イギリス初期のアーチェリー競技 – 歴史編. 7

ヘンリー8世, the book of archery, 1840

歴史編4でフランス・ベルギー・オランダ等地域で行われていた高低差短距離アーチェリーについて書きましたが、ロングボウ誕生時のイギリスでは、待ったく違った形式でアーチェリーの競技が行われていました。最初の弓の所持を命じた1252年の法律によってどのような競技(練習)が行われたのかは記録に残っていませんが、14世紀に入り、ロングボウが対仏戦争において野戦に数々の大勝をイギリスにもたらすと、身につけるべき能力が確定していきます。重い弓を引き遠くまで矢を射ること、特定の距離に矢を射ることです。

地図(https://www.bowyers.com/より)
コース表
By Colonel Walrond

*これにあたって矢がバラバラになったとき、最もマークに近い破片が有効とされます。

上の3つは競技3点セットの地図、コース表(*)、アーチャーズマークです。現在のフィールドコースと同じように地図とコース表でマークを確認して、マークからマークを射るのです。上のコースは最も短いもので70m(78ヤード)、長いもので210m(227ヤード)となっています。8つの距離異なる地形から、異なる方向、異なる距離を射ることで、任意に設定される野戦場で敵に命中させる能力を養うことを目的にしています。

*コース表のスコア(Score)は点数ではなく距離のこと。1スコアヤード= 20ヤードです。

絵の後方、丘の上に左右2つ描かれているのがマークの使用例で、地面に埋め込まれており名前が刻まれています。これは指南書として残っているロンドン近郊のフィンズベリーフィールドで行われていた形式で、他にも、おそらくより簡単に制作できたであろ、石のマークではなく、土を盛ってバットとした射場もありましたが、大まかな形式として同じものです。イギリスでのアーチェリー競技は防城戦ではなく、野戦のための平地での長距離アーチェリーだったのです。

300ヤード近い距離を射るためには最低でも62〜63ポンドの弓が必要だったとされており、当時の成人用の弓の強さはこの値を下限にしていたと考えられます。競技の勝敗をどのように決めていたのかは記録されていませんが、フランスの射撃祭のように競技ごとに事前に競技規則を定めていたのでしょう。競技の結果として勝敗が存在していたことは間違いなく確認できます。

弓の愛好家であったヘンリー8世の帳簿には「3月29日 トットヒルにて王がジョージ・ギフォードに負ける、12シリング6ペンス」といった記録が残されています。

また、シェークスピアはその作品ヘンリー四世において「(-弓の腕前が見事なダブル老人-)彼は見事な射撃をした。ジョン・ア・ゴーントは彼を愛していた。そして彼に大金を賭けた(He shot a fine shoot. John a Gaunt loved him well, and betted much money on his head.)」と競技の当事者の遊びとしてだけではなく、アーチェリーの競技結果も賭け事の対象であったことがわかります。ヘンリー四世は芝居として16世紀末にシェークスピアが創作したものですので、史実ではありませんが、当時のアーチェリー競技のあり方を知ることはできると考えます。

アーチェリーを練習せよという法律は1623年に廃止されます。1583年には 3,000 人の射手が参加していた競技は、1675年には350人にまで減ります。ただ、1/10となったといっても、アーチェリー競技の参加者数としては十分です。今日でも350人も参加したら全日本選手権レベルです。しかし、この参加人数では、フィンズベリーフィールドのような何キロ四方にも渡る膨大なアーチェリー練習場を維持することはできません。

(https://www.bowyers.com/より)

今日の地図とフィンズベリーフィールドだった場所を記したものです。めちゃめちゃ市街地ですね。ということで、国民(成人男子)の法定スポーツではなくなったことで、17世紀後半にアーチェリー競技はその規模の縮小だけではなく、競技場の面積の縮小、それに伴う競技形式の変更を余儀なくされます。また公共的なスポーツでもないので、政府が提供するアーチェリー場は少しずつ減っていき、自分たちで土地を用意できる貴族・ジェントリーのスポーツとなっていきます。


ロングボウと日本の弓

源平合戦図屏風, 国立博物館所蔵

11-12世紀の西洋で防具の進化に対抗するためにイングリッシュロングボウが誕生した当時、日本ではどうだったのか。和弓には全然詳しくないので、語るつもりはありませんが、一応知識として知っておかないと、と思いこの時代の専門家の本を読んでみると、諸説ありますが、西洋同様に甲冑が進化したのに対して、弓を強くするのではなく、武士を射るのではなく、騎乗する馬を狙う戦法が広がっていったとのことです。「首をとる」文化と「捕まえて身代金」文化の違いによる差異なのでしょうか。

一方、その傾向を「昔は馬を射るようなことはしなかったが、近年はまず馬の太腹を射て、跳ね落とされ徒歩立ちになった敵を討つようになった。」と嘆く歴戦の老戦士もいたようです(*)。

*高橋昌明「騎兵と水軍」,日本史(2) 中世Ⅰ,有斐閣,1978

日本の弓に関しては多くの専門家がいますが、この本の内容は非常に興味深かったです。特に、中世においては「弓」が戦闘の中心にあったが、豊臣秀吉の刀狩りは武装解除ではなく、身分制度の固定化が目的であり、明治では権力側(軍・警・官)が帯刀権を独占し、靖国刀などの軍刀にいたり、「刀は武士の魂」となったという流れは、自分にとっては新鮮な見方でした(*)。

*著者は別に日本刀をディスっいるわけではなく(財)日本美術刀剣保存協会で鑑定審査をしていた日本刀側の人です。

「驍勇(ぎょうゆう)絶倫にして、騎射すること神の如し。」

すげぇ。


イングリッシュロングボウとは何か – 歴史編. 6

マアラート要塞の奪取, Henri Decaisne, 1843

本当に書きたかったのはここからです(笑) 長かった…。

ここまでの話の必要性はここから回収しています。3はこの記事で、4はオリンピック競技の記事で、5は近代スポーツの記事に繋がります。さて、イングリッシュロングボウについて書く時、まず最初にwikiを見てみました。すると、

単に「弓」と区別されるロングボウという用語の最初の使用は、おそらく 1386 年の行政文書で、ラテン語で arcus vocati longbowes、「『ロングボウ』と呼ばれる弓」に言及しているが、原文の最後の単語の読み方は定かでない。英国のロングボウの起源については議論があります。

https://en.wikipedia.org/wiki/English_longbow

と書かれています。しかし、歴史編3で触れたように、石器時代の弓はすべてロングボウで、発明されるのはショートボウです。ロングボウが再発明されるためには、ショートボウの誕生と一般化によってロングボヴが一度歴史から姿を消す必要があります。その部分についての経緯が「短弓の誕生」です。4世紀ローマの軍事論(De re militari)には2種類の弓が登場しますが、それはサイズの差ではなく、軍事用の複合弓と訓練用の木弓です。

方言周圏論と呼ばれる理論があるのですが、簡単にいえば、文化的中心地から遠いほど文化は古く、近いほど新しいという考え方です。ロングボウの起源に諸説ありとする書き方がありますが、石器時代にロングボウがすでに存在したことを考えれば(*)、文化的中心地(イラク・ギリシャ・ローマ)から、最も離れたウェールズあたりに、ロングボウはその形状を残していたと考えるほうが妥当でしょう。

*アイスマンの弓の発見が1991年、その弓のポンドがシミュレーションによって推定されたのは2019年なので、20世紀の”イギリス発祥説”は限定された情報による推測が原因だと考えます。

キリスト教文化圏では4世紀頃から文献に戦争で使用された弓の記述が減っていきます。その理由としては鎖帷子や盾の進化によって、弓が武器としての有効性を失っていったためです。ただし、防具が発達していない異文化との戦争では活躍していたので廃れてはいませんでした。

ベリサリウス将軍の法律顧問として戦争に従軍ししたプロコピウスによって6世紀に書かれた「戦史」によると、ペルシャ侵攻で「ペルシャ兵はほとんどが弓の名手であり、非常に早く射つ事ができた。しかし、弓は弱く張られていたので、コルセットや鎧、盾に当たって矢が折れローマ兵を傷つけることができなかった。ローマ兵はいつも遅い、しかし、弓は強く張られているので、ペルシャ兵よりもはるかに多くの敵を倒した。その矢の威力を阻む鎧がないからだ」(*)と書いています。

*この時期、日本にも同様の弓術論が登場し始め、早さではなく、毒矢文化と比較されます。どの時期の話かは確定できないが新羅は400-900年頃に存在した国であった。

この国(新羅)の人は、一尺(30cm)ほどの矢に錘のような矢尻を付け、それに毒を塗って射るので、ついにはその毒ゆえに死にはするが、ただちにその場で射殺すことはできない。日本人は、自分の命を少しも惜しむことなく大きな矢で射るので、その場で射殺してしまうやはり兵の道は日本人には敵うべくもない。

日本古典文学摘集 宇治拾遺物語 巻第十二 一九 一五四 「宗行の郎等虎を射る事」

ジャン・ド・ジョワンヴィルによって書かれた「THE MEMOIRS OF THELORD OF JOINVILLE(王の記憶)」では、第五次十字軍(1217-1221)でサラセン軍が十字軍のクロスボウを脅威として避けていたという表記があり、全体で20箇所以上クロスボウについての記述があります。

新石器時代のロングボウの強さは40-90ポンドの強さと推定されていますが、1545年に沈没したメアリーローズ号から回収されたロングボウは研究によるものの、65-160ポンド、または、95-165ポンドとされています。2004年に更新された人間が引いたロングボウの強さの世界記録が200ポンドであることを考えると、キリスト教圏で発達した防具に対抗するために、訓練を受けた人間でやっと引けるほどの”強い”ロングボウが、イングリッシュロングボウと一旦定義することができます。

このタイプのロングボウがいつ登場したのか特定することはできませんが、弓に十分な強さがあれば盾や鎖帷子に対して有効だとイギリス軍(イングランド軍)が知ったのは1066年のヘイスティングズの戦いでした。この時の弓はイギリスと戦ったノルマン人の主要な武器でした。この戦いについて書かれたタペストリーを見ると、弓のサイズはロングボウと呼ぶにはすこし短いものの、国王ハロルド2世は矢に射抜かれ戦死します。

バイユーのタペストリー

戦争で有用性を認められた”強い”ロングボウはイギリスで普及しますが、34年後には国王ウィリアム2世が狩猟中に矢に当たって死亡します。しかし、次に即位したヘンリー1世は弓の練習中に起きた負傷・死亡事故を免罪する法律を制定します。さらに99年後の国王リチャード1世はクロスボウによって負傷し、10日後にその傷が原因で死ぬのですが、リチャード1世はその傷を負わせた敵の兵士を許し金銭まで与えました。弓がイギリス王族に寵愛されていたといったといっていいと思います。15世紀のフランス外交官で作家でもあったフィリップ・ド・コミンズは回想録で「イギリスではアーチャーは花形である」と書きました。

1252年にヘンリー3世紀は16から60歳までの市民(自由民)に弓と矢の所持を義務付け、1275年のウィンチェスター法で所有する土地と財産によってより明確に定義され、1623年に廃止されるまで続きます。所持だけではなく休日に訓練をするよう命じる法律も度々公布されました。

15世紀に書かれたクレシーの戦いの図(抜粋)、クロスボウのほうが仏軍。

1346年のクレシーの戦いではロングボウの大活躍でイギリス軍は3倍の兵力があったフランス軍に対しての圧倒的な勝利に終わります。“強い”のロングボウを使用した作戦を、フランス軍が模倣しなかった理由は貴族的認知にあったとされ、平民によって構成されるロングボウに貴族騎士が大敗したとは考えませんでした。ここでフランス軍がロングボウ隊を模倣していたらロングボウはイギリスのものにならなかったかもしれません。

クレシーの戦いではイギリス軍の騎兵は下馬して戦いました。フランスにも弓兵を訓練するのに十分な時間が与えられた10年後に行われたポワティエの戦いで、フランス軍は”強い”ロングボウ隊を模倣するのではなく、騎兵が下馬して戦うことを模倣しますが、より一層大敗しフランス国王は捕虜になります。これによってフランスの政治自体が混乱に陥る。百年戦争とまとめられる一連の戦いは、終盤に大砲の登場、リシュモン大元帥によって編成されたフランス砲兵隊がイギリスロングボウ隊を圧倒しフランス軍の勝利に終わるのですが、フランス軍は最後まで”強い”ロングボウを使用しませんでした。

現代の軍事研究において、イギリスの野戦で圧倒的連勝は再評価され、ロングボウという弓の圧倒的な武器としての優位性による勝利ではなく、騎兵と歩兵の連携と指導者の優れた統率によるものであるとされますが、中世のイギリス国民は現代の軍事研究家ではありません。ロングボウに対する王族の庇護と、対仏戦争でイギリスにもたらした圧倒的な勝利という結果によって、自他ともに”強い”ロングボウは”イングリッシュ”ロングボウとしてイギリスの象徴となります。

Royal Company of Archersの紋章

エリザベス1世の家庭教師で王家に仕えた教育学者のロジャー・アッシャムによって1545年に書かれ、ヘンリー8世に捧げられた「Toxophilus(弓の愛好家)」は最初の英語によって書かれたロングボウの本です。その中で著者はロングボウについて「英国人のために、英語で、英国の問題について書く(I have written this English matter, in the English tongue, for Englishmen.)」としました。その後19世紀まで10冊以上のガイドブックが、この本に触れながら英語によって書かれます。1822年にはアーチェリー団体「Royal Company of Archers」がスコットランド君主の近衛兵に任命されますが、既に銃火器の時代であり、イングリッシュロングボウ隊は警護ではなく、イギリス貴族の象徴として任命されたと考えるのが妥当でしょう。16-17世紀、武器としての優越性を銃火器に引き継いだアーチェリーは貴族のスポーツとなっていきます。


弓が神に忌み嫌われる – 歴史編. 5

「黙示録の騎士」 ヴィクトル・ヴァスネツォフ作 1887年

これまで書いてきたように競技ではギリシャの英雄が、戦争では那須与一が神に祈って矢を射ていました。狩猟を行う民族も多くは狩猟前に神に祈りをささげます。アイヌ文化では矢を射る前に「おお、聖きケレプ・ノエ(男毒神)矢よ、汝は勇敢なる神である。」と呪文を唱えます。今日、弓道と宗教の関係は柔道のようにはっきりとしたものではないが、アーチェリーは完全に宗教と関わっていません。

過去にはアーチェリーと宗教の関係はギリシャ文化のみでなく、カトリック教会とも繋がりを持っていました。聖書のヨハネの黙示録で弓は勝利の象徴とされていました。しかし、11世紀に、突如、弓はキリスト教から排除されます。

1097年のラテラノ教会会議でクリスチャンに対しての弓の使用がローマ教皇ウルバヌス2世によって非難され(*)、1139年に1000名以上の聖職者が参加した第2ラテラン公会議にて公布された30条のカノン(教会法)でアーチェリー(羅:sagittariorum)とクロスボウ(羅:ballistariorum)によるクリスチャンの殺傷を禁止。使用したものは破門するとしました。同様に貴族の騎馬試合も禁止されました。

*ローマ・カトリックの司祭でドイツの神学者であるカール ヨーゼフ フォン ヘーフェレはその著書でこれは武器としての使用ではなく、売春婦も参加した世俗的な射撃祭(歴史編.4参照)を禁止措置であるとしているが根拠は示していません。

議事録が残っていないため、禁止された理由は諸説あります。騎馬試合と同様に十字軍に集中させるためという主張もありますが、クリスチャンに対してのみ禁止され、異教徒への使用が認められた理由として、弓の進化による威力が増大し、騎士にとって驚異となったことが原因とする主張が一番支持されています。また、日本にも同様の記述が見られます。

十字軍でのクロスボウの活躍によって、12世紀のイタリアでクロスボウの人気が急上昇しました。当時の進化したクロスボウは鎖帷子に対しても十分に殺傷能力があり、騎兵を倒せます。しかし、クロスボウは馬上ではコッキング(引いて固定する作業)できず、騎兵ではなく、歩兵の武器でした。歩兵は騎兵よりも圧倒的に身分が低く、騎兵(貴族)が歩兵(市民)によって殺傷される事は嘆かわしいものでした。

同様の事態は12世紀の日本の平治の乱を描いた平治物語でも

楊斎延一 作「重盛義平紫宸殿外戦之図」

今たとい敵にかけあうというとも、かいがいしい事はなくて、雑人の手にかかり、遠矢に射られて討たれんこと、嘆きのうへのかなしみ也

古活字本平治物語, 日本古典文学大系 第31, 1961

と、雑人は身分の低い人ですので、ヨーロッパだけではなく、日本でも同時期、武士が平民に矢で撃たれることは嘆き悲しみであったことが伺われます。

教会法(カノン)の中で弓術は「羅:mortiferam(致命的)」であるとされているのですが、ヨーロッパの貴族は刃物を名誉的な武器としていました。騎士道的な精神性もそこにはありますが、実利として、相手を落馬させて手加減することで技量の高さ・度量の広さを示し、また相手が貴族なら殺さずに捕虜とすることで身代金を得ることができたのです。それに対して、相手の身分関係なく、無差別に相手を死傷させる矢は無慈悲な武器としても非難されました。

禁止令ののち、「神が忌み嫌う」弓とカトリック教会との関係が薄れていきましたが、クリスチャン以外には使用できたので教会としても弓の所持は禁止しませんでした。そのため、カトリック文化圏でいち早く、アーチェリーとクロスボウの規制・管理は文化や宗教ではなく、国家に委ねられ、アーチェリーが「国」を境界線として違ったものになっていきます。

また、実在が確認できないので物語としますが、14世紀頃のロングボウを使用したロビン・フット、クロスボウを使用したウィリアム・テルはどちらも、反権力的な物語の主人公でした。平民が貴族を倒せることから教会権力に呪われた弓は、平民の間で反権力の象徴として物語の中で活躍することとなります(*)。

*実際に弓を使った一揆は確認できていない

死を示す反転した紋章とクロスボウ

ラルフ・ガルウェイは著書で1189年から1199年にかけてイングランドで弓のクリスチャンへの使用が再開されたと書いています。同じく1139年の公会議で教会によって禁止された騎馬試合が国王のリチャード 1 世によって1192年に再び許可された記録があるので、この時期に弓の使用も再開されたとするのは妥当でしょう。ただ、皮肉なことに、国王リチャード1世は1199年にクロスボウによって負った傷で死亡します。この死について、弓の使用を禁止していた教会に背いた天罰であるとの考えがあったようですが、それによって弓が再度禁止されるには至らなかった。カトリック文化圏における他の国でも、この頃に弓の武器としての使用が再開されます。


最古の弓術競技 – 歴史編. 4

楊洲周延 作 那須与一

人民に披露する形式での競技は、記録されている限りでは第二回目に書いた紀元前1429年頃に行われたものですが、勝者を決める競技形式で完璧な記録が残っているのは、紀元前8世紀にホメロスによって書かれた「イリアス」のなかにあります。

この本は紀元前1700から1200年頃と考えられているトロイア戦争に関する口承をもとにしていると考えられています。そのため、完璧な史実として扱うことができないのですが、この本がその後ギリシャにおいて好れ、幼い子どもに暗唱させる教科書的な存在ですらあったことを考えれば、そこで描かれた弓術のあり方間違いなくそれ以降の弓術に大きな影響を与えています。

近代スポーツとしてのアーチェリーが生まれつつある18-19世紀にイギリスで書かれたアーチェリーガイドブックの多くは、ここに描かれている競技をアーチェリーの始まりとして紹介しています。

Archers in Avignon, 17th century.

イリアスでの競技は死者の魂を慰めるために行われた葬礼競技の一つで、現代のポピンジェイ(Popinjay)という競技に非常に似ています。この競技は1920年のベルギーオリンピックでも行われており、現在でも伝統スポーツとして競技されています。

ホメロスの記述によると、「砂浜に少し離れた場所に船のマストを立て、細い糸で鳩をマストの上に縛り付け、これを彼らの的とした(23章)」。射法としては別の章ではあるが「矢のノックを牛皮の弦の上に置き、ノックと弦の両方を胸に引き寄せ、矢じりを弓の近くまで引いた(4章)」とあります。まさに上の絵のような競技です。

この初期に記録された競技はその後の古代ローマではそのままの形式が行われましたが、中世には本物の鳩ではなく、木製で作られた鳥が使われるようになり、「ポピンジェイ」という言葉は、オウムを意味するポルトガル語の「papegai」から来ているとされます。

そして、この競技の勝敗は神に祈りを捧げなかった(子羊を捧げることを約束しなかった)弓の名手とされたテウクロスが的を外して、神に祈りを捧げたメリオネスが勝利することとなる。祈りとは宗教的な行為ですが、祈ることで神のもとでの平等を得ます。神への祈りが競技に導入されたことで(*)、逆に競技に平等性をもたらされます。後輩が先輩に勝っても、それは無礼なのではなく「神の思し召しである」ならば、だれにも遠慮することはないわけです。

*もう少し研究が必要だとは思っていますが、ホメロスが記述家としてシーンを盛り上げようと盛って書いた事が、結果論として神への祈りを競技に導入したと考えています。その前のファラオは現人神であるため、神に祈る必要はない。

ちなみに、日本の平家物語にある有名な那須与一の扇の的を射るときにも、射手は矢を射る前に神に祈りを捧げています。

安達吟光 作 那須与一

「願わくはあの扇の真ん中を射させてください」(中略)と、心のうちで神々に祈って、さて目を開くと、風も今折りよく少し静まったようである。

土田杏村 著 ほか『源平盛衰記物語』,アルス,昭和2,国立国会図書館デジタルコレクション

この平家物語もイリアス同様に、嘘とは言わないが、盛り過ぎ疑惑がある作品です。普通に考えても、那須氏が心のうちで祈った文言が作者わかる訳はないわけで…まぁ、そんな細かいところはともかく、このような共通点があるのは興味深い&祈りの価値がギリシャと日本では異なるのかなどは気になるところです(いつか調べます、いつか)。

さて、このマストの上の鳥を射る競技に必要な弓術は高低差シューティングです。そのため城を攻める・守るための格好の軍事訓練ともなります。フランスでは924年に市民たち皇帝ハインリッヒ1世から市民防衛団を設置する特権を得て射撃協会を作ります。競技形式は同じでも、鳥はマストになく、実戦で使用する市民が実際に住む地区の城を使って行われました。協会は日々市民に訓練を行い、年に一度の賞品付きの射撃祭を開催しました。お祭りはその規模を広げ、1470年のアウクスブルグ射撃祭は1週間行われ、射撃競技だけではなく、競馬、350歩競争、助走あり幅跳び、三段跳び、45ポンドの石投げなどが同時に行われています。

The Governors of the Honourable Archers’ Guild in Amsterdam,1653

ヨーロッパの各都市によって開催された射撃祭には招待状が友好都市にあてられたが、開催側の城を使用する以上、招待状には賞品とともに、正確な競技規則と競技条件が記されていました。当時、貴族競技としての馬上槍試合には家門証明が必要だったのですが、射撃祭の賞品は上級貴族から都市民だけではなく、ほかの都市に住む者、下層民や農民にも与えらていました。また、勝者は税金が免除されるなどの特権を得ることもできました。この絵画では射撃祭の勝者が賞品を手にしており、足元にはアーチャーの成績を記したボードが置かれています。後ろの従者はロングボウを持っています。

10世紀の射撃祭は弓で行われ、その後12世紀頃にクロスボウが加わり、火縄銃も16世紀頃に加わります。ドイツでは1300年頃から射撃協会が結成され、同様の射撃大会が行わています。現存する最古の射撃協会のひとつにフランスのアミアンボウカンパニー(Compagnie d’arc d’Amiens)があります。1117年頃に起源を持ち、射撃祭を18世紀まで開催していました。前述のように都市防御を担い、射撃祭で優勝したものには免税などの特権が与えられた団体であるため、特権アレルギーのフランス革命の影響で1790年に解散を命じられます。1803年に競技団体として再出発し、ポピンジェイを継続して行い、その後、フランンアーチェリー連盟に加盟し、2012年にはこの地で全仏ターゲット選手権が開催されています。フランスでは明確にフランス革命がきっかけとなり、射撃団体は純粋な競技団体として再定義されたのですが、近隣諸国でも同様に民主化の流れの中で都市の特権団体から競技団体になっていきます。

20世紀初旬の歴史でこのパートは再登場しますが、射撃は野戦ではなく、城壁防御のための軍事訓練を兼ねていたため、多少の違いはあれど、競技形式は50フィート(約15m)から30m程度の近距離の高低差がある的を射るもので、短距離競技をしていたというところだけでも覚えておいてください。


短弓の誕生 – 歴史編. 3

弓を長さで分類した人が誰かなのかはわかりませんが、少なくとも現在、短弓と長弓という言葉が存在はしています。ちゃんとした論文でも登場する言葉ですが、一般的な意味で定義されずに使用されています。この記事では、この定義をしたいと思います。ここまで「アーチェリー」「洋弓」「弓術」と定義ばかりしていますが、正しく語らないと話が進まないのでもう少しお付き合いください。

アイスマンの弓(© Südtiroler Archäologiemuseum/ – Harald Wisthaler. Harald Wisthaler. www.iceman.it)

1991年に アルプス山脈で発見されたアイスマンと呼ばれるミイラ化した遺体と同時に回収された5000年前の弓の長さは、所有者の身長が159~163cmであると推測されているのに対して、183.5cmもあるイチイ製のものです。ヨーロッパ各地で発見された新石器時代の弓の強さは40ポンド~90ポンドであると推測されているのですが、引かれるとき弓は長いほど素材にストレスがかからず、簡単に作ることができるため、ほとんどが人間の身長と同じくらいであり、初期の弓はすべて長弓であると”します”。

*毒矢を使う狩猟法をメインとする文化では、物理的な長さが”短い”弓が存在していますが、この定義ではこれも長弓と分類します。

なぜ、初期の弓をすべて長弓と定義するかといえば、自分で調べた限りでは、より「長い弓」を作ろうとした文明がなかったからです。紀元前4000年ほど前まではどの文明においても成人が使用する弓の長さは、その地域に適した1種類しかなく、他に発掘されるのは非常に弱い成人用に比べて短い弓だけで、これは短弓というよりは、子供の練習用の弓とみなすべきでしょう。そのため、紀元前4000年までは長弓=弓、短弓=子供用のおもちゃだったと考えられます。

Karl Chandler Randall, Origins and comparative performance of the composite bow, 2016

しかし、より「短い弓」を作ろうとした文明は明らかにありました。上記は紀元前4000年~紀元前2000年頃のエラムとメソポタミア文明において残っている弓が描かれている絵を分析したデータです。長さが相対的なために、描かれている人物の身長を170cmと定義した時、紀元前3800-2400年における弓の長さの平均は113cmであり、紀元前2300-1850年頃には82cmまで短くなっています。この期間にメソポタミア人の身長が変わっていないとすれば、弓が30%以上短くなったことが示されています。

この変化は当時登場した戦車を使用した新しい戦略のために、不安定な足場で使用するのに適した弓が必要になり、この弓術的な要請によるものだと考えられています。狩猟において自然と相対する時、動物の獲物は大きく変わらないわけですから、弓の形状は固定化されますが、人間が相手の場合には知恵比べになり、それによって短弓が生まれます。後述しますが、この後の弓の変化も人間の変化によるものです(騎士が鎖帷子から鎧を着るようになったため)。

弓の強さを維持したまま短くすると、素材に大きな負荷がかかるため、セルフボウ(単一素材)では技術的な限界があり、複数の素材を組み合わせたコンポジットボウがこのときに誕生します。

考古学的な資料によってはコンポジットボウの誕生に焦点を当てますが、レビットが言うように「ドリルが欲しい人はドリルが欲しいのではなく、穴が欲しい」のであって、コンポジットボウの誕生にはその製造技術の進歩が当然必要だとしても、それ以前に「短い弓」がほしいというニーズが先にあってしかるべきで、そのニーズが初めて生まれたのが、人間が歩射から騎射と分類できなくもない、(当時なのでポニーのようなものだったと思うが)馬に引かれた車の上から射るという新しい弓術の要請によって、「短弓」が生まれ、この時代に「弓」が「長弓」と「短弓」に分かれます。

*洋弓の歴史なのでヨーロッパ全域はさらっていますが、他の地域ではこの限りではないかもしれません

チャリオット(戦車・戦闘用馬車) - カデシュの戦いで戦車から戦うラムセスII世

つまり、人類学的な研究のように弓の長さを測定して短弓と長弓に分類するべきではなく、その弓が「長い」のか「短い」のかは弓術の中に境界線があるのです。見た目ではありません。実際、和弓において短弓と長弓の境目は6尺(182cm)にあり、66インチ(168cm)のイングリッシュロングボウは短弓です。

「元始、女性は太陽であった」なんて言葉がふと思い浮かびましたが、元始、弓はすべて歩射に適した長さの弓であり、その後、騎射が生まれたことでより短い弓が必要となり、短弓が開発され、区別するため、ただの弓は長弓と呼ばれるようになったのです

*古代中国などでは複合素材の短弓が誕生したことで単一の素材の長弓は駆逐されました。しかし、日本にもこのタイプの弓は伝わったものの、和弓はその製法に複合素材を取り入れただけで、弓が短くなることはありませんでした。高橋昌明は著書にて「すでに述べた馬上で扱うには長大すぎる弓であっても、立射を可能にする鐙と鞍橋の出現によって、ある程度難点を補うことができたわけである(武士の成立 武士像の創出 p.284)」としています。

アンダマンの弓

複合素材の弓は製造が困難であり、湿度に弱いことが欠点でした。そのためにギリシャ・ローマ時代では、セルフボウはトレーニング用に、本番・戦時には複合弓が使われるようになります。また、湿度が常に高い地域や騎射文化がそもそもない文化では短弓への移行は起きませんでした。


弓術はいつ誕生したのか – 歴史編. 2

Cave of Archers(エジプトにある紀元前4300年から3500年に書かれた壁画)

弓術の前には弓と矢が必要なわけですが、それがいつ誕生したのかは考古学者さんたちの素晴らしい仕事によって変化しています。1964年に出版されたアーチェリーガイドブックでは、スペイン半島の1万数千年前の壁画が最古の史実とされています。その後にも多くの発見があり、現在では、1983年から発掘調査が行われているシブドゥ洞窟(Sibudu Cave)で発見された7万年以上前の矢じりなどが最古のものとされています。弓と矢は10万年以上前から使用されていると”推測”されているので、さらにときが経てば、この記録はさらにより古いものに更新されていくのでしょう。

しかし、弓と矢がありそれを引けば弓術であるとは流石に言えないでしょう。ある程度にはまとまりを持つ技術体系でなければ弓術とはなり得ないと考えています。

今回の一連の記事はいろいろな分野の研究結果を統合したもので、多くの研究は読んでいて納得でしたが、日本の文献の多くが「弓と矢があれば弓術は発生した」と議論もせず決めつけているのには違和感しかありませんが、このパートは自分でもさらに研究しなければいけないと思っています。

では弓術はいつ誕生したのか。人間板挟みになると屁理屈をこねるようになるもので、実利と神意の板挟みになった中世ヨーロッパには正戦論なるものがあり、その到達点は「勝った戦いは正しい戦い」でした。同様にフリィピン諸島のイフガオ族は「獲物に当たるかどうかは神の意志と魔力によるものであり練習はせず、調子を保つ努力もしない」と報告されています。

弓と矢があり、それによって狩猟が行われていたこと、それ始まりが約10万年前ほどであることはわかっているのですが、19世紀にニーチェが神を殺すまで、「的に当てるため(獲物を得るため)に弓の練習し、上達し、それを子孫に語りつこう」という考えが一般的だったとはいえません。10万年前のとある日、獲物を外して帰った後のアーチャーは弓の練習ではなく神に祈るほうが一般的だったのではないかと思います。ここに弓術は存在しないでしょう。

The Amenhotep II stela at Karnak Temple (ルクソール所蔵)の1929年の写し

これは的あて競技として最古の史料である紀元前1429年頃のメソポタミア文明(エジプト)の石碑です。描かれているのはエジプトのファラオ、アメンホテプ 2 世で、戦車に乗り長方形の的に狙いを定めているところが写し出されています。紀元前5世紀のヘロドトスはその著書「歴史」の中でエジプトではファラオが国民を集め、王族の「技量」を披露するために賞品つきの競技大会(gymnastic games)を開催していたと書いています。王族が主催し、王族が腕前を披露する競技大会なのですが、競技と弓術との関係をどのように読み解くべきか、直接の文献がないので解釈が非常に難しいです。

次の記事で扱うことになると思いますが同時期くらいの競技について書かれたイリアスでは、鳩(的)に当てたのは「神に祈った」ほうでした。つまり、的に当たる(当てさせる)のは技量ではなく神意なのです。

石碑から王族が競技を主催し、的あてを披露していたことは間違いないのですが、それは「的に当たる=弓術が上手(技量)」を披露するものではなく、正戦論的な「的に当たる=自分は神(ファラオ)」であることを披露する儀式的競技であった可能性が高いです。その場合、練習はしなかったでしょう。まぁ、したとしてもコソ練であるはずなので、文献に残っている可能性は絶望的です。

この点はキューピットに見ることもできます。矢に当たったものは恋しちゃうらしいのですが、この絵に描かれているよう(目隠し)、その的中は恣意的なものであり、キューピットが弓術の練習に勤しんだという記述はありません。キューピットが百発百中では成立しない話もあります。「当たった事で恋をする」「当たったことが神意である」の時代において、弓術と呼べるもの技術体系が存在していたかはわかりません。

競技に対する練習に言及した文献としてプラトンの「法律」があります。これは対話形式ですが、意訳すると

(意訳 8章 828)競技の前に戦い方を学び競技に臨むべきだ。練習するのをおかしいと思う人がいるかもしれないと心配するべきではない。国防のためにも国全体にそのような法律を制定すべきだ。

とかかれています。競技のための練習をしようというプラトンの主張なのですが、なぜ、今は練習をしないのかというと、

(8章 832)支配者は被支配者を恐れて、被支配者が立派に豊かに強く勇敢になることを、そして何よりも戦闘的になることを自分からはけっして許そうとはしないからです。

と書かれています。ただ、このプラトン以降、ギリシャでは明確に競技のための練習がなされるようになり、儀式的な競技が実用(戦争)的な競技になります。競技結果はもう神意である必要性はなく、弓術もこの時代にはあったのは間違いありません。

弓術は紀元前400年頃にはあったと言えますが、これをどれだけ古くまでたどれるのかは今後の課題としたいと思います。


アーチェリー、洋弓、弓術- 歴史編.1

射覚 13(11), 大日本射覚院, 1938-11

アーチェリーの歴史を書こうとする時、まず考えなければいけないのはアーチェリーって何なのかという話です。英語の「Archery」は弓術を意味していて、英語のウィキペディアによれば「歴史的に、アーチェリーは狩猟と戦闘に使用されてきました。現代では、主に競技スポーツや余暇活動です。」とされています。弓術の歴史を書こうとするなら、自分にはその資格も能力もありません。これから書いていくのは日本語のアーチェリーの歴史です。

現在、日本ではアーチェリーは弓術ではなく、洋弓と翻訳されることがあります。アーチェリーが弓術として日本に紹介されたのは大正時代ですが、言葉としてのArcheryはもっと昔から知られており、アメリカ人によって書かれた初の和英辞書では「射(しゃ、いる)」と翻訳されていました。しかし、さすがに適切な訳ではなかったため、昭和2年に出版された「欧米体育史」では、Archeryを弓術、Huntingを狩射的と翻訳されるようになり、定着します。

弓道辭典(ア之部) 道鎭實,『弓道講座』第四卷,雄山閣,昭和12.

戦前は主にイギリスから伝わったアーチェリーは弓術として、アメリカを通じて日本に紹介されたアーチェリーは区別のため米国式弓術と呼ばれるようになります。

1930年代の弓道の雑誌(*)を見てみると、メリーランド州のアーチェリークラブは弓術部として訳されていて、試合形式は「米国式」コロンビアラウンド40ヤード、「米国式」スコアリングといった表記が見られます。この時点では日本に紹介されたのは、洋弓(西洋の弓術)というふわっとしたものではなく、米国式弓術であると正しく認識されていたことが伺えます。

*大円光15(1)1939年、大日本弓道15(11)1940年でも同様の表記

しかし、戦後の1947年には日本洋弓会が設立されます。ここに突如、洋弓という言葉が現れるのです。言葉の変化はこの間にあります。1952年の「洋弓を語る(菅重藏)」という記事では、いささか言葉がごちゃまぜになっています。Archeryを弓道/洋弓/弓とは別々に使用していて、細かく分析してみると、Archery Club=弓道会、American Archery(米国式弓術)を洋弓、それ以外のArchery(インディアンの弓術など)を弓と使い分けているようです。

米国式弓術という正しい戦前の表現が言い換えられた理由は記録に残っていないものの、敵性語であったためと考えています。英語を勉強するときにお世話になっている「旺文社」は「欧文社」という社名でしたが、「欧」は敵の言葉であるため(ヨーロッパにも同盟国いたような…まぁ)、社名が変更されました。言葉が近いところでは、「東和女学校」が「東和女学校」に名称を変更しています。「英」はだめだが、「洋」は見逃されていたようです。

敵性語は法律等で禁止された法的根拠のものではなく、対米英戦争に向かうなかで高まっていくナショナリズムに押されて民間団体や町内会などから自然発生的に生まれた社会運動である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E6%80%A7%E8%AA%9E

このような状況である以上、「諸説あり」との括弧付きになるのでしょうが、戦前に弓術や米国式弓術として日本に紹介されたArcheryは、「米国式」が敵性語であることから戦時中に洋弓という言葉に言い換えられたとしか考えられないでしょう。

*常識的に考えればアメリカのアーチェリークラブでロングボウに出会った菅氏が、日本にそれを持ち帰ったときに、「これが西洋の弓である」「洋弓である」なんて大風呂敷を広げるわけもなく、「米国にこんな弓がありまして」くらいで紹介したでしょう。

近年、Archeryは洋弓ではないという事が徐々に知られ、アーチェリーと訳されるようになります。日本洋弓会は1956年に日本アーチェリー協会に改称されます。

以上により、ここでのアーチェリーの歴史は弓術の歴史ではなく、いかにして、洋弓(英国式弓術)とされたものが誕生し、それがアメリカにわたって米国式弓術となり、現在のアーチェリー(洋弓)となったのかというお話になります。


アーチェリーの歴史(16世紀まで)

Ramasseurs de flèches(抜粋*) p 192/596

草船借箭なんてお話も三国志にはありますが、(相手の矢を頂いちゃう)それとは違い、これは中世の戦争において、相手の騎馬隊の突撃の合間に、さっき射た自分たちの矢で外れたものを再利用するために拾う矢拾い(Ramasseurs de flèches/アローコレクター)という仕事をする人たちです。イギリスのアーチャーは24本ほどの矢をクイーバーに入れていましたが、1本30秒ルールなら10分くらいで使い切っちゃいますからね。画家もなかなかいい仕事をしていて、矢(フレッチャーされたシャフト)とボルト(クロスボウ用の矢で羽根はない)をちゃんと描写しています。

アーチェリーの歴史に関してはほとんど文献・研究が日本では存在していないです。自分が見つけたのは50年以上前に書かれた論文「アーチェリーの発達について(PDF)」の1つだけです。チューニングマニュアルを書いたときにも思ったことですが、今があるのは先人たちの積み重ねがあってこそであり、歴史をしっかりと整理することには意味があります。そこで昨年からアーチェリーの歴史についてまとめてきました。

アーチェリーに関する研究はなかなかひどいもので、未だに100年以上前のモースの論文が引用されていたりします。地中海/蒙古/ピンチ式などを分類した人なのですが、論文の中身はなかなか雑です。もちろん彼を責めるという意味はなく、彼自身、自分の研究はこれまで研究されてこなかった分野で革新的ではあるが、不完全であることを、より多くの研究者がこの分野に目を向けてくれるようにするために、とりあえず発表すると書いています。

I am led to publish the data thus far collected, incomplete as they are , with the intention of using the paper in the form of a circular to send abroad, with the hope of securing further material for a more extended memoir on the subject.

Edward Sylvester Morse, Ancient and Modern Methods of Arrow-release, Essex Institute, 1885, p 4

まぁ、結果としては研究が頻繁に引用され、この論文をより詳細に仕上げる人は今日まで現れていないのですが、自分にできることがあれば、今後の課題としたいと思っています。

さて、17世紀からのアーチェリーは何度もこのサイトで記事にしています。そして、先週、石器時代から16世紀までのバージョンも仕上がりました。16世紀までのいわゆる前編は、現在のアーチェリーの基礎になったイングリッシュロングボウとは何かを定義する話になっています。これを既存の記事たちと繋げれば、アーチェリーの歴史として完成すると思います。

ただ、ちゃんとした記事を書こうとすると、引用や注釈ばかりになって非常に読みにくいです。そこで和弓の人たちはどうしているのか調べてみたところ、ちゃんとした論文を書いて、別に発表し、それを引用するという形で、別途、かたくない文書で和弓の歴史を書いているようなので、自分もそのやり方を模倣しようと思います。下記はちゃんとしたバージョンです。今後、何本かアーチェリーの歴史についての記事を書きますが、いちいち根拠を書きません。それらの記事に疑問や根拠を知りたい場合には、こちらのPDFをまず確認してください。それでもすっきりしない場合はコメントを下さい。

アーチェリーの歴史(PDF 4MB)

*本にページ数が示されていません。フランス国立図書館で公開されているものをPDFでダウンロードした場合、192/596ページにあります。Chastellain, Georges,« Passages faiz oultre mer par les François contre les Turcqs et autres Sarrazins et Mores oultre marins », traité commencé à être rédigé à Troyes, « le jeudi XIIII e jour de janvier » 1473, par l’ordre de « Loys de Laval, seigneur de Chastillon en Vendelois et de Gael, lieutenant general du roy Loys l’onziesme… gouverneur de Champaigne… par… SEBASTIEN MAMEROT de Soissons, chantre et chanoine de l’eglise monseigneur Saint Estienne de Troyes » et chapelain de Louis de Laval, 1401-1500, https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b72000271/


なぜ戦前の日本語が読めないのか?

1883年5月29日付土陽新聞

(アーチェリーに関連のない記事です)

調べ物でイリアスを読む必要があり、古くある本だから、青空文庫とかで無料版あるかなと思ったらありました。しかし、これが読めない…

次に弓射る者のため暗緑の鐵賞に賭け、
兩刄の斧と片刄とを各々十個取り出し、
而してはるか沙の上、引き上げられし黒船の
はしらを的と打ち定め、そこに可憐の鳩一羽、
細き糸もて足繋ぎ之を射るべく命下す。(イーリアス 土井晩翠訳 1940発行)

https://www.aozora.gr.jp/cards/001099/files/46996_40612.html

たった、80年前の日本語が全然読めない(私の知的レベルの低さは認めます)のです。なんで、戦前の日本語がこんなにも読めないのだろうかと思い、軽い気持ちでネット検索したのですが、全く的を得た答えが見つかりません…。シェークスピアが悪いとか、GHQの陰謀とか…。

という事で、自分で調べみましたという記事です。

答えから先に書きますと「偉そうな文書を書きたかったから」です。(土井さんの文書は翻訳ですので、偉そうな文書を選択したのは、原文にそういうニュアンスがあり、忠実に訳したのかはラテン語の知識がゼロなのでわかりません)

以下、もう少し詳しく。

江戸時代には「話し言葉」と「書き言葉」がそれぞれに別に存在したのですが、明治時代にそれを一致させよるという言文一致と運動がおきます。一致させるといっても、2つで仲良くするのではなく、書き言葉を話し言葉に寄せていこうという運動です。移行期の明治時代の小説家は両方の言葉で小説を書いていたりしていました。

(書き言葉) 石炭をば早や積み果てつ。(森鴎外,舞姫,1890)

(話し言葉) 金井しづか君は哲学が職業である。(同,ウィタ・セクスアリス,1909)

帝国教育会の有力者によって結成された言文一致会が明治43年12月に目的を達成した事により、解散したことから、この運動はだいたい明治時代に終わったと見ることができます。なので、もし明治の文書が読めない・読みにくかったら、その理由は書き言葉が話し言葉に統一される前の文書だからと言えると思います。

さて、この運動に乗らなかったのは、権威側の人達でした。最たるものは法で、なんと2018年という驚異的な記録です。

六法ようやく口語体で統一へ 「スルコトヲ得」やめます

ちょっと抵抗したのはエリート層の新聞で、大正10年~11年になって東京日日(現・毎日)と朝日が口語化します。記事の最初の方でGHQ陰謀説が出る理由はおそらく、明治に口語化がなされ、大正のなって新聞が改めたあとでも、天皇の詔勅(しょうちょく)は伝統に則って書き言葉を用いていたのを、戦後

敗戦によるきびしい歴史的な現実に遭遇するに至って、その基盤であり支えであった前近代的な残存権力の崩壊、それに代わる民主的なものの興起と共に、ようやくそれらの残存文語体文(書き言葉)も一掃された。

山本正秀, 言文一致文の歴史と特色,日本文法講座 続 第3 (文章編), 明治書院, 1958, p 278

といった流れがあったために、まぁ、GHQの陰謀と言っても間違いじゃないっちゃ間違いじゃないとは思います。天皇の御言は伝統的なものでわかりやすさを重視する必要があるのか疑問ですし、わざわざ口語化する必要があったのかは個人的にも疑問ですので、間違いなくGHQの陰謀です!!

ということで、以上の流れから私の理解としては、

明治時代のわかりにくい文書 → 昔の書き言葉だったから

大正時代のわかりにくい文書 → エリートっぽさをまだ出したかったから

昭和時代敗戦までのわかりにくい文書 → 偉そうな文書を書くためにあえて使った

戦後のわかりにくい文書 → よく頑張って耐えた抜いた!!偉い!!

と考えるのが妥当ではないかと思います。

英語に関してはこのような問題は言語単体としてはないですが、ラテン語との対比においては同じ構造があります。17世紀の科学者ニュートンは「自然哲学の数学的諸原理」をラテン語で、「光学」を英語で書いています。

参考文献 言語の標準化を考える : 日中英独仏「対照言語史」の試み 高田博行, 田中牧郎, 堀田隆一 編著