ワールドカップ上海が始まりました。

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ワールドカップ始まりましたね。今年は入って、初の世界のトップアーチャーが本気を出すシングルの試合(予選)です。
試合の動画はまだアップされていませんが、それぞれの選手が使用している道具は予想通りといったところかと思いますが、ハンドルは各種見ることができるものの、リムはほぼ、INNO EX シリーズ、F7、Veraの3つのリムで8割以上占めている印象です(正確に数えてはいません)。
フランジィーリはSkyアーチェリーのハンドルを使っていますね。さて、動画のアップを楽しみにしています。
写真はこちらで見ることができます。
World Archery » WorldCups » 2013 » Stage 1 – Shanghai (CHN)
http://www.archeryworldcup.org/UserFiles/Image/FITA_Photo_Gallery/WorldCups/WorldCup2013/01_Shanghai/index.html


雑誌アーチェリー…1995年という節目…メーカーさんごめんない。

2010年の1月から、3年かけて、雑誌アーチェリーのバックナンバーをすべて読み返しています。本日、1997年まで読み、2001年からはリアルタイムで読んでいるので、もう少しです。
本日は図書館で5時間かけて、1989年から1997年まで読みました。以前にこんな記事を書いた時に、コメント欄に1995年を節目に、雑誌アーチェリーが変わったというコメントありました。
いつから雑誌アーチェリーは沈黙したのか(70号~91号)
http://jparchery.blog62.fc2.com/blog-entry-498.html

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現在の雑誌アーチェリーは試合の写真集とアーチェリーショップで商売している人間が書いた記事ばかりですが、昔の雑誌アーチェリーはなかなか、キレのある雑誌で、ものを言う雑誌でした。
上の写真は91年の7月号です。当時の学連を知らないので記事の内容についてはコメントできませんが、特定の大学に対する意見申し立てで、今の雑誌アーチェリーでは絶対載せないような内容です。
雑誌アーチェリーが口を閉ざすきっかけとなった記事はどうなものだったのか、いろいろと予想を立てて、本日、初めて読みました。

>1995年の3・5月号ですね。
>僕もこの記事を見て、スタビライザーをイーストンに変えて正解だったと思っています。
>スキーに関しても、いろいろなメーカーの板やブーツを、でもスキーヤーなどが評価しているのをみると、
>アーチェリーメーカーの商品をアーチャーが評価するのは何も問題ないと思います。
>ただ、世界が小さいせいか、どうしてもお互いが気になって正しいことが書けるかどうか…
>ただ、技術的にしっかりしている人間が評価をするのであれば、とても面白い特集ができるだろうし、
>別冊として出しても売れそうではあると思います。
上のようなコメントをいただいていましたので、道具を評価したら、悪い評価がついたメーカーから、クレームがついたのか(つまり、メーカーがクレーマーだった)のかと思っていましたが、読んでみると全く違っていました。

流れを整理します。
(1995年3月号) 
感性の科学という弓具研究の記事がスタート。執筆者不明(監修は弓具科学研究班…誰?)。趣旨は弓具の進化は、行き着くところに行きついた、今後はもうスペックではない、感性が求められる時代だから、感性について語るというものすごい野心的なもの。
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しかし、記事の中身は…間違っていないけど、完全にずれている。記事の中身は「スタビライザーの理想形とは」について書いているのに、最後にいきなり、上の図が掲載されている。でたらめな記事なので、比較された商品名は省きますが、イーストン、エンゼル、ヤマハ、K、Kプロ、シブヤ、ハスコという7社9モデルでした。
本当に載っているのはこの図だけ…何ポンドでテストしたのか、だれがテストしたのか、長さはそろえたのか、重さを、それとも、みんなトップウェイト1つだと、ウェイトの数をそろえたのか…何一つ根拠が乗っていません。さらに次号で訂正のデータが出るのですが、重さ157gでテストしたイーストンのロッドの軽さが二重丸で、105gでテストしたエンゼルのロッドの重さを丸、150gのヤマハのロッドは三角印…いったい何を基準に評価したのか、軽さ…重さという意味以外にどういう評価基準があるのかわかりませんが…謎すぎます。
これは完全にクレームをつけたメーカーの問題ではなく、記事を書いた人間の問題です。
このグラフ以外の記事は「理想のスタビライザー」についてです。例えば、その結論が「振動吸収」だったとすると、次のステップは、何を持って振動とするかです。以前に書いた比較記事では、センサーはグリップに付けました。結論は振動が30%減ったというものですが、つまり、グリップ(=体に伝わる振動)と定義して計測しています。発射音の一つの発生源はリムポケットです。おそらくですが、ここにセンサーをつければ、振動は30%減っているか疑問です。
振動吸収を比較するのであれば、まずは何を持って振動とするかを定義しなければなりません。その次は、どのように測定したかを記録します。第三者機関に依頼した場合は、必要ないかもしれませんが、自分でやるなら、他人が追試できるようにする責任があります。
そうしてようやく、点数付して、上のような表を作るものです。
しかし、この記事では、スタビライザーの理想形をたかった後は、用語の定義(何を持って振動吸収とするか)と試験のやり方(どのようにすれば記事が正しいと確認できるか)を全部すっ飛ばして、自分の結果だけを載せています。
(1995年5月号)
冒頭、謝罪から始まります。
「前回、掲載した「各社カーボンセンターロッド比較表」にいくつかの誤りがあった。硬さ、軽さ、振動吸収、経済性の4項目に分け、それぞれに「◎」「○」「△」の3段階評価をしたが、その評価基準があいまいで、中には事実と完全に異なる評価もいくつかあった。」
(雑誌アーチェリー 1995年5月号)
その後謝罪だけではなく、けじめとして、長野県工業試験場にテストを依頼…しかし、ここがまた素人でダメなのだが…高価な機械を使ってスタビライザーのテストをします。また、日本バイメタルさんは辞退したので、テストしないとのこと(商品提供を受けているから?)。
長野県の試験場の風間さん(アーチェリーの素人)はかなり努力したと思うが…なんの実験をしているのかわからない。ハイスピードカメラで商品のテストをするとき大事なのは、どこに絵に収めるか、どのシャッタースピードで収録するか、どこにピントを合わせるかである。プロのカメラマンはカメラについては、プロでもアーチェリーを知らなければ、正しいテストができない。レンズ合わせのテストで撮ってもらうとき…たいていのカメラマンはなぜか、弓を射つ僕にピントを合わせる…弓具テストなので…レストに合わせてください…。。。
さて、長野県工業試験場のテストが意味をなさないのは、振動モードごとにテストをするという不思議な設定をしたいるためです。
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(小野測器さんのホームページより引用)
振動モードというのは、スタビライザーがどのように振動するかということです。見ればわかるように一次モードのように振動するようなスタビライザーは何の役にも立たないでしょう。自由端(ウェイトがついている側)が上下に振られ、そのカウンターとなる振動がないので、その揺れはそのままハンドルに戻ります。
5月号の試験では、なぜかそれぞれのモードでの振動吸収能力を測定しています。
この測定に何の意味があるのか全くの不明です。なぜなら、(少なくとも自分の知識の範囲内で)アーチャーが振動モードをコントロールことは不可能です。
「このスタビ2次で振動してるけど、チューニングして、3次に変えて、うってみよう」
といったチューニングができるとは思いません。


以前ハイスピードカメラでFUSEのカーボンブレードの24インチ~33インチまでを撮影しましたが、すべて2次モードで振動していました。長さを変えることでコントロールできるかもという自分の淡い期待は見事に打ち砕かれました。。。
つまり、大事なのは「そのスタビライザーがどのように振動するか」(=何次モードで振動するか)であり、振動モードはある程度固有なものなのに、1次モードではA社が、2次モードではB社が、3次モードではC社が優勝とやっても…で、だれが総合優勝になるのでしょうか。。。。
風間さん、本当にご苦労様でした。
(1995年7月号)
2号続けてピントはずれの弓具評価記事(しかも、辞退したい会社は辞退できるシステムはちょっと違う気がします)で、3回目…そして、これが大きな野望を持った「感性の科学」の最終後になるのですが、構成は弓具科学研究班から、本誌編集部にかわります。
そして、記事の中身はホイットのテクミチョフさんの資料を参考にしているというもの。さすがにこの記事は何の問題もなく、いい記事ですが、今度は具体的な商品名には一度も触れられることなく、全体を通して、理想的なスタビライザーの一般論で終わります。
考えてみると、独自で資料を集めないで、メーカー・プロショップが書いた記事を使うのはこのあたりからが始まりかもしれません。それより前はアメリカ、韓国、フランス、スウェーデンなどのトップアーチャー・コーチが書いた記事が中心ですが、だんだんとトップメーカー、大手プロショップの人間が各記事がほとんどになっていきます…実業団の減少で、ショップで働いていないトップアーチャーの減少という問題もかかわっているのは思いますが。
ということで、1997年まで読み進めました。95年のこの事件以降、キレている記事はほとんどなくなります。道具についての記事は、それぞれの良い点とスペックの紹介だけになり、ハンドルやリムについての語るのは、メーカーの人間だけになっていきます。
1998~2001年はまだ読んでいません。それと、サラリーマンとして海外赴任していた2004~2005年の雑誌アーチェリーも読んでいませんが、70年代から通して読んできて、やはり、95年のこの事が”何も語らない”きっかけになったのかと思います。
(追記)
…昔に雑誌アーチェリーさんに記事を投稿したら、レベルが低い(誰でも知ってる)といわれ、却下されましたが…まぁ、いいです。


HOYTの創業者 Earl Hoyt Jr. インタビュー

以前に、WIN&WINの社長のパクさんのインタビューをブログに掲載したことがあります。2年近くたちますが、今に続くことがいろいろと書かれていると思います。
ネット上には正しい情報もあれば、正しくない情報がありますが、HOYTの創業者に関して言うと、検索するといくつか記事がありますが、どれも彼が書いた文書やインタビューを読んだ自分の印象とは全く違います。HOYTの創業者の考えに関しては、本人の著書やインタビューなど、資料が豊富にありますので、今回は4冊の本から、抜き出し、一つの記事にまとめてました。


下記はHOYTの創設者のホイット氏(Earl Hoyt Jr.)のいくつかのインタビューをつなぎ合わせて、編集したものです。ベースになった記事は、下記の4冊の本で読むことができます。
・Archery (1972) 著者 Earl Hoyt, Don Ward
・Traditional Bowyers Encyclopedia (2007) 著者 Dan Bertalan
・Vintage Bows – 1 (2011) 著者 Rick Rappe
・Legends of the longbow (1992) 著者 多数

赤字は実際のインタビューを翻訳したもの。黒字は自分の補足です。補足も論点はずれていないと思いますが、実際のホイット氏の発言は赤字だけですのでご注意ください。



Eddie Lakeから変身

1930年代のミズーリ州セントルイス…エディ・レイク(Eddie Lake)というギターリストが毎晩地元のダンスホールを盛り上げていた。彼のバンドはラジオでも有名になったが、1938年に彼のバンドは解散することになる。このエディ・レイクこそがのちのアーチェリー界に、ホイットとして記憶される偉大なイノベータである。

* Eddie Lake はホイットがラジオ局からギターリストとして響きがよくないと指摘されて使用していた芸名。

弓との出会いとアーチェリービジネス
ホイットが弓と出会った時、弓には2種類しかなかった。リカーブか、コンパウンドかではなく、「誰かが作った弓」か「自分で作った弓」かだ。ホイットのアーチェリーとの出会いは、アローポイントに始まる。学校が友人から滑らかなアローポイントを貰い、その美しい流線型のデザインに夢中になった。1925年、14歳の時にボーイスカウトのマニュアルを読んで、ヒッコリーの弓を自作した。しかし、ヒッコリーはねじれに弱く、2つ作った弓をどれもすぐにねじれてしまった。

そこで、ボーイスカウトではなく、アーチェリーの専門誌を購入して、専門の知識を仕入れることにした。「Ye Sylvan Archer」という雑誌は当時唯一のアーチェリー雑誌だった。それを購読し、そこに広告が出ていたHunting with the Bow and Arrow(1923)という購入し、そこから専門知識を学びとり、オレゴンからイチイの一枚板を購入して、初めての実用的な弓を作り始める。

*これは所謂セルフボウというもので、一枚板からできている。そのほかにバックドボウやコンポジットボウなどがある。

1931年、大恐慌の中、ホイットは父親と副業で矢づくりの仕事を始める。30代の時、景気が回復したのを受け、セントルイスのワシントン大学に通い、エンジニアリングを学ぶ。昼は大学と父親の会社の手伝い、夜はギターリストという生活を送る。

*アメリカでは社会人学生は珍しくない。

40代初頭がホイットの人生の転機だった。大学を卒業したホイットはカーティス・ライト航空のエンジニア部門(のちのマクドネル航空)に職を得ていた。しかし、父親の会社が戦争の影響で倒産したことにより、父親は矢づくりが副業から本業となる。自分も週60時間の本業をこなした後に、父親の矢づくりを手伝うようになる。
しかし、1946年に矢作り職人として多くの顧客を持っていた父親が病に倒れ、ホイットはアーチェリービジネスから手を引くか、エンジニアとしての職を辞すかの選択をすることを迫られ、彼の決断がアーチェリーの歴史を変えることとなる。

「アーチェリービジネスに舵を切ったことは、最初のうちは間違った決断だと思っていたんだ。マクドネル航空での良い仕事を離れてから最初の3、4年、アーチェリーの仕事の出来はひどかった。でも4年目から風向きが変わったんだ。それからは右肩上がりさ。その傾向はずっと続いていた。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.183)

ホイットは1946~1978年までアーチェリー業界のトップを走り続けた。1978年、ホイットは会社の経営権をCML Groupに売却し、5年後の1983年に経営権はイーストンに、さらに売却された。その間、ホイットは社長から退いたものの、副社長と研究部門の責任者、コンサルタントとして、かつて、オーナーだった会社に籍を置いた。
ホイッとはアーチェリー業界団体(AMO 現ATA)の理事としても、活躍し、現在のアーチェリーの道具に関する基準(AMOスタンダード)の95%以上に関与している。

ハンターとして
ホイットはハンターでもあったが、あまり、情熱的とは言えなかった。

「あるときフレッド・ベアーと話したけど、彼は僕に言ったんだ。彼のハンティングに対する情熱は、対象が何であれ、大きな獲物を仕留めることだってね。僕は逆にそんな欲望は持ったこともなかったね。…中略…いまでは獲物を仕留めることはまったく重要ではなくなってしまった。一番大切なのはハンティングのその場にいるということなんだ。…中略…単純に僕は大自然の中で獲物を追い回すことそのものを楽しんでいるんだよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.185-186)

*フレッド・ベアーは当時のトップメーカーBear Archeryのオーナーで、伝説的なハンター。

ロングボウの思い出
今でこそ、リカーブボウメーカーとして知られるホイットだが、彼はロングボウを作ることから始めた。ロングボウを作るとき、特にひいきしていたのは、オーセージだった。

「僕はオーセージをちょっとひいきして使っていた。すごく丈夫な木だからね。ハンティングボウには特にそうだったよ。イチイの方がより引き味が優しいシューティングボウになり、ターゲットシューティングには最適だった。でも僕がオーセージを好んで使っていたのは、それがミズーリ原産であり、丈夫で良いハンティングボウを作るのに向いていたからさ。
あとは手に入れやすかったということもある。でも、外に出てオーセージを見つけてそれを切り倒し、そこから弓を作るという単純な話でもない。山を1マイルほど下っていっても、弓を作るのに十分な均一性とまっすぐさを持っている木を見つけることは簡単ではない。何故ならオーセージは大抵曲がりくねって育ち、一枚板から作ることはほぼ不可能だ。普通は木をフィッシュテールして接ぎ合わせる。そうすれば同じ丸太から接ぎ木を取ることができるから、同じ性質を持ったウッドを両方のリムに使うことができる。」

(Traditional Bowyers Encyclopedia P.186)

現在の弓からは異様に見えるが、当時はレストがなく、シューターのこぶしに矢を載せてシューティングしていた。そのために、羽のトリミングをしっかりしないと、射ったときに、羽の筋が拳の肉をえぐって飛んでいく、しかし、アローレストとしての機能を果たしてきた、傷だらけの拳は、むしろ、ホイットには誇らしいものだったようだ。

ホイットの執務室のオーセージのロングボウの横には、古いスタティクリカーブボウがある。

*リカーブの深さにより、セミリカーブ・スタティックリカーブ・フルワーキングリカーブの3種類に分類される。

「僕はカムやスタティックリカーブから、シューティングが滑らかでより効率的なリカーブに移っていった。歴史的に見るとこの進化は比較的最近できたものだ。最初のリカーブは30年代後半に登場した。そのタイプのリカーブを最初に作ったのはビル・フォルバース(Bill Folberth)だった。彼は情熱的なアーチャーであり、イノベータであり、初めてリカーブを導入した人物だった。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)

*Folberth Bowのオーナーで、弓のラミネートやリカーブに関する特許を持つ(US2423765)。

執務室にはほかにもいくつもの思い出深い弓がある。1947年、ホイットは初めてリムのダイナミックリムバランスを得ることに成功した。つまりは、上下のリムの長さを初めて同じにした弓を作った。昔の弓のグリップはただの棒のようなものだったが、1948年にはピストルグリップを弓に搭載した。1951年には安定性を向上させたデフレックスボウと、パフォーマンス重視のリフレックスボウの製造を開始。60代の時には、ハンドルに安定性を持たせるために、ハンドルの重さを増やすこと仕組みを開発。ウッドハンドルに穴をあけて、その中に鉛を入れるというものだ。

「あるとき僕は弓にウェイトを入れるという発想がミスだということに気がついたんだ。より伸ばした状態のウェイトがあればもっと良くなると考えた。スタビライジングの原理を説明するために僕が挙げた例は、箒を柄の端で持って、その移動への抵抗の感覚を掴むということだった。そうするととても速く動かすことはできない。でも柄の真ん中で持つと、さっきと比べて驚くほど動きへの抵抗はなくなる。これが単純な物理の法則を用いたスタビライザーの原理の説明だ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.188)

1961年、ホイットはこの原理を利用したスタビライザーが搭載された弓を持って、アルカンザスのホットスプリングスでおこなわれたナショナルフィールドアーチェリーアソシエーションチャンピオンシップに行った。会場では「ドアノブ」と馬鹿にされたものの、この弓を使用したロン・スタントンが、新しい弓で新記録を樹立し、その仕組みは一気に有名となった。

グラスからフォームへの挑戦
1970年代前半、エキゾチック・ハードウッドの値段が高騰し、低価格の金属ハンドルが人気となった。ホイットは、エキゾチック・ハードウッドから、メイプルに変更するものの、結局は1973年にすべてのラインナップが金属ハンドルになる。

リムでは、まずグラスファイバーを研究した。グラスファイバーをリムに使用することに関して、ホイットは決してトップランナーではなかったが、熱心に研究した。特に注目したのはグラスの色。もっとも性能が悪いのはグレーのグラスファイバー。グレーの顔料が接着材に影響し、接着が不完全になってしまう。白もダメだった。白のグラスファイバーを作るのには大量の顔料が必要で不純物が増えてしまう。日光の影響を抑えるためには、リムは黒にしないという大原則があったが、黒のグラスファイバーは一番性能がとてもよかった。もちろん、透明のファイバーもよいが、黒とは大差がない。

ホイットの次の挑戦はフォーム素材だ。

「初めてファイバーグラスを使い始めたとき、ウッドコアボウと呼ばれているもののコアがイチイだろうとオーセージだろうとなんら代わりはないと思った。だってそれ自体がより性能の高いモジュラー素材に挟まれてしまっているからね。この素材、ファイバーグラスは非常に素晴らしい素材で、矢を推進させるエネルギーに長けていた。そのために、ウッドコア基礎(glue base)とスペーサーにすぎなくなってしまった。コアの重さ以外は、もはや弓のダイナミックな物理特性に影響を与えることはない。

コア材にブレークスルーができた。それは比重がメイプルよりも軽いプラスチックで、直径60マイクロンほどの微少中空体からできている。この素材は非常に高い耐久性能がある。必要な物理的特性をすべて持ち合わせ、湿度の影響を全く受けず、熱や寒さにも強い。僕たちの新たな特許技術のシンタックスフォームコアはすべての面でよくなっている。これが長年に渡る「コアウッド」のスタンドダードとなる可能性は高いと思っている。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.189)

*シンタクチックフォームのこと。微細中空ガラス球入りエポキシ樹脂。

しかし、フォームコアの製造はとても困難だった。まずは、フォームの内側には気泡が含まれているが、この大きさを均一にすることができなかった。試作品はすいすいチーズのように気泡は大きさがバラバラで、とても均一ではなかった。また、完成したフォームの加工も困難だった。マイクロスフェア構造という特性のために、ブロックからラミネートするために切り出すとき、グラスファイバーの何倍もの負荷が機械にかかり、刃がすぐにボロボロになってしまうのだ。いくつかの困難を乗り越えたホイットのシンタクチックフォームコアリムは、いくつもの世界記録を塗り替えることになる。

スピードよりも安定性
リムの性能には多くの面がある。ホイットが最も重視していたのはリムの安定性だ。スピードよりも、リムが安定して正確に、ミスに対する許容性が大きい事を重視して設計していた。安定性・スピードのほかにも、スムーズさや、効率性、振動の少なさなども必要だが、すべてを一つのリムに盛り込んだ究極のリムはまだ存在していない。すべてのメーカーは、優先順位をつけて、妥協しながらリムを設計している。

「メーカーによってそれぞれが異なる特定の能力に力を入れているのが分かる。多くは精確性を犠牲にして、スピードに傾倒している。しかし、高いパフォーマンスから発生するストレスによって、弓の寿命は縮んでしまう。どの能力に力をいれるか、重要度はそれぞれ異なる。僕の場合、最も優れた弓とはこれらすべての要素のバランスが良く取れている弓で、かつ安定性に重きを置いているものだ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.191)

コンパウンドとクロスボウ
矢作り職人としてアーチェリー業界でのキャリアをスタートさせ、ロングボウの製造からリカーブボウの製造に移行したのち、ホイットはコンパウンドボウの製造をスタートする。アーチェリーのマーケットは大きく変化し、アメリカ最大のマーケットであるハンティングボウはロングボウ/リカーブボウからコンパウンドボウにかわっていく。1970年代にその変化についていけなかったアーチェリーメーカーの多くは破たんした。シェークスペアのアーチェリー部門やウィング・アーチェリー(世界初のテイクダウンボウを開発したメーカー)などだ。

「僕は昔コンパウンドに対して偏見のようなものがあった。昔の古い会社はみんなそうだった。ベアやピアソン、他の先人たちもみんなコンパウンドに背を向けていた。彼らはみな、それを弓とは思わなかったんだ。僕らは偏見にまみれ、視野が狭かった。」

「僕にとってクロスボウは、(ロングボウと)歴史的には対等でも、ロングボウほどのロマンスが感じられない。この主張は議論する余地があることは分かっている。でも僕は、クロスボウが人気のあるものになるとは考えていない。その鍛錬には、手で握って、手で引いて、手でリリースする弓ほどの挑戦が必要ないように思える。当然、クロスボウに情熱を注いでいる熱狂的な人たちがいて、彼らが自分のやっているスポーツを促進しようとしていることも理解できる。それは僕にとっては関係のないことだけど、彼らの成功を祈っているよ。」
(Traditional Bowyers Encyclopedia P.198)

ホイットはコンパウンドボウを開発し、販売する決断をする。一方で、クロスボウとは距離をとり続けた。今でも、ホイット社はクロスボウの製造はしていない。
ホイットのインタヒューを読むと、やはり、現在のアーチェリーメーカーの開発者とは明らかに違う。最高の競技用リカーブボウを開発していたものの、用語の使い方(self bow – backing – working recurve)や考えは、ロングボウの開発者そのものだ。

ホイット社を78年に売却した後も在籍していたが、のちに、ロングボウ職人のJim Belcherとともにロングボウ中心のアーチェリーメーカー(Sky Archery … ホイットの死後マシューズに売却)を立ち上げたことからも、やはりロングボウを作りたい気持ちは強くあったのではないかと思う。


アーチェリーの理論と実践PDFにしました。

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アーチェリーの理論と実践(1887年出版)
PDFにしました。
翻訳開始から4週間。自分の理解の復習と、アーチェリーの歴史を学ぶための日本語の資料が少ないと感じてやってみました。
これにて、このプロジェクトは終了です。次のものに取り掛かります。
*原文の英語版はこちらで読むことができます。


明日から仕事に戻ります。

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3日間山篭りした結果…先ほど「アーチェリーの理論と実践(1887)」の翻訳が終わりました。ホームページにはすべてアップしました。この本は50年ほど前に著作権が切れていて、欧米では現在でもいろいろな出版社から出版されている名著です。日本語訳を印刷する予定はありませんが、PDFでも配布予定です…家のパソコンにはPDFにするソフトがないので、会社に戻り次第やります。
プロショップとして六年目。自分を振り返って、アーチェリーの歴史を復習するためのやりましたが、多くの新発見もあり、非常に勉強になりました。
まず、著者のフォード氏はしっかりと記録が残っている19世紀以降でもっとも偉大なアーチャーの一人で、その記録(現在のタブルFITAラウンドに相当する記録)は70年間破られませんでした。彼の道具に関する意見は、1930年代にアメリカのヒックマン博士によって、覆されてしまいましたが、彼の射形はそのまま現代のアーチェリーのベースになっていて、170年近くたった今でも、違う所を探すほうが難しいです。
詳しく・詳細に知りたい方は本を読んでいただくとして、あまり知られていないアーチェリーの歴史ネタをいくついくつかピックアップしてみます。
・王様アーチェリーに負けて、めっちゃ金取られる
次の要約は1531年、当時41歳で点数も最も優れていた時期の彼(ヘンリー8世)の私用の金庫の帳簿の内容である。矢1本につき1ギニーを賭けていたが、晩年のダドリー卿が60ヤードの距離で放った素晴らしいショットの数々は、まさしく分が悪い勝負だったに違いない。
「3月20日 トットヒルにて王がジョージ・コトンに7本差で負ける、6シリング8ペンス対45シリング8ペンス。」
「3月29日 トットヒルにて王がジョージ・ギフォードに負ける、12シリング6ペンス。」
「5月13日 4月最後のラウンドでジョージ・コトンが王に勝つ。3ポンド。」
「6月3日 ジョージ・コトンが王に賭けで勝つ。7ポンド2シリング。」
そして6月の最後の日にも「グリーンウィッチパークでコトン家の3人に王が負ける。20ポンド。その内の勝者には6シリングと8ペンス与える。」

・アーチェリー普及しすぎて衰退

アーチェリー大好きな王様は国民全員アーチェリーせよという法律を作り、アーチェリーは普及したが、スポーツ的な精神が廃れ、ギャンブルとして行われるようになり、スポーツアーチェリーは逆に衰退…。
ヘンリー8世が作った議会法(Acts of Parliament of England)とは
An Act concerning shooting in Long Bows. (3 Hen.8 C3 1511)
-すべての40歳以下の男性は弓と矢を持ち、シューティングをするように
・アーチャーみな坊主
きれいなルージング(リリース)を実行するためには、自分の頭の部位をすべてきれいにしておく必要がある。そして同じ理由から、ローマ皇帝レオも戦争に行くすべてのアーチャーの頭とヒゲを剃り、髪の毛がエイミングの邪魔をせず、またヒゲがストリングの邪魔をしないようにしていたのである。
・何のために…アクティブ・リリース
もう一つのリリースであるアクティブ・リリースと呼ばれるものは、デッド・リリースの進化形とも言えるものである。リリースの瞬間に指が全く動かないデッド・リリースとは異なり、一度は指が開くがストリングが離れた後、その前のポジション、つまりまっすぐ伸びる代わりに元の丸まったポジションに戻るのである。
…どんな利点があるのか、今となっては不明。
・サイトとピープサイトの原型に関する記述
(サイト)
常にリリースの手をコートの襟のボタンに当てていた晩年の聡明なるジェームズ・スペッディン氏は、「エイミングするポイント」を明確にするために弓に「サイト」を取り付けていた。これはまるで銃の銃口につける明るい鉄のビーズであった。小さな鉄のロッドの先端にこのビーズを取り付け(実際は明るいヘッドを持ったピンだった)、弓のバック面に追加した溝にこれを差す(上下させることもできる)ことで、彼の自然な(あるいはそうであるべき)「エイミングするポイント」が下であっても、それをターゲットの中心に合わせることを可能とした。ただしこの装置では、弓の僅かな曲面でもエイミングに支障が出てしまっていた。
(ピープサイト)
アメリカ生まれの装置で、ピープサイトという小さなアパーチャー(口径)の付いた小さな装置があった。これはボウストリング上で上下に動かすことができ、正しく設定すれば、エイミングする目によって丁度その真ん中にターゲットの中心を見ることができた。この装置は非常に弱い弓以外では役立たずだというように言われており、例え小さな震えでもエイミングに影響し、狙うことができなくなってしまう。
・砲丸投げのように…
さて、シャフトが飛んでいったあとでも、かつての悪しき習慣がアーチャーに根付かせてしまった間違いはたくさんある。特にシャフトの後を追って叫んだり、こんなにも誠実な競技であるのにも関わらず不誠実な言葉を吐いたりすることもそうだ。
– Toxophilus (1545)の引用


アンカーの発明者 ホレース・フォード

アンカーの発明者 ホレース・フォードによって書かれた「アーチェリーの理論と実践」の翻訳を少しずつアップしていきます。5月中には全部アップできるはずです。現在第2章の編集中です。
ホレース・フォードという選手は19世紀最強の選手で、その記録は70年間破られませんでした。周りのアーチャーが700点台をうっていた中で、なんと、1251点という点数をマークし、10年間イギリスのチャンピンとして君臨します。
その革新的なところは何と言っても、アンカーを発明したことです。それまで、アーチェリーの世界にアンカーはありませんでした。イメージとしては、和弓のようなうち方をしていました。アンカーの発明に関して、アーチェリーの歴史家のロングマンは次のように書いています。

 


フォード氏の成功の大きな要因の一つは、長年信じ続けられてきた「アーチャーは耳まで引いてくる必要がある」という慣習の欠点を認識したことにあると考えられます。実際耳まで引いてくると、矢の一部分が目から的の真ん中までを結ぶ直線の外側に来ることは明らかです。結果として、もし矢の先端が金の先を狙っているとしても、リリース時にターゲットの左側に向かって放たれることになるので、耳まで引いてくるアーチャーがターゲットにちゃんと当てるためには、ターゲットの左側を狙う必要が出てくるはずです。そこでフォード氏は、矢はエイミングしている目の下に来て、矢線全体が目とターゲットを結んだ垂直面の直線上に来るようにしなければならないという理論を提唱しました。

 

…中略

 


戦闘を目標とした場合、最も重視される点は長く、重い矢を引くことです。1ヤード(91センチ)ほどの矢を使うとしたら、アーチャーの腕がものすごく長くない限り、目を通り越して引くことは必然になってきます。それによって、命中の精度は下がりますが、戦闘では的中の精度よりも威力が重視されていたので、フォード氏は、エイミングの精度が求められる現在のスポーツとしてのアーチェリーにおいて、そのような古い慣習はもはや必要ないと判断したのでしょう。

 


今から150年前に書かれた本ですが、学ぶことは多いと思います。皆さんのアーチェリー生活の参考になれば幸いです。


アーチェリーの理論と実践 / ホレース・フォード 著

 


古い本の収集

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昨日、人類学の院試を控えたスタッフと話し、アーチェリーの古い本の収集を始めることにしました。
日本で現在のアーチェリーがはじまったのは戦後ですが、日本には現在の弓が完成した形で伝わってきたようで、アーチェリーの弓具の進化の歴史についての、(知っている人はいると思いますが)完成された形の記録が日本にはありません。
個人で所蔵している方はいらっしゃるかもしれませんが、国立国会図書館でも戦前に出版されたアーチェリーの本はないです(何冊かありますが、どれも文化的な視点からみたアーチェリーの本です)。
もちろん、今の弓は突然完成されたものではなく、30~40年代のロングボウ安定性の改善(ハンドルが生まれる)、材料工学の点からのリムの合理化(平たいリムの誕生)、トルコ弓の”発見”(イスラム文化学者には昔から知られていたが、ついに弓職人がそれに気づく)によってコンポジットとリカーブという2つのトルコ弓の特徴を取り入れて、やっと現在の弓が完成します。
日本にない本を世界中からかき集めて、このあたりの歴史をもう少し詳しく理解できたらと思っています。
写真はアーチェリーの業界団体(ATAの前身、AMDA)を作ったラリー・ウィフェン(Larry C. Whiffen)さんの本から。「自分の弓を作ってみよう」という授業。読んでいると自分でも弓が作りたくなってくる…しかし、一番左の彼、木工作業しているのに、ほぼ正装??…作るところから紳士のスポーツだったようです。木くずだらけになって奥さんに怒られないのだろうか。


Carbon Express 2013 ついにプロトタイプから製品に

まず最初に断っておきますが、現在、トップアーチャーのほぼ全員がイーストンのシャフトを使用しており、その性能をかなり良いものです。よく、トップアーチャーはお金を貰ってイーストンのシャフトを使っていると勘違いしている人がいますが、イーストンの優れた作戦は、そういったところではなく、非常に優れた高性能のアルミシャフトをかなりの低価格で販売することで、アーチェリーを始めた時からイーストンのブランドに親しみさせ、そのまま、上記モデルに乗り換えてもらうというものです。
そのため、競合他社では上位モデルでイーストンよりいいものを作ろうとする会社は多くあるものの、イーストンが廉売しているモデル(XX75など)でイーストンと同等の性能で同等の価格で販売する(もしくは、することを試みようとする)メーカーは、現状存在しません。
その上位モデルでの競争に多いて、唯一イーストンと戦える段階まで来ている(2012オリンピックでイーストン以外で唯一金メダルを獲得)、カーボンエクスプレス(CX)がターゲットモデルとして新しいシャフトを発表しました。
3年前の2010年から、このプロトタイプの話は聞いていました。イーストンは上位モデルで樽型(真ん中が膨れている)デザインを採用していますが、本当にこれが最も優れた答えなのだろうかという疑問は昔からありますが、しかし、中央に重さがあり、両端が柔らかく、中央が硬いシャフトのほうがグルーピングがよいのも確かです。
この事実から、新しい可能性を考えると、CXでは、逆樽型シャフト(外側はストレートで内部に厚みの変化を持たせている)を開発してきました。2010年から3年もかかったことを考えるといろいろあったのでしょう。ずっとは進展していなかったので、プロジェクト自体消滅したものだと勘違いしていたほどで…。
X10とACEはインナーコアにアルミを使用していますので、自然に(外側)樽型シャフトデザインになります。イーストンの人に聞いても、これが最高だといいますが、”樽型”シャフトが最高だということは正しいですが、考えてみれば、それが外側に膨らんでいる必要性はあまりないのではないかと思います。
3年間かかったCXの新しいシャフトにぜひご期待ください。また、これまでコンパウンドでしか販売してこなかったCXのシャフトですが、テストの結果がよければ、リカーブでの取り扱いも考えているところです。
2013年新商品(5~6月発売)

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(取引先のランカスターの写真を引用)
CX Nano-SST 30トン・カーボン 100% || Straightness +/- .002” || Weight Tolerance +/-1.0 grain || Spine Select Tolerance +/- .002”
CX Nano Pro X-Treme 46トン・カーボン 100% || Straightness +/- .002” || Weight Tolerance +/-1.0 grain || Spine Select Tolerance +/- .002”


現代アーチェリーの歴史…その一

(ちょっとしたメモ書きです)
先日、アーチェリー雑誌に弓具に関する技術的な文書を投稿したところ「その程度の研究・知識がある人間は日本に山ほどいるんですよ」と諭されました。自分がこの記事に書いていることは、常識レベルにちょっと毛が生えた程度のようです。
まだまだ、勉強が足りないことは理解していますが、それでも、ブログを読んでくれている方に、次の日の射場でネタになるような話が書ければと思います。また、ネット上に上がっているアーチェリーの情報が少しでも豊富になっていくことを願っています。
弓具に対する考え方のことで、ちょっと迷った部分があり、アーチェリーの歴史をもう一度おさらいしています。歴史といっても、弓が出現した時代の話などではなく、現代の弓具の始まりについての歴史です。英語では多くの文献があり、ネットで読めるものも多いのですが、日本語で正しく記載されているものは見つけることができませんでした。
まだ手に入っていない本が何冊かあり(アマゾンで新品が13万円の値段ついていたりして)入手しようと頑張っているのですが、これまでの理解を一度まとめてみたメモです。


進歩の始まり

まず、スポーツとしてのモダンアーチェリーはイギリスではじまりました。その様子は、当時イギリス国内で無敵の成績を誇った、Horace A. Ford(*)の著書「Archery, its theory and practice」(1859年 著者死後133年のため著作権切れ)などで知ることができます。
*11度のイギリスチャンピオン。1857年に記録したタプル・ヨークラウンド – 100ヤード(91m)で12エンド、80ヤード(73m)で8エンド、そして60ヤード(54m)で4エンド – の1271点というスコア70年間破られていません。
その後、アーチェリーはアメリカにわたります。アメリカでベストセラーになった最初のアーチェリー本は「The Witchery of Archery」(1878年 著者死後112年のため著作権切れ)というもので、こちらはターゲットではなく、ハンティングについて主に書かれた本でした。その後、著者は初代USA ARCHERYの会長に就任。これによって、アメリカではターゲットよりも、ハンティングアーチェリーのほうが大きく発展していきます。
ここまで書くと、アーチェリーの弓具はハンティングがメインのアメリカではなく、イギリスで発展するように思われますが、イギリスの弓具の職人はデザインや仕組みを研究することより、それらを与えられたものとして考え、素材の選別する能力や木材の乾燥技術を高度化させることに専念したため、イギリスでは新しい今日のような弓は生まれませんでした。
アメリカで現在の弓が生まれた最大の貢献者は、ヒックマン(Hickman)博士です。そのほかに共同研究をしていたクロップステグ(Klopsteg – サイトの発明者 – US1961517)などがおります。
彼らは最初は個別に研究し、当時のアメリカで唯一のアーチェリー雑誌(Ye Sylvan Archer)に互いに投稿し、高めあっていきました。
ヒックマン博士は当時かなりの変人扱いを受け、馬鹿なマスコミに叩かれていたゴダード博士(*)とともにロケット研究をしていた人物で、その中で得た砲内弾道学(発射してから砲身内での弾頭の振る舞い)と、砲外弾道学(砲身から出た後の弾頭の振る舞い)の知識をアーチェリーに応用して、アーチェリーの研究を進めました。
*ニューヨーク・タイムズ紙は、物質が存在しない真空中ではロケットが飛行できないことを「誰でも知っている」とし、ゴダードが「高校で習う知識を持っていないようだ」と酷評した。(ウィキペディアより引用)…怖い時代だったんですね。。
ここから、アーチェリー弓具の進歩が一気に進みます。


ハンドルとリム
20世紀初旬のアーチェリーで使用されていたロングボウと、現代の弓との大きな違いは、ハンドルのデザインとリムのデザインです。
limb_cut.jpg

リムは現在のような長方形の断面ではなく、楕円のような形の断面でした。楕円形の棒を弓として、そこグリップを張り付けることでロングボウを製作していました。弓全体がリムの役割り果たしているため、リムはとても重く、逆に弓全体は軽く、シューティング後には弓全体が振動し、押し手に大きな反動があり、とても不安定な構造の弓です。さらに、物理的にも不安定な構造をしているために(後述)、弓を破損を防ぐ意味合いでも、弓を短く作ることができず、さらに、矢とびをきれいにするためには、下リムが上リムよりも2インチほど短く作られています(和弓と同じ)。
longbow_old.png
thumbpatriot.jpg

(写真上は1850年代のロングボウでスミソニアン協会の年次レポートより、下の写真はBear Archeryの現行モデルパトリオット)
ロングボウが作られてから、30年代のアメリカで進化するまでの間に、ハンドルは少しずつ変化しています。グリップの部分はますます重く・長く・硬くなり、初期のグリップ(3~4インチ)から、今日のハンドルと呼ばれる部分(20インチ程度)に少しずつ変化していきます。これは。職人が弓の発射時の反動を減少させるための工夫でしたが、これによって、弓(bow)における握る部分(グリップ)にすぎなかったものが、ハンドル(handle)と呼ばれるようになり、さらにリム(limb)と呼ばれる部分が明確に定義できるようになります。
そして、1930年代に、ヒックマン博士がリムを進化させます。ロングボウのリムの分析・解析をした結果、物理学的に見てロングボウのデザインはあまりにも、非効率的だということが判明します。下にその理由を書きますが、難しい話なので、とにかく、丸いリムは非効率だと理解していただければ、飛ばしていただいてもよいです。
limn_cut_2.png

写真(スミソニアン協会年次レポートより引用)はロングボウのリムの断面です。Bellyと呼ばれる側は、現在ではフェイスと呼ばれる側です。CDのラインはリムのデザイン時に、ニュートラル・レイヤーと呼ばれるものです。
リムがフルドローまで引かれるとき、リムのバック側は引っ張られ(引張)、フェイス側は圧縮される。そのとき、リムの中に引っ張られも、圧縮もされない中立軸(ニュートラルレイヤー)が存在します。ずれこむ力(わかりやすく言えば接着の剥がれやすさ)が最大になるポイントでもあります。
単層のウッドで弓を作ることは当時でもあまりなかったことですが、もし、リムがラミネート(多層)ではなく、単層だった場合、ウッドでは、リムのニュートラルレイヤーはリムの真ん中ではなく、かなりバック寄りになります。これは、ウッドが引っ張られる力と圧縮される力に対して、同じように反応しないためです。詳しくは、もうお手上げなのですが、ウィキペディアによれば、ウッドの圧縮強さは引張強さの1/3程度だとのことです。
単層であれば、これで話は終わるのですが、多層のウッドを張り合わせてリムを作るとき、使用されるウッドの物理的な特性をすべて生かすことは難しいということになります。また、当時の技術では断面が円の場合に、どのように素材を配置すれば、フルに性能を生かすことができるかシミュレーションすることも困難でした。
そこで、博士は現代では一般的な長方形の断面でリム(ニュートラルレイヤーの計算はかなり楽)を作り、そのリムを先端に行くにつれてテーパーさせる(薄くする・幅を細くする)ことで、ラミネートリムの効率性を大幅に高めることができるという設計を考案しました。
当時の計測では(アーチェリー用の矢速計を発明したのもヒックマン博士)、伝統的なロングボウの効率性が40%程度だったのに対して、新しいデザインのリムは75%の効率性を達成したとあります。これは驚くべき数字で、そこから半世紀たった今でも、効率性はその時点から10~15%程しか改善されていません。
ヒックマン博士と共同研究者たちは、この研究成果を「Archery the Technical Side(1947年)」として出版します。ちなみに、彼らはあくまでも物理学の研究者であって、その後メーカーの立ち上げなどは行っていません。


メーカーでの採用
さっそく、1947年にHOYTの設立者であるEarl Hoyt Jr.さんが、この理論を参考に、ダイナミック・リムバランスという名の、(今では当たり前の)上下のリムの長さが同じ弓を開発します。1951年に断面が長方形でテーパーしている異なるカーブを持ったリムを40ペア製造し、その中でもっと効率性がよかったリムが、(Earl Hoytさんによれば…そして、僕もそう思いますが)、今日もっともコピーされている形のリムとなっています。
同じ、1951年にベアアーチェリーが単一指向性ファイバーグラス繊維とウッドのラミネートリムの製造に成功し、現在でも使用されるグラスリムが市場に登場し、今に至るまで、ラミネートされる素材は時代に応じて変化しているものの、その基本構造は変化していません。
この後、1956年に丸いグリップに代わるピストルグリップ(現在のクリップ)が登場し、1961年にスタビライザーが登場したくらいで、もちろん、素材はウッドからアルミ、マグネシウム、カーボンなどといろいろと変わっていきますが、現在のハンドル・リムの概念、リムのデザインとその理論は驚くべきことに、1930~1950年の20年の間に一気に登場したものです。
次の大躍進が待遠しいです。コンポジットだとは思うのですが…基本設計はまだ大きく変わっていません。
参考文献
-Traditional Bowyer’s Encyclopedia: The Bowhunting and Bowmaking World of the Nation’s Top Crafters of Longbows and Recurves 2011 Edition
-Annual Report Smithsonian Institution 1962(スミソニアン協会年次レポート)
-Archery, its theory and practice 2nd Edition 1859