社交競技でたったアーチェリーは資本家の流入によって、晩餐会などを排除した純粋にアーチェリーだけを行う競技になっていきます。アーチャーとして1870年に西部地区大会で優勝した事もあるC.ワーランドはその著書で「フィンズベリーアーチャーズによって開催された試合は、宴会、派手なショー、社交デビューの場であり、競技は言い訳に過ぎず、立派な服、豪華な旗、音楽は、実際の競技よりも重要であると考えられ開催されていた」と批判(*)し、さらに「目の後ろに矢を引く習慣があるため、正確な射撃をすることは不可能だった。戦争では大きな目的は正確な距離であり、強さであったが、ターゲット競技には場違いだ」と書いています。
*その後で「この時代のアーチャーの大半は、スポーツそのものを愛するというよりも、楽しい仲間に加わるためにアーチャーになったのだろう。その結果、当然、射撃を改善するための努力はほとんど行われなかったが、ディナーに関してはその逆だった。」と書いているので、批判というよりは、違う人種と見なしていたのかもしれません。Badminton Library of Sports: Archery p.183
当時の競技者にとっては「純粋な競技を行うこと」と「射の正確さによって勝敗が決するルールの制定」が課題になっていました。まぁ、現代でも合コン気分でサークル来る人間がいたとしても、すぐに排除できるわけでもないので、まずはルールの制定から始めました。1844年5月に7月までに賛同者が100名集まればヨークで全国大会を行うことが決まり、最終的には十分な賛同が得られて、8月に最初の全国大会(グランド・ナショナル)が行われます。このときに採用したウェストバーククラブの競技形式で、後に「ヨークラウンド」として知られるようになっていきます。女子は60ヤードのみ96射形式でした。
ワーランドは大会の様子を「第1回グランド・ナショナルが開催されると、状況はまったく違っていた。習慣が変わり、食事やショーが比較的後回しにされ始め、男性はスポーツをより重要視するようになっていた。第1、2回の試合では高得点は出なかったが、競争によってすぐに改善が見られた」と書いています。実際に1回大会の優勝点数は221点、2回大会は537点、3回大会は519点、4回大会は631点で4年で点数が3倍という驚異的な伸びを示します。
*A short outline History of the GRAND WESTERN ARCHERY SOCIETY on the occasion of its 100th CHAMPIONSHIP MEETING,1973
第3回大会でポピンジェイが3日目に採用されたが「のちにハンディキャップが代用された」とあるので、真剣な競技ではなかったようです。第6回大会から女子は60と50ヤードを96射ずつ射る「ナショナルラウンド」が導入されます。
この大会は2度の世界大戦中に中断されますが、現在でも継続して行われていて、2023年は168回大会になります。継続して行われている最古のアーチェリー大会です。
シングルラウンド(1440ラウンド)について前に同様の記事を書いていたのですが、その中では「短距離派と長距離派の妥協のもと誕生した」と書きました。当時の知識では文献をそのまま提示するだけで、なぜ派閥が存在していたのかまでは論じることができませんでした。
しかし、今なら、歴史編4と歴史編7を読んだ方ならもう答えはわかるはずです。防城戦の訓練としてアーチェリー競技(射撃祭)を行っていたフランスや低地地域は短距離で競技を行っていた歴史があり、野戦訓練として9スコア(180ヤード)を基準に強い弓で遠くまで矢を飛ばしていたイギリスとその影響を受けたアメリカは長距離で競技を行っていた歴史があり、それぞれの国のアーチェリー競技の歴史の対立だったわけです。
初めての国際大会として1896年のパリ・オリンピック(第二回大会)でアーチェリーが種目に加わります。当然フランス式の競技形式で試合は行われます。Au Cordon Dore 33mなどの競技形式の詳細は残っていませんが33mでの競技でした。開催国フランスとベルギーとオランダの3カ国が参加しました。
次の1904年アメリカのセントルイスで行われたオリンピックでは、独自のアメリカンラウンド(22名参加)とともに、イギリスのヨークラウンド(16名参加)も競技に採用しています。ただ、海外からの参加選手はなく(イギリス・アメリカ間は船旅で片道5日間)、全員アメリカの選手で競技が行われます。
1908年のロンドン・オリンピックはよーくラウンドで行われ、フランスとアメリカから選手が参加しました。第一次世界大戦をはさみ、オリンピックが再開された1920年にはベルギーで開催され、競技方式はポピンジェイと同様のもので、 ベルギー・フランス・オランダの選手が参加しました。
開催ごとに競技方式が異なる状況に対して、1921年に行われた第七回オリンピックコングレスで、統一ルールの導入を求められたものの、アーチェリーは国際競技団体がなく、さらに国によって競技形式が異なっていたために、競技方式を統一できず(*)、1924年のオリンピックよりアーチェリーとフィールドホッケー、ゴルフがオリンピック競技から削除されました。
*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22
この問題を解決するために、1931年に国際団体の世界アーチェリー連盟が創立され、当初の参加国は、フランス、チェコスロバキア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ合衆国、ハンガリー、イタリアの7カ国で、日本などの弓による競技が行われている国に参加要請を送ります。送付した国のリストはないものの、日本とエジプトの競技団体からは返信がありましたが、日本が参加を検討した記録はない(*)。
*Robert J. Rhode, HISTORY OF THE FEDERATION INTERNATIONALE DE TIR A L’ARC VOLUME I 1931-1961, P12
*入江 康平, 昭和前期における弓道の国際交流について, 武道学研究, 1974-1975, 7 巻, 1 号, p. 29-30
1931年に国際的な統括団体は設立されたもの競技方式は定まりません。例えば、ハイアンカーでは物理的に90mを競技することはできず、競技形式によっては、アーチャーに射法レベルでの転換を求められるためです。
1931年の第一回世界選手権では、50m/40m/30mという形式が採用されます。1932年は70m/50m/30mという形式が採用されます。イギリスからは全距離を122cm的で行うことが提案されますが、ポーランドとフランスの協会の反対により、30mでは80cm的を採用することが決まりました。
1933年のイギリスでは、男子が90/70m/50m/30mという形式に、女子は引き続き70m/50m/30mで、競技する本数に差異があります。この年から10リングが導入されます。1934年の世界選手権に向けての1933年の協議会でシングルラウンド形式(男子90m/70m/50m/30m各36射)という形式が提案され、6カ国賛成(イギリスは棄権)という投票結果によって確定します
短距離射はギリシャ神話に起源があり、長距離射は英仏戦争の野戦で大活躍したロングボウのリバイバルでしたが、会議での多数決会議によって、真っ白なFITAシングルラウンドという競技形式が制定されます。
ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。
1953年の会議でMr.Neerbye氏(*)より競技者の増加に伴い競技時間が長くなりすぎているために参加者の削減が提案されました。2年間の委員会での議論を経て、1955年の会議で競技者の削減ではなく、競技する距離を削減することで競技時間を短縮する方向となり、再度シングルラウンドをFITAラウンドとして採用することが決まり、その後、1985年まで採用され、その後は2011年まで予選ラウンドにて使用されました。
*FITA Bulletin officiel No 13, 1953, P7
その誕生から第一次世界大戦までヨーロッパがアーチェリーの中心地であり、シングルラウンドもヨーロッパ内の対立によって生み出された競技形式でしたが、2度の大戦の影響により、主に技術の進化の中心地は、その傷が最も少なかった米国に移っていきます。
山口 諒
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