もう一つのきっかけは、心理的な距離です。弓の研究者3名によって編集された「ARCHERY:The Technical Side (1947)」の序文には「古参のアーチャーの中には、何世紀も前の高貴な遺産であるイギリスのロングボウに改良の余地はない、という考えを公然と表明している人もいる。その設計の正しさを問うことは、冒涜に近いものである」と書いています。当然、同時期に日本にも古典力学はもたらされますが、それによって和弓が改良されなかったように、イギリスの象徴であるロングボウはイギリスでも変わらず、遠く離れたアメリカですら、ベテラン勢には冒涜に近いものとして、1920年代にアメリカで最新の物理学を使ってロングボウを改良する研究が進んでいきます。
*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22
ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。
当時のアーチェリー大会は現在のものとは大きく違い、Royal British Bowmenは、独自のテントと召使を伴って、会員のカントリーハウスを巡回して競技を行いました。会員たちはこの日のために作曲された新しい行進曲を演奏し、旗を掲揚して、二手に分かれて射場まで行進し、会員が射場に到着すると、21門の銃による礼砲が発射されました。矢が的の金の中心に当たると、多くの協会がラッパを鳴らし、月桂樹の葉、中世的な称号、銀のラッパ、矢、メダルなどの賞品が優勝者に贈られます。
さらには、チャーティスト運動などで貴族と労働者が対立するようになり、(批判されることを避けるため)豪華絢爛な社交場の開催を民衆の目につくようなところで行うことが難しくなり、アーチェリーして飲み会という流れがあまり一般ではなくなっていき、貴族の社交場という役割を終え、閉じたコミュニティではなくなり、純粋にアーチェリーだけを行う大会が増えていき、1844年に初めての全国大会Grand National Archery meetingが行われ、統一した国内ルールの整備に向かっていきます。こうして、フィットネスを兼ねた社交競技から純粋なスポーツへの道を歩んでいくことになります。