シングルラウンド(1440ラウンド)の誕生

チューニングマニュアルを書き終わり、3000部以上ダウンロードされました。読んでいただきありがとうございます。もちろん、今後も最新の情報にメンテナンスしていきますが、次に着手すべきはアーチェリーの歴史だと思っています。

おそらく、このサイトを訪問している方の多くはあまり関心がないかもしれませんが(実際アクセス数はあるものの滅多にコメント付きません(T_T)、何事もしっかりとここに至る経緯・歴史をしっかりと知っておかないと、正しい場所にたどり着けないのではないかと思っていますし、チューニングマニュアルを書くときにも多くの過去の文献にあたってきました。

弓道の歴史はかなり詳細に文献として残っているのに対して、アーチェリーの歴史は、特に日本語で書かれたものは、なぜかありません(自分調べ)。もしありましたら、教えていただければ幸いです。書籍でも、論文でも、プログなどでも見つけることができませんでした(*)。

*個人のインタビューのようなものではなく、裏付けがあるものに限る

日本におけるアーチェリーの歴史

このようなサイトで貴重な写真を見る事はできますが、今後どうなっていくのでしょうか? 日本のアーチェリーの歴史に関して、どこかで管理・保管しない限り、失われる一方で良いのか。アメリカでは、イーストン財団が貴重なアーチェリーの資料を保管し管理していますが、日本でもやるべきではないかと思っています。自分ができる範囲でのことは努力していこうと思ってはいます。

こちらは日本で書かれた2番目に古いアーチェリーガイド。最も古いものに「洋弓手引書」という物があるらしいのですが、入手できていません。情報ありましたらお願いします。サイトピンの使用が認められ、クリッカーが日本に上陸し(*)、スタビライザーが禁止されていた時代に書かれたものです。

*白倉 仲, 武山 秀. Archery に於ける Klicker. 体育学研究. 1967;11(5):218.

今回の記事は現在では滅多に行われていないシングルラウンド(1440ラウンド)の誕生に関するものです。この競技形式は登場まで、どこでも行われておらず、妥協の産物であることはあまり知られていないと思います。下記の記事「歴史をすこし」をより詳細にしたものになっています。

事の始まりはオリンピックです。それぞれの国が独自の文化のもとアーチェリー競技をしている中、1896年に再開されたオリンピックの第二回大会、1900年のパリ・オリンピックからアーチェリー競技が追加されます。パリ・オリンピックでは、当時フランスで人気のあったAu Cordon Dore 33mなどの競技が行われますが、どのようなルールだったのかは記録に残っていません。ただ、33mでの競技だったと思われるので、メインを100ヤード(91.4m)で行われていたヨークラウンドに比べると短距離の競技だったようです。開催国フランスとベルギーとオランダの3カ国が参加しました。

つぎの1904年アメリカのセントルイスで行われたオリンピックでは、独自のアメリカンラウンド(22名参加)とともに、イギリスのヨークラウンド(16名参加)も競技に採用しています。ただ、海外からの参加選手はなく(イギリス・アメリカ間は船旅で片道5日間)、全員アメリカの選手で競技が行われます。こちらは長距離の競技です。

王室の庇護のもと、貴族のスポーツとして競技されたイギリスのヨークラウンドは100ヤード(91.4m)をメインとしていました。これは射場が貴族の社交場として機能していたためです。アメリカではメインがハンティングだったので、ターゲットでも50/60ヤード(54.8m)がメインでした。対して、フランスやベルギーではより娯楽色の強い参加のしやすい短距離で競技が行われていました。ベルギーではPopinjayと呼ばれる競技が人気です。

ポピンジェイ(wiki英語版の機械翻訳) - ポピンジェイの目的は、人工の鳥を止まり木から叩き落とすことです。止まり木は、90 フィート (27 m) のマストの上にある横木です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Popinjay_(sport)

1908年のロンドン・オリンピックはもちろん長距離のヨークラウンドで行われ、フランス、アメリカから選手が参加しました。第一次世界大戦をはさみ、オリンピックが再開された1920年にはベルギーで開催されますが、競技方式はIndividual Fixed Large Bird で行われたと記録されており、これはおそらく現在の3Dアーチェリーのような、擬似的な狩猟競技と推測され、鳥を射るので的のサイズ的に短距離で行われたと推測されます。ベルギー・フランス・オランダの選手が参加しました。

開催ごとに競技方式が異なる状況に対して、1921年に行われた第七回オリンピックコングレスで、統一ルールの導入を求められたものの、アーチェリーは国際競技団体すらなく、競技方式を統一できず(*)、1924年のオリンピックよりアーチェリーとフィールドホッケー、ゴルフがオリンピック競技から削除されました。

*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22

この問題を解決するために、1931年に国際団体の世界アーチェリー連盟が創立されます。当初の参加国は、フランス、チェコスロバキア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ合衆国、ハンガリー、イタリアの7カ国で、日本などの弓による競技(アーチェリー)が行われている国に参加要請を送ります。送付した国のリストはないものの、日本とエジプトの競技団体からは返信がありました(*)。

*Robert J. Rhode, HISTORY OF THE FEDERATION INTERNATIONALE DE TIR A L’ARC VOLUME I 1931-1961, P12

このときの日本側の反応についての記録を読むと、双方に大きな認識の違いがあったようです。連絡を受け取った大日本弓道会は世界アーチェリー連盟(WA/FITA)を「国際洋弓連盟」と受け止めています。つまり、洋弓の世界より和弓の世界と「交流」を持ちたいという連絡であると受け止めていたのに対して、WA側は最終目的はオリンピックへの再採用ではあるので、課題は弓術(アーチェリー)としての国際大会での競技方式の確立であり、「加盟」と「参加」をして欲しいという要請であり、初めからボタンの掛け違いがあり、日本側はその後連絡を絶ち、対応をしなくなります*。

*入江 康平, 昭和前期における弓道の国際交流について, 武道学研究, 1974-1975, 7 巻, 1 号, p. 29-30

当時の和弓側(大日本弓道界)の「弓術というだけでは意味が狭い。ただ弓に矢をつがえて的に当てることの技術が弓術である。これ以外のことは厳密にいえば、弓術の範囲には属せずして弓道の範囲に入る」(*)という意見、弓道は弓術とは違うという意見と、弓は、ターゲットアーチェリーで使用されるもので、常識的に「弓」という言葉に適合していれば、どのような形状でも使用することができる(競技規則)という弓道は弓術の一つであるというアーチェリーの定義は今でも多くの誤解を生んでいるように思います。

*根矢鹿兒 弓道の本義.弓道,87:1-3, 1919

さて、1931年に国際的な統括団体は設立されたものの、世界選手権の競技方式はなかなか決まりません。問題はイギリス、アメリカ、スウェーデンが90mや70mの長い距離で競技していたのに対して、フランス、ベルギー、オランダは25m、30m、50mの短距離で競技をしていたこと。それに最適化された射法を用いていたことです。例えば、ハイアンカーでは物理的に90mを競技することが困難で選手は新しい技術の習得が必要になります。

1931年の第一回世界選手権では、50m/40m/30mという形式が採用されます。1932年の世界選手権では70m/50m/30mという形式が採用されます。イギリスからは全距離を122cm的で行うことが提案されますが、ポーランドとフランスの協会の反対により、30mでは80cm的を採用することが決まりました。

1933年のイギリスで行われた世界選手権では、男子が90/70m/50m/30mという形式に変更されます。女子は引き続き70m/50m/30mで、競技する本数に差異があります。この年から10リングが導入されます。

1934年の世界選手権に向けての1933年の協議会でシングルラウンド形式(男子90m/70m/50m/30m各36射)という形式が提案され、6カ国賛成(イギリスは棄権)という投票結果によって確定し、ここで初めて、どの国でも競技されていなかったFITAシングルラウンドという競技形式が、短距離派と長距離派の妥協のもと誕生します

ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。

1953年の会議でMr.Neerbye氏(*)より競技者の増加に伴い競技時間が長くなりすぎているために参加者の削減が提案されました。2年間の委員会での議論を経て、1955年の会議で競技者の削減ではなく、競技する距離を削減することで競技時間を短縮する方向となり、再度シングルラウンドをFITAラウンドとして採用することが決まり、その後、1985年まで採用され、その後は2011年まで予選ラウンドにて使用されました。

*FITA Bulletin officiel No 13, 1953, P7

以上、FITAシングルラウンドは短距離から長距離までまんべんなく網羅した試合形式というよりは、国際的な合意形成が必要な中、妥協によって生まれた試合形式と考えるべきかと思います。

1921年から34年間かけてWAはアーチェリーの国際大会のルールを統一することに成功し、さらにその10年後の1965年の10月に72年のオリンピックに再採用されることが決まりました。

WAの過去の議事録は1931年の第一回目から下記のサイトで確認できます。すべて私が生まれる前の話ですので、過去の文献により構成しているために参考文献が大量になってしまい、読みづらかったら申し訳ございません。