イギリスの年表 – 歴史編 付録

細かく年ごとに何があったのかは本筋とは関係ありませんが、付録として1902年のイギリス百科事典のアーチェリーの項目に書かれた内容をサクッと抜粋して機械翻訳し、間違っている部分を手直ししました。1902年の百科事典ですら、これほど詳細にアーチェリーを明確に描き出しているところに、上級階級のアーチェリーへの関心の高さもうかがえると思います。なにかの参考になれば幸いです。

(1) アーチェリー – 初期イングランドにおけるアーチェリー

ARCHERY、弓矢で射る運動の芸術。戦争の道具としての弓の起源は、不明瞭に失われています。

フランスでは8世紀初頭のシャルルマーニュの時代まで弓の使用に関する記録はないが、イングランドではアングロサクソンとデーン人が征服の何年も前に、イングランドの原住民に対する戦いと同様に追跡にも弓を使用していたという証拠がある。しかし、ノルマン人の支配下で、この島でのアーチェリーの練習が大幅に改善されただけでなく、国全体に広まったので、イングランドはすぐにアーチェリーで有名になり、あなた方の弓手は他のどの国のものよりも優先されるようになりました。この優位性を絶え間ない練習によって維持することが、多くの君主の課題であったようだ。また、国民の間で弓の使用を強制し規制するための多くの法令が、早い時期から火器の発明後まで制定された。また、弓と弓術に必要な器具の製造に熟練した人が、遠く離れた目立たない地域に確保し、これらの職人による詐欺を防ぐため、そして外国から弓の素材を常に調達するための多くの法律が作られました。これらの法律は絶対に必要なものであったと思われる。なぜなら、昔のイングランドでは、戦いの成功は弓兵の勇敢さと熟練度に大きく依存しており、彼らが戦場に現れることは、一般的に成功につながるからである。征服王ウィリアムは、彼が使った弓を引くことができる者がほとんどいないほど見事な弓手であったと言われており、ヘイスティングスでの勝利は、彼の弓手の技量と勇敢さによるものであったことは確かである。リチャード1世は聖地で弓兵を率いて大活躍し、ギボンによれば、王を先頭に300人の弓兵と17人の騎士が、トルコとサラセンの全軍の突撃を防いだという。シャーウッドの森で有名なロビン・フッドが活躍したのも、彼の治世のことである。エドワード2世は、1314年、スコットランド侵攻のために「ノーザンブリア弓兵」一団を召集した。

クレシーとポワチエの戦いは、それぞれ1346年と1356年にイングランドの弓兵によってもたらされた。エドワード3世は弓の名誉に非常に嫉妬し、その栄光を維持することを切望していた。エドワード3世の治世の初期には、

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イギリス初期のアーチェリー競技 – 歴史編. 7

ヘンリー8世, the book of archery, 1840

歴史編4でフランス・ベルギー・オランダ等地域で行われていた高低差短距離アーチェリーについて書きましたが、ロングボウ誕生時のイギリスでは、待ったく違った形式でアーチェリーの競技が行われていました。最初の弓の所持を命じた1252年の法律によってどのような競技(練習)が行われたのかは記録に残っていませんが、14世紀に入り、ロングボウが対仏戦争において野戦に数々の大勝をイギリスにもたらすと、身につけるべき能力が確定していきます。重い弓を引き遠くまで矢を射ること、特定の距離に矢を射ることです。

地図(https://www.bowyers.com/より)
コース表
By Colonel Walrond

*これにあたって矢がバラバラになったとき、最もマークに近い破片が有効とされます。

上の3つは競技3点セットの地図、コース表(*)、アーチャーズマークです。現在のフィールドコースと同じように地図とコース表でマークを確認して、マークからマークを射るのです。上のコースは最も短いもので70m(78ヤード)、長いもので210m(227ヤード)となっています。8つの距離異なる地形から、異なる方向、異なる距離を射ることで、任意に設定される野戦場で敵に命中させる能力を養うことを目的にしています。

*コース表のスコア(Score)は点数ではなく距離のこと。1スコアヤード= 20ヤードです。

絵の後方、丘の上に左右2つ描かれているのがマークの使用例で、地面に埋め込まれており名前が刻まれています。これは指南書として残っているロンドン近郊のフィンズベリーフィールドで行われていた形式で、他にも、おそらくより簡単に制作できたであろ、石のマークではなく、土を盛ってバットとした射場もありましたが、大まかな形式として同じものです。イギリスでのアーチェリー競技は防城戦ではなく、野戦のための平地での長距離アーチェリーだったのです。

300ヤード近い距離を射るためには最低でも62〜63ポンドの弓が必要だったとされており、当時の成人用の弓の強さはこの値を下限にしていたと考えられます。競技の勝敗をどのように決めていたのかは記録されていませんが、フランスの射撃祭のように競技ごとに事前に競技規則を定めていたのでしょう。競技の結果として勝敗が存在していたことは間違いなく確認できます。

弓の愛好家であったヘンリー8世の帳簿には「3月29日 トットヒルにて王がジョージ・ギフォードに負ける、12シリング6ペンス」といった記録が残されています。

また、シェークスピアはその作品ヘンリー四世において「(-弓の腕前が見事なダブル老人-)彼は見事な射撃をした。ジョン・ア・ゴーントは彼を愛していた。そして彼に大金を賭けた(He shot a fine shoot. John a Gaunt loved him well, and betted much money on his head.)」と競技の当事者の遊びとしてだけではなく、アーチェリーの競技結果も賭け事の対象であったことがわかります。ヘンリー四世は芝居として16世紀末にシェークスピアが創作したものですので、史実ではありませんが、当時のアーチェリー競技のあり方を知ることはできると考えます。

アーチェリーを練習せよという法律は1623年に廃止されます。1583年には 3,000 人の射手が参加していた競技は、1675年には350人にまで減ります。ただ、1/10となったといっても、アーチェリー競技の参加者数としては十分です。今日でも350人も参加したら全日本選手権レベルです。しかし、この参加人数では、フィンズベリーフィールドのような何キロ四方にも渡る膨大なアーチェリー練習場を維持することはできません。

(https://www.bowyers.com/より)

今日の地図とフィンズベリーフィールドだった場所を記したものです。めちゃめちゃ市街地ですね。ということで、国民(成人男子)の法定スポーツではなくなったことで、17世紀後半にアーチェリー競技はその規模の縮小だけではなく、競技場の面積の縮小、それに伴う競技形式の変更を余儀なくされます。また公共的なスポーツでもないので、政府が提供するアーチェリー場は少しずつ減っていき、自分たちで土地を用意できる貴族・ジェントリーのスポーツとなっていきます。

ロングボウと日本の弓

源平合戦図屏風, 国立博物館所蔵

11-12世紀の西洋で防具の進化に対抗するためにイングリッシュロングボウが誕生した当時、日本ではどうだったのか。和弓には全然詳しくないので、語るつもりはありませんが、一応知識として知っておかないと、と思いこの時代の専門家の本を読んでみると、諸説ありますが、西洋同様に甲冑が進化したのに対して、弓を強くするのではなく、武士を射るのではなく、騎乗する馬を狙う戦法が広がっていったとのことです。「首をとる」文化と「捕まえて身代金」文化の違いによる差異なのでしょうか。

一方、その傾向を「昔は馬を射るようなことはしなかったが、近年はまず馬の太腹を射て、跳ね落とされ徒歩立ちになった敵を討つようになった。」と嘆く歴戦の老戦士もいたようです(*)。

*高橋昌明「騎兵と水軍」,日本史(2) 中世Ⅰ,有斐閣,1978

日本の弓に関しては多くの専門家がいますが、この本の内容は非常に興味深かったです。特に、中世においては「弓」が戦闘の中心にあったが、豊臣秀吉の刀狩りは武装解除ではなく、身分制度の固定化が目的であり、明治では権力側(軍・警・官)が帯刀権を独占し、靖国刀などの軍刀にいたり、「刀は武士の魂」となったという流れは、自分にとっては新鮮な見方でした(*)。

*著者は別に日本刀をディスっいるわけではなく(財)日本美術刀剣保存協会で鑑定審査をしていた日本刀側の人です。

「驍勇(ぎょうゆう)絶倫にして、騎射すること神の如し。」

すげぇ。

イングリッシュロングボウとは何か – 歴史編. 6

マアラート要塞の奪取, Henri Decaisne, 1843

本当に書きたかったのはここからです(笑) 長かった…。

ここまでの話の必要性はここから回収しています。3はこの記事で、4はオリンピック競技の記事で、5は近代スポーツの記事に繋がります。さて、イングリッシュロングボウについて書く時、まず最初にwikiを見てみました。すると、

単に「弓」と区別されるロングボウという用語の最初の使用は、おそらく 1386 年の行政文書で、ラテン語で arcus vocati longbowes、「『ロングボウ』と呼ばれる弓」に言及しているが、原文の最後の単語の読み方は定かでない。英国のロングボウの起源については議論があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow

と書かれています。しかし、歴史編3で触れたように、石器時代の弓はすべてロングボウで、発明されるのはショートボウです。ロングボウが再発明されるためには、ショートボウの誕生と一般化によってロングボヴが一度歴史から姿を消す必要があります。その部分についての経緯が「短弓の誕生」です。4世紀ローマの軍事論(De re militari)には2種類の弓が登場しますが、それはサイズの差ではなく、軍事用の複合弓と訓練用の木弓です。

方言周圏論と呼ばれる理論があるのですが、簡単にいえば、文化的中心地から遠いほど文化は古く、近いほど新しいという考え方です。ロングボウの起源に諸説ありとする書き方がありますが、石器時代にロングボウがすでに存在したことを考えれば(*)、文化的中心地(イラク・ギリシャ・ローマ)から、最も離れたウェールズあたりに、ロングボウはその形状を残していたと考えるほうが妥当でしょう。

*アイスマンの弓の発見が1991年、その弓のポンドがシミュレーションによって推定されたのは2019年なので、20世紀の”イギリス発祥説”は限定された情報による推測が原因だと考えます。

キリスト教文化圏では4世紀頃から文献に戦争で使用された弓の記述が減っていきます。その理由としては鎖帷子や盾の進化によって、弓が武器としての有効性を失っていったためです。ただし、防具が発達していない異文化との戦争では活躍していたので廃れてはいませんでした。

ベリサリウス将軍の法律顧問として戦争に従軍ししたプロコピウスによって6世紀に書かれた「戦史」によると、ペルシャ侵攻で「ペルシャ兵はほとんどが弓の名手であり、非常に早く射つ事ができた。しかし、弓は弱く張られていたので、コルセットや鎧、盾に当たって矢が折れローマ兵を傷つけることができなかった。ローマ兵はいつも遅い、しかし、弓は強く張られているので、ペルシャ兵よりもはるかに多くの敵を倒した。その矢の威力を阻む鎧がないからだ」(*)と書いています。

*この時期、日本にも同様の弓術論が登場し始め、早さではなく、毒矢文化と比較されます。どの時期の話かは確定できないが新羅は400-900年頃に存在した国であった。

この国(新羅)の人は、一尺(30cm)ほどの矢に錘のような矢尻を付け、それに毒を塗って射るので、ついにはその毒ゆえに死にはするが、ただちにその場で射殺すことはできない。日本人は、自分の命を少しも惜しむことなく大きな矢で射るので、その場で射殺してしまうやはり兵の道は日本人には敵うべくもない。

日本古典文学摘集 宇治拾遺物語 巻第十二 一九 一五四 「宗行の郎等虎を射る事」

ジャン・ド・ジョワンヴィルによって書かれた「THE MEMOIRS OF THELORD OF JOINVILLE(王の記憶)」では、第五次十字軍(1217-1221)でサラセン軍が十字軍のクロスボウを脅威として避けていたという表記があり、全体で20箇所以上クロスボウについての記述があります。

新石器時代のロングボウの強さは40-90ポンドの強さと推定されていますが、1545年に沈没したメアリーローズ号から回収されたロングボウは研究によるものの、65-160ポンド、または、95-165ポンドとされています。2004年に更新された人間が引いたロングボウの強さの世界記録が200ポンドであることを考えると、キリスト教圏で発達した防具に対抗するために、訓練を受けた人間でやっと引けるほどの”強い”ロングボウが、イングリッシュロングボウと一旦定義することができます。

このタイプのロングボウがいつ登場したのか特定することはできませんが、弓に十分な強さがあれば盾や鎖帷子に対して有効だとイギリス軍(イングランド軍)が知ったのは1066年のヘイスティングズの戦いでした。この時の弓はイギリスと戦ったノルマン人の主要な武器でした。この戦いについて書かれたタペストリーを見ると、弓のサイズはロングボウと呼ぶにはすこし短いものの、国王ハロルド2世は矢に射抜かれ戦死します。

バイユーのタペストリー

戦争で有用性を認められた”強い”ロングボウはイギリスで普及しますが、34年後には国王ウィリアム2世が狩猟中に矢に当たって死亡します。しかし、次に即位したヘンリー1世は弓の練習中に起きた負傷・死亡事故を免罪する法律を制定します。さらに99年後の国王リチャード1世はクロスボウによって負傷し、10日後にその傷が原因で死ぬのですが、リチャード1世はその傷を負わせた敵の兵士を許し金銭まで与えました。弓がイギリス王族に寵愛されていたといったといっていいと思います。15世紀のフランス外交官で作家でもあったフィリップ・ド・コミンズは回想録で「イギリスではアーチャーは花形である」と書きました。

1252年にヘンリー3世紀は16から60歳までの市民(自由民)に弓と矢の所持を義務付け、1275年のウィンチェスター法で所有する土地と財産によってより明確に定義され、1623年に廃止されるまで続きます。所持だけではなく休日に訓練をするよう命じる法律も度々公布されました。

15世紀に書かれたクレシーの戦いの図(抜粋)、クロスボウのほうが仏軍。

1346年のクレシーの戦いではロングボウの大活躍でイギリス軍は3倍の兵力があったフランス軍に対しての圧倒的な勝利に終わります。“強い”のロングボウを使用した作戦を、フランス軍が模倣しなかった理由は貴族的認知にあったとされ、平民によって構成されるロングボウに貴族騎士が大敗したとは考えませんでした。ここでフランス軍がロングボウ隊を模倣していたらロングボウはイギリスのものにならなかったかもしれません。

クレシーの戦いではイギリス軍の騎兵は下馬して戦いました。フランスにも弓兵を訓練するのに十分な時間が与えられた10年後に行われたポワティエの戦いで、フランス軍は”強い”ロングボウ隊を模倣するのではなく、騎兵が下馬して戦うことを模倣しますが、より一層大敗しフランス国王は捕虜になります。これによってフランスの政治自体が混乱に陥る。百年戦争とまとめられる一連の戦いは、終盤に大砲の登場、リシュモン大元帥によって編成されたフランス砲兵隊がイギリスロングボウ隊を圧倒しフランス軍の勝利に終わるのですが、フランス軍は最後まで”強い”ロングボウを使用しませんでした。

現代の軍事研究において、イギリスの野戦で圧倒的連勝は再評価され、ロングボウという弓の圧倒的な武器としての優位性による勝利ではなく、騎兵と歩兵の連携と指導者の優れた統率によるものであるとされますが、中世のイギリス国民は現代の軍事研究家ではありません。ロングボウに対する王族の庇護と、対仏戦争でイギリスにもたらした圧倒的な勝利という結果によって、自他ともに”強い”ロングボウは”イングリッシュ”ロングボウとしてイギリスの象徴となります。

Royal Company of Archersの紋章

エリザベス1世の家庭教師で王家に仕えた教育学者のロジャー・アッシャムによって1545年に書かれ、ヘンリー8世に捧げられた「Toxophilus(弓の愛好家)」は最初の英語によって書かれたロングボウの本です。その中で著者はロングボウについて「英国人のために、英語で、英国の問題について書く(I have written this English matter, in the English tongue, for Englishmen.)」としました。その後19世紀まで10冊以上のガイドブックが、この本に触れながら英語によって書かれます。1822年にはアーチェリー団体「Royal Company of Archers」がスコットランド君主の近衛兵に任命されますが、既に銃火器の時代であり、イングリッシュロングボウ隊は警護ではなく、イギリス貴族の象徴として任命されたと考えるのが妥当でしょう。16-17世紀、武器としての優越性を銃火器に引き継いだアーチェリーは貴族のスポーツとなっていきます。

弓が神に忌み嫌われる – 歴史編. 5

「黙示録の騎士」 ヴィクトル・ヴァスネツォフ作 1887年

これまで書いてきたように競技ではギリシャの英雄が、戦争では那須与一が神に祈って矢を射ていました。狩猟を行う民族も多くは狩猟前に神に祈りをささげます。アイヌ文化では矢を射る前に「おお、聖きケレプ・ノエ(男毒神)矢よ、汝は勇敢なる神である。」と呪文を唱えます。今日、弓道と宗教の関係は柔道のようにはっきりとしたものではないが、アーチェリーは完全に宗教と関わっていません。

過去にはアーチェリーと宗教の関係はギリシャ文化のみでなく、カトリック教会とも繋がりを持っていました。聖書のヨハネの黙示録で弓は勝利の象徴とされていました。しかし、11世紀に、突如、弓はキリスト教から排除されます。

1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(*)、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止。使用したものは破門するとしました。同様に貴族の騎馬試合も禁止されました。

*ローマ・カトリックの司祭でドイツの神学者であるカール ヨーゼフ フォン ヘーフェレはその著書でこれは武器としての使用ではなく、売春婦も参加した世俗的な射撃祭(歴史編.4参照)を禁止措置であるとしているが根拠は示していません。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説あります。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もありますが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張が一番支持されています。また、日本にも同様の記述が見られます。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇しました。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せます。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器でした。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、騎兵(貴族)が歩兵(市民)によって殺傷される事は嘆かわしいものでした。

同様の事態は12世紀の日本の平治の乱を描いた平治物語でも

楊斎延一 作「重盛義平紫宸殿外戦之図」

今たとい敵にかけあうというとも、かいがいしい事はなくて、雑人の手にかかり、遠矢に射られて討たれんこと、嘆きのうへのかなしみ也

古活字本平治物語, 日本古典文学大系 第31, 1961

と、雑人は身分の低い人ですので、ヨーロッパだけではなく、日本でも同時期、武士が平民に矢で撃たれることは嘆き悲しみであったことが伺われます。

教会法(カノン)の中で弓術は「羅:mortiferam(致命的)」であるとされているのですが、ヨーロッパの貴族は刃物を名誉的な武器としていました。騎士道的な精神性もそこにはありますが、実利として、相手を落馬させて手加減することで技量の高さ・度量の広さを示し、また相手が貴族なら殺さずに捕虜とすることで身代金を得ることができたのです。それに対して、相手の身分関係なく、無差別に相手を死傷させる矢は無慈悲な武器としても非難されました。

禁止令ののち、「神が忌み嫌う」弓とカトリック教会との関係が薄れていきましたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても弓の所持は禁止しませんでした。そのため、カトリック文化圏でいち早く、アーチェリーとクロスボウの規制・管理は文化や宗教ではなく、国家に委ねられ、アーチェリーが「国」を境界線として違ったものになっていきます。

また、実在が確認できないので物語としますが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも、反権力的な物語の主人公でした。平民が貴族を倒せることから教会権力に呪われた弓は、平民の間で反権力の象徴として物語の中で活躍することとなります(*)。

*実際に弓を使った一揆は確認できていない

死を示す反転した紋章とクロスボウ

ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いています。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可された記録があるので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当でしょう。ただ、皮肉なことに、国王リチャード1世は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡します。この死について、弓の使用を禁止していた教会に背いた天罰であるとの考えがあったようですが、それによって弓が再度禁止されるには至らなかった。カトリック文化圏における他の国でも、この頃に弓の武器としての使用が再開されます。