WAはオリンピックのための団体です

1972年 ミュンヘンオリンピック

高校時代にアーチェリーを始めましたが、白のスラックスを履くという謎のルールがありました。ルールはルールなので守るしかありませんが、大人に聞いてもその理由がわからないというのが…まぁ、昔は上から指示があったら、その理由など尋ねないという時代があったのかもしれません。その謎を20年後に回収できるとは

近代オリンピックで初めてアーチェリーの競技が行われたのは、1972年にミュンヘンで開催された大会でした。52年ぶりに開催されたアーチェリー競技は、その優雅さを演出してくれた。当時のFITA会長インガー・フリス氏の指示で、アーチェリー選手は全員白衣を着用することになり、このルールは数十年間続くことになる。(従わなかった国もあったようです)

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

1969年の世界選手権では服装規定はまだなかったようです。オリンピック(IOC)への競技のアピールにために、白の服装規定が導入されたことがわかります。それを21世紀の高校生に強要するとは…自分の中で、謎ルールから糞ルールに変わりました。さらに続きがあり、

フリス(FITA会長)はまた、競技場に「ウィンブルドンのテニスコートのような芝生」を要求したが、実現しなかった。この要求については、1970年代に国際オリンピック委員会の会長を務めたキラニン卿が、困惑しながらも「普通の芝生でも十分だ」と皮肉ったことが、彼の回想録に記されている。

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

おっしゃる通り、芝生でも十分に優雅ですが、こんな乾燥してれば砂埃、雨が降れば沼地という競技場でやったところで、私には優雅さは感じられませんでしたね。汚れが目立つだけですよ。

さて、以前にもセンターショットについての調査で国立国会図書館に収められている(ジャーナルを除く)アーチェリーに関する資料をほぼ読みましたが、今回シングルラウンドの歴史を書く上で、日本にはWAがどういった組織か理解されていないのではないかと思いました。WAと全ア連は全く目的が違う組織です。

(WAの目的 設立時)

目的 FITA の目的は、次のとおりとする。
a) オリンピック競技大会への参加につながる国際的なスポーツ関係を育成すること。

(WA 現在)

世界アーチェリーの目的は、以下の通りである。
オリンピック理念に基づき、男女平等を含め、世界各地でアーチェリーの普及と振興を図ること。

(全ア連)

私たちはアーチェリーを通して、健康的で明るく、心豊かな生活を創造します。そして、日本と世界の人々が信頼で結ばれることが、私たちの真のターゲットです。

全ア連の目的はポエムっぽいですが、WAの目的はちゃんとした宣言になっています。オリンピックなのです。WAは選手ファーストではなく、オリンピックファーストの団体として設立当初から宣言されています。オリンピックに復帰した最初の1972ミュンヘンオリンピックについて、D.M.Thomson FITA事務総長によって書かれた記事には

オリンピックにおけるアーチェリーの未来はどうだろうか。この4日間で、文字通り何百人もの人々が示した関心とコメントから察するに、アーチェリーには未来があるのだろう。しかし、私たちのスポーツが、IOCの定める規約とルールに従って運営され、他のいかなる外圧にも屈しないようにすることは、アーチェリーに関わる一人ひとりの責任であることを覚えておいていただきたい。

FITA Bulletin officiel No 25, 1973, P15

ここで書かれている外圧(not succumb to any other outside pressures.)が何を指すのか、具体的には示されていませんが、当時IOCからはオリンピック開催前の2年間は競技規則を変更しないなどの要求がされています。

全ア連のような加盟している競技団体と国際オリンピック委員会(IOC)と板挟みになったとき、WAは常にIOC側に立つということです。1972年のオリンピックは大成功に終わりますが、1976年のオリンピックでは微妙な感じになり、メイン競技場から50キロも離れた、すでにあるアーチェリー場が会場となります。国立競技場から50キロとするとさいたまスーパーアリーナよりも遠く、成田空港くらいの距離感です。モントリオールオリンピックについて、ジャッジ委員会として参加したオランダのDr.N. van Hinte氏はこのように述べています(要約です)。

オリンピック思想やスポーツマンシップとは異質な勢力が、その地位を求めてきたのです。民族の誇りの代わりに排外主義が、世界中から集まった競技者同士の友情よりも国家間の関係の方が重要だと思われたのです。参加することの重要性は、国家主義的な成功の追求にかき消された。

カナダでは、テレビでカナダ人選手の特集が組まれた。アメリカでは、アメリカの選手が参加した競技だけが放映されました。アーチェリーのないオランダでは、私たちの競技は何も映らず、新聞にコメントが載ったとしても、非現実的なものであった。

帰りの飛行機の中で、オランダのサッカー関係者が、「アーチェリーを見に行ったけど、30分後には死ぬほど退屈して、それから興味が湧いてきて、最後には魅了されたよ」と隣の人に話していました。

FITA Bulletin officiel No 28-29, 1977, P57

ここから、この予言めいた文書通りの事態が起こります。1979年に東ドイツで行われた世界選手権では、台湾代表チームの国家を掲揚することを東ドイツ政府が許可しませんでした。また、中国がFITAに加盟したことで、台湾チームとの政治的な問題が起こり、81年にチャイニーズタイペイとすることで問題をなんとか収め、80年と84年には政治的な理由によるオリンピックボイコットが起こり、ソウルオリンピック前には単独開催中止を目的としたテロ(大韓航空機爆破事件)が発生します。

一方で、モントリオールオリンピックでは10億ドルの赤字が発生し、オリンピックというイベントは変化することを求められます(*)。

*山本 康友, オリンピックのその後, 日本不動産学会誌, 2014, 28 巻, 1 号, p. 49-53

幸運だったことと言えば、変化を求められているとはいえ、モスクワオリンピックのソ連と、続くロスオリンピックのアメリカもアーチェリーの強豪国で、国威発揚の視点から見ても、アーチェリー競技が除外される可能性がなかったことです。ソ連は実際3つのメダルを獲得し、アメリカは2つメダルを獲得します。さて問題は次のオリンピックで、事実として韓国も間違いなく強豪国ですが、IOCとの関係がソ連・アメリカほどではなかった事。当時の会長と事務局長の回想によれば(意訳)、

ロサンゼルスからの帰り道に計画を練り始めた。「ダブルFITAラウンドは、FITAを殺す」、ドン・ロヴォが言うように「ダブルFITAのラウンドを見るのは、絵の具が乾くのを見守るようなものだ」

競技のファイナルステージを、会場の観客やメディアがフォローできるようなシステムを導入する必要があり、私たちはグランドFITAラウンドの最初のドラフトを起草した。

https://worldarchery.sport/news/150161/it-had-be-done-fita-history-1977-2005-part-2

88年のオリンピックについては記録が残っていないので推測になりますが、IOCとテレビ局と協議しながら放送にあう競技形式を話し合っていたのではないかと思います(*)。

*92年のオリンピックではタイムスケジュールをオリンピック委員会とNBCなどのテレビ局と相談の決めている記録があります

その結果、シングルラウンドから、勝ち残りのグランドラウンドに移行していきます。ロスから5年後、1989年の会議では、

サマランチIOC会長は、特にFITAグランドラウンドの採用に関して、近年のFITAの進歩について語りました。IOC会長は、メディア、特にテレビに対してアーチェリーのイメージを改善するための努力をすることを勧めています。

FITA Bulletin officiel No 41, 1989, P9

ここまで書きましたが、あくまでもWA(FITA)はオリンピックのための組織ですので、IOC会長に言われたら、当然その方向性に進んでいきます。テレビ放送との相性の良い競技形式の探究が始まります。続く。


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Ryo

(株)JPアーチェリー代表。担当業務はアーチェリー用品の仕入れ。リカーブ競技歴13年、コンパウンド競技歴5年、2021年よりターゲットベアボウに転向。リカーブとコンパウンドで全日本ターゲットに何度か出場、最高成績は2位(準優勝)。次はベアボウでの出場を目指す。
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