この記事は2023年1月26日に書かれたものです。最新の情報とは異なる可能性があります。ご注意ください。

【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

下記の記事をより詳細なものに書き直しました。こちらをご覧ください。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)

アーチェリーのチューニングマニュアルを書いたので、次はアーチェリーの歴史を勉強してまとめてみたいと思い、昨年から取り組んでいます。自分にできることなど限られているので、どれだけのものをかけるかなと調べてみたのですが、アーチェリーの歴史は、調理を待つ材料みたく、結構揃っていたのです。ちゃんとしたアーチェリーの歴史本がないのは、分野が違ってお互いに面識がなかっただけかと思います。

写真は最古のアーチェリーの記録(紀元前1429年頃)です。的を射ているので、戦争・狩猟・手に持って踊るといった儀式のどれでもない弓の使用という意味で、初期の”スポーツ”としてのアーチェリー考えることができると思いますが、その判断はともかく、この頃のアーチェリーは考古学者達によって考察され、本や論文としてまとめられています。

紀元前500年くらいからは歴史書が登場し、この頃のアーチェリーについては歴史書などに残っている記録が多く、歴史学者によってまとめられています。1000年頃になるとヨーロッパで進化を遂げたロングボウとクロスボウが戦争で大活躍するようになり、アーチェリーについては軍事学者によって書かれたものが多くなります。16世紀頃の銃火器の進歩によって戦場から弓が駆逐されると、スポーツとして現在につながるアーチャーたちが書かれた記録に繋がり、この部分はすでに自分である程度これまでにまとめているかと思います。

なので、このそれぞれ違う分野の話を一つにつなげるためのリンクはないかと、今年の入ってからずっと悩んでいましたが、世俗化という軸でまとめてみました。グッドマンという人が近代スポーツの特徴として「世俗性」「平等性」 「官僚化」「専門化」「合理化」「数量化」「記録への固執」をあげています。ここで一番特徴的なのは世俗化、簡単に言えば、脱宗教だと思います。

例えば、相撲は「世俗化」以外すべて特徴に当てはまっていますが、世俗化する可能性は、今後も殆ど無いでしょう。

日本武道で唯一世界的なスポーツとして成立し、オリンピック競技にもなった柔道の創設者・嘉納治五郎は近代柔道の世俗化、宗教を持ち込まないよう努力したそうです*。神道的な宗教的概念を含む競技なら、イスラムやキリスト教など違う宗教の人々が競技に参加することは困難になります。スポーツがやりたくて改宗する人は稀でしょう。

*湯浅 晃, 武道における宗教性, 武道学研究38-(3):15-42, 2006

そこでつぎのようにアーチェリーの世俗化を考察し、これ軸(変換点)として、2月ごろを目処にアーチェリーの歴史をまとめてみたいと思います。何か意見がありました。コメント欄にどうぞ。


世俗化 – 宗教から脱却

古代において狩猟は生活の手段であったために、弓は宗教・儀式と深く結びついていたと考えられる。イリアスで描かれた弓術競技では優れた射手であったテウクロスは神アポロンに祈らなかったために的を外し、神に祈ったイードメネウスが勝利したという記述がある。聖書にも弓は登場し、ヨハネの黙示録では勝利の象徴とされている。

しかし、1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(1)、その後、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止し、使用したものは破門するとした(2)。同様に騎馬試合もこのとき禁止された。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説ある。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もあるが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張もある。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇した。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せた。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器だった。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、歩兵(市民)が騎兵(貴族)を殺傷させる行為を忌諱したと考えられる(3)。

実際、モデルとなった人物の存在は示唆されていても、実在が確認できないので物語とするが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも反権力的な物語の主人公であり、弓は権力者の武器ではなかった。

禁止令ののち、「神に憎まれた」アーチェリーとカトリック教会との関係は薄れたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても所持は禁止しなかった。アーチェリーは国内では狩猟やスポーツとしてのみ使用できるというユニークな道具になった。近代スポーツとして成立するための要因の一つである世俗化、脱宗教化を偶然に成し遂げたと言える。アーチェリーとクロスボウの規制・管理は国家に委ねられ、国によって異なったものになっていく。


ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いている。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可されたので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当だろ。だが皮肉なことに、彼は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡する。この死について、いまだ弓の使用を禁止している教会に背いた天罰であるとの考えがあるが、弓が再度禁止されるには至らなかった(4)。

1.Karl Josef von Hefele, Histoire des Conciles (Livre 31e : conciles sous le pontificat de Grégoire VII – Livre 32e : de la mort de Grégoire VII au concordat de Worms et au IXe concile œcuménique – Livre 33e : conciles du IXe concile œcuménique au conflit avec les Hohenstaufen, 1124-1152), t. V, partie 1, 1912, p.455
2.藤崎 衛ほか, 第一・第二ラテラノ公会議(1123、1139年)決議文翻訳, クリオ, 2018, 32, p.61-80
3.Oman Charles, The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515, London Methuen, 1898, p.354-355
4.Ralph Payne-Gallwey, The Crossbow, Mediæval and Modern, Military and Sporting, Longmans, Green and Company, 1903, p.3-4

2番目の資料以外はすべて著作権切れでネットで全文公開されています。


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Ryo

熱海フィールド・あちぇ屋代表。日本スポーツ人類学会員、弓の歴史を研究中。リカーブ競技歴13年、コンパウンド競技歴5年、ベアボウ競技歴2年。リカーブとコンパウンドで全日本ターゲットに何度か出場、最高成績は2位(準優勝)。

3 thoughts on “【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

  1. 「弓矢の文化史」はとても興味深く拝読しております。技術面や物理特性だけでなく、宗教的側面や神事によって影響があり、差別化というか、社会的な地位の確率にもつながったのでしょうね。
    (昔も今も、弓矢を維持するのには経済的な負担が大きいですから。)
     アーチェリーという洋弓に限らず、弓という構造の特性からのアプローチはもっと知りたいことが多いので、今後も研究・執筆活動を継続していただければと感じます。
     関連あるかどうかわかりませんが、和弓でも、梓弓に始まる長弓の神事との関係性や、戦闘的で実践的な四半的などの半弓の芸能的な世俗化にも、同じような階級的なものがあるのかも?
     戦後日本では弓道連盟の設立にも「道」として神事的な側面の影響をどうするかの話もあったようですし、儀礼なのか、競技なのか、芸能なのかは、文化的な側面と同時に、政治的な権力闘争のバランスも感じられます。
     弓という構造の物理的な特性が、どのように変化し、世界への文化的な伝搬を成し、この先どのように進化・変化していくのか、興味が尽きません。山口氏のような興味深いアプローチを今後も楽しみにしております。
     追記、余談ですが、各種のPCゲームやボードゲームにおける「弓矢」の戦闘度とか、ステータスがどのように扱われているかも、その時代の文化的な流行を示す指標として面白さを感じています。

  2. >「弓矢の文化史」はとても興味深く拝読しております。技術面や物理特性だけでなく、宗教的側面や神事によって影響があり、差別化というか、社会的な地位の確率にもつながったのでしょうね。
    (昔も今も、弓矢を維持するのには経済的な負担が大きいですから。)

    弓矢の文化史の著者の方は和弓の専門家の方なのですが、要求に関してはあまり詳しくないようで、記述が一方的なところがあるのが残念なところです。例えば、「(西洋では)飛び道具は卑怯であるという考え方があったらしい」(p246)と書かれていますが、らしいではなく、確定的な事実です。詳しくは今後書くものでも触れていますが、中世西洋の専門家である池上俊一さんの「図説 騎士の世界」河出書房新社 2012年,p60の卑怯な弓というパートで詳しく取り上げられています。ですので、弓は庶民の道具でした。

    > 戦後日本では弓道連盟の設立にも「道」として神事的な側面の影響をどうするかの話もあったようですし、儀礼なのか、競技なのか、芸能なのかは、文化的な側面と同時に、政治的な権力闘争のバランスも感じられます。

    自分の中でモヤモヤしていた気持ちがはっきりと見えてきたのは、自衛隊を描いた「あおざくら 防衛大学校物語」という漫画を読んだときです。弓道には詳しくないので、武道としての「道」はわからないのですが、武道の「武」に関して言えば、これは武は合理的な競技(スポーツ)にはなりえず、理不尽であるのは仕方ないものです。

    戦争ではいくら理不尽な命令と言えど、旅順攻囲戦での突撃のような、命令されたとて「いや、突撃したら死ぬっしょ」という場面でも、兵隊個人が合理的な判断に基づいて行動していたら、戦争はできません。そのために兵士への教育の一環であった武道は、かなりの犠牲を払って自己批判しない限りは合理的なものにはなり得ないのだと理解しています。

  3. 追記: 日本弓術における中国弓術の影響という論文において、

    征服国家にとって、多くの異民族を支配し権力を保つためには軍事力の強化が最も優先される課題であった。弓射はその有力な手段として用いられ、技術に優れた者を将兵として多く抱えることは国家の安泰を保証した。その為奴隷を持つ支配者は「礼記」に示されているような様々の膨大な規定を作り、それらは「礼」と呼ばれ、規制し権力を高め身分と序列を明確にし、秩序を保った。弓射もまたこの目的で奨励された。

    とあります。「武は礼に始まり礼に終る」という言葉がありますが、その礼は誰に向けられ、誰によって定義されたものであるのかといったことには個人的にも興味はあります。

    日本弓術における中国弓術の影響
    武道礼法について

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