この度、9月よりアーチェリーショップ「あちぇ屋」の事業を長年、大久保・川崎店長として営業してきた山田に譲渡します。私は今後、こちらのアーチェリー情報サイトとアーチェリー場事業の運営に専念いたします。
今後とも宜しくお願いします。
2024.9.3 山口 諒
この度、9月よりアーチェリーショップ「あちぇ屋」の事業を長年、大久保・川崎店長として営業してきた山田に譲渡します。私は今後、こちらのアーチェリー情報サイトとアーチェリー場事業の運営に専念いたします。
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2024.9.3 山口 諒
昨日の応援記事を書いて、朝起きたら優勝してました!! おめでとうございます。私がちょっち気にかけていた二回戦の予選三位との対決をシュートオフで制し、準決勝もシュートオフの激戦だったようです。
さて、彼のスタイルで競技する選手が増加している状況で、41歳のスタッツマン選手は次回の自国開催のロスオリンピックに選手として出場するのか、それとも、足で射る彼のスタイルの先駆者として指導者に転向するのか決めかねている状況とのことで、この金メダルは彼にとって到達点になるのか、それとも、自国開催のロスでの連覇を狙うモチベーションになるのか、彼の判断が気になるところです。現状、WAの記事だと指導者になるのかな??
Paris to be fourth and final Paralympic Games for Matt Stutzman
31日のCompound Women Openでパラリンピック史上初(*)、イギリスののジョディ・グリナム選手が、妊娠7ヶ月の状態の妊婦さんとして銅メダルを獲得しました。おめでとうございます。
*妊娠初期など、妊娠の自覚がなくメダルを獲得した選手はいた可能性があります。
WAのホームページを見ていたら、ジャッキー・チェンさんがアーチェリー会場に来て観戦したようです。スタッツマン選手は一回戦を勝利して、二回戦で予選3位の選手との対戦です。頑張ってください。
ツイッターでおそらく旅行の方が、サンマリノのきれいなクロスボウ場の写真を掲載していたので、紹介させていただきます。
サンマリノの最古い軍隊組織として、14 世紀から国防を担う存在としてクロスボウの部隊があったとのことで、現在のこの美しいクロスボウ競技場はもともと採石場だった場所で、使用されなくなったのち、1960年頃からクロスボウの練習場となり、1971年に現在の形で開発されました。
毎年、9月3日の「サンマリノ共和国の建国記念日」に祭事として、クロスボウ競技が行われているようです。また、今年であれば、7月の26-28日の日程で「中世の日」としてイベントが開催されていて、そこでもクロスボウ競技の会場として使用されているようです。
Crossbowmen’s Quarry – Cava dei Balestrieri
Googleマップの口コミを見てみたら、冬はアイススケート場になってるぽい。ユーロが120円位になったら参加してみたいですね。
イタリア文化圏では現在でもクロスボウ競技があり、さらに写真のようにこれだけの観客を集めるだけの大規模な競技会ですが、日本でもクロスボウが事実上禁止されてしまったのは、歴史的なつながりの乏しさも一因でしょうね。
矢で死亡した武将がぜんぜん見つかりません。絵の源義仲は平安時代。江戸時代について書かれた本に良く「飛び道具は卑怯だとされた」という表現を目にします。それ以上踏み込んだ文献がなかったので、自分で調べて理解しようと思ったら、難しすぎて断念した話です。まず、江戸時代に入り、時代は平和に…
その一方で幕府は林羅山(一五八三~一六五七)その他の学者を使って、大名の関心を鉄砲からそらせるための思想宣伝もおこなっている。羅山は朱子学の大家として家康の知遇を得た人で、 秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、学問や政治上の諮問に答えている。飛道具は武士道に 反する卑怯なものだとか、鉄砲は身分いやしい足軽があつかうもので武士が手にするものではないという思想は、彼によって創始された。この思想攻勢はかなりの成功を収めたとみてよい。
奥村正二 著『火縄銃から黒船まで : 江戸時代技術史』,岩波書店,1993.7.P33
それ故に「飛び道具は卑怯なり」ということにして、武家階級の温存を図ったのであります。こうして、江戸時代の武家政権は強固にされました。
川瀬一馬 [著]『日本文化史』,講談社,1978,P230
江戸時代になって林羅山などが”飛び道具は卑怯である”とか“刀は武士の魂”、”鉄砲は足軽のもので、いやしくも武士が扱うものではない”などと主張しているが、これを裏返せば、幕府の対藩対策として諸藩が鉄砲を保有することが軍事上問題であるとする見解であり、武器としていかに有効であるかの証左に他ならないものであったといえ
第三章 中世 P.246 (書名のメモをなくしてしまい一生懸命捜索中です…)
ここで、具体的な林羅山という名前が出てくるのですが、この人は将軍四代にわたって仕えて、様々ルールを定めていったとされています。例えば、武家諸法度という武家法では、1615年、大阪の陣直後に発布したものには、その第一条に「文武弓馬ノ道」とありますが、1683年の改定で「弓馬」は削除され、「文武忠孝を励まし,礼儀を正すべき事」とされました。同時に、武士階級の中にさらに細分的な階級を設け1、明示的にその服装を「弓鉄砲の者は絹紬・布木綿の他は着てはならない(弓鉄砲之者、絹紬・布木綿之外不可着之)」とした。1615年から1683年までに弓は武士にとって最大の責務から、絹紬・布木綿しか着てはいけない階級にまで落ちたことがわかります。
ここまでは順調だったのですが、ここで私が超えられない壁に直面します。「卑怯」という日本語の解釈です。弓矢や鉄砲による趣味としての狩猟は、江戸時代に入ってからも、多く記録されていて、吉宗将軍(八代)も参加しています2。
以上、私のたどり着いた結論は「卑怯」という言葉の当時における解釈に対する正しい理解がないとこの話は詰むです。以前に書いた記事で、ヨーロッパでは弓は神が忌み嫌う武器として…そこまで強い言葉を使うなら現代日本におけるクロウボウのように禁止されるのかと思いきゃ、そうではなく、キリスト教徒には使うなと、異教徒に対しての使用は禁止されませんでした。同様に12世紀の平治物語には、平民に武士が弓に射られることを嘆く表現があります。違う信仰、違う身分における道徳の断絶がある時代です。
予想するに林羅山の思想3も同様のものであり、多くの本が無批判に引用している武士に「飛び道具は卑怯」というほど思想のは存在せず、あくまでの一部の武士階級の特定目的の飛び道具の使用に対する忌諱にすぎなかったのではないかと思います。
ただ詳細に、当時の武士の間における卑怯論を論じることができるほどの能力は私にないので、当分の間、ここまでの理解に留まることにします。参考になる文献などご存知の方がおりましたら、コメント下さい!!
パリ・パラリンピック、アーチェリー競技が明日から始まります。WAのホームページにいったら、まだ、最新のパラリンピックの写真が掲載されていなかったので、写真は前回の東京パラリンピックのものです。
最近、前回の東京パラリンピックの時に書いた記事が、なぜか、一番人気でダントツのアクセスが有り、まぁ、パラリンピック近いですからね…と思っていたら、そうではなく、今回のパラリンピックでも不祥事があったとのことでした。残念です。
「まさか」パラアスリートを襲った誹謗中傷、投稿者は「圧倒的格上」の日本代表だった…パラ五輪開幕直前の衝撃判決
パリパラ辞退の重定知佳 健常者と鍛錬重ねてきたのに…中傷書き込みに「まさか」
断片的な情報や一部事実と異なる情報も拡散されているようですが、今回の事象には双方に様々な背景と事情があります。
昨今の報道案件について(連盟コンプライアンス委員会) 一般社団法人日本身体障害者アーチェリー連盟
ただ、報道を見ても、何が起きたのか私としては理解できなかった上に、連盟も事実と異なる情報への注意喚起をしているので、当事者の裁判所に電話したところ、令和4年の「ワxxxxx(事件番号も個人情報の可能性あり)」という事件であることを教えていただき、東京地裁の地下で150円の収入印紙を買ってから、14階でこの事件の詳細を閲覧できるとのことなので、自分の目で事実を確かめてきます。
弓の研究家の皆様とツイッターで交流させていただいているのですが、今朝、信長の三段撃ちが盛り上がっていました。信長が導入したこの戦術が実際に行われていたのか、実践可能だったのかについて、議論があることはなんとなく知ってはいましたが、いつの間にか、信長が自分で考えたことになっているのにはびっくりしました。
信長が考案したといわれる「三段撃ち」は無敵の武田騎馬軍を撃破した火縄銃の撃ち方です。
所さんの目がテン 織田信長 の科学 第1204回 2013年11月24日
三段撃ちには詳しくないのですが、海外では一般的に知られている*輪流射ち(Volley fire)の歴史について、もしかして日本では歴史研究者に知られていないのではないかと思い、記事にしました。
*英語のウィキペディアに詳細の記事があることを持って一般に知られていると判断しました。
まず、三段撃ちをどのように捉えるかですが、ここでは、「一列目が射撃を行っている間に、二列目と三列目が弾込めを行うことで、連続して射撃を行うことができる」戦術・戦法であるとすると、その歴史はそもそも火縄銃の誕生より遥かに古いもので、同様に装填に時間のかかるクロスボウ(弩)による輪流撃ちが始まりです。
『漢書』は紀元前169年に「クロスボウ兵が交互に前進しては射撃し、後退しては装填する訓練」を行わっているという記述があります。これはさしずめ二段撃ちと言ったところでしょうか。ただし、フォーメーションについての情報は残されていません。
759年の『太白陰經』には、輪流撃ちに関する最古の描写があります。「発弩(射る兵)」と「張弩(弩をブレースする兵)」と、おそらく指示のため「鼓(楽器)」がセットになって、100人ほどの兵士が一つの部隊として運用されています。
唐の学者杜佑(735年~812年)によって書かれた『通典』には「弩は装填に時間がかかり、突撃されると1~2回しか撃てない」「(弩部隊は)矢を集中して撃てるようにチームに分けるべきである。隊列の中央にいる者は弩に矢を番え、隊列の外側にいる者は撃つ。彼らは交代で、回転する。このようにすれば、クロスボウの音が途切れることはなく、敵は私たちに危害を加えることはできない。」と書かれており、800年頃に中国の二段撃ちと呼べる弩の戦法は完成します。
しかし、宋代に書かれた『武経宗瑶』には、二段撃ちは突撃に対して弱いと書かれています。二段撃ちでは、前列が撃ち終えた時に突撃されてしまうと、後列の隊が武器の準備が不十分なまま、突撃する歩兵に対して前進しなければいけなくなるため、「発弩」と「張弩」の間にすでに完全に弩の準備を終えて、心の準備を整えて、あとは射るだけ「進弩」と追加することで、突撃に弱いタイミングをなくすことができるとして、ここに輪流三段撃ち戦法が完成します。射る兵と準備する兵が前後するだけの戦法から1000年以上経過しています。
1621年の蹶張心法には、より詳細に書かれており、100名を1列として3列の300名を1つの部隊として運用し、1万本の矢を射るとしています。
古代人は敵に勝利するために一万本のクロスボウを一斉に撃ちましたが、今日はそれを簡潔に説明します。300 人のクロスボウ兵がいるとします。最初の 100 人はすでに矢を装填し、すでに前方に並んでいます。彼らは「射撃用クロスボウ」と呼ばれています。次の 100 人のクロスボウ兵も矢を装填していますが、次の列に並んでおり、「前進用クロスボウ」と呼ばれています。最後に、最後の 100 人が彼らの後ろ、最後の 3 列目に並んでいます。彼らはクロスボウを装填しており、「装填用クロスボウ」と呼ばれています。最初の 100 人、つまり「射撃用クロスボウ」が射撃します。射撃が終わると彼らは後方に退き、2 番目の 100 人、つまり「前進用クロスボウ」が前方に移動し、自分たちも「射撃用クロスボウ」になります。後ろの 100 人、つまり「装填用クロスボウ」が前方に移動し、「前進用クロスボウ」になります。最初の100人が射撃を終えて後方に戻ると、彼らは「装填用クロスボウ」となる。そしてこのようにして彼らは回転し、交代で一定の流れで射撃し、クロスボウの音は絶え間なく鳴り響く
蹶張心法1卷長鎗法選1卷單刀法選1卷
武田軍の「風林火山」が中国の兵法書から引用されたように、日本は遣唐使の時代から中国の兵法書を輸入して研究していたので、信長の三段撃ちはこの戦法をクロスボウから、火縄銃の運用に転用しただけものであることは明らかです。
もちろん、そのアイデアは素晴らしいと思いますが、そもそもの三段撃ちを信長が考案したとするのは称え過ぎではないかと思う次第です。
参考文献 : 黒色火薬の時代: 中華帝国の火薬兵器興亡史 トニオ・アンドラーデ (著) *英語版読んだのでこちらの2024年6月出版の日本語訳は本当は読んでいません…
アーチェリーとハイスピード撮影についてのコメントが来ました。それに関しては別途返信ましたが、考えてみれば、このテーマについてちゃんとした情報発信をしてこなかった責任はあるので、まとめてみることとしました。
現在では動画と写真という概念がありますが、20世紀前半には同じものでした。写真を連続で撮影して、それを連続再生したものが動画です。記録映像で見たことがあると思いますが、当時は手回し撮影機で動画(連続写真)を撮っていました。手回しなので、現在のように30fpsと設定すれば、勝手に毎秒30枚の写真を撮ってくれるわけではなく、カメラマンの技術で一定にする、この記事を書くにあたって初めて知ったのですが、そのずれを更に上映する機械も手回しだったので、カメラマンの撮影速度のブレを上映技士が補正してあげていました。そのために定まったフレーム数という概念はなく、大正時代の日本映画は約11-13fpsと約20%程度の誤差もあります1。
カメラに自動設定がなく、手で調節できるわけですから、スローモーションを撮るためには「高速度」でレバーを回せばよいだけなので、高速度撮影と呼ばれます。時期を特定することができませんでしたが、戦前には弓道の動作分析に海軍の120fpsの高速度撮影写真機が使用された記録があります2。
機械を速く回せばいいと言っても物理的な限界があるわけで、1951年に出版された「高速度写真: その問題と限界」3によれば、当時のカメラを250fps以上で回転させるとフィルムが損傷して判読できなくなったり、場合によってはカメラ自体が文字通りバラバラに分解してしまうという問題が発生するようです。まぁ、そりゃそーだろと思いますが…。
米国映画テレビ技術者協会は1949年の会合で250fps以上4で撮影できるカメラをハイスピードカメラとして定義づけます。現在に至るまで定義は変わっていないように見えますが、今は10fps低い240fps以上のカメラをハイスピードカメラと呼ぶことが多いと思います。
当時、高速度カメラでは回転プレズムという仕組みによって250fpsを達成していたようですが、この仕組みの限界点が10000fpsで、それ以上はスーパーハイスピードカメラと呼ばれ、ストリップカメラという別の仕組みが導入されているそうですが、ここでは取り扱いません。
上記は1980年代の1000fpsの撮影に使用されたシステムです。見ての通り、カメラはちょこっとあるだけで、それに比べシステム全体は大変な大きさです5。
こちらはハイスピード撮影の父と呼ばれたハロルド・エジャートンによって、1939年に撮影されたアーチェリーの連続写真です。300-500fps程度で撮影されたものと推測します。1940年前後にはすでに500fps程度の撮影機材は存在していました。しかし、1990年頃までアーチェリーにおけるハイスピードカメラの利用は屋内に限定されていました6。
ここで冒頭の1986年にバイター社によって撮影された8000fpsのフィルム式ハイスピードカメラによる映像になりますが、8000fpsの場合、シャッタースピードは16000-20000程度設定する必要があります。つまりシャッターは写真1枚につき1/20000秒しか開かないので、直視できないほどの光が必要になります。これが2個前のシステムでカメラ以外の装置がたくさんある理由です。また、核爆発など高速度動画が比較的早い時期に収録されているのは、撮影対象自体に十分な明るさがあったからです。
2000年代のカメラ機材のデジタル化によって、ハイスピードカメラの低価格化が進むと同時に、センサの改良も進んでいきます。よく少ない光でも補助光源を使わず、センサの感度を上げることで実用的な画像を取得してくれます。上の写真はApexレンタルのブログのものですが、目では真っ暗でもISO409600(α7S III)ではこれほど明るく映ります。
オリンピック競技中に撮影のためにバイターの動画のように選手に光源を当てるわけには行かないので、センサの感度が太陽光で実用に耐えるようになった、2010年代後半にハイスピードカメラが中継でも使用されるようになります。
これはパリオリンピックテストイベントで撮影されたハイスピード動画(240fps)を明るさ無加工で切り出したものですが、放送で使うには暗すぎる印象です7。まぁ、問題点・不具合を見つけるためのテストイベントなので、ここから1年間の調整がされて、2024年の見事なライブ中継に繋がっていくわけです。
パリオリンピックでは選手は背(体の引手側)が南に設定されており、南側からハイスピード撮影がされているので、十分な太陽があれば、この条件では240fpsまで自然光で、違和感のないハイスピード動画が撮影できるところまで技術は進化しています。
一方で研究目的ではないアーチェリー放送の場合は16倍速スローで十分です。現在ではテレビは30fpsなので480fpsが16倍速になりますが、一般的なパソコンで60fps(60Hz)で、人間の目は240fpsまで差を感じることができので8、今後テレビが1秒あたり240フレームで表現された場合、16倍速スローは3840fpsに相当します。ここが技術の終着点です。その時代まで人間が画面視聴するのかはわかりませんが…2028年ロスオリンピックではどんな動画が見られるか楽しみですね。
(2024.8.14)追加
分類し研究する前にはまず資料を集めるところからです。結構大変。
弓は竹(ไม้ไผ่บ้าน Mai Phai Ban、Bambusa sp.)で作られ、弦はปอป่าน(Po Pan、Boehmeria nivea (L.) Gaudich)で作られています。ペレットホルダーは竹と籐で作られています。ハンドルは木材の一種であるไม้ฟาก(Mai Fak)で作られています。これらのペレット弓は50年前に使用されなくなりました。この例は、若い頃に使用していたBuali(นายบัวลี)という老人によって作られました。ウサギや鳥を撃ったり、牛や水牛、強盗を駆除したりするために使用されました。所有者によると、歯が折れることがあるそうです。
1960年9月、バシュガル渓谷、カムデシュ。1960年までにヌリスタンでは狩猟に弓矢は使われなくなったが、少なくともバシュガル渓谷では、二重弦の「ペレットボウ」はまだ普通に使われていた。鳥や果物を狙う小石を射るため、あるいは友人と即席の競技をするために、ほとんどすべての若者が弓を持っていた。しかし、1966年と1967年には、バシュガル渓谷でこれらの弓を見かけることはほとんどなかった。写真 写真:S.J.
Edelberg & Jones , Nuristan, P.122-123
ここから大英博物館
ここからケ・ブランリー美術館(フランス語 Arc-fronde)
ドレスデン民族学博物館
国立民族学博物館(日本)
国立民族学博物館(日本 – 弾弓と分類されていないもの)
*現地名 ルーク ドリヤ オプギワニヤ プチッツ(ロシア語)лук для отпугивания птиц
Grayson Archery Collection(ミズーリ大学博物館)
民族学博物館(ベルリン)
スミソニアン博物館
マンチェスター博物館 現在検索サービスの更新中
ゲンブリッジ博物館 写真リクエスト中
先月ドイツから取り寄せしたおそらく現時点では最新のクロスボウに関する本、Die Armbrust – Schrecken und Schönheit(クロスボウ – 恐怖と美しさ,2019)が届きました。中世のクロスボウの本場はドイツでしたので、ドイツ語ですが、機械翻訳の精度も上がったし、夏休みを使って、読破したいと思います。
パラパラ見てみたら早速知らないクロスボウの室内競技が掲載されています。まだまだ知らないことばかりです。