

好評のホイット(HOYT)のロワーダンパーですが、2023年に新色が追加されることになりました。店舗ではバーボン色を新規に在庫します。残りの2色は取り寄せとなります。ハンティングモデルにも使用されているダンパーですので、青や赤みたいなターゲットカラーが追加される日は来るのだろうか。

まぁ、カバーをこのように分解できるので、塗装するのはそんなに難しくはないとは思います。
好評のホイット(HOYT)のロワーダンパーですが、2023年に新色が追加されることになりました。店舗ではバーボン色を新規に在庫します。残りの2色は取り寄せとなります。ハンティングモデルにも使用されているダンパーですので、青や赤みたいなターゲットカラーが追加される日は来るのだろうか。
まぁ、カバーをこのように分解できるので、塗装するのはそんなに難しくはないとは思います。
SCOTT(スコット)から2023年モデルとして、トリガータイプをトリガーレスタイプが届きました。
まずは、トリガータイプの「APEX CORE」
付属品は2つ。トリガーバレル(細)と4本掛け用交換フィンガー。
フィンガーを交換する際は、先に装着されているフィンガー内に4mmほどの小さなワッシャがあるので紛失に注意してください。
サイズ感は下記写真をご覧ください。
続いてはトリガーレスリリーサーの「select(セレクト)」こちらはサイズがMとLの2展開。
入荷はMサイズです。最大の特徴は「2ムーン」式である事。
クリッカー音の有り無し調整とクリッカー音が鳴ってから実際に発射までのタイミング調整が、パーツ交換なしにレンチだけで行えると言うものです。
調整は背面のロックイモネジを緩めてから調整を始めます。ムーン内にはバネが仕込まれており、手前に見えるブラスパーツのイモネジと、見えているムーン左側面のネジで再現性の高い調整が可能となります。
サイズ感は以下の通り
重さは55グラム。重くなく軽くなく。標準的な重量です。
SCOTT トリガーリリーサー/APEX CORE そして トリガーレスリリーサー/Select まもなく発売です。
コンパウンドスコープ用レンズの製造メーカーが変更になりました。
これまでの「HOYA」(偶数倍率)、「Nikon」(奇数倍率)から、今後の受注は偶数・奇数どちらも「SEIKO」(セイコーオプティカル)製に変更いたします。
これまでのレンズはいずれも《UVカット》《撥水コーティング》仕様でしたが、新しいSEIKOレンズは先の2つに加え、《耐傷性》がプラスされます。
これに伴い、偶数/奇数レンズを統一価格にいたします。ご理解賜れますと幸いです。
リムのねじれの修正方法については先輩たちに教わってやり方を実践してきたし常識的な情報なのですが、その根拠を「俺がやってるから」とするわけにはいかず、リカーブチューニングマニュアルには載せなかったのですが、ヤマハアーチェリーのメンテナンスガイドにて、オフィシャル情報として確認できました。次回のチューニングマニュアルの更新にて、リムのねじれ修正法として追加します。
まず、原文を翻訳すると、
Q. リムがねじれてしまった場合の対処法はありますか?
A-1. 右にねじれている場合、左回りに2-3度修正して、一日中そのままにしておきます。
A-2. ねじれの逆方向に力を加えて、リムから20〜30cm離してドライヤーで温める。温めは焦らず繰り返し行う。決して急いで温めないこと。
A-3. リムのコーティングが傷んでいない(剥がれや傷がない)場合、リムをお湯(約40℃)に5分弱つけてから、逆方向にひねることを繰り返す。
ヤマハアーチェリー1988年 英語版 P.7
となります。追加情報を加えるとA-1に関してはそのとおりです。A-2に関しては、ヤマハのリムではバック面(イラストの面)でやっていますが、リムの構造によっては逆の面から温めたほうが有効的だったりしますので、両面試してみてください。A-3に関しては水の浸透が問題なので、フォーム素材であれば傷があっても問題ないと思います。また、もう少し温度が高くても良く効果的なのですが、手とお湯の熱さとの戦いになります。
*題名で低価格リムとしましたのは、これらのやり方は昔はすべてのリムで有効でしたが、製造技術が進化したことで、今では高ポンドの上位リムでは有効ではありません。低ポンド(30ポンドくらいかな)のリムや、低価格(3万円程度)のリムでしか有効ではなくなっています。
下記の記事同様、歴史編に組み込まれるべき内容だとは思うのですが、どこに入れるか迷っているので、単独の記事として書きました。
イギリスをスポーツとしての発祥の地とし、弓具はアメリカで進化したアーチェリーの道具にはインチ・ポンド表示が使用されています。これはデファクトスタンダード(事実上の標準)と呼ばれます。対となるものは、デジュリスタンダード(定められた標準)です。これがアーチェリーではメートルとインチがごちゃまぜになっている理由です。民主的に運用されているWAはアーチェリーの競技形式を「定める」権限があります。現在、多くの国ではメートルを採用しているので多数決によって、競技ではメートルを使用することが定められていて、強制力が存在します。
そのため競技ではメートルが使用されます。一方で、道具はWAの管轄ではなく、国際的な団体ではないものの、事実上の標準としてアメリカのATAがあります。世界最大のアーチェリーメーカー組合です。彼らによってアーチェリーの規格が決められており、そこでインチ/ポンドが使用されているため、道具は未だにインチ表示になっています。その歴史を少し。
14世紀のイギリスにもアーチェリー職人組合が存在していましたが、それらは競争を促進するための組織ではなく、むしろ競争しないための組合として存在していました。最初の現代的な組合が組織されたのはアメリカです。第二次世界大戦後、軍事需要がなくなったことで、ホイットの創業者のように多くの技術者が転職することとなり、アーチェリーメーカーがどんどん増えていきます。
規格が混乱する中、組合のような組織のアイデアは1947年の全米アーチェリー大会の際に発案されます。1953年の全米大会で、実際に45社のメーカーとディーラーが集まって合意に達して、アーチェリー製造販売業者協会(Archery Manufacturers and Dealers Association = AMADA)が設立されました(法人化は翌年)。その目的は、業界の標準規格を確立、ボウハンティングとターゲットアーチェリーを普及です。
1965年に名称がAMO(Archery Manufacturers Organization)に変更され、ディーラーとの関係が変化します。AMOはメーカーだけのための団体となります。
初期の規格(AMO標準)は1968年に制定され、弓の名称や弦の長さなどを定めたものでした。現在では、コンパウンドに関する規格などが加わり、22の ルールが「ATA 標準」として定められています。86年からこれらの規格は、AMOではなくASTM(米国材料試験協会)のガイドラインとして運営されています。
推測になりますが、規格を決めるときにディーラーまで口出してきたら話がまとまらなかったなど、揉めたのでしょう。規格が広く知られた後、94年、AMOは略称を変更しないで、名称をArchery Manufacturers and Merchants(商業) Organizationとして、再度ディーラー参加できる組織に変更されました。その後、2003年にATA(Archery Trade Association)となり、私達のプロショップにとっては、メーカーと直接話し合う場であるトレードショーで知られています。
日本では1960年代にヤマハなどのメーカーがアーチェリー事業に参入しますが、当時はアメリカにもまだATAの規格はありません。そのために日本では、それぞれのメーカーが独自の規格を採用していました。
国産メーカーは少なくとも8社はありましたが、表示ポンドの基準すらバラバラでした。ネジサイズ等は詳細の記録がないのでわかりませんが、最後まで生き残ったヤマハ(ミリ採用)とニシザワ(インチ採用)の2社でもネジのサイズが違っていたので、過去にはもっと混乱していたのではないかと思います。まぁ、アメリカも初期は同じような状況で、それを主要メーカーが組合を作って話し合い、規格を統一していきますが、残念ながら日本ではメーカーがまとまることはありませんでした。21世紀に入って国産メーカーは消滅します。近年アーチェリーに新しく参入した西川アーチェリーはATA規格に沿って製造しています。
もう一つの事実上の標準はハンドルとリムの結合システムで、HDS(Hoyt Dovetail System)と呼ばれています。名前通り、ホイット社によって開発されたシステムだったのですが、ホイット社が特許を開放し他社にも使用させたために、現在ではすべての競技用の弓に採用されています。
この記事を書くに当たり、特許を再度読んでみましたが、私はこの特許がシステム全体のものだと思っていましたが、リムのピンとダボ(FIG.5)についてだけのものでした。つまり、リムボルトまでの距離は関係ありません。
21世紀に入り、ホイットはリムボルトからダボまでの距離を伸ばしたフォーミュラ規格を発表し、従来の規格をグランプリ規格と再定義しました。ホイットの商標ですので、他社ではフォーミュラ規格をF規格、グランプリ規格をILF(International Limb Fitting)規格と呼ぶことが多いですが、いずれもHDSシステムです(*)。
*HDS=グランプリ=ILFと勘違いしていました。申し訳ございません。フォーミュラもHDSです。
下記のアーチェリーの規格について書く前に前提知識として、ねじについて触れておきます。ねじの起源はわかっていませんが、「規格(互換性)」の誕生ははっきりと記録に残されています。1840年代にイギリスの工場でねじが大量生産されるようになり、それらの規格は工場内互換性を持っていましたが、工場間での互換性はありませんでした。
産業革命が起きたイギリスで、これを統合して、工場間での互換性を持たせることを提案したのが、ジョセフ・ウィットワースという技術者です。さて、これをどう統合するのか…そう、シングルラウンドと同じ妥協しかありません。彼は全国の工場からねじを取り寄せて測定し、その平均値を算出し、その数値に統一することを提案します。こうして生まれたのが、ウィットウォースねじ(ウィットねじ)です。ねじ山の角度は55度です。1841年のことです。
しかし、このねじ規格にはなんの科学的・技術的根拠もありません。平均しただけですから。とくに問題になったのは55度という半端な数値です。1864年、アメリカの学会でセラースがより作図・製造し易い60度を採用すべきと発表し、後にセラース規格としてアメリカで広く採用されるようになります。
合理的なデザインのセラース規格を参考にして、メートルねじの規格がSIねじとして19世紀末に定まります。こうして、3つのねじの規格が20世紀初頭に存在していたのですが、第二次世界大戦時にアメリカ・イギリス・カナダでねじの互換性がないために、武器に互換性がない問題が発生し、統一されたユニファイねじ(Unified=統一的)が誕生します。細かいことはさておき、当時の3国の力関係から、ユニファイねじはセラース規格とほぼ同じです。
戦後、メートルねじの規格は、インチねじにおけるアメリカのような覇権国がなかったために、ISO(国際標準化機構)が長い時間調整を行って、国際規格としてISOメートルねじを制定しました。インチねじの国際規格のISOインチねじにはユニファイねじがそのまま採用されました。イギリスで生まれ、アメリカにおいて発達したアーチェリー用具には、ユニファイねじ(=ISOインチネジ=JIS B0206)が一般的に採用されています。
妥協で生まれたウィットウォースねじは1968年にJIS規格で廃止されました。
一流の選手と一般の選手との違いは当然技量ですが、同じ道具を使うことはできます。トップアーチャーがどのようなチューニングをしているのか、練習をしているのか、ネットが発達した現在ではトップレベルの知識にもアクセスできます。
トップレベルの情報も、道具も手に入りますが、一流選手のようにアクセスできないのがシューティンレンジ(アーチェリー場)です。上記の写真はヨーロッパのトップ選手が合宿を行う「Werner & Iris Beiter Centre」です。
天井にカメラが有り、自分の射形を上から確認できます。こういうラインの確認用ですね。的前にもカメラがあり、矢の的中を画面で確認できます。
こちらはアメリカのトレーニング施設で近射的にプロジェクターで射形をうつしてのトレーニングは国内ではまだ導入されていないのではないかと思います。その他、3Dキャプションシステムなども利用できるそうです。
こちらは韓国のトレーニング施設。天井に高さを常設できるカメラが2台備え付けられています。こちらでも大画面に的中を表示するシステムがありますね。
ドイツのトレーニングセンターでは屋内では分析ソフトでのトレーニング、屋外のフィールドでは三脚を高くまで伸ばして、上からの動画を撮影しています。多くのチームが上からの目線を活用していることがわかるかと思いますが、学校のように専用の射場がない場合、公営の射場でトレーニングしている選手には難しいですね。
日本のトレーニングセンターにももちろんあり、遅延システム天井のカメラ、的中確認のためのカメラ、さらに、風を再現する送風機が導入されているそうですが、こちらの施設もトップアーチャー専用であり、一般の方は利用できません。
実はこれくらいしか情報がないのですが、どこの国でも写真や動画がいくつかあるだけで、どのような設備をどう活用しているのかは、そのまま、その国の競技競争力になるので公開されている情報は限定的です。日本の施設は見学できるようですが、ガイド付きで写真の撮影は禁止されています。
自分の新宿の会社にも似たように設備があったのですが、川崎に移転後は天井高の関係で、上からの撮影などはできなくなっており、解決策を模索している状況です。
近年、カメラ、センサ、解析装置自体は低価格化され、遅延システムは昔10万円近くしましたが、現在ではスマホのアプリでできますからね。ただ、自分が練習していた射場は、おそらくプライバシーの関係で、写真動画撮影が禁止されたりして、装置自体は普及が進んでいるのに、それを活用できる場所がないのは非常に残念に思います。
上達するための装置・システムなのに、上達したい一般のアーチャーがそれらにアクセスできず、逆にトップアーチャーはそれらを使用できるという状態を何らかの形で解決できないかは常に考えています。
使用したいくつかの写真は、WAのマイ・レンジで見ていただけます。
前の記事で全ア連のホームページにアクセスしたら、最終選考会のためのクラウドファンディングが行われているようです。
なぜ全国大会ではなく選考会なのかはわからないのですが、今後の全日本ターゲット選手権などの配信に向けてのテスト配信といった位置づけでしょうか??
活動報告を読むと2月末から始まっているようで、残り10日間、すでに66万円ほど集まっているようで、形式はAll in(1円でも集まれば成功)として、集まった金額の85%が実際に全ア連に入るようです。
参加選手のコメントなどもありますので、よかったら見てみてください。
まず、一番重要なポイントです❗
今年は、Youtubeではなく『🟡J SPORTSオンデマンド🟡』で配信されます。
(※皆さんのクラウドファンディングでグレードアップした配信を行います❗❗)
みんなで大会配信をつくりあげたい! | フリサケ
昨年のYoutube配信はこちらで確認できます。個人的には、WAでもYoutubeで配信しているわけですから、見習ってカメラや撮し方とか、そういったものに投資すべきで、誰でも見れる世界一の配信プラットフォームであるYoutubeから、会員登録しないと見られない配信サイトに変更してしまう事が、進歩なのか疑問です。いい配信になることを願っています。配信は4月7日からです。
配信期間 : 2023年4月9日午前9:00 ~ 2023年4月9日午後4:00
日本にはどのようにアーチェリーが伝わってきたのかについてですが、歴史編の中にどのように組み込むのかまだ悩んでいます。なにか根本が覆る発見でもない限り、趣旨がかわることはもうない段階ですので、一旦発表しておきます。これで指摘があったりして進展することも、これまでありましたし。
いまのようにスポーツとして確立されたのは、16 世紀にイギリスの王ヘンリー8世が、アーチェリーのコンテストを開催したのがきっかけでした。日本でアーチェリーが本格的に行われるようになったのは、1950年代後半に入ってから。その歴史は、まだまだ浅いものと言えます。
アーチェリーの歴史 https://www.archery.or.jp/sports/archery/
全ア連のウェブサイトでの記述において、日本とアーチェリーの関係については非常にふわっとしています。なぜ、ヘンリー8世をきっかけとしたのか。また、自分が全日本選手権に出られるとしたら、全ア連の中の人を問い詰めたいと思います(笑)。金襴の陣におけるフランス側の記述を根拠にしたとか言うのかな?9スコア制限に関する法律?
ヘンリー8世の部分は突っ込みどころしかありませんが、後半の記述は非常に優れています。アーチェリーが日本で「競技された」歴史は簡単です。一方で、グーグル検索の上位には日本におけるアーチェリーの歴史として「1939年 菅重義氏(当時の読売新聞ニューヨーク支局勤務)がアメリカから帰国し 日本の弓道界に紹介したのが最初です」とする記述があります。「アーチェリーを紹介」とはなにか、哲学好きなのでこれだけで白州2本イケます。
ということで、その哲学論争をおいておき、事実とその解説を羅列していきます。
日本にArcheryが伝わるのは文献として1867年の和英辞書で確認できます。このアメリカ人によって書かれた和英語林集成は初の和英辞書とされていますので、一般にArcheryが知られたのはここで間違いないでしょう。1867年、Archeryは射(しゃ、いる)として翻訳されました。ただ、これはArcheryを伝えるためというよりは、実用的な意味で英語を翻訳・理解するためのものであり、関心は言語にあり、アーチェリーに関心があったわけではないのは明らかです。
Archery自身への関心は2つのルートを辿って、イギリスにたどり着くことになります。一つは軍部です。日英同盟によって、友人になったイギリス軍を模範とするために軍事訓練などの視察によって、Archeryが伝わってきます。最初の写真は大正時代の1923年の雑誌に掲載されたもので、資料不足によって詳細がわからないもののの、「常備軍ではなくともイギリス人はいつも射撃練習している」という軍事訓練とのつながりで、アーチェリー大会(王賞弓術大会)が紹介されています。Archeryは弓術として翻訳されるようになります。
軍事関係におけるアーチェリーの研究はかなり進められており、大正7年の古今の兵器 (科外教育叢書)で「ホレースという弓術家は12回優勝した」といった細かい知識、昭和9年の歴史書には「オーマンがイギリス人の勝利の一部は彼らの光栄ある長弓隊に負うところがある(戦法史)といったのは、少し控えめに過ぎはしないかと思われるくらいだ」といった記述があり、戦史・戦術研究に携わっている人間には私が歴史編6で書いたような事は昭和初期にはすでに知られていたことがわかる。
軍事・歴史家によるアーチェリー研究の中では1932年に「英國庶民の弓術並に対蘇(ロシア)対佛(フランス)戦争」が最もよくまとまっており、無料で公開されているので、どなたでもお読みいただけます。P.233(コマ数126)くらいからです。
萩原清次郎 著『英国を眺めて』中巻 B,丸善,昭和7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1278858 (参照 2023-03-25)
もちろん、もう一方のアプローチは弓道界からであり、明治末期に英国のアーチェリーの詳細が紹介されます。ただし、これは英語の百科事典の内容の要約に過ぎない。
大正末期、名前が記録に残っていないものの窪田藤信の門人の一人がロンドンでアーチェリーの視察を行っており、競技方法や競技規則が手紙によって日本に伝わり、窪田藤信氏によって「英国に於ける弓道界の現状に鑑み所感を述ぶ」としてまとめられています。この手紙での報告には、すでに現代の弓道の審判員と同様の態度があり、下記のように英国の弓術を批判します。まぁ、テンプレですね…今後、同じこと聞いたら、「100年前にも聞いたわ」か「大正かよ」と言ってやろ。
我が国弓道の目的たる技術練習とともに精神修養並びに体育保全に重きを置きたるに比する時、(中略)彼の地の弓術たるやただ一つの娯楽的玩弄物(がんろうぶつ)に過ぎずして、一つも身心修養の精神なく、体育として欠く所がある。
弓道,『アルス運動大講座』第2巻,アルス,大正15-昭和3.p 55
昭和13年には当時のレベルとしてはほぼ完璧な形で「英国の射法」という本が大日本武徳会弓道範士で滋賀県知事・衆議院議員も務めた堀田義次郎によって書かれます。題名から分かる通り、英国の弓術を伝えるものであり、アッシャムの5節を、立脚または足踏(スタンディング)、弓構または矢番(ノッキング)、引込(ドローイング)、狙、持(ホールディング)、離(リリース)と訳し紹介しています。さすが国会議員にもなると他国の文化を露骨に批判はせず、「他山の石(*)として英国風の射法を紹介する」と書かれています。良いオブラートですね。
*「よその山から出た粗悪な石も自分の宝石を磨くのに利用できる」ことから「他人のつまらぬ言行も自分の人格を育てる助けとなる」という意味で使われてきました。(文化庁文化部国語課)
中身として堀田氏はアーチェリーを経験したことはないと推測され、ホレースの著書とロングマンのBadminton Library of Sports: Archeryの2冊を読んで、どちらも100ページを超える著作ですが、その中身を20ページにまとめた感じです。
著者は「弓道界の懸案であった射型統一のため、全国の著名弓道家からなる弓道形調査委員会が構成されたが、堀田もこれに参加した(wiki)」ほどの著名な弓道家だったので、彼によって定義された英国の射法が弓道界でのアーチェリーの理解のベースとなっていきます。
以上は、軍事家と弓道家という専門家の間での理解でしたが、そのレベルに達せずとも、1937年の児童百科大辞典でも、古代欧州弓手といったイラストで、アーチェリー(アーチャー=弓手)が紹介されてています。
さて、冒頭の1939年は、これまで述べてきた英国王賞大会の取材や、倫敦のアーチェリークラブへの視察、海外から輸入した文献の取りまとめではなく、日本に住む日本人が実際のロングボウに触れた日です。
白倉氏はこの日について「昭和12年の日米通信大会に尽力された菅氏が14年に帰国することとなったとき、アメリカ選手にメダルとサイン入りの矢を日本にいる勝者に届けることを依頼された。そこで関東学生弓道選手権の会場に行き、そこで、日本弓道の師範格に紹介された。望まれるままに、氏は日本で最初の矢を放った」と書いています…メダル届けるのに自分の弓なんて会場に持っていかないだろうから、確信犯ですねw
この年表において、どの段階をもってアーチェリーが日本に伝わったのかの定義はないのですが、日付がしっかり判明している1939年を使う人が多いようです。ただ、さすがにそれまで日本人がアーチェリーを知らなかったということはありません。児童百科にも乗っている程度には知られています。
私としては、「英国に於ける弓道界の現状に鑑み所感を述ぶ」が出版された大正末期の方が正確かなと思いますが、出版日が本になく、国会図書館の記録でも「大正15-昭和3」とされていて、使いにくいのは間違いないでしょう。まぁ、菅氏以前はアーチェリーについての知識はイギリスからもたらされたものが多く、1939年以降はアメリカを経由して入っくるようになったというのは間違いないでしょう。
日本のアーチェリーの歴史
1867年 Archeryという用語が伝わる
1907年 英国の弓術がアーチェリーとして英国百科事典の要約として文献で伝わる
1927年頃 ロンドンでアーチェリーを視察体験した弓道家によって詳細(競技規則等)が伝わる
1936年 東京オリンピック(中止)日本視察団がアメリカでアーチェリー大会に参加する
1937年 第一回日米親善通信弓術大会を開催
1938年 本格的な指南書・研究として「英国の弓術」が出版
1939年 菅氏が日本でロングボウ(米国の弓術)を披露 ← ここを始まりとする著者が多い
引っ越しした家の庭には前のオーナーさんが植えた桜があり、咲きつつあります。
歴史編で取り扱った内容に間違いはないつもりですが、漏れはないのかなと…ありました!
【追記】記事完成しました。
昨日、「ものづくりの科学史」という本を読んでいたら、アーチェリーの道具の標準化の歴史について扱っていなかったことに気づきました。これから資料集めます。互換性…私の最初の弓はヤマハで、最初のPCは9821でした…互換性大好き♥