政治家とか、昔の、20年前の話を掘り起こされたりして大変なんだなと思いますが、このサイトではすべての記事をアーカイブして置こうと思っていましたが、お客様の意見によって、自分が責任を持てる直近10年ほどにしようという方針に変えました。昭和の生まれです。断線したらクリップで止めときゃなんとかなるだろという…マネはしないでください。ど根性昭和の話で言えば、今どきの若い子は小学校で習わないかもしれませんが、漏電している可能性のある部分を触るときは(そもそも触らないでください)、通電して筋肉が収縮する方の逆側で触ってください。通電して収縮する方で触ると、感電した時に離そうとしても離せなくなってしまいます。
検索したらばっちりの説明がありました。接触部を蹴っ飛ばせと習いました(靴底はだいたい絶縁体なので)。こういうことです。まぁ、時代も令和なのでこんなど根性の教育も行われていないと願っています。それだけ日本国が先進国になったということだと思います。
それはともかく、久しぶりに業界の話、自分がアーチェリーショップを始めたきっかりの時代の話を少し書こうかなと思います。最初の頃(2007年頃)、業界の体質に対して批判的な記事を書いた記憶はありますが、最近、後輩のインタビューを受けた時に、成り立ちを話し事を再構成しました。
JPアーチェリーはそろそろ15年目になりますが、ショップの始まりは、たまたまでした。ちなみに、2000年以前のアーチェリーショップの内側に関しては知識がないので、ここでは取り上げません。というか、わかりません。
私は最初に渋谷アーチェリー(2005)で仕事しましたが、当時、業界全体が大混乱に陥っていました。それは、2001年にヤマハがアーチェリーが撤退したからです。この記事を書く前に検索してみましたが、当時の業界の混乱を描いている記事はありませんでした。という事であまり知られていないことなのかなと思います。
ヤマハが撤退したことでなにが起こったのか。一言で言えば、老舗のベテランのアーチェリーショップが仕事をできなくなってしまったのです。ヤマハ(及びその他の日本メーカー)は日本人のためアーチェリーを目指していたので、代理店に対して、アーチェリーの教育は行っていましたが、英語の教育はしていません。自社への依存度を高めるためにも、仕事をすべて日本語で行っていました。つまり、ヤマハがあった時代には、日本語だけできれば、アーチェリーの仕事ができたのです。
しかし、今のアーチェリーを考えれば、日本のメーカーは本当に僅かです。2001年にヤマハがアーチェリー事業から撤退したことで、アーチェリーショップの経営は日本語だけではできなくなりました。2005年頃でもメインのメーカーはホイット・ウィン・サミックでした。どれも、日本語で仕事できる相手ではありません。それによって、大手以外のプロショップはメーカーから仕入れができず、大混乱しました。
ちなみに、私が渋谷アーチェリーから独立したのは、勤務していた部門が山梨に移り、新宿に流通部門自体がなくなってしまったので、退職したわけですが、私が独立したときにも、旧友にしんどいと聞いたことがあります。JPアーチェリーが1000円で販売しているものを、900円で仕入れているプロショップからクレームがあったらしいです。
私達は当時メーカー出してで300円のものを海外メーカーから仕入れて、輸送の手配をして、通関して、1000円で販売しています(原価は500円くらいかな)。それに対して、仕入れ、在庫リスク・通関業務・保税地からの輸送などすべて英語ができる代理店にまかせて、仕入れしたら、仕入原価が900円になり、JPが1000円で販売しているのだから、もっと安いはずだと本気で言っているプロショップがありました(だったお前やってみろよと)。
ヤマハとの取引に慣れすぎて、日本語で仕事ができる事自体に付加価値が乗っかっている(=その分仕入れ価格に加算されている)ことに気づいていないプロショップが多かった時代でした。
なので、JPを立ち上げたときは、英語で仕事ができるだけで、競争優位に立てる時代で、タイミングが良かったのかなと思っています。
続く。
*まだ業界にいる人もいるので一部脚色しています。
*英語ができれば偉いという話ではなく、英語ができないために、その業務を代行させるのに対価を払う意識がない人がいたという話です。
Ryo
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