国宝 日置流弩術伝書…じゃなかった話

2,065円が…日本における「弩」について資料を集めているのですが、東大史料に「日置流弩術伝書」なるものを発見。同様のものがすでに文字化されていないか調べてみましたが、どこにも情報がないので、複写を依頼しました。昨日届いたのですが…中身はほぼ既知の日置流弓術目録六十カ条で、弩(クロスボウ)に関する情報はゼロした。お気をつけください。

全部読んでみましたが、興味深いところもあり、調べている事とは関係がないのですが、後半に、

(現代語訳)敵に攻められた際、城の四方に向かって「張」という字を書き、真言などを唱えなさい。そうすれば、たとえ運が尽き果てようとしていても、あと七日間は城を持ちこたえさせることができる。

島津家文書-80-3-13 日置流弩術伝書 11コマ目

と書かれています。当時、戦術として呪術が使用されている事自体驚きはないのですが、このような情報が「弓術書」に含まれていていたのは興味深いです。まだ弓術が実戦に使われていた時代(1608年)だからこそなのでしょう。少なくとも、現在の弓術書からは削除されている内容です。

以上、2065円でした。

島津家文書-80-3-13 日置流弩術伝書 : 慶長十三年十二月十五. 法量: 第1紙17.8×94.6cm, 第2紙17.8×94.8cm, 第3紙17.8×94.7cm, 第4紙17.8×91.1cm. 差出: 寺沢広忠. 宛所: 少将(島津家久). 島津番号: 80-3-13. マイクロフィルム:Hdup.M-23「島津家文書マイクロ版集成[No.島津]」リール番号164-開始コマ779

抛石(ほうせき)とは何か – 日本投石機史

(写真1)Flickr user Gary Todd -中国人民革命軍事博物館

*今後の記事のために「抛石」という日本語を解釈する必要があったための記事です。

「抛石」という言葉の意味

「抛石」という言葉自体は「石を投げる」という一般的な意味を持つ言葉です。『後漢書』や『晋書』などの史書では、「抛石」は単に手で石を投げる行為を指す場合もあります。推古天皇26年(618年)8月、高句麗から日本へ軍事物資が献上されました。『日本書紀』にはこう記されています。

「……及鼓吹、弩、抛石之類十物、并土物駱駝一匹を献ず」 (訳:太鼓や笛、弩(おおゆみ)、抛石(いしはじき)の類など十種類、あわせて地元の産物と駱駝一匹を献上した)

外交上の「献上品」として記録されている以上、単なる「石を投げること」を意味しているとは考えにくいです。隣国への贈り物として価値を持つ何らかの特別な技術や装置を指していると解釈すべきでしょう。この618年という年は、中国で隋が滅亡し唐が建国された激動の時代です。その6年前(612年)、高句麗は隋の煬帝による大遠征を撃退していました。この「抛石」は、世界帝国・隋を退けた高句麗の軍事技術力を誇示する外交上のデモンストレーションであったと考えられます。

「抛石」という名称について

当時の日本には、すでに投石機の概念は知られていました。『和名類聚抄』(10世紀)には「旝(いしはじき/以之波之岐)」という漢字で記録されており、これは古代中国の字典『説文解字』に由来する学術的な表記です。

しかし、『日本書紀』では高句麗からの献上品を「抛石」と記録しています。これは、贈り主である高句麗側が使用していた名称をそのまま採用したものと考えられます。「旝」が日本の辞書(字書)における学術的な呼称であったのに対し、「抛石」は実戦で使われる大陸の軍事用語でした。ただ、日本でも約200年後の『令義解』巻第十四(833年成立)には、抛石について明確な定義が記されています。

「抛者猶擲也。作機械擲石撃敵也」 (訳:「抛」とは「擲(なげうつ)」と同じである。機械を作って石を投げ、敵を撃つものである)

日本側の一次史料には、618年に献上された「抛石」そのものの設計図や詳細な外見を記したものは現存しません。そこで、韓国最古の正史『三国史記』および中国の正史『隋書』『北史』を参照する必要があります。これらの資料では、投石機を「抛車(ポチャ/ほうしゃ)」あるいは「抛石機(ほうせきき)」と呼んでいます。高句麗は当時、強大な隋・唐と死闘を繰り広げていました。その山城(サンソン)防御の要となったのが、この抛車でした。

隋との戦争(612年):遼東城の攻防

『隋書』卷八十一・列傳第四十六(東夷・高麗)には、以下の記述があります。

「(隋軍)又作飛楼、橦車、雲梯、地道、四面攻之。高句麗人亦隨機應變、作抛車、飛石所及、皆砕。」

(訳:隋の軍勢は飛楼(高い物見櫓)、橦車(衝角)、雲梯(はしご)、地道(トンネル)を作り、四方から攻撃した。高句麗の人々も状況に応じて臨機応変に対応し、抛車(投石機)を作り、飛んでくる石が当たるところは皆粉砕された。)

隋という巨大帝国が最新の攻城兵器を投入したのに対し、高句麗は自ら投石機を製造して応戦し、敵の兵器を破壊したのです。

唐との戦争(645年):安市城・遼東城の攻防

『三国史記』巻第二十一・高句麗本紀第九(宝蔵王四年)には、唐軍の抛車運用が記録されています。

「帝乃命李勣、張亮、以抛車攻之、飛石所及、屋瓦皆砕。城中人皆施布帷、以障之。」

(訳:唐の皇帝は李勣や張亮に命じ、抛車(投石機)をもって攻撃させた。飛んできた石が当たるところ、屋根の瓦は皆粉砕された。城中の人々は皆、布のカーテン(帷)を張り巡らせて防ごうとした。)

この記録から、抛車の射程は約300歩(約450m)以上に達し、城壁の楼閣を破壊できるほどの威力があったことがわかります。

投石機の実際の大きさ

上記の韓国・中国側資料から推測される投石機は、非常に大型の兵器でした。

要素推測される実態根拠資料
構造人力式トレブシェット『隋書』の「隨機應變、作抛車」という記述から、現場で木材を組み上げ可能な人力式であることがわかる
威力攻城兵器の破壊瓦だけでなく、隋の「橦車(大型の台車)」を粉砕するほどの衝撃力がありました
射程約300歩(450m以上)『三国史記』における唐軍の運用記録から推測されます
運用組織的な集団戦術数十人の兵士が一斉に引き綱を引きます

投石機の構造を考えると、実戦で使用される大型の投石機は巨大な木製の架台、長い投射アーム、そして数十人の兵士が引く引き綱を必要としました。このような大型兵器を完成品のまま海を越えて運搬することは、現実的には極めて困難です。

では、抛石として何が献上されたのでしょうか。ここで参考になるのが、同時に献上された弩の例です。弩は完成品だけでなく製造技術と技術者が移転されていたことがわかっています同様に、抛石として献上されたものも、以下のセットであった可能性が高いです。

  1. 設計図(図面・仕様書):製造方法を記した文書
  2. 縮小模型:構造を理解するための実物大でない模型(写真1)
  3. 技術者(職人):投石機の製造・運用を指導できる人材

また、抛石とは単に石を投げる道具ではなく、山城を守り抜いた実績のある高度な工学技術であったと考えられます。ここが大事なところであり、高句麗からもたらされた抛石の技術は、攻城兵器ではなく、防城兵器としての投石機であったということです。

ところで、中国の正史には、倭国(日本)の城郭についての記述があります。そこには、当時の日本には中国や朝鮮半島で見られるような石積みの城壁が存在しなかったことが明記されています。

『隋書』倭国伝

「無城郭」 (訳:城郭がない)

『旧唐書』倭国伝

「其の国、居るに城郭なく、木を以て柵を為り、草を以て屋を為る」 (訳:その国は、住むのに城郭がなく、木で柵を作り、草で家を建てている)

中国側から見た当時の日本は、城壁を持たない「無城郭」の国でした。投石機(抛車)は、まさに高い城壁を破壊するために発達した兵器です。城壁のない日本では、その本領を発揮する場面がありません。

飛鳥・奈良時代の日本における防御施設は、主に以下の構造でした。

  • 土塁(どるい):土を盛り上げた防壁
  • 柵(さく):木材を立てた防柵
  • 濠(ほり):周囲を掘った溝

これらは「城郭」というよりも「城柵(じょうさく)」と呼ばれ、東北地方の蝦夷対策などで多用されました。多賀城(724年創建)や秋田城などが代表的な城柵です。土と木を主材料とする構造物に対して、石を高速で叩きつける投石機は、必ずしも最適な兵器ではありませんでした。

『養老律令・軍防令』(718年)では、兵士の訓練項目として「発弩、抛石」が規定されていました。

「即令於当府、教習弓馬、用刀、弄槍、及発弩、抛石」 (訳:当府において、弓馬、刀、槍、および弩を放つこと、石を抛ずることを教え習わせよ)

しかし、ここで注目すべきは弩と抛石のその後の記録の差です。弩に関しては豊富な記録が残っています。

  • 740年(天平12年):藤原広嗣の乱で弩が使用された記録(『続日本紀』)
  • 奈良時代末期:宮城県の伊治城跡から弩の引き金部分「機」が出土
  • 『延喜式』:国衙(地方行政機関)で弩が製作されたことを記載
  • 895年(寛平7年):越前国(現在の福井県)で弩師の設置が申請・許可された記録

一方、抛石に関しては記録がほとんど残っていません。「弩師」のような専門の指導者が配置されたという記録もなく、抛石機の製造や運用を担当する「抛石師」「石師」といった職種も確認されていません。

この差が生まれた理由はまさに守るための城壁がなかったためだと考えられます。結果として、弩が平安中期まで実態のある兵器として維持されたのに対し、抛石(投石機)の具体的な技術は早い段階で失われたと思われます。

日本での城壁化

日本の城郭史をたどると、石積みを持つ城郭には二つの波がありました。そしてその両方で、投石機は攻城兵器ではなく、防城兵器として位置づけられていました。

白村江の戦いと古代山城 – 国家の危機と大陸式築城技術の導入

西暦663年、日本(倭国)は百済復興を支援すべく朝鮮半島へ出兵しましたが、唐・新羅連合軍の前に大敗を喫しました(白村江の戦い)。この敗北により、日本本土が唐・新羅の侵攻を受ける可能性が現実味を帯びることとなりました。

天智天皇を中心とする政権は、大宰府や近畿の中枢部を守るため、九州北部から瀬戸内、近畿に至る広範囲に防衛線を構築しました。この時、築城の中核を担ったのが、日本に亡命してきた百済の貴族や技術者たちでした。これが「古代山城(こだいやまじろ)」と呼ばれる軍事施設群です。

古代山城の城壁は、主に以下の構造で構成されていました。

構造要素技術的特徴代表的遺構
版築土塁質の異なる土砂を交互に積み上げ、一層ごとに突き固める鬼ノ城、大野城の外郭線
石垣谷部や急斜面の補強として大規模に石を積む大野城「百間石垣」
水門城内の排水を管理し、城壁崩壊を防ぐ大野城の水門遺構
城門12本の角柱を立て、両脇を版築で固める堅固な門鬼ノ城の西門・南門
百間石垣(九州歴史資料館)

福岡県の大野城に残る百間石垣は、全長約180メートル、高さ約4メートルに及ぶ大規模なもので、75度という急斜面に築かれています。

ここで注目すべきは、高句麗から抛石が献上された618年から、白村江の戦いまでわずか45年しか経っていないことです。高句麗が隋の大軍を撃退した時も、投石機は城を守る側が使っていました。高句麗における投石機の本来の用途は、城壁の上から迫りくる攻城兵器を破壊する防御兵器だったのです。

しかし、懸念された唐・新羅の侵攻は結果として起こりませんでした。百済から伝わった高度な石積み技術は、その後の日本の城造りに継承されませんでした。古代山城は国家規模のプロジェクトであり、その放棄とともに技術者集団も拡散・消失してしまいました。

平安時代から室町時代にかけて、日本の城郭は土の城が主流でした。この時期の城は、山の地形を削って造る切岸(きりぎし)や土塁、そして堀を組み合わせた防御体系でした。城といえば土造りという常識が数百年続いたため、当時の武士にとって、全山を石垣で覆うような発想自体が失われていきました。

元寇(1274年・1281年):大陸式投石機との再会

蒙古襲来絵詞(抜粋)

平安時代に文献上の知識となっていた投石機は、元寇(蒙古襲来)によって再び現実の脅威として日本人の前に現れました。モンゴル軍が使用した「回回砲(かいかいほう)」は、フビライに仕えたイラン人技術者が製造した大型投石機で、ペルシア語の「マンジャニーク」が語源とされています。襄陽の戦いなど南宋との戦いで大きな効果を上げた攻城兵器で、大型の石弾を約700〜800メートルもの長距離まで飛ばすことができました。

鷹島海底遺跡(長崎県)出土石弾

『八幡愚童訓(*)』には、その凄惨な被害が記録されています。

「大石を石弓にて飛ばす。其の飛ぶこと電(いなづま)の如し。中(あた)る所、何物か堪(た)ふべき。手足うち砕かれ、冑(かぶと)うち割られ、脳(のう)出でぬる者、数を知らず。」

長崎県の鷹島海底遺跡からは、モンゴル軍が使用したとみられる石弾が発掘されており、投石機が実際に使用されていたことが考古学的にも確認されています。

*(wiki)超自然的な内容だけでなく地理的にも不正確な記述が多く、明治後期から昭和前期にかけて活動した考古学者の中山平次郎は「八幡愚童訓は実録にあらず」とこの史料をこき下ろしている。しかし、文永の役を詳述した日本側の史料はほぼ八幡愚童訓だけであったために学界でも長らく活用されていた。

南北朝時代(14世紀) 楠木正成と千早城 – 「石」を防城兵器として活用

鎌倉幕府との戦いにおいて、楠木正成は石を防御兵器として最大限に活用しました。その拠点となった千早城(現在の大阪府千早赤阪村)は、四方を深い谷に囲まれた天然の要害でした。

『太平記』によれば、籠城兵はわずか数百人であったのに対し、幕府軍は数万人規模でした。楠木軍は以下のような戦術で幕府軍を撃退しました。

戦術具体的方法効果
落石攻撃櫓から大木や大石を落とす攻め寄せる敵兵を撃退
投石攻撃石を飛ばして敵を攻撃遠距離からの攻撃が可能
熱湯攻め塀を二重にし、熱湯をかける登城しようとする敵兵を撃退
わら人形作戦わら人形に甲冑を着せて敵を欺く敵の矢や兵力を消耗させる

この時期の文献では、機械仕掛けの石弓と、単に崖から落とす落石(おとしし)の区別が曖昧になり、総称として石(いし)や石弓(いしゆみ)が使われるようになります。

応仁の乱(1467〜1477年) 発石木の登場 – 投石機の実戦使用記録

応仁の乱では発石木(はっせきぼく)と呼ばれる投石機が実際に使用されました。応仁2年(1468年)1月、東軍は大和国から工匠を呼び寄せて発石木を製造させたことが記録されています。投擲された石は、当たった場所を破壊するほどの威力を持っていたと伝えられています。

この戦いでは、両軍が陣地の周囲に堀を掘って要塞化する「御構(おんかまえ)」と呼ばれる防御施設を築き、市街戦が実質的に攻城戦の様相を呈しました。この時期、実務的な国語辞書が編纂されるようになり、難解な漢字(旝、弩)から、現代に近い石弓という表記が定着します。『下学集(1444年)』『節用集(15世紀なかば)』では武器を扱う武備門において、「石弓(いしゆみ/いしはじき)」という項目が立てられます。知識人だけでなく、一般の武士や読み書きのできる層の間でも石を投げる装置 = 石弓という言葉が一般化しました。

攻撃側は火砲へ、守備側は石へ

戦国時代の文献には、「石弓」「発石木」「飛砲」といった名称で投石機が登場します。しかし、その用途は興味深いことに、圧倒的に「防城兵器」としての記録が多いのです。16世紀後半に火縄銃が普及し、さらに大筒(大砲)が導入されると、攻撃側は火薬を使った新兵器に移行しました。一方、守備側は城壁上から石や丸太を投げ落とす伝統的な防御法を維持していました。高句麗の防城兵器として導入された投石機の技術は最後まで攻城兵器にならなかったことが伺えます。

おわりに

618年に高句麗から献上された-防城兵器として抛石は、当時の東アジアにおける最先端の軍事技術でした。しかし、日本の城郭が土塁主体であったこと、戦術が個人戦重視に変化したことから、この技術は一旦歴史の表舞台から姿を消しました。

興味深いのは、同時に献上された弩が弩師の配置や製造技術の記録を残しているのに対し、抛石についてはそのような記録がほとんど残っていない点です。日本の戦術環境には、投石機よりも弩のほうが適合していたことがうかがえます。

その後、元寇で大陸式投石機(回回砲)の威力を目の当たりにし、南北朝時代には楠木正成が千早城で落石戦術を駆使し、応仁の乱では発石木が製造されました。戦国時代には防城兵器として再び実戦に登場し、「抛石」は「石弓」という名で定着することとなります。

古代から戦国時代まで一貫して、日本では投石機は城を守る側の兵器として位置づけられてきました。抛石の歴史は、日本の軍事史・築城史を読み解く重要な鍵となっています。


参考文献

一次史料

日本

  • 『日本書紀』推古天皇26年(618年)8月の条
  • 『養老律令・軍防令』(718年)
  • 『続日本紀』天平12年(740年)の条
  • 『令義解』巻第十四(833年)
  • 『延喜式』(927年)
  • 『和名類聚抄』(10世紀)
  • 『八幡愚童訓』(鎌倉時代)
  • 『太平記』(14世紀)
  • 『蒙古襲来絵詞』

中国・朝鮮

  • 『隋書』卷八十一・列傳第四十六(東夷・高麗)
  • 『旧唐書』倭国伝
  • 『三国史記』巻第二十一・高句麗本紀第九

考古学的資料

  • 伊治城跡出土の弩機(宮城県)
  • 鷹島海底遺跡出土の石弾(長崎県)
  • 大野城「百間石垣」遺構(福岡県)

参照辞書

  • 『類聚名義抄』(11世紀末〜12世紀)
  • 『下学集』(室町時代)
  • 『節用集』(室町時代)
  • 『説文解字』(後漢)

城郭関連資料

  • 大野城跡(福岡県・国特別史跡)
  • 鬼ノ城跡(岡山県・国史跡)
  • 安土城跡(滋賀県・国特別史跡)

投石機の呼び名の変化

時代主な表記使用状況・背景
飛鳥・奈良抛石、旝大陸から伝来した軍事用語と、日本の辞書における学術的表記が並存
平安旝(いしはじき)『和名類聚抄』などの辞書に記載されるが、実用記録は少ない
鎌倉石弓(いしゆみ)元寇で投石機を目撃した武士たちが「石を飛ばす弓」として記録
室町石弓、発石木、飛砲攻城戦で使用された記録あり(応仁の乱など)
戦国石弓防城兵器として実戦使用。鉄砲の普及により攻撃側は火器へ移行
現代投石機、カタパルト西洋の歴史兵器との対比により、より一般的な名称が普及

知識層が使う「旝(いしはじき)」という難解な漢字が次第に使われなくなり、「石弓(いしゆみ)」という平易でイメージしやすい表記に置き換わっていったことがわかります。

【記録更新】ウズベキスタンで8万年前の矢じり発見

2024年に下記の記事を書きました。アフリカでは7万年前の矢じり、ヨーロッパでは5万年前の矢じりがこれまでに見つかっていますが、2025年8月に発表された最新の研究で、ウズベキスタンのオビ=ラフマット(Obi-Rakhmat)遺跡から、約8万年前の矢じりが発見されたと報告されました1

上の写真は新しく発見された8万年前のオビ=ラフマット遺跡の石器と、前の記事の5万4000年前のマンドリン洞窟の石器を並べて比較したもので、「交換可能なほど似ている」とされています。

次の疑問は当然、6,000km&2万5,000年も離れているのに同じ設計思想で作られている理由になりますが、新しい論文では、アジアからヨーロッパへと伝播していった可能性を示唆しています。

2021年、5年前の研究にもとづいた書かれた図に新しく発見された遺跡を追加するとこんな感じです。アフリカ→中央アジアやペルシャ高原→ヨーロッパという流れで弓矢の技術で伝わっていったことになります。ただし、論文の著者はこれを作業仮説として採用しているにすぎ、引き続き研究が続くことになります。続く。

  1. Hugues Plisson et al. (2025) “Arrow heads at Obi-Rakhmat (Uzbekistan) 80 ka ago?” PLOS One 20. ↩︎

Colt-Sahara National Open 1962

先日、日本では長い間開催されていない25mインドアの世界記録が更新されたというニュースがありましたが、ベガスシュートの歴史というWAの公式記事で、この写真を見て仰天(?)しました。1962年の初回大会ですが、これでは競技形式が全く意味不明です。説明もなし。ただ、詳しく調べてみたら、こちらの写真はウォーミングアップ・エリアを撮影したものらしく、下の写真が競技会場です。

A brief history of the Vegas Shoot

Archery Magazine May 1962

試合について触れた記事も読みましたが、要約すると「的が見づらくて最低の試合」という評価だったようです…写真の撮り方にも問題があるかもしれませんが、優勝者の記念写真を見ても…心の目でしか10点が見えないというか、ひどい的と言われても仕方ない感じがします。

ということで、第一回のベガスシュートは「的が最低」な試合だったようです。残念。

飛び道具の卑怯が難しすぎた

和泉屋市兵衛 勇魁三十六合戦

矢で死亡した武将がぜんぜん見つかりません。絵の源義仲は平安時代。江戸時代について書かれた本に良く「飛び道具は卑怯だとされた」という表現を目にします。それ以上踏み込んだ文献がなかったので、自分で調べて理解しようと思ったら、難しすぎて断念した話です。まず、江戸時代に入り、時代は平和に…

その一方で幕府は林羅山(一五八三~一六五七)その他の学者を使って、大名の関心を鉄砲からそらせるための思想宣伝もおこなっている。羅山は朱子学の大家として家康の知遇を得た人で、 秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、学問や政治上の諮問に答えている。飛道具は武士道に 反する卑怯なものだとか、鉄砲は身分いやしい足軽があつかうもので武士が手にするものではないという思想は、彼によって創始された。この思想攻勢はかなりの成功を収めたとみてよい。

奥村正二 著『火縄銃から黒船まで : 江戸時代技術史』,岩波書店,1993.7.P33

それ故に「飛び道具は卑怯なり」ということにして、武家階級の温存を図ったのであります。こうして、江戸時代の武家政権は強固にされました。

川瀬一馬 [著]『日本文化史』,講談社,1978,P230

江戸時代になって林羅山などが”飛び道具は卑怯である”とか“刀は武士の魂”、”鉄砲は足軽のもので、いやしくも武士が扱うものではない”などと主張しているが、これを裏返せば、幕府の対藩対策として諸藩が鉄砲を保有することが軍事上問題であるとする見解であり、武器としていかに有効であるかの証左に他ならないものであったといえ

第三章 中世 P.246 (書名のメモをなくしてしまい一生懸命捜索中です…)

ここで、具体的な林羅山という名前が出てくるのですが、この人は将軍四代にわたって仕えて、様々ルールを定めていったとされています。例えば、武家諸法度という武家法では、1615年、大阪の陣直後に発布したものには、その第一条に「文武弓馬ノ道」とありますが、1683年の改定で「弓馬」は削除され、「文武忠孝を励まし,礼儀を正すべき事」とされました。同時に、武士階級の中にさらに細分的な階級を設け1、明示的にその服装を「弓鉄砲の者は絹紬・布木綿の他は着てはならない(弓鉄砲之者、絹紬・布木綿之外不可着之)」とした。1615年から1683年までに弓は武士にとって最大の責務から、絹紬・布木綿しか着てはいけない階級にまで落ちたことがわかります。

「千代田之御表」 「小金原牧狩引揚ノ図」

ここまでは順調だったのですが、ここで私が超えられない壁に直面します。「卑怯」という日本語の解釈です。弓矢や鉄砲による趣味としての狩猟は、江戸時代に入ってからも、多く記録されていて、吉宗将軍(八代)も参加しています2

以上、私のたどり着いた結論は「卑怯」という言葉の当時における解釈に対する正しい理解がないとこの話は詰むです。以前に書いた記事で、ヨーロッパでは弓は神が忌み嫌う武器として…そこまで強い言葉を使うなら現代日本におけるクロウボウのように禁止されるのかと思いきゃ、そうではなく、キリスト教徒には使うなと、異教徒に対しての使用は禁止されませんでした。同様に12世紀の平治物語には、平民に武士が弓に射られることを嘆く表現があります。違う信仰、違う身分における道徳の断絶がある時代です。

予想するに林羅山の思想3も同様のものであり、多くの本が無批判に引用している武士に「飛び道具は卑怯」というほど思想のは存在せず、あくまでの一部の武士階級の特定目的の飛び道具の使用に対する忌諱にすぎなかったのではないかと思います。

ただ詳細に、当時の武士の間における卑怯論を論じることができるほどの能力は私にないので、当分の間、ここまでの理解に留まることにします。参考になる文献などご存知の方がおりましたら、コメント下さい!!

  1. 隈崎渡 著『戦国時代の武家法制』,国民社,昭和19.P.333 ↩︎
  2. 小和田哲男 著『乱世の論理 : 日本的教養の研究室町・戦国篇』,PHP研究所,1983.10. ↩︎
  3. [キョウ]穎 [著]『林羅山の思想』,[[キョウ]穎],1999. ↩︎

アーチェリーとスーパースロー撮影の歴史

アーチェリーとハイスピード撮影についてのコメントが来ました。それに関しては別途返信ましたが、考えてみれば、このテーマについてちゃんとした情報発信をしてこなかった責任はあるので、まとめてみることとしました。

現在では動画と写真という概念がありますが、20世紀前半には同じものでした。写真を連続で撮影して、それを連続再生したものが動画です。記録映像で見たことがあると思いますが、当時は手回し撮影機で動画(連続写真)を撮っていました。手回しなので、現在のように30fpsと設定すれば、勝手に毎秒30枚の写真を撮ってくれるわけではなく、カメラマンの技術で一定にする、この記事を書くにあたって初めて知ったのですが、そのずれを更に上映する機械も手回しだったので、カメラマンの撮影速度のブレを上映技士が補正してあげていました。そのために定まったフレーム数という概念はなく、大正時代の日本映画は約11-13fpsと約20%程度の誤差もあります1

浦上栄、海軍兵学校関係者協力、120fps

カメラに自動設定がなく、手で調節できるわけですから、スローモーションを撮るためには「高速度」でレバーを回せばよいだけなので、高速度撮影と呼ばれます。時期を特定することができませんでしたが、戦前には弓道の動作分析に海軍の120fpsの高速度撮影写真機が使用された記録があります2

機械を速く回せばいいと言っても物理的な限界があるわけで、1951年に出版された「高速度写真: その問題と限界」3によれば、当時のカメラを250fps以上で回転させるとフィルムが損傷して判読できなくなったり、場合によってはカメラ自体が文字通りバラバラに分解してしまうという問題が発生するようです。まぁ、そりゃそーだろと思いますが…。

米国映画テレビ技術者協会は1949年の会合で250fps以上4で撮影できるカメラをハイスピードカメラとして定義づけます。現在に至るまで定義は変わっていないように見えますが、今は10fps低い240fps以上のカメラをハイスピードカメラと呼ぶことが多いと思います。

当時、高速度カメラでは回転プレズムという仕組みによって250fpsを達成していたようですが、この仕組みの限界点が10000fpsで、それ以上はスーパーハイスピードカメラと呼ばれ、ストリップカメラという別の仕組みが導入されているそうですが、ここでは取り扱いません。

上記は1980年代の1000fpsの撮影に使用されたシステムです。見ての通り、カメラはちょこっとあるだけで、それに比べシステム全体は大変な大きさです5

こちらはハイスピード撮影の父と呼ばれたハロルド・エジャートンによって、1939年に撮影されたアーチェリーの連続写真です。300-500fps程度で撮影されたものと推測します。1940年前後にはすでに500fps程度の撮影機材は存在していました。しかし、1990年頃までアーチェリーにおけるハイスピードカメラの利用は屋内に限定されていました6

ここで冒頭の1986年にバイター社によって撮影された8000fpsのフィルム式ハイスピードカメラによる映像になりますが、8000fpsの場合、シャッタースピードは16000-20000程度設定する必要があります。つまりシャッターは写真1枚につき1/20000秒しか開かないので、直視できないほどの光が必要になります。これが2個前のシステムでカメラ以外の装置がたくさんある理由です。また、核爆発など高速度動画が比較的早い時期に収録されているのは、撮影対象自体に十分な明るさがあったからです。

https://www.apex106.com/monthly/202012/

2000年代のカメラ機材のデジタル化によって、ハイスピードカメラの低価格化が進むと同時に、センサの改良も進んでいきます。よく少ない光でも補助光源を使わず、センサの感度を上げることで実用的な画像を取得してくれます。上の写真はApexレンタルのブログのものですが、目では真っ暗でもISO409600(α7S III)ではこれほど明るく映ります。

オリンピック競技中に撮影のためにバイターの動画のように選手に光源を当てるわけには行かないので、センサの感度が太陽光で実用に耐えるようになった、2010年代後半にハイスピードカメラが中継でも使用されるようになります。

Paris hosts archery test event for 2024 Olympic Games

これはパリオリンピックテストイベントで撮影されたハイスピード動画(240fps)を明るさ無加工で切り出したものですが、放送で使うには暗すぎる印象です7。まぁ、問題点・不具合を見つけるためのテストイベントなので、ここから1年間の調整がされて、2024年の見事なライブ中継に繋がっていくわけです。

パリオリンピックでは選手は背(体の引手側)が南に設定されており、南側からハイスピード撮影がされているので、十分な太陽があれば、この条件では240fpsまで自然光で、違和感のないハイスピード動画が撮影できるところまで技術は進化しています。

一方で研究目的ではないアーチェリー放送の場合は16倍速スローで十分です。現在ではテレビは30fpsなので480fpsが16倍速になりますが、一般的なパソコンで60fps(60Hz)で、人間の目は240fpsまで差を感じることができので8、今後テレビが1秒あたり240フレームで表現された場合、16倍速スローは3840fpsに相当します。ここが技術の終着点です。その時代まで人間が画面視聴するのかはわかりませんが…2028年ロスオリンピックではどんな動画が見られるか楽しみですね。

  1. 入江良郎,無声映画の映写速度:日本の場合(下) ↩︎
  2. 浦上 栄 (著), 浦上 直 (著), 浦上 博子 (著),紅葉重ね・離れの時機・弓具の見方と扱い方,1996 ↩︎
  3. Van Oss, Willis Burton, High Speed Photography: Its Problems And Limitations, 195 ↩︎
  4. Maynard L. Sandell, “What is High Speed Photography?” Journal of the Society of Motion Picture Engineers,52:5, March 1949 ↩︎
  5. Dalton, Stephen,Caught in motion : high-speed nature photography,1982 ↩︎
  6. Harold Eugene Edgerton, James Rhyne Killian, Flash!: Seeing the Unseen by Ultra High-speed Photography,1939 ↩︎
  7. Paris hosts archery test event for 2024 Olympic Games ↩︎
  8. 肉眼を凌駕するカメラの「目」、進化止まらず イメージセンサー[ソニー、キヤノン] ↩︎

【写真集】世界弾弓コレクション

(2024.8.14)追加

分類し研究する前にはまず資料を集めるところからです。結構大変。

660117
1981 タイ 82-7-1 ペンシルベニア博物館
660044

弓は竹(ไม้ไผ่บ้าน Mai Phai Ban、Bambusa sp.)で作られ、弦はปอป่าน(Po Pan、Boehmeria nivea (L.) Gaudich)で作られています。ペレットホルダーは竹と籐で作られています。ハンドルは木材の一種であるไม้ฟาก(Mai Fak)で作られています。これらのペレット弓は50年前に使用されなくなりました。この例は、若い頃に使用していたBuali(นายบัวลี)という老人によって作られました。ウサギや鳥を撃ったり、牛や水牛、強盗を駆除したりするために使用されました。所有者によると、歯が折れることがあるそうです。

1890以前 ベトナム 1890.41.1.1 オックスフォード(Pitt Rivers Museum)
1931年位前 インド ビハール州 チョータ・ナグプール 1931.28.2 同上
1960 アフガニスタン 2013.3.14310

1960年9月、バシュガル渓谷、カムデシュ。1960年までにヌリスタンでは狩猟に弓矢は使われなくなったが、少なくともバシュガル渓谷では、二重弦の「ペレットボウ」はまだ普通に使われていた。鳥や果物を狙う小石を射るため、あるいは友人と即席の競技をするために、ほとんどすべての若者が弓を持っていた。しかし、1966年と1967年には、バシュガル渓谷でこれらの弓を見かけることはほとんどなかった。写真 写真:S.J.

Edelberg & Jones , Nuristan, P.122-123
1884年以前 タイ 1884.15.31
1902-03年 ミャンマー 1903.16.2.1
1939年以前 ミャンマーかタイ 1939.7.21
1874年以前 ミャンマー 1884.15.34
1867年以前 アッサム ナガランド アルナーチャル・プラデーシュ 1884.15.37
1874年以前 1884.15.36.1
1957年以前 ブラジル セレンテ 1957.2.43B
1928年以前 インド コニャックナガ 1923.85.548
1923年以前 インド 1923.28.14
1915年以前 インド アンガミ・ナーガ 1923.84.109
1951年以前 マレーシア 1985.11.1.1
1934年以前 ミャンマー 1934.81.17
1932年以前 ハングラディッシュ 1932.89.82
1903年以前 パラグアイ エンゼット 1903.19.102
1899年以前 中国 瀋陽 1899.74.17
1902年以前 タイ・チャン 1902.88.66
1874年以前 アッサム ナガランド 1884.15.35
1928年以前 インド・ナガランド 1923.85.549
不明 インド・インパール 2017.191.1
1899年以前 ミャンマー 1889.29.16
1902年以前 タイ 1902.88.59
1902年以前 タイ ナウンチックバン サイカウ 1902.88.57.1
日本製とされている(多分違う) 1894.7.1.1 / 1894.7.1.2

ここから大英博物館

19世紀 タイ As、Bs.95
19世紀 アジア: ヒンドゥスタン 8349
19世紀 タイ +.5563
アジア 1954,07.128
アフガニスタン: パンジシール渓谷 As1974,15.8.b
インド 1933,0715.165
19世紀後半 ベトナム +.4788
ゴンド族 インド: マディヤ プラデーシュ州 (州): チンドワラ地区 1933,0715.166

ここからケ・ブランリー美術館(フランス語 Arc-fronde)

1930 タイ・パタニ 71.1933.61.8
1930 タイ・パタニ 71.1933.61.7.1-2

ドレスデン民族学博物館

F 2003-1/E0396
ムドゥガラ (場所)、1927.04.03 F 2003-1/E0397

国立民族学博物館(日本)

インド・パハリ H0003579
インド・パハリ H0003580

国立民族学博物館(日本 – 弾弓と分類されていないもの)

中国 H0020567 弓
海南島 鳥狩猟用 弓 H0190938
中国 ヘジェ;赫哲 鳥狩猟用 弓 H0129937
カイオワ ブラジル連邦共和国 鳥狩猟用 弓 H0009146  
ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連) ウズベク 鳥追い用 弓 H0098906 

*現地名 ルーク ドリヤ オプギワニヤ プチッツ(ロシア語)лук для отпугивания птиц

ヌーリスタン アフガニスタン共和国 弓 K0006564
ガズニ アフガニスタン共和国 K0006566
タイ王国 弓 H0095615
タイ王国 弓 H0095616
ラフ タイ王国  投石用 弓 H0125405
コン・ムアン タイ王国 投石用 弓 H0125479
パキスタン・イスラム共和国 投石用 弓 H0189878

 

Grayson Archery Collection(ミズーリ大学博物館)

1850年 東南アジア、ビルマ 1992-0203
19世紀末20世紀はじめ インド 1992-0204
19世紀後半 インド 1992-0205
19世紀末20世紀はじめ インド 1992-0206
19世紀末20世紀はじめ ビルマ 1992-0207
19世紀後半 インド 1995-0707

民族学博物館(ベルリン)

ブラジル・マトグロッソ VB 4821a、b
1904年 中国チベット IB4067

スミソニアン博物館

1960-1967 ネパール・マガール E433403-0
1968 ブラジル・クリカティ E426127-0
1968 ブラジル・クリカティ E426129-0
1968 ブラジル・クリカティ E426131-0
シーサンパンナ・タイ族自治州 中央研究院歴史哲学研究所 1935 A00000197 

マンチェスター博物館 現在検索サービスの更新中

ゲンブリッジ博物館 写真リクエスト中

弾弓はどんな弓なのか

前回の記事で世界の博物館データベースから54本の弾弓のサンプルを集めたので、これを分析することで、弾弓とは一体どんな弓なのかを明らかにしたいと思います。きっかけは、正倉院の弓について調べていたときに

弦の中央下方に弾丸を受ける楕円形の座(独:Kugallager)を作り出すが、弾丸をどのようにつがえたのかは不明である。

奈良国立博物館編,正倉院展,2020

大量の弾弓についての資料があり、その使用動画含めメディアがある中で、おそらく誰も手を付けていないからわからないだけで、弓の知識があれば、この解明は難しくないだろうと考えて、着手しました。

タイの弾弓1

ひと目でわかるように弾弓には2つのデザインがあり、左側の通常のいわゆる”弓”を使用しての弾弓と、右側の2本の弓を左右対称に組み合わせて弾弓とするものがあります。右の弓は洋弓の世界において、20世紀後半にやっと達成したセンターショットという理想を遥か前に達成しています。非常に高性能な弓だったと考えられますが、サンプル54本に対して3本しかなく、一般的な弾弓は左側のデザインのようです。

また、この絵はライプツィヒ民族学博物館で研究をしていた方が論文に掲載したものですが、1943年の空襲で30,000点以上の収蔵物が破壊され、この論文に取り上げられているドイツの博物館にあった弾弓の多くは戦争によって破壊されました。残念です。

1900-1901年にかけてドイツり民族学者によって行われた中央ブラジルの先住民族の記録には弾弓のことが詳細に記録されています2。弾弓の一番の特徴として、弓矢と違い同一ライン上では、弾がそのまま弓・握っている手にあたってしまうので、「弓がねじれるという特徴がある」としています。

左:P198、右:P229

同じ民族が使用している弓と弾弓は明らかに違い、弾弓は弓の流用ではないことがわかります。アーチェリーでもリムのねじれは良くないとされているように、リムはねじれないほうが矢はまっすぐに飛び出します。そのために右の弓はリムに厚みを持たせて、ねじれにくい構造になっています。弓をねじる原因につながるグリップもありません。

対して弾弓では逆にリムが薄くしっかり握るグリップであり、そこでねじれを発生させることで、弾道が斜めになり、発射された弾が手や弓に当たらなくなるという構造になっています。

https://www.touken-world.jp/tips/65943/

写真左が19世紀に作られた弾弓(中国か日本製)の断面で、右側はその200年ほど前に完成された和弓の断面ですが、上下の方向に、的中で言えば、左右(3時9時方向)に和弓はねじれにくい構造をしているのに、弾弓の方はねじれやすい構造です。

これは多くの弾弓に見られる設計で、リムに相当する部分は、横に広く的方向には弾性はあるが、厚みを薄くしてねじれやすくし、グリップに相当する部分には木を当ててしっかりと握れるようにして、手首を外側に返すように弓に回転する力を与えた状態で射ちます。また、(厳密には違うが)上下方向は弾の位置と握る部分の位置をずらすことで、弾が問題なくクリアするように工夫しています。

https://www.youtube.com/watch?v=8gl6LDwVjn4

弓道の弓返り同様の物理が働いていると思いますが、弓道の弓返りがフォロースルーの一つであり、しなくても矢は飛んでいくのに対して(3時に外れちゃうけど)、弾弓では自然に起こるのを待っていては弾が弓に直撃して大惨事になるので、意図的に弓を握って弓を回転させています。また、この射手の場合には、的方法に弓を押し込んでもいます。元の動画を見ていただれば、10mほど先の小鳥サイズの的にほとんど当てているので熟練した弾弓の射手だと判断します。

多くの記録では、弾弓は鳥などの小動物を猟るのに、または、子供に弓を教えるために使用されるとされていますが、弾弓は引き方は和弓などのいわゆるモンゴル式に近いので、何かの関連があるかもしれません。

同じく南アメリカ(パラグアイあたり)を旅行した博物学者のドン・フェリックス・デ・アサラは、弾弓について「ヨーロッパの子供たちがこれを練習すれば、こんなにたくさんのスズメはいなくなるだろう」と書いていることから、ヨーロッパ地域では弾弓は広く使用されていなかったようです3

最後に8月中の何処かのタイミングで実際に弾弓を作ってみて、実践してみたいと思っています。これまとめて、奈良国立博物館さんに送ったら読んでいただけるかしら?

  1. Von Gustav Antze,Einige Bemerkungen zu den Kugelbogen im städtischen Museum für Völkerkunde zu Leipzig.1910 ↩︎
  2. Indianerstudien in Zentralbrasilien : Erlebnisse und ethnologische Ergebnisse einer Reise in den Jahren 1900 bis 1901 / von Max Schmidt. ,P199,Credit: Wellcome Collection. In copyright ↩︎
  3. Azara , Don FELIX DE : Voyages dans l’Amérique méridionale, par Don Felix de Azara,
    Commissaire et Commandant des limites espagnols dans le Paraguay depuis 1781
    jusqu’en 1801.t.2, 1809,P66-67 ↩︎

近代の弾弓 中世~20世紀

Accession Number: 79.2.441 MET
弦に弾弓用の革製アタッチメントがあり、右のテーブルの上に弾(玉)がある

弾弓について、近代の使用などの情報を追加するものです。弾弓自体に関しては、前回の記事をご確認ください。

弾(石)と鏃は出てきても、弓もスリングも多く出土しない

前回、弾弓についての記事を書きましたが、調べていくにつれて、弾弓の研究が少ないこと、その理由として、2000年前の弓、弦やスリングがセットで出土することはまずなく、弾(石・陶)や鏃は出土することが多いこと、そして、考古学者は往々にして、鏃は弓の存在の証であり、弾はスリングの存在と結びつけたがり、その他の可能性を考慮しません。そこで現代まで続く弾弓の記録をまとめてみることにしました。

G 3997 © Réunion des musées nationaux – Grand Palais, 2023

これはトップの写真と同じ場面を描いた中国の皿(美術館提供の画像の解像が低い…)ですが、中国の戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀頃)に成立したとされる春秋左氏伝の一場面です。

霊光は不徳であった。物見櫓の上から石を弾いて、下を通る者が慌てて避けるのに興じたりした。

常石茂 著『新・春秋左氏伝物語』,河出書房新社,1958.P.170

まぁ、とんでもない王様なわけですが、不名誉なことに「石を弾く」という表現はこれが最古で、当時の道具を考慮すると、弓で弾いていたと考えられています。その1000年後に唐か、唐の物を模した正倉院の弾弓が日本に伝わっていますし、その後、14世紀に書かれた大元聖政国朝典章(政治書)では弾弓規制に触れており、

都城の小民、弾弓を作り及び執る者は、杖打ち77回、その家の財の半を没す。

梅原郁,(訳註)中国近世刑法志(下),創文社

と、都市住民には弾弓の所持を禁止することが書かれており、この時代でも平民に用いられていたことがわかります。実は20世紀に入り、中国で弾弓の一大ブームが起こるのですが、それは後半に。

この本は16世紀のはじめにドイツで書かれた技術書ですが、ここには弾弓が描かれています。5世紀までの状況についての資料は全くありませんが、多くの学者はヨーロッパでは弾(玉)を飛ばす手段としては、弓ではなく、スリングであったと考えています。この状況が変わっていくのは権力者の領地に対する所有の概念の変化で、国は領地は王の所有物であり、そこに生息する動物もまた王の所有物であり、庶民に対する狩猟規制が導入され始めます。

Pietro Longhi 弾弓による鴨狩 18世紀 ヴェネチア

庶民は当然のような反発して密猟をはじめますが、大型の狩猟具は見つかる可能性が高いので選択されないようになり、小型の罠など密猟に適した狩猟具が選ばれるようになっていきます1

一方で、(日本の戦国時代の)戦後に武士の間で火縄銃が実用品から贅沢品に変化してように、ヨーロッパ貴族の間でも狩猟用具は豪華なものに変化していきます。クロスボウも弾弓(弾弩弓*)として再デザインされ、貴族にふさわしい装飾が施されるようになります。

*弾弩弓って…「弾」「弩」「弓」3つとも単体で弓という意味あるよ…

Pellet Crossbow 1550-1600年 イタリアか南ドイツ Accession Number: 29.158.651 MET
Pellet Crossbow 16世紀後半か17世紀 フランス Accession Number: 14.25.1584 MET
下に(左から順に)クロスボウ、銃、弓、弾弓が置かれている2

用途としては、鴨やうさぎのような鳥・小動物に用いられたようです。現代でもスリングの一種として、弾弓タイプのクロスボウは規制されていないので、どこかで使用されているかもしれません。このタイプのクロスボウは日本でも規制対象ではない可能性が高いです。

https://www.mandarinmansion.com/item/chinese-pellet-crossbowより

では、中国はどうだったかというは写真は20世紀前半の近代中国弾弓(写真はオークションサイトより)ですが、戦後一大ブームになります。

北京市のガイドブックで推奨の雀の駆除方法3

戦後、中国の毛沢東が四害駆除運動として雀の駆除を指示し、そのガイドブックの中で、弩、及び、弾弓が推奨されたことから、中国におけるこれらの需要が一気に高まります。中国の研究者Stephen Selbyが当時を知る弓職人にインタビューした記事では、職人は匿名を条件に雀の駆除運動によって一気に需要が高まり、しかし、その3年後に雀が実は昆虫も食べていたことが毛沢東にも理解され、生態系が著しく変化したことで、1000万以上が餓死する事態になり、もはや、雀を駆除するどころではなく、ソ連から25万羽輸入する事態になったことで、当然弓に対する特需はなくなり、現在に至るとのことです4

wiki「打麻雀运动」より 標語は「みんな雀を殺しにおいで」

このインタビューがされた1999年には北京に7つの弓職人店があったようですが、現在ではどうなっているのでしょうか? 戦前に中国で弾弓を購入した研究者の方も何人かいるそうなので、探せばどっかにあるのかな。続く。

  1. Almond Richard, Medieval Hunting, 2003 ↩︎
  2. Baillie-Grohman, William A. (William Adolph), Sport in art; an iconography of sport during four hundred years from the beginning of the fifteenth of the end of the eighteenth centuries.1913 ↩︎
  3. 除害灭病爱国卫生运动手册 (中央爱国卫生运动委员会办公室), 1959,北京 ↩︎
  4. https://www.atarn.org/chinese/juyuan/juyuan.htm ↩︎

NFAAありがとうすぎる!!

ぜんぜん違う調べ物をしていたのですが、いつの間にか、NFAAが雑誌アーチェリー(Archery)のバックナンバーを1927年から全部公開してくれていました!! 論文や本はそう頻繁に出版されないので、定期的に、短い間隔で出版される雑誌は非常に重要な情報源です。本当にありがとうございます。

こちらはメモしていたいつか探そうとしていた記事。60年代の弓の作り方です(U.S.Archery)。勉強させていただきます。

National Field Archery Association