイツやオーストリアの民族学で発展した伝播主義が日本の研究者、特にスポーツ人類学者に与えた影響力は大きく、20世紀の前半にかけて次第に注目されるようになった。しかし、最近は欧米でも民族学者・人類学者からの伝播主義への関心は薄らいできた。」3とあり、上記の研究は今ではもう古いと考えられているようです(古いと間違っているは違う)

Neolithic archers. Rock painting from Cueva del Roure, Morella, Spain (Beltra´n 1982).

1960年代にビンフォードが「人類学としての考古学」という論文を発表して、人類学と考古学が接近していきます。「いろいろなプロセスがなぜ生じたのかを客観的・科学的に説明することを重視し、そのための研究法を開発した」4とされています。

射法の分類について言えば、それらが見られた地域をマッピングして、地中海式・モンゴル式という文化論を語るのではなく、なぜその地域にその射法が誕生したのか・どう使われたのかを説明する研究が求められていて、上記の3名の偉大な人類学者はいずれもアーチャーではありませんでした。射法の「リリース」という部分のみを抜き出して分類をしたわけですが、射法そのもの自体が一つの「プロセス」であり、正しく分類するためには射法を熟知している必要があると思うわけです。

1920年代で射法についての研究が更新されず、新しい研究手法を取り入れられずに今日に至る理由もここにあるのではないかと思います。

  1. Clark Wissler, The Relation of Nature to Man in Aboriginal America, 1926 ↩︎
  2. Kroeber, A. L. , ARROW RELEASE DISTRIBUTIONS: University of California Publications in American Archaeology and Ethnology, Volume 23. Number 4. ↩︎
  3. 岸野 雄三,総説 人類学とスポーツ–スポーツ人類学とは何か,スポーツ人類學研究,200 ↩︎
  4. プロセス考古学 [Process Archaeology] - イミダス ↩︎

敗者のアーチェリー – 歴史編. 10

第一回全米選手権(Willは会長の弟)

(更新 2024.5.23 南北戦争後の状況の追加)

古くからアメリカ大陸では先住民によって弓は使用されてきましたが、これらについてはここでは扱いません。アメリカという国は1776年にフィラデルフィアで独立宣言がされ、1783年に国として独立します。その独立宣言がなされフィラデルフィアで1828年に最初のアーチェリークラブが結成されます。

クラブ創設者の一人であるティティアン・ピール(日本語のwikiがあるほど有名人みたい)は結成のきっかけを「 1825年、ロッキー山脈への遠征から戻った後、屋外での運動不足を感じ、ビリヤードやボウリングを嫌った数人の友人は、朝食前のアーチェリーと散歩を選ぶことになった。健康的な娯楽には、体系的な組織が必要であることがすぐにわかった。イギリスのアーチャーの本を何冊(*)か読んで、彼らのモデルと経験に基づいて1828年の春、6人の若者がクラブとして一緒に活動することに同意した」と語り、フィラデルフィア・ユナイテッド・ボウマンは「アーチェリーは、古代の最も遠い時代から行われてきたものであり、近代においては、有用で礼儀正しい競技であり、その実践は、健康とレクリエーションに資する活発で有益な運動であると考えられてきた」と宣言し、1840年代の真剣なスポーツというよりは、その全時代の社交的フィットネスとしてアーチェリーが行われていたようです。競技形式としては、主催者(キャプテン)の判断で、120ヤード~60ヤードの間に設定され、通常は80ヤードでした。的は直径40インチで、3射14エンドでの競技を行うものでした。まぁ、1820年代以前の競技形式が定まっていないイギリスのアーチェリー本を参考にしたんなら、そうなるでしょうし、ここまでアメリカのアーチェリーはイギリスと違いません。このクラブは1888年に解散します。ここからアメリカ独自のアーチェリーが誕生します。

*1824年のA Treatise on Archeryをベースとした(SPALDING’S ATHLETIC LIBRARY 1910ED)

フィラデルフィアはアメリカの東海岸北部の都市ですが、アメリカのアーチェリーブームは南部におこります。直接のきっかけは1877年と1878年にモーリス・トンプソン氏の「アーチェリーの魔力」という雑誌の連載記事が話題となり、弓でのハンティングが人気となます。その背景として、南北戦争後の再建期に旧連合国(南軍)地域で、解放奴隷を保護等を名目に、次々に銃の所持が禁止されてしまったことにあります(*)。そのために、19世紀末の先進国であるかも関わらず、ハンティングは弓を使用しなければいけない珍しい状況に追い込まれます。ちみなにこの時、取り上げられた銃は戊辰戦争で使用されたと言われています(**)。

*1870 Va. Acts 510, An Act to Amend and Re-enact Section 7, Chapter 195 of the Code of 1860, with Regard to Carrying Concealed Weapons, ch. 349, § 7 [as codified in Virginia Code, tit. 54 (1873)]、1869-1870 Tenn. Pub. Acts, 2d. Sess., An Act to Preserve the Peace and Prevent Homicide, ch. 13, § 1.、LeBaron Bradford Prince, The General Laws of New Mexico: Including All the Unrepealed General Laws from the Prorugation of the “Kearney Code” in 1846, to the End of the Legislative Session of 1880, with Supplement, Including the Session of 1882 Page 312-313, Image 312-313 (1882) Available at The Making of Modern Law: Primary Sources.、1867 Colo. Sess. Laws 229, Criminal Code, § 149.

**布施 将夫, 1860年代後半の日米間における武器移転をめぐって, 国際言語文化学会日本学研究, 2023

彼は弓による狩猟こそが魅力的なスポーツであると説きます。

現在では、銃による狩猟が流行しているが、健康的で楽しいものとして推奨することはできません。300から700発の散弾を鳥めがけて投げつけるのはスポーツではありません。逆に弓で武装した私たちが鳥に近づくのは難しい。しかし、私たちが成功する可能性が低いことが、このスポーツをより魅力的なものにする。

アーチェリーの魔力

見事な論点ずらしで、弓による狩猟を敗者に与えられたペナルティではなく、むしろ銃に狩猟よりも魅力的なものであるとしています。きっとディベートも強かったのでしょうし、実際に彼は弁護士でした。

もう一点は、この本で彼はアーチェリーの起源であるロングボウについて

イングランド人は軍事における民主主義ほど、国民を強固にするものはないことを知っていた。そこでロングボウを富める者も貧しい者も、貴族も農民も同じ武器とし、この時からロングボウは急速に普及し、長年の練習によって、イギリスのヨーマン(自営農民)は戦闘において世界の恐怖となるまでになった。ロングボウは、貴族と平民、王と紳士(esquire)に共通の森やフィールドスポーツの道具となった。

同上

と書き、アーチェリーは民主主義的、誰でも楽しめるスポーツであると紹介しました。これまでの歴史編を読んでいただいた方はわかるように、1878年当時であっても、イギリスでアーチェリーは決して大衆スポーツであったわけではなく、15-16世紀からイギリス貴族に加えて、17-19世紀前半に加わったジェントリー(地主)、そして19世紀中頃に流入する資本家の間でのスポーツでしたが、アメリカには大衆スポーツとして紹介されます。私はアメリカ人ともアーチェリービジネスをしていますが、彼らがアーチェリーを貴族のスポーツと考えていると感じたことはありません。

弓を構えるデモ隊の参加者、香港(AP)

アメリカでアーチェリーは南北戦争に敗れた元南軍兵士たちの弓であり、近代ではベトナム戦争に敗れたランボーの弓でもあります。アメリカ文化のアーチェリーには独自のニュアンスがあるように感じます。ロビン・フッドやウィリアム・テルの時代には、敵も同じ弓や剣であり、技量で勝利できますが、銃火器が導入された19世紀後半以降のアーチャーは、破れずとも、勝つことはないのです。「たゆたえども沈まず」と言ったところでしょうか。まぁ、スノッブアーチェリーよりはこちらが個人的に好きです。

それはさておき、記事が掲載された2年後にNAA(現在のUSAアーチェリー)が設立され、著者が初代代表となります。1889年にシカゴで初めての全米選手権が開催され、基本的にはイギリス同様ヨークラウンドを取り入れましたが、アメリカのアーチェリー競技の歴史が短い(熟練していない)ために100ヤードは難しいという理由により、ヨークより短距離のアメリカンラウンド・コロンビアラウンドも独自に導入されますが、ヨークラウンドより価値があったわけではありません。

参考

Robert B. Davidson, History of the United Bowmen of Philadelphia: (Organized A.D. 1828)., 1888

Maxson, L. W. (Louis William), Spalding official archery guide, 1910

Maurice and Will H. Thompson, How to train in Archery Being a complete study of the York Round, 1879

Mark Anthony Frassetto, The Law and Politics of Firearms Regulation in Reconstruction Texas, 4 Tex. A&M L. Rev. 95 (2016).

弓術はいつ誕生したのか – 歴史編. 2

Cave of Archers(エジプトにある紀元前4300年から3500年に書かれた壁画)

更新: 2024.05.12

弓術の前には弓と矢が必要なわけですが、それがいつ誕生したのかは考古学者さんたちの素晴らしい仕事によって変化しています。1964年に出版されたアーチェリーガイドブックでは、スペイン半島の1万数千年前の壁画が最古の史実とされています。その後にも多くの発見があり、現在では、1983年から発掘調査が行われているシブドゥ洞窟(Sibudu Cave)で発見された7万年以上前の矢じりなどが最古のものとされています。弓と矢は10万年以上前から使用されていると”推測”されているので、考古学における「最古の弓の記録」はさらに更新されていくのでしょう。

さらには我々の祖先が生き残ったのは弓の技術(complex projectile technology)のためであるとする論文もあります。ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの競合関係において投射技術が、狩猟なとで優位性を生み、わたしたちの祖先が生き残ったという説です。

いつ、弓が誕生したのかについては考古学者の皆様に任せるとして、なぜ弓が誕生したのかを語ることは可能でしょう。矢の前身である槍は25万年前に生まれたとされています。槍は投げられたでしょう。その後、より殺傷力を増した投槍器(atlatl)が誕生します。

https://en.wikipedia.org/wiki/Spear-thrower

現代の投げやりを見ていてもわかるように、槍を投げるのは手からでも、投槍器からでも、非常に大きなモーションを必要とします。マンモスや熊には有効でも、臆病な動物に気づかれずに発射することは不可能です。このモーションの大きさを補う道具として弓が生み出されました。初期のピンチ型の一番の特徴はそのモーションの小ささです。

しかし、弓と矢がありそれを引けば弓術であるとは流石に言えないでしょう。ある程度にはまとまりを持つ技術体系でなければ弓術とはなり得ないと考えています。

今回の一連の記事はいろいろな分野の研究結果を統合したもので、多くの研究は読んでいて納得でしたが、日本の文献の多くが「弓と矢があれば弓術は発生した」と議論もせず決めつけているのには違和感しかありませんが、このパートは自分でもさらに研究しなければいけないと思っています。

では弓術はいつ誕生したのか。人間板挟みになると屁理屈をこねるようになるもので、実利と神意の板挟みになった中世ヨーロッパには正戦論なるものがあり、その到達点は「勝った戦いは正しい戦い」でした。同様にフリィピン諸島のイフガオ族は「獲物に当たるかどうかは神の意志と魔力によるものであり練習はせず、調子を保つ努力もしない」と報告されています。

弓と矢があり、それによって狩猟が行われていたこと、それ始まりが約10万年前ほどであることはわかっているのですが、19世紀にニーチェが神を殺すまで、「的に当てるため(獲物を得るため)に弓の練習し、上達し、それを子孫に語りつこう」という考えが一般的だったとはいえません。10万年前のとある日、獲物を外して帰った後のアーチャーは弓の練習ではなく神に祈るほうが一般的だったのではないかと思います。ここに弓術は存在しないでしょう。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)の1929年の写し

これは的あて競技として最古の史料である紀元前1429年頃のメソポタミア文明(エジプト)の石碑です。描かれているのはエジプトのファラオ、アメンホテプ 2 世で、戦車に乗り長方形の的に狙いを定めているところが写し出されています。紀元前5世紀のヘロドトスはその著書「歴史」の中でエジプトではファラオが国民を集め、王族の「技量」を披露するために賞品つきの競技大会(gymnastic games)を開催していたと書いています。王族が主催し、王族が腕前を披露する競技大会なのですが、競技と弓術との関係をどのように読み解くべきか、直接の文献がないので解釈が非常に難しいです。

次の記事で扱うことになると思いますが同時期くらいの競技について書かれたイリアスでは、鳩(的)に当てたのは「神に祈った」ほうでした。つまり、的に当たる(当てさせる)のは技量ではなく神意なのです。

石碑から王族が競技を主催し、的あてを披露していたことは間違いないのですが、それは「的に当たる=弓術が上手(技量)」を披露するものではなく、正戦論的な「的に当たる=自分は神(ファラオ)」であることを披露する儀式的競技であった可能性が高いです。その場合、練習はしなかったでしょう。まぁ、したとしてもコソ練であるはずなので、文献に残っている可能性は絶望的です。

この点はキューピットに見ることもできます。矢に当たったものは恋しちゃうらしいのですが、この絵に描かれているよう(目隠し)、その的中は恣意的なものであり、キューピットが弓術の練習に勤しんだという記述はありません。キューピットが百発百中では成立しない話もあります。「当たった事で恋をする」「当たったことが神意である」の時代において、弓術と呼べるもの技術体系が存在していたかはわかりません。

競技に対する練習に言及した文献としてプラトンの「法律」があります。これは対話形式ですが、意訳すると

(意訳 8章 828)競技の前に戦い方を学び競技に臨むべきだ。練習するのをおかしいと思う人がいるかもしれないと心配するべきではない。国防のためにも国全体にそのような法律を制定すべきだ。

とかかれています。競技のための練習をしようというプラトンの主張なのですが、なぜ、今は練習をしないのかというと、

(8章 832)支配者は被支配者を恐れて、被支配者が立派に豊かに強く勇敢になることを、そして何よりも戦闘的になることを自分からはけっして許そうとはしないからだ。

と書かれています。ただ、このプラトン以降、ギリシャでは明確に競技のための練習がなされるようになり、儀式的な競技が実用(戦争)的な競技になります。競技結果はもう神意である必要性はなく、弓術もこの時代にはあったのは間違いありません。

弓術は紀元前400年頃にはあったと言えますが、これをどれだけ古くまでたどれるのかは今後の課題としたいと思います。

追加資料 : Complex Projectile Technology and Homo sapiens Dispersal into Western Eurasia

射法の分類 古代と現代のリリース射法について

洋弓の歴史について書き上げて1年立ちますが、勉強するほどに、まだまだ不明瞭なところがあると感じるので、もう一回勉強し直そうと思っています。その中でまず引っかかったのが、射法の分類です。まぁ…歴史についての本ではまず最初に出てくるところですね。

多くの資料では「ピンチ」「地中海」「モンゴル」の3つの方式に分類しています。日本のアーチェリー業界では一番権威であるだろう「アーチェリー教本」でも、2000年の改訂版のP.6-7で触れていますが、正直、何かの文書をコピペしたような文書になっています。日本での洋弓史の初期に書かれた「洋弓の楽しみ方(1965年)」に書かれた内容とほぼ変わらないので、この35年何も進んでいないようにも思えます。

弓についての研究者の状況を見てみると、スポーツ科学学会では間違ってマックス・エーンスを射法の分類を行った研究者と勘違いしているし、一方で考古学会では、正しく認識できているが、研究が失われた状態になっています。

いくつかの文献に引用されているが、正確な論考名・発表年などは不詳である。Morseはこの論考において、射技を第一次式・第二次式・第三次式・地中海式・モンゴル式の五種類に分類し、第一次式を最も原始的なものとし、モンゴル式を極めて発達したものとしている。

松木 武彦 原始・古代における弓の発達–とくに弭の形態を中心に

前に書いた記事で、マックス・エーンスは自著にモースの「Ancient and modern methods of arrow-release. (Essex U. S. A. Institute Bulletin. 1885. )」の研究を引用したと書かれていますので、スポーツ科学界が著者を間違い、考古学会では失われているとされているのは、この論文で間違いないでしょう。

私はずっとこの射法の分類のあまりの単純さに、このモースの研究は非常にレベルが低いではないかと思っていましたが、実際に読んでみると、全く違っていて、非常にレベルの高い研究です。というか、そもそも、モースは射法の分類について、5つであると断言していません。今まで、モース、または、「モンゴル式」「地中海」といった射法の分類について語っている人、ほぼモースの論文読んでないでしょう。デタラメばかりでびっくりしています。

ざっくり言ってしまえば、約150年前、1885年、通信手段すら限られていた時代に、モース自身は5つに分類したが、例えば、アルカイック・リリースのような情報が少なすぎて分析できなかったものも多いので、(モースが集めた)私の情報を個々に一旦まとめるので、後輩たちで更に研究を進めてほしいといった論文でした。

smithsonianmag.comより

ちなみにこのような足で弓を支え、両手で弦を引くタイプのリリースなどが情報不足で分析できていないとしています。

ということで、私としては論文も見つけたし、コピペではない正しい情報、モース自身の言葉に触れることができたので、それを踏まえて、次の段階の調査を始めますが、しっかりと内容を理解するために、ゴールデンウィークの3日使って、モースが射法を分類し、現在多くの言説の元になった「Ancient and modern methods of arrow-release.」を日本語に翻訳したので、アーチェリーについてより詳しく知りたいという方はぜひ。

古代と 現代のリリース 射法について – PDF 2MB

図面、岩の碑文、フレスコ画、浮き彫りなどをコピーする際にもっと注意する必要性を指摘します。手の位置、弓矢の先端の形や特徴、羽の形など、細かな点に注意を払う必要がある。さらに、古代の物や絵の中から、アームガード、サムリング、アローレストなどを識別する可能性と重要性も指摘したい。また、旅人や探検家は、弓矢を使うという単純な事実を観察するだけでなく、(1)引き手の姿勢、(2)弓を垂直に持つか、水平に持つか、(3)矢が弓の垂直の右側にあるか、左側にあるか、(4)この論文ではコメントしていないが、余分な矢を押し手に持つか、引き手に持つかを正確に記録する必要がある。

古代と現代のリリース 射法について

現在でも民俗学・考古学の論文を読むと、ものすごく丁寧に道具そのものを分析しています。しかし、それがどのような道具だったのかという点にはあまり関心がないようで、モースが指摘していることは、21世紀でも十分に通用するのではないでしょうか。

昔読んだ本ですが…今回、読んでもないのに堂々と語る人が世の中に大量にいることにびっくりしました。読んでから語ってよ(T_T) 私は翻訳までしたのでモースの論文ちゃんと読んでいますよ!

マックス・エーンスって誰?

ゴールデンウィークですね。本日アーチェリー場の初売上です。ありがとうございます。先日のクレイジージャーニーという番組で、出演されていた大学教授の方が「定説」言及されていました。

マックス・エーンスという人をご存知でしょう? 私は知りませんでした。このアーチェリーに全く関係のない人が何故か有名人です(笑)。ネットで調べてみるとwikiでは射法を5つに分類したと書かれています(wikiは私が修正済み、マックス・エーンスの名前を削除しました)。次は筑波大学の研究のPDFなので、学会でも祭り上げられているようです。その次はレファレンス(図書館)なので、図書館界隈でも有名なようです。アーチェリーでも…このサイトですか。

吉村教授はインチキな定説について、言い出したやつをやっつければ済むといっていましたので、この際、やっつけてしまいましょう。まず、マックス・エーンスって誰?

国立国会図書館で検索すると、この人物について最初に触れた本は『弓道講座』第一卷,雄山閣,昭和12.のようです。この中で小山松吉という検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長というものすごい肩書の人が、

古代攻撃武器の発達史を書いたドイツのマックス・エーンスという人が射法を分類したとあります。これ以上調べませんが、間違って伝わった情報源はこのあたりでしょう。検察総長にこう言われたら、反論する人間はなかなかいない時代だったのかもしれません。ということで、マックス・エーンスはドイツ人でした。

日本には当然ありませんが、ドイツのwikiにはいました(画像は機械翻訳)。ドイツの軍事芸術史の教授だったようです。そしてその著書にEntwicklungsgeschichte der alten Trutzwaffen. Berlin 1899.(古い防衛兵器の発展の歴史)を発見。おそらくこの本でしょう。1899年の本は著作権がないのでネットで読むことができます。

ありました。google Booksです。下記のリンクで読みます。ドイツ語ですが…

Entwicklungsgeschichte der alten Trutzwaffen mit einem Anhange über die Feuerwaffen Max Jähns · 1899

ドイツ語は読めないので比較的の精度良い英語に翻訳して読んでみました。ありました。

wie die Spannung herbeigeführt wird, unterscheidet Morse fünf Arten. ‘) Ancient and modern methods of arrow-release. (Essex U. S. A. Institute Bulletin. 1885. )

Entwicklungsgeschichte der alten Trutzwaffen P.292

ドイツ語でモースは1885年の著書で引き方を5つに分類している(意訳)と書かれています。つまり、マックス・エーンスは有名なモースのリリースの分類を著書の中で引用しただけであり、射法に関しての独自の研究は存在していませんし、自分でも明示的にモースの引用とはっきり書いています。

以上、マックス・エーンスが射法を分類したという間違った説は、

1.マックス・エーンスが自身の研究であった軍事史の本の中でモースの説を引用する

2.日本の検事総長が、マックス自身の研究と勘違いする

3.(おそらく)偉い人がまとめた弓道講座に書かれているのだから間違いないとみんな思う

4.wikiに誰かが書く

5.もっとみんな信じる

という流れですかね。でも、間違ってますからね。ご注意ください。

【追記】何名かの専門家に連絡しましたが、今のところ、反論はありません。この流れであっているとは言いませんが、大きく間違ってはいない感じです。

弓随想 弓道愛好家がアーチェリーを理解するために~弓の文化論~

部屋の片付けをしていたら出てきた本です。アマゾンによると2019年に買ったらしいのですが、ちょっと読んで放り投げた本です。まだ売っているのかなと思ってアマゾンを覗いたらまさかの評価3.7とそれなりの評価でまだ販売中でした…どういう人が読んでいるのかわかりませんが、この本でアーチェリーを勉強しないでください。

パラッと読み返しただけで、

1. 昔は弓道家が和弓でオリンピックに参加していた → な訳はない

2.現代のアーチェリーは女性参加を即すために競技距離を短くした → 19世紀から違う距離です

3.ベアボウ部門は和弓と同じでウェイトを装着できない → できます

ということで、ご理解ください。

【追記】処分予定ですがコメントの返信のためにもう少しはこの本を手元においておきます。ただ、次の掃除では処分するので、コメントのタイミングによってはもう中身の再確認ができないかもしれません。