アーチェリーの歴史(16世紀まで)

Ramasseurs de flèches(抜粋*) p 192/596

草船借箭なんてお話も三国志にはありますが、(相手の矢を頂いちゃう)それとは違い、これは中世の戦争において、相手の騎馬隊の突撃の合間に、さっき射た自分たちの矢で外れたものを再利用するために拾う矢拾い(Ramasseurs de flèches/アローコレクター)という仕事をする人たちです。イギリスのアーチャーは24本ほどの矢をクイーバーに入れていましたが、1本30秒ルールなら10分くらいで使い切っちゃいますからね。画家もなかなかいい仕事をしていて、矢(フレッチャーされたシャフト)とボルト(クロスボウ用の矢で羽根はない)をちゃんと描写しています。

アーチェリーの歴史に関してはほとんど文献・研究が日本では存在していないです。自分が見つけたのは50年以上前に書かれた論文「アーチェリーの発達について(PDF)」の1つだけです。チューニングマニュアルを書いたときにも思ったことですが、今があるのは先人たちの積み重ねがあってこそであり、歴史をしっかりと整理することには意味があります。そこで昨年からアーチェリーの歴史についてまとめてきました。

アーチェリーに関する研究はなかなかひどいもので、未だに100年以上前のモースの論文が引用されていたりします。地中海/蒙古/ピンチ式などを分類した人なのですが、論文の中身はなかなか雑です。もちろん彼を責めるという意味はなく、彼自身、自分の研究はこれまで研究されてこなかった分野で革新的ではあるが、不完全であることを、より多くの研究者がこの分野に目を向けてくれるようにするために、とりあえず発表すると書いています。

I am led to publish the data thus far collected, incomplete as they are , with the intention of using the paper in the form of a circular to send abroad, with the hope of securing further material for a more extended memoir on the subject.

Edward Sylvester Morse, Ancient and Modern Methods of Arrow-release, Essex Institute, 1885, p 4

まぁ、結果としては研究が頻繁に引用され、この論文をより詳細に仕上げる人は今日まで現れていないのですが、自分にできることがあれば、今後の課題としたいと思っています。

さて、17世紀からのアーチェリーは何度もこのサイトで記事にしています。そして、先週、石器時代から16世紀までのバージョンも仕上がりました。16世紀までのいわゆる前編は、現在のアーチェリーの基礎になったイングリッシュロングボウとは何かを定義する話になっています。これを既存の記事たちと繋げれば、アーチェリーの歴史として完成すると思います。

ただ、ちゃんとした記事を書こうとすると、引用や注釈ばかりになって非常に読みにくいです。そこで和弓の人たちはどうしているのか調べてみたところ、ちゃんとした論文を書いて、別に発表し、それを引用するという形で、別途、かたくない文書で和弓の歴史を書いているようなので、自分もそのやり方を模倣しようと思います。下記はちゃんとしたバージョンです。今後、何本かアーチェリーの歴史についての記事を書きますが、いちいち根拠を書きません。それらの記事に疑問や根拠を知りたい場合には、こちらのPDFをまず確認してください。それでもすっきりしない場合はコメントを下さい。

アーチェリーの歴史(PDF 4MB)

*本にページ数が示されていません。フランス国立図書館で公開されているものをPDFでダウンロードした場合、192/596ページにあります。Chastellain, Georges,« Passages faiz oultre mer par les François contre les Turcqs et autres Sarrazins et Mores oultre marins », traité commencé à être rédigé à Troyes, « le jeudi XIIII e jour de janvier » 1473, par l’ordre de « Loys de Laval, seigneur de Chastillon en Vendelois et de Gael, lieutenant general du roy Loys l’onziesme… gouverneur de Champaigne… par… SEBASTIEN MAMEROT de Soissons, chantre et chanoine de l’eglise monseigneur Saint Estienne de Troyes » et chapelain de Louis de Laval, 1401-1500, https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b72000271/


なぜ戦前の日本語が読めないのか?

1883年5月29日付土陽新聞

(アーチェリーに関連のない記事です)

調べ物でイリアスを読む必要があり、古くある本だから、青空文庫とかで無料版あるかなと思ったらありました。しかし、これが読めない…

次に弓射る者のため暗緑の鐵賞に賭け、
兩刄の斧と片刄とを各々十個取り出し、
而してはるか沙の上、引き上げられし黒船の
はしらを的と打ち定め、そこに可憐の鳩一羽、
細き糸もて足繋ぎ之を射るべく命下す。(イーリアス 土井晩翠訳 1940発行)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001099/files/46996_40612.html

たった、80年前の日本語が全然読めない(私の知的レベルの低さは認めます)のです。なんで、戦前の日本語がこんなにも読めないのだろうかと思い、軽い気持ちでネット検索したのですが、全く的を得た答えが見つかりません…。シェークスピアが悪いとか、GHQの陰謀とか…。

という事で、自分で調べみましたという記事です。

答えから先に書きますと「偉そうな文書を書きたかったから」です。(土井さんの文書は翻訳ですので、偉そうな文書を選択したのは、原文にそういうニュアンスがあり、忠実に訳したのかはラテン語の知識がゼロなのでわかりません)

以下、もう少し詳しく。

江戸時代には「話し言葉」と「書き言葉」がそれぞれに別に存在したのですが、明治時代にそれを一致させよるという言文一致と運動がおきます。一致させるといっても、2つで仲良くするのではなく、書き言葉を話し言葉に寄せていこうという運動です。移行期の明治時代の小説家は両方の言葉で小説を書いていたりしていました。

(書き言葉) 石炭をば早や積み果てつ。(森鴎外,舞姫,1890)

(話し言葉) 金井しづか君は哲学が職業である。(同,ウィタ・セクスアリス,1909)

帝国教育会の有力者によって結成された言文一致会が明治43年12月に目的を達成した事により、解散したことから、この運動はだいたい明治時代に終わったと見ることができます。なので、もし明治の文書が読めない・読みにくかったら、その理由は書き言葉が話し言葉に統一される前の文書だからと言えると思います。

さて、この運動に乗らなかったのは、権威側の人達でした。最たるものは法で、なんと2018年という驚異的な記録です。

六法ようやく口語体で統一へ 「スルコトヲ得」やめます

ちょっと抵抗したのはエリート層の新聞で、大正10年~11年になって東京日日(現・毎日)と朝日が口語化します。記事の最初の方でGHQ陰謀説が出る理由はおそらく、明治に口語化がなされ、大正のなって新聞が改めたあとでも、天皇の詔勅(しょうちょく)は伝統に則って書き言葉を用いていたのを、戦後

敗戦によるきびしい歴史的な現実に遭遇するに至って、その基盤であり支えであった前近代的な残存権力の崩壊、それに代わる民主的なものの興起と共に、ようやくそれらの残存文語体文(書き言葉)も一掃された。

山本正秀, 言文一致文の歴史と特色,日本文法講座 続 第3 (文章編), 明治書院, 1958, p 278

といった流れがあったために、まぁ、GHQの陰謀と言っても間違いじゃないっちゃ間違いじゃないとは思います。天皇の御言は伝統的なものでわかりやすさを重視する必要があるのか疑問ですし、わざわざ口語化する必要があったのかは個人的にも疑問ですので、間違いなくGHQの陰謀です!!

ということで、以上の流れから私の理解としては、

明治時代のわかりにくい文書 → 昔の書き言葉だったから

大正時代のわかりにくい文書 → エリートっぽさをまだ出したかったから

昭和時代敗戦までのわかりにくい文書 → 偉そうな文書を書くためにあえて使った

戦後のわかりにくい文書 → よく頑張って耐えた抜いた!!偉い!!

と考えるのが妥当ではないかと思います。

英語に関してはこのような問題は言語単体としてはないですが、ラテン語との対比においては同じ構造があります。17世紀の科学者ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理」をラテン語で、「光学」を英語で書いています。

参考文献 言語の標準化を考える : 日中英独仏「対照言語史」の試み 高田博行, 田中牧郎, 堀田隆一 編著


【更新】アーチェリーの歴史をつなげるもの

下記の記事をより詳細なものに書き直しました。こちらをご覧ください。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)

アーチェリーのチューニングマニュアルを書いたので、次はアーチェリーの歴史を勉強してまとめてみたいと思い、昨年から取り組んでいます。自分にできることなど限られているので、どれだけのものをかけるかなと調べてみたのですが、アーチェリーの歴史は、調理を待つ材料みたく、結構揃っていたのです。ちゃんとしたアーチェリーの歴史本がないのは、分野が違ってお互いに面識がなかっただけかと思います。

写真は最古のアーチェリーの記録(紀元前1429年頃)です。的を射ているので、戦争・狩猟・手に持って踊るといった儀式のどれでもない弓の使用という意味で、初期の”スポーツ”としてのアーチェリー考えることができると思いますが、その判断はともかく、この頃のアーチェリーは考古学者達によって考察され、本や論文としてまとめられています。

紀元前500年くらいからは歴史書が登場し、この頃のアーチェリーについては歴史書などに残っている記録が多く、歴史学者によってまとめられています。1000年頃になるとヨーロッパで進化を遂げたロングボウとクロスボウが戦争で大活躍するようになり、アーチェリーについては軍事学者によって書かれたものが多くなります。16世紀頃の銃火器の進歩によって戦場から弓が駆逐されると、スポーツとして現在につながるアーチャーたちが書かれた記録に繋がり、この部分はすでに自分である程度これまでにまとめているかと思います。

なので、このそれぞれ違う分野の話を一つにつなげるためのリンクはないかと、今年の入ってからずっと悩んでいましたが、世俗化という軸でまとめてみました。グッドマンという人が近代スポーツの特徴として「世俗性」「平等性」 「官僚化」「専門化」「合理化」「数量化」「記録への固執」をあげています。ここで一番特徴的なのは世俗化、簡単に言えば、脱宗教だと思います。

例えば、相撲は「世俗化」以外すべて特徴に当てはまっていますが、世俗化する可能性は、今後も殆ど無いでしょう。

日本武道で唯一世界的なスポーツとして成立し、オリンピック競技にもなった柔道の創設者・嘉納治五郎は近代柔道の世俗化、宗教を持ち込まないよう努力したそうです*。神道的な宗教的概念を含む競技なら、イスラムやキリスト教など違う宗教の人々が競技に参加することは困難になります。スポーツがやりたくて改宗する人は稀でしょう。

*湯浅 晃, 武道における宗教性, 武道学研究38-(3):15-42, 2006

そこでつぎのようにアーチェリーの世俗化を考察し、これ軸(変換点)として、2月ごろを目処にアーチェリーの歴史をまとめてみたいと思います。何か意見がありました。コメント欄にどうぞ。


世俗化 – 宗教から脱却

古代において狩猟は生活の手段であったために、弓は宗教・儀式と深く結びついていたと考えられる。イリアスで描かれた弓術競技では優れた射手であったテウクロスは神アポロンに祈らなかったために的を外し、神に祈ったイードメネウスが勝利したという記述がある。聖書にも弓は登場し、ヨハネの黙示録では勝利の象徴とされている。

しかし、1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(1)、その後、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止し、使用したものは破門するとした(2)。同様に騎馬試合もこのとき禁止された。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説ある。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もあるが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張もある。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇した。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せた。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器だった。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、歩兵(市民)が騎兵(貴族)を殺傷させる行為を忌諱したと考えられる(3)。

実際、モデルとなった人物の存在は示唆されていても、実在が確認できないので物語とするが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも反権力的な物語の主人公であり、弓は権力者の武器ではなかった。

禁止令ののち、「神に憎まれた」アーチェリーとカトリック教会との関係は薄れたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても所持は禁止しなかった。アーチェリーは国内では狩猟やスポーツとしてのみ使用できるというユニークな道具になった。近代スポーツとして成立するための要因の一つである世俗化、脱宗教化を偶然に成し遂げたと言える。アーチェリーとクロスボウの規制・管理は国家に委ねられ、国によって異なったものになっていく。


ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いている。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可されたので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当だろ。だが皮肉なことに、彼は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡する。この死について、いまだ弓の使用を禁止している教会に背いた天罰であるとの考えがあるが、弓が再度禁止されるには至らなかった(4)。

1.Karl Josef von Hefele, Histoire des Conciles (Livre 31e : conciles sous le pontificat de Grégoire VII – Livre 32e : de la mort de Grégoire VII au concordat de Worms et au IXe concile œcuménique – Livre 33e : conciles du IXe concile œcuménique au conflit avec les Hohenstaufen, 1124-1152), t. V, partie 1, 1912, p.455
2.藤崎 衛ほか, 第一・第二ラテラノ公会議(1123、1139年)決議文翻訳, クリオ, 2018, 32, p.61-80
3.Oman Charles, The Art of War in the Middle Ages A.D. 378-1515, London Methuen, 1898, p.354-355
4.Ralph Payne-Gallwey, The Crossbow, Mediæval and Modern, Military and Sporting, Longmans, Green and Company, 1903, p.3-4

2番目の資料以外はすべて著作権切れでネットで全文公開されています。


STAN ONNEX レジスタンス

既に取り扱い販売しているトリガータイプとヒンジタイプに続くトゥルーバックテンションタイプのONNEXが届きました。

「R」がレジスタンスタイプのしるし。「H」だったらヒンジ、「T」はトリガーです。フック近くの「M」はサイズを示します。

動作手順は違うもののトリガーやヒンジと同じプラットフォームを持つので弓のセッティングを変えることなく状況に応じたシューティングが可能になるので、自分がどのスタイルで撃つのがあっているか選定しやすいでしょう。

フックにかかる重量が一定の強さ(予め設定しておきます)に達すると発射されると言うこのメカニズムは、ドローイング開始時にサムレバーをしっかり握って(押し込んで)からドローイング。アンカーに入って指を離すことでロック解除。後はただシンプルに引き続けるだけです。

開放値を設定する時はホールディングウエイトと開放値の差異が結果的には2~5ポンドぐらいになるのですが、この差異は射手によって好みがまちまちなので、開放値調整ネジを回す際は1/8回転ずつにして、その度に近射をおこないフィーリングを確かめるのが良いでしょう。

開放値調整ネジ 調整には付属の5/64インチ六角レンチが便利です。

開放値を高く(強く)するにはネジを時計回りに。反対に低く(弱く)する場合は反時計回りに回します。

もう一度言いますが、調整は1/8回転ずつでお願いします。

またドローイング中のサムレバーはしっかり押し込みながらドローをしてください。ドロー中に押込みが足りなかったり、あるいは力が緩むと暴発をおこし、ケガや事故が起きる危険性が高まります。必ず安全を最優先に操作や調整を行ってください。

【注意】初めてトゥルーバックテンションリリーサーを手にする方は、初めは開放値(差異)は広めにしてください。アンカーに入ってエイミングを行う時、本人には自覚の無い緊張で案外ガチガチに引いてしまう事があります。(引きすぎていると言う事です) この様な状態でサムレバーを解除すると(離すと)途端に発射してしまいます。ですので、アンカーに入ったらまずは一息ついてリラックスしてからバックテンションを掛けるようにした方がより安全にシューティングができると思います。

トリガータイプやヒンジタイプはエイミングしながらバックテンションを掛けつつリリーサーを《操作》するので意外とやることが多いです。その点トゥルーバックテンションタイプは暴発しないようにしっかりと事前設定をおこない、常に冷静でリラックスさえ心がければ最少手順で的に向き合えるリリーサーです。トリガーコントロールに悩んでいる方にとっては問題解決の助けになるかもしれませんね。

同梱品です。

◆トレーナーロック

◆トリガーポスト(長)とトリガーバレル(太)

◆3⇔4フィンガーパーツ

ONNEX/レジスタンスは間もなく販売開始です。


新規取り扱い、EPIC FUSION EXハンドル。

取扱商品の再選定を行っているのですが、エントリー向けの低価格ハンドルとして新規にEPICアーチェリーのFusion EXハンドルを取り扱いします。1100gの軽量アルミハンドルです。商品は年明けの入荷を予定しています。

これに伴い、STARKアーチェリーのLIGERO(1,080g)ハンドルの取り扱いを終了します。在庫は値下げし特価品として販売します。よろしくお願いします。

【特価品】STARK LIGERO ハンドル - JPアーチェリー

Epic Fusion EX ハンドル - JPアーチェリー


レビュー再開、Spigaが新しいベアボウハンドルを発表。

長年ベアボウハンドルを製造しているすピギャ(SPIGA)がBBハンドルのモデルチェンジ(写真左)を発表しました。ハンドル自体は既存のモデル(写真右)より50g程軽い1447gで、そこに3つ追加ウェイト(210g)を装着できます。このウェイトはスピギャ独自のもので、装着位置を左右で調節できます。

専用ウェイト

年始の入荷を予定しています(黒/RH)。150円を超える円安で新商品の紹介だけでレビューを控えていましたが、130円台にと環境が落ち着いてきたので、来年の初めから、新商品のレビューを再開したいと思います。別の記事にしますが、最初に入ってくるのはこのハンドルか、WINの新型ハンドルになるかと思います。

Spigarelli BB V2 ハンドル - JPアーチェリー


HOYT インテグラリム モデルチェンジ

ホイットより、インテグラリムモデルチェンジのお知らせがありました。ホイットのページで画像が更新されていないため、取引先のランカスターの写真を使わせていただきました。2023年モデルの出荷はすでに始まっているとのことです。

弊社では2022年モデルの在庫を販売し終え、今後は2023年モデルを販売します。


17-19世紀のイギリスアーチェリー

ウィリアム・サドラー『ワーテルローの戦い』

昨日の記事を書いたあとに、色々と勉強して寝ましたが…朝起きて、自分は何をしようとしているのか理解ができなくなりました。

自分はただのアーチェリーのプロであり、下記のような同業者によって書かれたアーチェリーの文書・記事に関しては、検証する能力がありますが、このようなオックスフォード大学で研究していたイギリスの歴史のプロ(経歴はこちら)の論文に意見することなどできるわけ無いですよね。。。

ということで、何も突っ込まずに、以下、この論文の解説に徹します。

スポーツという何かを定義することは難しいですが、少なくとも、ロングボウは15世紀にはまだ国防力の一つでした。16世紀から17世紀にかけてマスケット銃に取って代わられると、武器としてはみなされなくなっていき、遊びからレクレーションに変化していきます。

18世紀初期までは少人数で広い土地や森の中で楽しむもので、バットシュート(Butt-shooting)という土の壁を的に見立てて、当てる遊びでした。それをレクレーションに引き上げたのが、ランカシャーの””貴族””であるアシュトン リーバー卿です。貴族についてはaristocratとの表記ですが、後で検討します。

遊びは楽しけりゃなんでもいいのですが、レクレーションには目的があります。記録では、「長時間机に近づきすぎて、胸を机に押し付けすぎたことによる胸への圧迫を軽減する」ためにをアーチェリーを楽しんだとされています。昔の貴族どんな姿勢で机に座っていたんでしょうか…。

こんな感じかな??

さて、なかなか効果があったようで、貴族さんたちが集まって、イギリス最古のアーチェリー協会「the Toxophilite Society」を設立します。1781年、協会の会計によれば、最初の支出は「ブランデー、ラム酒、ワイン、ジン、真鍮のコルク抜き」だったので、やってたことは想像できるでしょう。アーチェリーして、飲み会を開いていたのです。

1787年に王室がパトロンになって高価な賞品を提供するようになると会員は急激に拡大し、多くの協会ができ、the Toxophilite Societyのメンバーは1784年に24人だったのが、1791年には168人に拡大します。ここで検討すべきは「貴族」という言葉です。当時の人口を考えると、ここで語られているのは純粋な「貴族」だけではなく、「地主貴族(ジェントリ)」も含まれると考えられます。後のジェントルマンになっていく人たちです。

当時のアーチェリーは現在のものとは大きく違い、

Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回しました。会員たちは、「この日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進した」。会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射された。

矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られた。

射的の後には晩餐会や舞踏会が開かれ、詩や歌が披露されることもあった。裕福な協会はロッジを建てて祝宴を開き、小規模の協会はマルシェや地元の居酒屋を利用した。

このような催しは、公共の場で行われるため、当然ながら大勢の見物人が集まる。射手たちの才能は行き当たりばったりで、酒も入っていたため、必ずしも安全とは言えなかった。1791年に行われたKendal Archersの会合では、大勢の観客が押し寄せ、なめし革職人1名と仕立て屋2名が矢で撃たれました

JOHNES, MARTIN. “Archery, Romance and Elite Culture in England and Wales, c.1780–1840.” History, vol. 89, no. 2 (294), 2004, pp. 193–208. JSTOR,
Royal Toxophilite SocietyのHPより

基本的なフォーマットがアーチェリーを楽しんで、裕福な協会は近くのクラブハウスで宴会を開き、そうでない協会は飲み屋で飲み会をしていたようです。アメリカの19世紀の本でもクリケットとの比較について語られていますが、アーチェリーのほうが軽い運動であったために、1787年にできた協会では女性の参加が許可されます。これによって、アーチェリーは貴族たちの飲み会から、社交場に進化を遂げていきます。

男性の射手は、その優雅で優美な女性の姿を賞賛し、楽しんだに違いありません。 ここでは、当時の多くの町に建設され、性的観戦や求愛の場として悪名高い新しい公共の文化施設との類似点をえがくことができます。 実際、これは集会室、遊園地、劇場、ホールの存在理由の一部でした。

(中略) アーチェリーは、キューピッドとその弓矢というロマンチックな連想とともに、男女が対等(The Social equal)に出会い、眺め、楽しむ機会を提供したのです。

同上

当時のアーチェリー協会には厳しい入会資格があり、そこに入会できるということは広義的な意味で貴族であることを示していて、会員は社会的身分としては対等だったので、当時の社会的に適切な出会いの場になったというわけです。実際に会員同士が結婚したという記録も残っています。

飲み会から社交場、さらに出会いの場という認知されていったことで、アーチェリー大会は更に豪華なものになっていきます。女がいたらそりゃね、もう…ね★

(もとの論文には含まれていません)1791年、Royal Toxophilite Societyの設立によるアーチェリーの復活から10年後、多くなっていたすべてのアーチェリー協会の公開ミーティングがBlackheathで開催されます。1792年と1793年にも同様のミーティングが開催されたものの全国アーチェリー大会はここで終了します。

しかし、アーチェリーの成長はここで終わり、ナポレオン戦争(1799-1815)により、多く貴族が駆り出されたことで、アーチェリーが衰退します。1815年のワーテルローの戦いでイギリスの勝利が確定し、貴族たちが帰国するまで続きます。この後にアーチェリー大会は豪華さ絶頂期に達し、先日紹介したRoyal Company of Archerys が王室の警備として採用され、代わりに多くの資金と賞品が提供されたのものこの時期です(1822年)。

大きな大会(飲み会)になると参加者は1000人を超えていたようで、貴族たちは持ち回りで自分の屋敷や、クラブハウスで大会を主催していたので、みんな大会に行くのは楽しみでも、自分が主催の順番になると困ったことになっていたようです(笑)。

この状況を変えたのは産業革命で、金持ちとして貴族(地主)の他に資本家が台頭してきます。18世紀までは多くの協会は、紹介制は当然のことながら、紹介があっても、入会には3世代にわたる血統書の提出を求めて、審査したりしていましたが、アーチェリー大会の開催に多大な資金がかかるようになり、資本家も入会できるようになっていきます。

さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終えたことで、閉じたコミュニティではなくなり、レクレーションとしてアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備が行われていきます。こうして、イギリスではアーチェリーは兵器から遊びに、遊びからレクレーションに、そしてレクレーションからスポーツへの道を歩んでいくことになります。

現代のアーチェリー技術を築いたホレース・フォードは、この時代をこのように語っています。

残念ながら、かつて 18 世紀の終わりと、今世紀の最初の半分の間に輝いた「比較できないほどの素晴らしいアーチャーたち」から得るものは何もない。それに比べて、グランドナショナルアーチェリーミーティングの設立以来、強く、正確なショットを放ってきたシューターたちの持つスキルから得るものは非常に多い。

アーチェリーの理論と実践

以上。


歴史むずかった…

「ロイヤル ブリティッシュ ボウメン」アーチェリー クラブの 1822 年の会合

先日触れた論文を読んでみたのですが…そう、わたしのただのアーチェリーのプロでした。この論文は18世紀後半の貴族の文化から、フランス革命がイギリスの文化に及ぼした影響、産業革命とそれによって誕生した資本家たちの勃興、に伴う貴族たちの懐古主義と、まず、当時の世界史とイギリスの事情がわからないと、ただの読書感想文しか書けない内容です…ということで世界史を勉強してから、いつかは記事に。申し訳ございません。


750万アクセスありがとうございます!!

昨日は窓から見える海がとても綺麗でした、そして、気がついたら751万アクセスを超えまして、本当にありがとうございます★

まぁ、現実はこんな感じですけどね…

昨日、イギリスのアーチェリーは相席屋か??という記事を書きましたが、実際にその視点で書かれた論文がありました[1]。読み込んだらまた記事にしたいと思います。15年書いて750万、20年目の1000万アクセスを目指して…というか、アーチェリーを知れば知るほど、知らないことが多いことを思い知らされていますし、15年書いてもまだまだ書きたいテーマはたくさんあります。奥が深い!

1.Johnes, Martin. “Archery, romance and elite culture in England and Wales, c. 1780–1840.” History 89.294 (2004): 193-208.