飛び道具の卑怯が難しすぎた

和泉屋市兵衛 勇魁三十六合戦

矢で死亡した武将がぜんぜん見つかりません。絵の源義仲は平安時代。江戸時代について書かれた本に良く「飛び道具は卑怯だとされた」という表現を目にします。それ以上踏み込んだ文献がなかったので、自分で調べて理解しようと思ったら、難しすぎて断念した話です。まず、江戸時代に入り、時代は平和に…

その一方で幕府は林羅山(一五八三~一六五七)その他の学者を使って、大名の関心を鉄砲からそらせるための思想宣伝もおこなっている。羅山は朱子学の大家として家康の知遇を得た人で、 秀忠、家光、家綱と四代の将軍に仕え、学問や政治上の諮問に答えている。飛道具は武士道に 反する卑怯なものだとか、鉄砲は身分いやしい足軽があつかうもので武士が手にするものではないという思想は、彼によって創始された。この思想攻勢はかなりの成功を収めたとみてよい。

奥村正二 著『火縄銃から黒船まで : 江戸時代技術史』,岩波書店,1993.7.P33

それ故に「飛び道具は卑怯なり」ということにして、武家階級の温存を図ったのであります。こうして、江戸時代の武家政権は強固にされました。

川瀬一馬 [著]『日本文化史』,講談社,1978,P230

江戸時代になって林羅山などが”飛び道具は卑怯である”とか“刀は武士の魂”、”鉄砲は足軽のもので、いやしくも武士が扱うものではない”などと主張しているが、これを裏返せば、幕府の対藩対策として諸藩が鉄砲を保有することが軍事上問題であるとする見解であり、武器としていかに有効であるかの証左に他ならないものであったといえ

第三章 中世 P.246 (書名のメモをなくしてしまい一生懸命捜索中です…)

ここで、具体的な林羅山という名前が出てくるのですが、この人は将軍四代にわたって仕えて、様々ルールを定めていったとされています。例えば、武家諸法度という武家法では、1615年、大阪の陣直後に発布したものには、その第一条に「文武弓馬ノ道」とありますが、1683年の改定で「弓馬」は削除され、「文武忠孝を励まし,礼儀を正すべき事」とされました。同時に、武士階級の中にさらに細分的な階級を設け1、明示的にその服装を「弓鉄砲の者は絹紬・布木綿の他は着てはならない(弓鉄砲之者、絹紬・布木綿之外不可着之)」とした。1615年から1683年までに弓は武士にとって最大の責務から、絹紬・布木綿しか着てはいけない階級にまで落ちたことがわかります。

「千代田之御表」 「小金原牧狩引揚ノ図」

ここまでは順調だったのですが、ここで私が超えられない壁に直面します。「卑怯」という日本語の解釈です。弓矢や鉄砲による趣味としての狩猟は、江戸時代に入ってからも、多く記録されていて、吉宗将軍(八代)も参加しています2

以上、私のたどり着いた結論は「卑怯」という言葉の当時における解釈に対する正しい理解がないとこの話は詰むです。以前に書いた記事で、ヨーロッパでは弓は神が忌み嫌う武器として…そこまで強い言葉を使うなら現代日本におけるクロウボウのように禁止されるのかと思いきゃ、そうではなく、キリスト教徒には使うなと、異教徒に対しての使用は禁止されませんでした。同様に12世紀の平治物語には、平民に武士が弓に射られることを嘆く表現があります。違う信仰、違う身分における道徳の断絶がある時代です。

予想するに林羅山の思想3も同様のものであり、多くの本が無批判に引用している武士に「飛び道具は卑怯」というほど思想のは存在せず、あくまでの一部の武士階級の特定目的の飛び道具の使用に対する忌諱にすぎなかったのではないかと思います。

ただ詳細に、当時の武士の間における卑怯論を論じることができるほどの能力は私にないので、当分の間、ここまでの理解に留まることにします。参考になる文献などご存知の方がおりましたら、コメント下さい!!

  1. 隈崎渡 著『戦国時代の武家法制』,国民社,昭和19.P.333 ↩︎
  2. 小和田哲男 著『乱世の論理 : 日本的教養の研究室町・戦国篇』,PHP研究所,1983.10. ↩︎
  3. [キョウ]穎 [著]『林羅山の思想』,[[キョウ]穎],1999. ↩︎
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山口 諒

熱海フィールド代表、サイト管理人。日本スポーツ人類学会員、弓の歴史を研究中。リカーブ競技歴13年、コンパウンド競技歴5年、ベアボウ競技歴5年。リカーブとコンパウンドで全日本ターゲットに何度か出場、最高成績は準優勝。

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