最古の弓術競技 – 歴史編. 4

楊洲周延 作 那須与一

人民に披露する形式での競技は、記録されている限りでは第二回目に書いた紀元前1429年頃に行われたものですが、勝者を決める競技形式で完璧な記録が残っているのは、紀元前8世紀にホメロスによって書かれた「イリアス」のなかにあります。

この本は紀元前1700から1200年頃と考えられているトロイア戦争に関する口承をもとにしていると考えられています。そのため、完璧な史実として扱うことができないのですが、この本がその後ギリシャにおいて好れ、幼い子どもに暗唱させる教科書的な存在ですらあったことを考えれば、そこで描かれた弓術のあり方間違いなくそれ以降の弓術に大きな影響を与えています。

近代スポーツとしてのアーチェリーが生まれつつある18-19世紀にイギリスで書かれたアーチェリーガイドブックの多くは、ここに描かれている競技をアーチェリーの始まりとして紹介しています。

Archers in Avignon, 17th century.

イリアスでの競技は死者の魂を慰めるために行われた葬礼競技の一つで、現代のポピンジェイ(Popinjay)という競技に非常に似ています。この競技は1920年のベルギーオリンピックでも行われており、現在でも伝統スポーツとして競技されています。

ホメロスの記述によると、「砂浜に少し離れた場所に船のマストを立て、細い糸で鳩をマストの上に縛り付け、これを彼らの的とした(23章)」。射法としては別の章ではあるが「矢のノックを牛皮の弦の上に置き、ノックと弦の両方を胸に引き寄せ、矢じりを弓の近くまで引いた(4章)」とあります。まさに上の絵のような競技です。

この初期に記録された競技はその後の古代ローマではそのままの形式が行われましたが、中世には本物の鳩ではなく、木製で作られた鳥が使われるようになり、「ポピンジェイ」という言葉は、オウムを意味するポルトガル語の「papegai」から来ているとされます。

そして、この競技の勝敗は神に祈りを捧げなかった(子羊を捧げることを約束しなかった)弓の名手とされたテウクロスが的を外して、神に祈りを捧げたメリオネスが勝利することとなる。祈りとは宗教的な行為ですが、祈ることで神のもとでの平等を得ます。神への祈りが競技に導入されたことで(*)、逆に競技に平等性をもたらされます。後輩が先輩に勝っても、それは無礼なのではなく「神の思し召しである」ならば、だれにも遠慮することはないわけです。

*もう少し研究が必要だとは思っていますが、ホメロスが記述家としてシーンを盛り上げようと盛って書いた事が、結果論として神への祈りを競技に導入したと考えています。その前のファラオは現人神であるため、神に祈る必要はない。

ちなみに、日本の平家物語にある有名な那須与一の扇の的を射るときにも、射手は矢を射る前に神に祈りを捧げています。

安達吟光 作 那須与一

「願わくはあの扇の真ん中を射させてください」(中略)と、心のうちで神々に祈って、さて目を開くと、風も今折りよく少し静まったようである。

土田杏村 著 ほか『源平盛衰記物語』,アルス,昭和2,国立国会図書館デジタルコレクション

この平家物語もイリアス同様に、嘘とは言わないが、盛り過ぎ疑惑がある作品です。普通に考えても、那須氏が心のうちで祈った文言が作者わかる訳はないわけで…まぁ、そんな細かいところはともかく、このような共通点があるのは興味深い&祈りの価値がギリシャと日本では異なるのかなどは気になるところです(いつか調べます、いつか)。

さて、このマストの上の鳥を射る競技に必要な弓術は高低差シューティングです。そのため城を攻める・守るための格好の軍事訓練ともなります。フランスでは924年に市民たち皇帝ハインリッヒ1世から市民防衛団を設置する特権を得て射撃協会を作ります。競技形式は同じでも、鳥はマストになく、実戦で使用する市民が実際に住む地区の城を使って行われました。協会は日々市民に訓練を行い、年に一度の賞品付きの射撃祭を開催しました。お祭りはその規模を広げ、1470年のアウクスブルグ射撃祭は1週間行われ、射撃競技だけではなく、競馬、350歩競争、助走あり幅跳び、三段跳び、45ポンドの石投げなどが同時に行われています。

The Governors of the Honourable Archers’ Guild in Amsterdam,1653

ヨーロッパの各都市によって開催された射撃祭には招待状が友好都市にあてられたが、開催側の城を使用する以上、招待状には賞品とともに、正確な競技規則と競技条件が記されていました。当時、貴族競技としての馬上槍試合には家門証明が必要だったのですが、射撃祭の賞品は上級貴族から都市民だけではなく、ほかの都市に住む者、下層民や農民にも与えらていました。また、勝者は税金が免除されるなどの特権を得ることもできました。この絵画では射撃祭の勝者が賞品を手にしており、足元にはアーチャーの成績を記したボードが置かれています。後ろの従者はロングボウを持っています。

10世紀の射撃祭は弓で行われ、その後12世紀頃にクロスボウが加わり、火縄銃も16世紀頃に加わります。ドイツでは1300年頃から射撃協会が結成され、同様の射撃大会が行わています。現存する最古の射撃協会のひとつにフランスのアミアンボウカンパニー(Compagnie d’arc d’Amiens)があります。1117年頃に起源を持ち、射撃祭を18世紀まで開催していました。前述のように都市防御を担い、射撃祭で優勝したものには免税などの特権が与えられた団体であるため、特権アレルギーのフランス革命の影響で1790年に解散を命じられます。1803年に競技団体として再出発し、ポピンジェイを継続して行い、その後、フランンアーチェリー連盟に加盟し、2012年にはこの地で全仏ターゲット選手権が開催されています。フランスでは明確にフランス革命がきっかけとなり、射撃団体は純粋な競技団体として再定義されたのですが、近隣諸国でも同様に民主化の流れの中で都市の特権団体から競技団体になっていきます。

20世紀初旬の歴史でこのパートは再登場しますが、射撃は野戦ではなく、城壁防御のための軍事訓練を兼ねていたため、多少の違いはあれど、競技形式は50フィート(約15m)から30m程度の近距離の高低差がある的を射るもので、短距離競技をしていたというところだけでも覚えておいてください。


短弓の誕生 – 歴史編. 3

弓を長さで分類した人が誰かなのかはわかりませんが、少なくとも現在、短弓と長弓という言葉が存在はしています。ちゃんとした論文でも登場する言葉ですが、一般的な意味で定義されずに使用されています。この記事では、この定義をしたいと思います。ここまで「アーチェリー」「洋弓」「弓術」と定義ばかりしていますが、正しく語らないと話が進まないのでもう少しお付き合いください。

アイスマンの弓(© Südtiroler Archäologiemuseum/ – Harald Wisthaler. Harald Wisthaler. www.iceman.it)

1991年に アルプス山脈で発見されたアイスマンと呼ばれるミイラ化した遺体と同時に回収された5000年前の弓の長さは、所有者の身長が159~163cmであると推測されているのに対して、183.5cmもあるイチイ製のものです。ヨーロッパ各地で発見された新石器時代の弓の強さは40ポンド~90ポンドであると推測されているのですが、引かれるとき弓は長いほど素材にストレスがかからず、簡単に作ることができるため、ほとんどが人間の身長と同じくらいであり、初期の弓はすべて長弓であると”します”。

*毒矢を使う狩猟法をメインとする文化では、物理的な長さが”短い”弓が存在していますが、この定義ではこれも長弓と分類します。

なぜ、初期の弓をすべて長弓と定義するかといえば、自分で調べた限りでは、より「長い弓」を作ろうとした文明がなかったからです。紀元前4000年ほど前まではどの文明においても成人が使用する弓の長さは、その地域に適した1種類しかなく、他に発掘されるのは非常に弱い成人用に比べて短い弓だけで、これは短弓というよりは、子供の練習用の弓とみなすべきでしょう。そのため、紀元前4000年までは長弓=弓、短弓=子供用のおもちゃだったと考えられます。

Karl Chandler Randall, Origins and comparative performance of the composite bow, 2016

しかし、より「短い弓」を作ろうとした文明は明らかにありました。上記は紀元前4000年~紀元前2000年頃のエラムとメソポタミア文明において残っている弓が描かれている絵を分析したデータです。長さが相対的なために、描かれている人物の身長を170cmと定義した時、紀元前3800-2400年における弓の長さの平均は113cmであり、紀元前2300-1850年頃には82cmまで短くなっています。この期間にメソポタミア人の身長が変わっていないとすれば、弓が30%以上短くなったことが示されています。

この変化は当時登場した戦車を使用した新しい戦略のために、不安定な足場で使用するのに適した弓が必要になり、この弓術的な要請によるものだと考えられています。狩猟において自然と相対する時、動物の獲物は大きく変わらないわけですから、弓の形状は固定化されますが、人間が相手の場合には知恵比べになり、それによって短弓が生まれます。後述しますが、この後の弓の変化も人間の変化によるものです(騎士が鎖帷子から鎧を着るようになったため)。

弓の強さを維持したまま短くすると、素材に大きな負荷がかかるため、セルフボウ(単一素材)では技術的な限界があり、複数の素材を組み合わせたコンポジットボウがこのときに誕生します。

考古学的な資料によってはコンポジットボウの誕生に焦点を当てますが、レビットが言うように「ドリルが欲しい人はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい」のであって、コンポジットボウの誕生にはその製造技術の進歩が当然必要だとしても、それ以前に「短い弓」がほしいというニーズが先にあってしかるべきで、そのニーズが初めて生まれたのが、人間が歩射から騎射と分類できなくもない、(当時なのでポニーのようなものだったと思うが)馬に引かれた車の上から射るという新しい弓術の要請によって、「短弓」が生まれ、この時代に「弓」が「長弓」と「短弓」に分かれます。

*洋弓の歴史なのでヨーロッパ全域はさらっていますが、他の地域ではこの限りではないかもしれません

チャリオット(戦車・戦闘用馬車) - カデシュの戦いで戦車から戦うラムセスII世

つまり、人類学的な研究のように弓の長さを測定して短弓と長弓に分類するべきではなく、その弓が「長い」のか「短い」のかは弓術の中に境界線があるのです。見た目ではありません。実際、和弓において短弓と長弓の境目は6尺(182cm)にあり、66インチ(168cm)のイングリッシュロングボウは短弓です。

「元始、女性は太陽であった」なんて言葉がふと思い浮かびましたが、元始、弓はすべて歩射に適した長さの弓であり、その後、騎射が生まれたことでより短い弓が必要となり、短弓が開発され、区別するため、ただの弓は長弓と呼ばれるようになったのです

*古代中国などでは複合素材の短弓が誕生したことで単一の素材の長弓は駆逐されました。しかし、日本にもこのタイプの弓は伝わったものの、和弓はその製法に複合素材を取り入れただけで、弓が短くなることはありませんでした。高橋昌明は著書にて「すでに述べた馬上で扱うには長大すぎる弓であっても、立射を可能にする鐙と鞍橋の出現によって、ある程度難点を補うことができたわけである(武士の成立 武士像の創出 p.284)」としています。

アンダマンの弓

複合素材の弓は製造が困難であり、湿度に弱いことが欠点でした。そのためにギリシャ・ローマ時代では、セルフボウはトレーニング用に、本番・戦時には複合弓が使われるようになります。また、湿度が常に高い地域や騎射文化がそもそもない文化では短弓への移行は起きませんでした。


弓術はいつ誕生したのか – 歴史編. 2

Cave of Archers(エジプトにある紀元前4300年から3500年に書かれた壁画)

弓術の前には弓と矢が必要なわけですが、それがいつ誕生したのかは考古学者さんたちの素晴らしい仕事によって変化しています。1964年に出版されたアーチェリーガイドブックでは、スペイン半島の1万数千年前の壁画が最古の史実とされています。その後にも多くの発見があり、現在では、1983年から発掘調査が行われているシブドゥ洞窟(Sibudu Cave)で発見された7万年以上前の矢じりなどが最古のものとされています。弓と矢は10万年以上前から使用されていると”推測”されているので、さらにときが経てば、この記録はさらにより古いものに更新されていくのでしょう。

しかし、弓と矢がありそれを引けば弓術であるとは流石に言えないでしょう。ある程度にはまとまりを持つ技術体系でなければ弓術とはなり得ないと考えています。

今回の一連の記事はいろいろな分野の研究結果を統合したもので、多くの研究は読んでいて納得でしたが、日本の文献の多くが「弓と矢があれば弓術は発生した」と議論もせず決めつけているのには違和感しかありませんが、このパートは自分でもさらに研究しなければいけないと思っています。

では弓術はいつ誕生したのか。人間板挟みになると屁理屈をこねるようになるもので、実利と神意の板挟みになった中世ヨーロッパには正戦論なるものがあり、その到達点は「勝った戦いは正しい戦い」でした。同様にフリィピン諸島のイフガオ族は「獲物に当たるかどうかは神の意志と魔力によるものであり練習はせず、調子を保つ努力もしない」と報告されています。

弓と矢があり、それによって狩猟が行われていたこと、それ始まりが約10万年前ほどであることはわかっているのですが、19世紀にニーチェが神を殺すまで、「的に当てるため(獲物を得るため)に弓の練習し、上達し、それを子孫に語りつこう」という考えが一般的だったとはいえません。10万年前のとある日、獲物を外して帰った後のアーチャーは弓の練習ではなく神に祈るほうが一般的だったのではないかと思います。ここに弓術は存在しないでしょう。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)の1929年の写し

これは的あて競技として最古の史料である紀元前1429年頃のメソポタミア文明(エジプト)の石碑です。描かれているのはエジプトのファラオ、アメンホテプ 2 世で、戦車に乗り長方形の的に狙いを定めているところが写し出されています。紀元前5世紀のヘロドトスはその著書「歴史」の中でエジプトではファラオが国民を集め、王族の「技量」を披露するために賞品つきの競技大会(gymnastic games)を開催していたと書いています。王族が主催し、王族が腕前を披露する競技大会なのですが、競技と弓術との関係をどのように読み解くべきか、直接の文献がないので解釈が非常に難しいです。

次の記事で扱うことになると思いますが同時期くらいの競技について書かれたイリアスでは、鳩(的)に当てたのは「神に祈った」ほうでした。つまり、的に当たる(当てさせる)のは技量ではなく神意なのです。

石碑から王族が競技を主催し、的あてを披露していたことは間違いないのですが、それは「的に当たる=弓術が上手(技量)」を披露するものではなく、正戦論的な「的に当たる=自分は神(ファラオ)」であることを披露する儀式的競技であった可能性が高いです。その場合、練習はしなかったでしょう。まぁ、したとしてもコソ練であるはずなので、文献に残っている可能性は絶望的です。

この点はキューピットに見ることもできます。矢に当たったものは恋しちゃうらしいのですが、この絵に描かれているよう(目隠し)、その的中は恣意的なものであり、キューピットが弓術の練習に勤しんだという記述はありません。キューピットが百発百中では成立しない話もあります。「当たった事で恋をする」「当たったことが神意である」の時代において、弓術と呼べるもの技術体系が存在していたかはわかりません。

競技に対する練習に言及した文献としてプラトンの「法律」があります。これは対話形式ですが、意訳すると

(意訳 8章 828)競技の前に戦い方を学び競技に臨むべきだ。練習するのをおかしいと思う人がいるかもしれないと心配するべきではない。国防のためにも国全体にそのような法律を制定すべきだ。

とかかれています。競技のための練習をしようというプラトンの主張なのですが、なぜ、今は練習をしないのかというと、

(8章 832)支配者は被支配者を恐れて、被支配者が立派に豊かに強く勇敢になることを、そして何よりも戦闘的になることを自分からはけっして許そうとはしないからです。

と書かれています。ただ、このプラトン以降、ギリシャでは明確に競技のための練習がなされるようになり、儀式的な競技が実用(戦争)的な競技になります。競技結果はもう神意である必要性はなく、弓術もこの時代にはあったのは間違いありません。

弓術は紀元前400年頃にはあったと言えますが、これをどれだけ古くまでたどれるのかは今後の課題としたいと思います。


アーチェリー、洋弓、弓術- 歴史編.1

射覚 13(11), 大日本射覚院, 1938-11

アーチェリーの歴史を書こうとする時、まず考えなければいけないのはアーチェリーって何なのかという話です。英語の「Archery」は弓術を意味していて、英語のウィキペディアによれば「歴史的に、アーチェリーは狩猟と戦闘に使用されてきました。現代では、主に競技スポーツや余暇活動です。」とされています。弓術の歴史を書こうとするなら、自分にはその資格も能力もありません。これから書いていくのは日本語のアーチェリーの歴史です。

現在、日本ではアーチェリーは弓術ではなく、洋弓と翻訳されることがあります。アーチェリーが弓術として日本に紹介されたのは大正時代ですが、言葉としてのArcheryはもっと昔から知られており、アメリカ人によって書かれた初の和英辞書では「射(しゃ、いる)」と翻訳されていました。しかし、さすがに適切な訳ではなかったため、昭和2年に出版された「欧米体育史」では、Archeryを弓術、Huntingを狩射的と翻訳されるようになり、定着します。

弓道辭典(ア之部) 道鎭實,『弓道講座』第四卷,雄山閣,昭和12.

戦前は主にイギリスから伝わったアーチェリーは弓術として、アメリカを通じて日本に紹介されたアーチェリーは区別のため米国式弓術と呼ばれるようになります。

1930年代の弓道の雑誌(*)を見てみると、メリーランド州のアーチェリークラブは弓術部として訳されていて、試合形式は「米国式」コロンビアラウンド40ヤード、「米国式」スコアリングといった表記が見られます。この時点では日本に紹介されたのは、洋弓(西洋の弓術)というふわっとしたものではなく、米国式弓術であると正しく認識されていたことが伺えます。

*大円光15(1)1939年、大日本弓道15(11)1940年でも同様の表記

しかし、戦後の1947年には日本洋弓会が設立されます。ここに突如、洋弓という言葉が現れるのです。言葉の変化はこの間にあります。1952年の「洋弓を語る(菅重藏)」という記事では、いささか言葉がごちゃまぜになっています。Archeryを弓道/洋弓/弓とは別々に使用していて、細かく分析してみると、Archery Club=弓道会、American Archery(米国式弓術)を洋弓、それ以外のArchery(インディアンの弓術など)を弓と使い分けているようです。

米国式弓術という正しい戦前の表現が言い換えられた理由は記録に残っていないものの、敵性語であったためと考えています。英語を勉強するときにお世話になっている「旺文社」は「欧文社」という社名でしたが、「欧」は敵の言葉であるため(ヨーロッパにも同盟国いたような…まぁ)、社名が変更されました。言葉が近いところでは、「東和女学校」が「東和女学校」に名称を変更しています。「英」はだめだが、「洋」は見逃されていたようです。

敵性語は法律等で禁止された法的根拠のものではなく、対米英戦争に向かうなかで高まっていくナショナリズムに押されて民間団体や町内会などから自然発生的に生まれた社会運動である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E6%80%A7%E8%AA%9E

このような状況である以上、「諸説あり」との括弧付きになるのでしょうが、戦前に弓術や米国式弓術として日本に紹介されたArcheryは、「米国式」が敵性語であることから戦時中に洋弓という言葉に言い換えられたとしか考えられないでしょう。

*常識的に考えればアメリカのアーチェリークラブでロングボウに出会った菅氏が、日本にそれを持ち帰ったときに、「これが西洋の弓である」「洋弓である」なんて大風呂敷を広げるわけもなく、「米国にこんな弓がありまして」くらいで紹介したでしょう。

近年、Archeryは洋弓ではないという事が徐々に知られ、アーチェリーと訳されるようになります。日本洋弓会は1956年に日本アーチェリー協会に改称されます。

以上により、ここでのアーチェリーの歴史は弓術の歴史ではなく、いかにして、洋弓(英国式弓術)とされたものが誕生し、それがアメリカにわたって米国式弓術となり、現在のアーチェリー(洋弓)となったのかというお話になります。


アーチェリーの歴史(16世紀まで)

Ramasseurs de flèches(抜粋*) p 192/596

草船借箭なんてお話も三国志にはありますが、(相手の矢を頂いちゃう)それとは違い、これは中世の戦争において、相手の騎馬隊の突撃の合間に、さっき射た自分たちの矢で外れたものを再利用するために拾う矢拾い(Ramasseurs de flèches/アローコレクター)という仕事をする人たちです。イギリスのアーチャーは24本ほどの矢をクイーバーに入れていましたが、1本30秒ルールなら10分くらいで使い切っちゃいますからね。画家もなかなかいい仕事をしていて、矢(フレッチャーされたシャフト)とボルト(クロスボウ用の矢で羽根はない)をちゃんと描写しています。

アーチェリーの歴史に関してはほとんど文献・研究が日本では存在していないです。自分が見つけたのは50年以上前に書かれた論文「アーチェリーの発達について(PDF)」の1つだけです。チューニングマニュアルを書いたときにも思ったことですが、今があるのは先人たちの積み重ねがあってこそであり、歴史をしっかりと整理することには意味があります。そこで昨年からアーチェリーの歴史についてまとめてきました。

アーチェリーに関する研究はなかなかひどいもので、未だに100年以上前のモースの論文が引用されていたりします。地中海/蒙古/ピンチ式などを分類した人なのですが、論文の中身はなかなか雑です。もちろん彼を責めるという意味はなく、彼自身、自分の研究はこれまで研究されてこなかった分野で革新的ではあるが、不完全であることを、より多くの研究者がこの分野に目を向けてくれるようにするために、とりあえず発表すると書いています。

I am led to publish the data thus far collected, incomplete as they are , with the intention of using the paper in the form of a circular to send abroad, with the hope of securing further material for a more extended memoir on the subject.

Edward Sylvester Morse, Ancient and Modern Methods of Arrow-release, Essex Institute, 1885, p 4

まぁ、結果としては研究が頻繁に引用され、この論文をより詳細に仕上げる人は今日まで現れていないのですが、自分にできることがあれば、今後の課題としたいと思っています。

さて、17世紀からのアーチェリーは何度もこのサイトで記事にしています。そして、先週、石器時代から16世紀までのバージョンも仕上がりました。16世紀までのいわゆる前編は、現在のアーチェリーの基礎になったイングリッシュロングボウとは何かを定義する話になっています。これを既存の記事たちと繋げれば、アーチェリーの歴史として完成すると思います。

ただ、ちゃんとした記事を書こうとすると、引用や注釈ばかりになって非常に読みにくいです。そこで和弓の人たちはどうしているのか調べてみたところ、ちゃんとした論文を書いて、別に発表し、それを引用するという形で、別途、かたくない文書で和弓の歴史を書いているようなので、自分もそのやり方を模倣しようと思います。下記はちゃんとしたバージョンです。今後、何本かアーチェリーの歴史についての記事を書きますが、いちいち根拠を書きません。それらの記事に疑問や根拠を知りたい場合には、こちらのPDFをまず確認してください。それでもすっきりしない場合はコメントを下さい。

アーチェリーの歴史(PDF 4MB)

*本にページ数が示されていません。フランス国立図書館で公開されているものをPDFでダウンロードした場合、192/596ページにあります。Chastellain, Georges,« Passages faiz oultre mer par les François contre les Turcqs et autres Sarrazins et Mores oultre marins », traité commencé à être rédigé à Troyes, « le jeudi XIIII e jour de janvier » 1473, par l’ordre de « Loys de Laval, seigneur de Chastillon en Vendelois et de Gael, lieutenant general du roy Loys l’onziesme… gouverneur de Champaigne… par… SEBASTIEN MAMEROT de Soissons, chantre et chanoine de l’eglise monseigneur Saint Estienne de Troyes » et chapelain de Louis de Laval, 1401-1500, https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b72000271/


【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

下記の記事をより詳細なものに書き直しました。こちらをご覧ください。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)

アーチェリーのチューニングマニュアルを書いたので、次はアーチェリーの歴史を勉強してまとめてみたいと思い、昨年から取り組んでいます。自分にできることなど限られているので、どれだけのものをかけるかなと調べてみたのですが、アーチェリーの歴史は、調理を待つ材料みたく、結構揃っていたのです。ちゃんとしたアーチェリーの歴史本がないのは、分野が違ってお互いに面識がなかっただけかと思います。

写真は最古のアーチェリーの記録(紀元前1429年頃)です。的を射ているので、戦争・狩猟・手に持って踊るといった儀式のどれでもない弓の使用という意味で、初期の”スポーツ”としてのアーチェリー考えることができると思いますが、その判断はともかく、この頃のアーチェリーは考古学者達によって考察され、本や論文としてまとめられています。

紀元前500年くらいからは歴史書が登場し、この頃のアーチェリーについては歴史書などに残っている記録が多く、歴史学者によってまとめられています。1000年頃になるとヨーロッパで進化を遂げたロングボウとクロスボウが戦争で大活躍するようになり、アーチェリーについては軍事学者によって書かれたものが多くなります。16世紀頃の銃火器の進歩によって戦場から弓が駆逐されると、スポーツとして現在につながるアーチャーたちが書かれた記録に繋がり、この部分はすでに自分である程度これまでにまとめているかと思います。

なので、このそれぞれ違う分野の話を一つにつなげるためのリンクはないかと、今年の入ってからずっと悩んでいましたが、世俗化という軸でまとめてみました。グッドマンという人が近代スポーツの特徴として「世俗性」「平等性」 「官僚化」「専門化」「合理化」「数量化」「記録への固執」をあげています。ここで一番特徴的なのは世俗化、簡単に言えば、脱宗教だと思います。

例えば、相撲は「世俗化」以外すべて特徴に当てはまっていますが、世俗化する可能性は、今後も殆ど無いでしょう。

日本武道で唯一世界的なスポーツとして成立し、オリンピック競技にもなった柔道の創設者・嘉納治五郎は近代柔道の世俗化、宗教を持ち込まないよう努力したそうです*。神道的な宗教的概念を含む競技なら、イスラムやキリスト教など違う宗教の人々が競技に参加することは困難になります。スポーツがやりたくて改宗する人は稀でしょう。

*湯浅 晃, 武道における宗教性, 武道学研究38-(3):15-42, 2006

そこでつぎのようにアーチェリーの世俗化を考察し、これ軸(変換点)として、2月ごろを目処にアーチェリーの歴史をまとめてみたいと思います。何か意見がありました。コメント欄にどうぞ。


世俗化 – 宗教から脱却

古代において狩猟は生活の手段であったために、弓は宗教・儀式と深く結びついていたと考えられる。イリアスで描かれた弓術競技では優れた射手であったテウクロスは神アポロンに祈らなかったために的を外し、神に祈ったイードメネウスが勝利したという記述がある。聖書にも弓は登場し、ヨハネの黙示録では勝利の象徴とされている。

しかし、1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(1)、その後、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止し、使用したものは破門するとした(2)。同様に騎馬試合もこのとき禁止された。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説ある。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もあるが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張もある。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇した。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せた。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器だった。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、歩兵(市民)が騎兵(貴族)を殺傷させる行為を忌諱したと考えられる(3)。

実際、モデルとなった人物の存在は示唆されていても、実在が確認できないので物語とするが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも反権力的な物語の主人公であり、弓は権力者の武器ではなかった。

禁止令ののち、「神に憎まれた」アーチェリーとカトリック教会との関係は薄れたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても所持は禁止しなかった。アーチェリーは国内では狩猟やスポーツとしてのみ使用できるというユニークな道具になった。近代スポーツとして成立するための要因の一つである世俗化、脱宗教化を偶然に成し遂げたと言える。アーチェリーとクロスボウの規制・管理は国家に委ねられ、国によって異なったものになっていく。


ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いている。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可されたので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当だろ。だが皮肉なことに、彼は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡する。この死について、いまだ弓の使用を禁止している教会に背いた天罰であるとの考えがあるが、弓が再度禁止されるには至らなかった(4)。

1.Karl Josef von Hefele, Histoire des Conciles (Livre 31e : conciles sous le pontificat de Grégoire VII – Livre 32e : de la mort de Grégoire VII au concordat de Worms et au IXe concile œcuménique – Livre 33e : conciles du IXe concile œcuménique au conflit avec les Hohenstaufen, 1124-1152), t. V, partie 1, 1912, p.455
2.藤崎 衛ほか, 第一・第二ラテラノ公会議(1123、1139年)決議文翻訳, クリオ, 2018, 32, p.61-80
3.Oman Charles, The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515, London Methuen, 1898, p.354-355
4.Ralph Payne-Gallwey, The Crossbow, Mediæval and Modern, Military and Sporting, Longmans, Green and Company, 1903, p.3-4

2番目の資料以外はすべて著作権切れでネットで全文公開されています。


17-19世紀のイギリスアーチェリー

ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』

昨日の記事を書いたあとに、色々と勉強して寝ましたが…朝起きて、自分は何をしようとしているのか理解ができなくなりました。

自分はただのアーチェリーのプロであり、下記のような同業者によって書かれたアーチェリーの文書・記事に関しては、検証する能力がありますが、このようなオックスフォード大学で研究していたイギリスの歴史のプロ(経歴はこちら)の論文に意見することなどできるわけ無いですよね。。。

ということで、何も突っ込まずに、以下、この論文の解説に徹します。

スポーツという何かを定義することは難しいですが、少なくとも、ロングボウは15世紀にはまだ国防力の一つでした。16世紀から17世紀にかけてマスケット銃に取って代わられると、武器としてはみなされなくなっていき、遊びからレクレーションに変化していきます。

18世紀初期までは少人数で広い土地や森の中で楽しむもので、バットシュート(Butt-shooting)という土の壁を的に見立てて、当てる遊びでした。それをレクレーションに引き上げたのが、ランカシャーの””貴族””であるアシュトン リーバー卿です。貴族についてはaristocratとの表記ですが、後で検討します。

遊びは楽しけりゃなんでもいいのですが、レクレーションには目的があります。記録では、「長時間机に近づきすぎて、胸を机に押し付けすぎたことによる胸への圧迫を軽減する」ためにをアーチェリーを楽しんだとされています。昔の貴族どんな姿勢で机に座っていたんでしょうか…。

こんな感じかな??

さて、なかなか効果があったようで、貴族さんたちが集まって、イギリス最古のアーチェリー協会「the Toxophilite Society」を設立します。1781年、協会の会計によれば、最初の支出は「ブランデー、ラム酒、ワイン、ジン、真鍮のコルク抜き」だったので、やってたことは想像できるでしょう。アーチェリーして、飲み会を開いていたのです。

1787年に王室がパトロンになって高価な賞品を提供するようになると会員は急激に拡大し、多くの協会ができ、the Toxophilite Societyのメンバーは1784年に24人だったのが、1791年には168人に拡大します。ここで検討すべきは「貴族」という言葉です。当時の人口を考えると、ここで語られているのは純粋な「貴族」だけではなく、「地主貴族(ジェントリ)」も含まれると考えられます。後のジェントルマンになっていく人たちです。

当時のアーチェリーは現在のものとは大きく違い、

Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回しました。会員たちは、「この日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進した」。会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射された。

矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られた。

射的の後には晩餐会や舞踏会が開かれ、詩や歌が披露されることもあった。裕福な協会はロッジを建てて祝宴を開き、小規模の協会はマルシェや地元の居酒屋を利用した。

このような催しは、公共の場で行われるため、当然ながら大勢の見物人が集まる。射手たちの才能は行き当たりばったりで、酒も入っていたため、必ずしも安全とは言えなかった。1791年に行われたKendal Archersの会合では、大勢の観客が押し寄せ、なめし革職人1名と仕立て屋2名が矢で撃たれました

JOHNES, MARTIN. “Archery, Romance and Elite Culture in England and Wales, c.1780–1840.” History, vol. 89, no. 2 (294), 2004, pp. 193–208. JSTOR,
Royal Toxophilite SocietyのHPより

基本的なフォーマットがアーチェリーを楽しんで、裕福な協会は近くのクラブハウスで宴会を開き、そうでない協会は飲み屋で飲み会をしていたようです。アメリカの19世紀の本でもクリケットとの比較について語られていますが、アーチェリーのほうが軽い運動であったために、1787年にできた協会では女性の参加が許可されます。これによって、アーチェリーは貴族たちの飲み会から、社交場に進化を遂げていきます。

男性の射手は、その優雅で優美な女性の姿を賞賛し、楽しんだに違いありません。 ここでは、当時の多くの町に建設され、性的観戦や求愛の場として悪名高い新しい公共の文化施設との類似点をえがくことができます。 実際、これは集会室、遊園地、劇場、ホールの存在理由の一部でした。

(中略) アーチェリーは、キューピッドとその弓矢というロマンチックな連想とともに、男女が対等(The Social equal)に出会い、眺め、楽しむ機会を提供したのです。

同上

当時のアーチェリー協会には厳しい入会資格があり、そこに入会できるということは広義的な意味で貴族であることを示していて、会員は社会的身分としては対等だったので、当時の社会的に適切な出会いの場になったというわけです。実際に会員同士が結婚したという記録も残っています。

飲み会から社交場、さらに出会いの場という認知されていったことで、アーチェリー大会は更に豪華なものになっていきます。女がいたらそりゃね、もう…ね★

(もとの論文には含まれていません)1791年、Royal Toxophilite Societyの設立によるアーチェリーの復活から10年後、多くなっていたすべてのアーチェリー協会の公開ミーティングがBlackheathで開催されます。1792年と1793年にも同様のミーティングが開催されたものの全国アーチェリー大会はここで終了します。

しかし、アーチェリーの成長はここで終わり、ナポレオン戦争(1799-1815)により、多く貴族が駆り出されたことで、アーチェリーが衰退します。1815年のワーテルローの戦いでイギリスの勝利が確定し、貴族たちが帰国するまで続きます。この後にアーチェリー大会は豪華さ絶頂期に達し、先日紹介したRoyal Company of Archerys が王室の警備として採用され、代わりに多くの資金と賞品が提供されたのものこの時期です(1822年)。

大きな大会(飲み会)になると参加者は1000人を超えていたようで、貴族たちは持ち回りで自分の屋敷や、クラブハウスで大会を主催していたので、みんな大会に行くのは楽しみでも、自分が主催の順番になると困ったことになっていたようです(笑)。

この状況を変えたのは産業革命で、金持ちとして貴族(地主)の他に資本家が台頭してきます。18世紀までは多くの協会は、紹介制は当然のことながら、紹介があっても、入会には3世代にわたる血統書の提出を求めて、審査したりしていましたが、アーチェリー大会の開催に多大な資金がかかるようになり、資本家も入会できるようになっていきます。

さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終えたことで、閉じたコミュニティではなくなり、レクレーションとしてアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備が行われていきます。こうして、イギリスではアーチェリーは兵器から遊びに、遊びからレクレーションに、そしてレクレーションからスポーツへの道を歩んでいくことになります。

現代のアーチェリー技術を築いたホレース・フォードは、この時代をこのように語っています。

残念ながら、かつて 18 世紀の終わりと、今世紀の最初の半分の間に輝いた「比較できないほどの素晴らしいアーチャーたち」から得るものは何もない。それに比べて、グランドナショナルアーチェリーミーティングの設立以来、強く、正確なショットを放ってきたシューターたちの持つスキルから得るものは非常に多い。

アーチェリーの理論と実践

以上。


歴史むずかった…

「ロイヤル ブリティッシュ ボウメン」アーチェリー クラブの 1822 年の会合

先日触れた論文を読んでみたのですが…そう、わたしのただのアーチェリーのプロでした。この論文は18世紀後半の貴族の文化から、フランス革命がイギリスの文化に及ぼした影響、産業革命とそれによって誕生した資本家たちの勃興、に伴う貴族たちの懐古主義と、まず、当時の世界史とイギリスの事情がわからないと、ただの読書感想文しか書けない内容です…ということで世界史を勉強してから、いつかは記事に。申し訳ございません。


イギリスのアーチェリーは相席屋??

本日読み終えて本「The Witchery of Archery(アーチェリーの魅力)」1878にアメリカで出版され、アメリカにアーチェリーブームを巻き起こして本です。オリンピック以前のアーチェリーの歴史を調べていくと、改めて日本が特殊な国であると思い知ります。人類最古の道具の一つとされている弓ですので、どんな国にもあったと思いますが、17-19世紀のアーチェリーの記録を調べていくと、アメリカ、イギリス、日本にしか資料が残っていません。

最初はわたしが日本語と英語しか読めないための認知バイアスとも思ったのですが、1900年オリンピックのフランスや1920年のベルギーの事情を調べてみると、スポーツというよりは、日本の射的のようなフェスティバル・お祭りのイベントであることが多く、競技としての記録が本当にありません。郷土史として残されている可能性はありますが、1900年のオリンピックの競技がどんなものだったのかすら残っていない時点で、見込みは低いと考えています。

戦争によって美術品や研究資料・書籍などが焼かれたり、略奪されることが古今東西で行われてきた。第二次世界大戦でも、戦場となったヨーロッパ各国の都市の図書館や文化遺産の多くが被害を被ったが、例えば、勝者であった旧ソ連によりドイツ文化財が略奪されて、250万点という想像を絶する数量で、今もって返還されていないことが明らかになっている。

加藤一夫, 日本の旧海外植民地と図書館, 参考書誌研究(49),1998, P50-70

逆に、英・米・日なのかと言えば、記録に残した人の偉大さもありますが、戦争こそしたものの、革命が起きておらず、焚書がなかった国がこれくらいしかないという悲しい現実があるのかもしれません。ちなみに日本は戦時中、図書資料の疎開が行われています。

日本のアーチェリーについては勉強中で、イギリスのアーチェリーに関しては、当時の中心人物の著書を翻訳しているので、それなりに把握しています。

ということで、当時(19世紀後半)のアメリカの様子を見ていきましょう(すべて意訳です)。

 弓で射るとき、動かすのは自分の体あり、矢を制御するのは自分の心である。自分の優れた男らしさを誇りに感じる。鍛え上げた筋肉が功を奏したのだ。しかし、銃の射撃はそうではない。ライフルや猟銃の弾には、筋肉の動きとは無関係に働く力が宿っており、小学生や弱虫でも、力強く撃つことができる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.9-10

19世紀に弓が狩猟で栄えたのはアメリカだけです。アメリカでは負けた南軍が銃器の所持を許可されなかったために、旧南軍だった人たちは、銃器による狩猟ができなくなり、弓に移行していきます。この本の著者のMaurice Thompsonも、南軍の二等兵として参戦した人ですが…負けたから銃が使えなくなったのに、銃は弱虫が使うものだということになっています(笑)。

 野生動物の捕獲は、生計を立てるための手段としてはほとんど見なされなくなり、スポーツやレクリエーションの手段というレベルにまで低下したか、あるいは上昇したと見ることができるだろう。以前は、食卓の快適さは、猟師の腕か運によった。

現在では、銃による狩猟が流行しているが、健康的で楽しいものとして推奨することはできません。300から700発のペレット(*)を鳥めがけて投げつけるのはスポーツではありません。ちょっと考えてみましょう。銃身に400個のペレットが入っているとします。散弾は40ヤードの距離では、9平方フィートのスペースにその数を広く散布します。

*1発の弾丸に入っている散弾の数

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.15

では、古代の捨てられた武器で武装した私たちが、警戒心の強い鳥に近づくのはどれほど難しいことでしょう。しかし、私たちが成功する可能性が低いことが、この事業をより魅力的なものにしていた。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.39

アメリカ人がこのような本を書いたことではなく、アメリカでベストセラーになったという事実から、当時のアメリカでは、散弾銃による狩猟は簡単すぎるがゆえに、「マッチョ」ではないという認識がされていたと考えることができます。

イギリスでは公共射場のために作られた大きな的は次第に放棄され、解体され、すべてのアーチェリー大会は、伝統ある協会に属する美しく装飾された公園や、このスポーツを後援する紳士や貴族の田舎の私有地に用意された場所に限定されるようになった。王室や貴族の後援を受けたいくつかの協会の会合で提供される賞品は非常に豪華で、その争奪戦は射撃の精度を高めることになった。

最も古いクラブの1つである「Woodmen of the Forest of Arden」には、女性会員専用の賞品が3つある。1つ目はトルコ石のゴールドレースジュエリー、2つ目は金の矢、3つ目は金のラッパである。

「Hertfordshire  Archers」は、女性会員に価値ある美しい賞品を提供している。これは、ダイヤモンドをあしらった弓と軸で飾られた金のハートである。

「Royal  Toxophilite Society」は女王の後援を受けており、美しく装飾された敷地の中に、古いイギリス様式の壮大な宴会場を所有している。建物全体を囲む広いベランダに面した窓は、豊かなステンドグラスで、創設者であるウィリアム4世とアイレスフォード伯爵の紋章が誇らしげに飾られています。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.140-141

という、19世紀のイギリスのアーチェリーの状況を説明したあとに、

アメリカでは、「Wabash Merry Bowmen」と「Staten Island Club」がある。もてなし上手な友人の指揮のもとで開催されるプライベートな社交場で、数人の気の合う仲間を呼び寄せて午後のひと時を陽気に過ごし、シンプルでカジュアルなディナーで締めくくります。 

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.148

と当時のアメリカの事情を伝えますが、イギリスの状況が貴族の社交場で、アメリカはカジュアルな仲間の庭でやるバーベキューみたいな記述にはなっていますが、かなり細かく、イギリスの協会で女性に与えている景品をこれでもかというくらいに細かく説明しているので、私たちはカンパニー(仲間)だが、イギリス人は金を女を呼んでいる、と言った感じのニュアンスをわたしは感じました。現在の相席屋的な。。下記のリンクで読めるので該当部分のニュアンス下記になる方は読んでみてください。

https://www.archerylibrary.com/books/witchery/

かと言って、彼らが女性に興味が無いほど「マッチョ」だったかと言えば…

アーチェリーが、女性にとってクロケットよりも好まれる理由は、たくさんあるはずです。クロケットは2つの理由で好ましくない。第一は、女性はコーデをするので、前かがみになるのは非常に不健全な行為であり、非常に敏感で傷つきやすい体の器官を圧迫することになるからである。第二に、 アーチェリーは直立した姿勢で行うため、両手と腕、肩と背中、胸と脚の筋肉が使われる。

Maurice Thompson, The Witchery of Archery, 1878, P.214

イギリス人は金で女を釣り、アメリカ人はアーチェリーが女性にとって健康に好ましく、合理的なスポーツであると説得することで釣るのは、なにか現代に通じるところがあるようにも…人間は変わりませなんね。


シングルラウンドの終焉から、1対1へ

下記の2つの記事を先に読むことをおすすめします。

1988年のオリンピックからダブルFITAラウンドから、シングルFITAラウンドからの、グランドFITAラウンドという各距離を8射(計36射)してのノックアウト方式、現在もベガスシュートの決勝で用いられている形式のフォーマットが導入されます。前の記事で、WA(FITA)は競技団体ではなくIOCの味方であると書きましたが、各国の団体も概ね賛成だったようです。全ア連の見解を見つけることができませんでしたが、1988年のオリンピックのホスト国の韓国で賛成多数で決まっています。

下記原文は韓国語なので機械翻訳を修正したものです。どこまで正確か検証できていません。

33回世界洋弓選手権をあと、ソウルでは36回FITA総会がソウル汝矣島63ビルで開催された。 総会では世界アーチェリーの新たな転換点になったといえる新たな競技方式であるGrand FITA Round方式を採択したこれらのGrand FITA Round方式は、45カ国が参加した中で投票が実施され、賛成40カ国、反対3カ国、棄権2カ国で確定し、1986年5月1日から実施することに決議した。 このような競技方式の変化は、FITAが従来の方式ではアーチェリー競技の興味を誘発することに多くの困難があると判断し、アーチェリーの大衆化を引き出すために競技方式に新たな変化を与えるものだった。

韓國洋弓三十年史 本編, P225-226

正しい競技形式を定義することは不可能だとは思いますが、多くのアーチェリーガイドを読んでも、アーチェリーはメンタルが大事なスポーツであると書かれていて、持久力を競うスポーツではないと多くの方が捉えています。自分は高校時代はシングルFITAラウンドを競いましたが、勝つためには、正直メンタル要素より体力が求められる競技という認識でした。メンタル要素があった記憶は…ないです。

対して、現在の1対1での競技では、大いにメンタルタフネスが求められ、アーチェリーがメンタルスポーツであるという認識であれば、正しい方向に進んでいます

さて、競技時間の短縮により、1988年のソウルオリンピックでは団体も開催されるようになり、メダル数が倍になります。オリンピック後の89年にWAの総会が行われます。

サマランチIOC会長は当連盟がソウルオリンピックに積極的に参加したこと、そしてグランドFITAラウンドの導入に成功し、例外なく競技がより華やかなものになったことに賛辞をいただきました。

FITA Bulletin officiel No 40, 1989, P2

(オリンピックでの採用の継続につながる)IOCから称賛を得たので、そのままグランドFITAが継続するかと思いきゃ、IOCから次のバルセロナ後に団体競技を削除するという連絡が届きます。コンパウンド(*)競技を承認した新しい会長のジム・イーストン氏が問題の解決にとり組みにあたります。

*FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P3

IOCプログラム委員会は、1989年の早い時期に団体競技を廃止しました。IOCプログラム委員会の目標は、すべての個人競技のチーム競技をなくすことです。私たちの団体競技は1992年のオリンピックで終わります。私たちは、他の個人スポーツ(体操、フェンシングなど)のチーム競技が残っている限り、アーチェリーのチーム競技をオリンピックに残すよう、プログラム委員会とIOCを説得しなければなりません。先日のアテネでの理事会で特別委員会が設置されました。この委員会は、FITAアーチェリー競技に対するテレビの関心を高める方法を提案し、FITAと我々の大会のスポンサーを獲得するという、非常に重要な目標を担っています。

FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P1(意訳)

FITAは、アーチェリーを発展させ、世界に広め、テレビに映える競技にしなければ、オリンピックに積極的に参加しようとする多くのスポーツ(トライアスロンやゴルフなど)に取って代わられる危険性があります。会議に出席している間、FITAの評議会や委員会のメンバー数名と会う機会があり、テレビでのアーチェリーの露出について話し合いました。テレビでより面白くなるようなラウンドを実験するよう、すべての加盟団体に奨励することが提案されました。8月30日に行われたノルウェーのロエン会議では、Raoul Theeuws会長、Leif Janson氏、Don Stamp氏がタスクフォースに任命され、夏のオリンピック競技としてアーチェリーを維持するために必要なテレビ放映を得るために、FITAがオリンピック競技で提供すべきラウンドと決勝を提案・開発するように指示されました。

FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P1(意訳)

1990年の5月に行われたオリンピックに関するミーティングでは多くの意見が出され、決勝戦をテレビの注目を集めるのに最適な20分に短縮するための1射の時間の短縮、21世紀になってから導入される、決勝戦をよりドラマチックにするために、テニスなどの他のスポーツのように15本の矢を3セットで行うなどのアイデアも検討されます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P5

課題はテレビ放送ですので、競技方式の決定にはアメリカのNBCテレビのピーター・ダイヤモンド氏、バルセロナオリンピック組織委員会(テレビ部門ディレクター)のマノロ・ロメロ氏、スポーツチャンネルESPNのピーター・レイス氏が関わり、アーチェリーのライブ映像を配信することの明言を得て、90年の11月に新しい競技方式が確定します。詳細の記録を読んでいくと、NBCテレビからは午後に決勝を行い、個人戦を2時間半以内、団体戦を3時間以内、16時前に終わらせることが要求されています(*)。92年夏季の大会のルールが90年の11月に確定し、91年3月の世界室内で初めてテストされます。

**FITA Bulletin officiel No 44, 1991, P5

FITAオリンピックラウンドと呼ばれる新しい競技形式はまさにオリンピックのために開発されたものです。オリンピックの前年の世界選手権にも採用されてません。

オリンピックラウンドで行われたバルセロナオリンピックは、かつてないほどの成功を収めます。試合としても、放送としても。

テレビ放送は完璧だった。アーチェリーの素養のない友人たちと一緒に、3日間ずっと放送を見続け、魅了された。

FITA副会長 Nikola Skoric, Olympic Archery on TV, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P6

(テニスを観戦していた)スペイン国王フアン・カルロスは、スペインチームの成功を知らされ、金メダル獲得を目指すフィンランドチームとの対戦に間に合って到着した。フィンランドチームは初めて緊張を見せ、スペインチームにリードを許したが、熱狂的な観客の応援を受け、最後まであきらめることなく力を出し切った。スペインが金メダル。アーチェリー場は、選手、スタツフ、観客が互いに抱き合い、祝福するお祭りのようになった。

Klaus-Dletrich Schulz, Gold medal for the Olympic Round, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P8-11

この成功により、オリンピックでへの参加がより確実なものとなり、1対1の戦いとテレビとの相性の良さが証明されました。93年の世界選手権からは予選シングルラウンド、決勝オリンピックラウンドという形式になります。

93年のWAの会報に委員の意見として、FITAシングルラウンドが長すぎるのではないか、決勝が70mなのに予選で他の距離で競う必要があるのかという提案がされます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 48, 1993, P5

94年にはWA会長のイーストン氏がIOC委員となったことで、アーチェリーのオリンピックからの除外に対する懸念は以前ほどではなくなります。95年にオリンピック予選ラウンドが、70mの720ラウンドで行われることが決まります。92年と同じオリンピックラウンドを採用した96年に行われたも大成功し、

私たちの課題は、アトランタで感じた熱気をさらに加速させ、世界中の観客に1対1のアーチェリーの興奮を届けることです。

Jim Easton, FITA Bulletin officiel No 58, 1996, P1

もう後戻りすることは現実的ではなく、92年と96年の成功によって、アーチェリーは1対1の対決によって勝者を決めるスポーツに変化しました。アーチェリーがオリンピックに根付いた事により、現在のWAの目標はオリンピックにコンパウンドを参加させることです。

IOCがコンパウンドの参入を拒否している理由は主に、

・競技がリカーブと酷似している

・コンパウンドは選手が特定の国に偏っている

というものですが、これは2013年の回答で、10年経過し、現在ではコンパウンドは多くの国で競技されているので、リカーブとの競合が最優先で解決すべき問題で、WAは距離で違いをつけ、的の大きさで違いをつけ、そして、更には、2028年のロスオリンピックに向けて、コンパウンドをインドア競技として採用してもらうよう提案しています。屋外70mリカーブ、屋内18mコンパウンド、IOCの反応が待たれます。

3つの記事からなるアーチェリー競技の歴史はこれでおしまいです。