シングルラウンドの終焉から、1対1へ

下記の2つの記事を先に読むことをおすすめします。

1988年のオリンピックからダブルFITAラウンドから、シングルFITAラウンドからの、グランドFITAラウンドという各距離を8射(計36射)してのノックアウト方式、現在もベガスシュートの決勝で用いられている形式のフォーマットが導入されます。前の記事で、WA(FITA)は競技団体ではなくIOCの味方であると書きましたが、各国の団体も概ね賛成だったようです。全ア連の見解を見つけることができませんでしたが、1988年のオリンピックのホスト国の韓国で賛成多数で決まっています。

下記原文は韓国語なので機械翻訳を修正したものです。どこまで正確か検証できていません。

33回世界洋弓選手権をあと、ソウルでは36回FITA総会がソウル汝矣島63ビルで開催された。 総会では世界アーチェリーの新たな転換点になったといえる新たな競技方式であるGrand FITA Round方式を採択したこれらのGrand FITA Round方式は、45カ国が参加した中で投票が実施され、賛成40カ国、反対3カ国、棄権2カ国で確定し、1986年5月1日から実施することに決議した。 このような競技方式の変化は、FITAが従来の方式ではアーチェリー競技の興味を誘発することに多くの困難があると判断し、アーチェリーの大衆化を引き出すために競技方式に新たな変化を与えるものだった。

韓國洋弓三十年史 本編, P225-226

正しい競技形式を定義することは不可能だとは思いますが、多くのアーチェリーガイドを読んでも、アーチェリーはメンタルが大事なスポーツであると書かれていて、持久力を競うスポーツではないと多くの方が捉えています。自分は高校時代はシングルFITAラウンドを競いましたが、勝つためには、正直メンタル要素より体力が求められる競技という認識でした。メンタル要素があった記憶は…ないです。

対して、現在の1対1での競技では、大いにメンタルタフネスが求められ、アーチェリーがメンタルスポーツであるという認識であれば、正しい方向に進んでいます

さて、競技時間の短縮により、1988年のソウルオリンピックでは団体も開催されるようになり、メダル数が倍になります。オリンピック後の89年にWAの総会が行われます。

サマランチIOC会長は当連盟がソウルオリンピックに積極的に参加したこと、そしてグランドFITAラウンドの導入に成功し、例外なく競技がより華やかなものになったことに賛辞をいただきました。

FITA Bulletin officiel No 40, 1989, P2

(オリンピックでの採用の継続につながる)IOCから称賛を得たので、そのままグランドFITAが継続するかと思いきゃ、IOCから次のバルセロナ後に団体競技を削除するという連絡が届きます。コンパウンド(*)競技を承認した新しい会長のジム・イーストン氏が問題の解決にとり組みにあたります。

*FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P3

IOCプログラム委員会は、1989年の早い時期に団体競技を廃止しました。IOCプログラム委員会の目標は、すべての個人競技のチーム競技をなくすことです。私たちの団体競技は1992年のオリンピックで終わります。私たちは、他の個人スポーツ(体操、フェンシングなど)のチーム競技が残っている限り、アーチェリーのチーム競技をオリンピックに残すよう、プログラム委員会とIOCを説得しなければなりません。先日のアテネでの理事会で特別委員会が設置されました。この委員会は、FITAアーチェリー競技に対するテレビの関心を高める方法を提案し、FITAと我々の大会のスポンサーを獲得するという、非常に重要な目標を担っています。

FITA Bulletin officiel No 42, 1990, P1(意訳)

FITAは、アーチェリーを発展させ、世界に広め、テレビに映える競技にしなければ、オリンピックに積極的に参加しようとする多くのスポーツ(トライアスロンやゴルフなど)に取って代わられる危険性があります。会議に出席している間、FITAの評議会や委員会のメンバー数名と会う機会があり、テレビでのアーチェリーの露出について話し合いました。テレビでより面白くなるようなラウンドを実験するよう、すべての加盟団体に奨励することが提案されました。8月30日に行われたノルウェーのロエン会議では、Raoul Theeuws会長、Leif Janson氏、Don Stamp氏がタスクフォースに任命され、夏のオリンピック競技としてアーチェリーを維持するために必要なテレビ放映を得るために、FITAがオリンピック競技で提供すべきラウンドと決勝を提案・開発するように指示されました。

FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P1(意訳)

1990年の5月に行われたオリンピックに関するミーティングでは多くの意見が出され、決勝戦をテレビの注目を集めるのに最適な20分に短縮するための1射の時間の短縮、21世紀になってから導入される、決勝戦をよりドラマチックにするために、テニスなどの他のスポーツのように15本の矢を3セットで行うなどのアイデアも検討されます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 43, 1990, P5

課題はテレビ放送ですので、競技方式の決定にはアメリカのNBCテレビのピーター・ダイヤモンド氏、バルセロナオリンピック組織委員会(テレビ部門ディレクター)のマノロ・ロメロ氏、スポーツチャンネルESPNのピーター・レイス氏が関わり、アーチェリーのライブ映像を配信することの明言を得て、90年の11月に新しい競技方式が確定します。詳細の記録を読んでいくと、NBCテレビからは午後に決勝を行い、個人戦を2時間半以内、団体戦を3時間以内、16時前に終わらせることが要求されています(*)。92年夏季の大会のルールが90年の11月に確定し、91年3月の世界室内で初めてテストされます。

**FITA Bulletin officiel No 44, 1991, P5

FITAオリンピックラウンドと呼ばれる新しい競技形式はまさにオリンピックのために開発されたものです。オリンピックの前年の世界選手権にも採用されてません。

オリンピックラウンドで行われたバルセロナオリンピックは、かつてないほどの成功を収めます。試合としても、放送としても。

テレビ放送は完璧だった。アーチェリーの素養のない友人たちと一緒に、3日間ずっと放送を見続け、魅了された。

FITA副会長 Nikola Skoric, Olympic Archery on TV, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P6

(テニスを観戦していた)スペイン国王フアン・カルロスは、スペインチームの成功を知らされ、金メダル獲得を目指すフィンランドチームとの対戦に間に合って到着した。フィンランドチームは初めて緊張を見せ、スペインチームにリードを許したが、熱狂的な観客の応援を受け、最後まであきらめることなく力を出し切った。スペインが金メダル。アーチェリー場は、選手、スタツフ、観客が互いに抱き合い、祝福するお祭りのようになった。

Klaus-Dletrich Schulz, Gold medal for the Olympic Round, FITA Bulletin officiel No 47, 1992, P8-11

この成功により、オリンピックでへの参加がより確実なものとなり、1対1の戦いとテレビとの相性の良さが証明されました。93年の世界選手権からは予選シングルラウンド、決勝オリンピックラウンドという形式になります。

93年のWAの会報に委員の意見として、FITAシングルラウンドが長すぎるのではないか、決勝が70mなのに予選で他の距離で競う必要があるのかという提案がされます(*)。

*FITA Bulletin officiel No 48, 1993, P5

94年にはWA会長のイーストン氏がIOC委員となったことで、アーチェリーのオリンピックからの除外に対する懸念は以前ほどではなくなります。95年にオリンピック予選ラウンドが、70mの720ラウンドで行われることが決まります。92年と同じオリンピックラウンドを採用した96年に行われたも大成功し、

私たちの課題は、アトランタで感じた熱気をさらに加速させ、世界中の観客に1対1のアーチェリーの興奮を届けることです。

Jim Easton, FITA Bulletin officiel No 58, 1996, P1

もう後戻りすることは現実的ではなく、92年と96年の成功によって、アーチェリーは1対1の対決によって勝者を決めるスポーツに変化しました。アーチェリーがオリンピックに根付いた事により、現在のWAの目標はオリンピックにコンパウンドを参加させることです。

IOCがコンパウンドの参入を拒否している理由は主に、

・競技がリカーブと酷似している

・コンパウンドは選手が特定の国に偏っている

というものですが、これは2013年の回答で、10年経過し、現在ではコンパウンドは多くの国で競技されているので、リカーブとの競合が最優先で解決すべき問題で、WAは距離で違いをつけ、的の大きさで違いをつけ、そして、更には、2028年のロスオリンピックに向けて、コンパウンドをインドア競技として採用してもらうよう提案しています。屋外70mリカーブ、屋内18mコンパウンド、IOCの反応が待たれます。

3つの記事からなるアーチェリー競技の歴史はこれでおしまいです。


WAはオリンピックのための団体です

1972年 ミュンヘンオリンピック

高校時代にアーチェリーを始めましたが、白のスラックスを履くという謎のルールがありました。ルールはルールなので守るしかありませんが、大人に聞いてもその理由がわからないというのが…まぁ、昔は上から指示があったら、その理由など尋ねないという時代があったのかもしれません。その謎を20年後に回収できるとは

近代オリンピックで初めてアーチェリーの競技が行われたのは、1972年にミュンヘンで開催された大会でした。52年ぶりに開催されたアーチェリー競技は、その優雅さを演出してくれた。当時のFITA会長インガー・フリス氏の指示で、アーチェリー選手は全員白衣を着用することになり、このルールは数十年間続くことになる。(従わなかった国もあったようです)

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

1969年の世界選手権では服装規定はまだなかったようです。オリンピック(IOC)への競技のアピールにために、白の服装規定が導入されたことがわかります。それを21世紀の高校生に強要するとは…自分の中で、謎ルールから糞ルールに変わりました。さらに続きがあり、

フリス(FITA会長)はまた、競技場に「ウィンブルドンのテニスコートのような芝生」を要求したが、実現しなかった。この要求については、1970年代に国際オリンピック委員会の会長を務めたキラニン卿が、困惑しながらも「普通の芝生でも十分だ」と皮肉ったことが、彼の回想録に記されている。

https://worldarchery.sport/news/200928/archerys-olympic-return-was-refined-elegant-and-took-four-days

おっしゃる通り、芝生でも十分に優雅ですが、こんな乾燥してれば砂埃、雨が降れば沼地という競技場でやったところで、私には優雅さは感じられませんでしたね。汚れが目立つだけですよ。

さて、以前にもセンターショットについての調査で国立国会図書館に収められている(ジャーナルを除く)アーチェリーに関する資料をほぼ読みましたが、今回シングルラウンドの歴史を書く上で、日本にはWAがどういった組織か理解されていないのではないかと思いました。WAと全ア連は全く目的が違う組織です。

(WAの目的 設立時)

目的 FITA の目的は、次のとおりとする。
a) オリンピック競技大会への参加につながる国際的なスポーツ関係を育成すること。

(WA 現在)

世界アーチェリーの目的は、以下の通りである。
オリンピック理念に基づき、男女平等を含め、世界各地でアーチェリーの普及と振興を図ること。

(全ア連)

私たちはアーチェリーを通して、健康的で明るく、心豊かな生活を創造します。そして、日本と世界の人々が信頼で結ばれることが、私たちの真のターゲットです。

全ア連の目的はポエムっぽいですが、WAの目的はちゃんとした宣言になっています。オリンピックなのです。WAは選手ファーストではなく、オリンピックファーストの団体として設立当初から宣言されています。オリンピックに復帰した最初の1972ミュンヘンオリンピックについて、D.M.Thomson FITA事務総長によって書かれた記事には

オリンピックにおけるアーチェリーの未来はどうだろうか。この4日間で、文字通り何百人もの人々が示した関心とコメントから察するに、アーチェリーには未来があるのだろう。しかし、私たちのスポーツが、IOCの定める規約とルールに従って運営され、他のいかなる外圧にも屈しないようにすることは、アーチェリーに関わる一人ひとりの責任であることを覚えておいていただきたい。

FITA Bulletin officiel No 25, 1973, P15

ここで書かれている外圧(not succumb to any other outside pressures.)が何を指すのか、具体的には示されていませんが、当時IOCからはオリンピック開催前の2年間は競技規則を変更しないなどの要求がされています。

全ア連のような加盟している競技団体と国際オリンピック委員会(IOC)と板挟みになったとき、WAは常にIOC側に立つということです。1972年のオリンピックは大成功に終わりますが、1976年のオリンピックでは微妙な感じになり、メイン競技場から50キロも離れた、すでにあるアーチェリー場が会場となります。国立競技場から50キロとするとさいたまスーパーアリーナよりも遠く、成田空港くらいの距離感です。モントリオールオリンピックについて、ジャッジ委員会として参加したオランダのDr.N. van Hinte氏はこのように述べています(要約です)。

オリンピック思想やスポーツマンシップとは異質な勢力が、その地位を求めてきたのです。民族の誇りの代わりに排外主義が、世界中から集まった競技者同士の友情よりも国家間の関係の方が重要だと思われたのです。参加することの重要性は、国家主義的な成功の追求にかき消された。

カナダでは、テレビでカナダ人選手の特集が組まれた。アメリカでは、アメリカの選手が参加した競技だけが放映されました。アーチェリーのないオランダでは、私たちの競技は何も映らず、新聞にコメントが載ったとしても、非現実的なものであった。

帰りの飛行機の中で、オランダのサッカー関係者が、「アーチェリーを見に行ったけど、30分後には死ぬほど退屈して、それから興味が湧いてきて、最後には魅了されたよ」と隣の人に話していました。

FITA Bulletin officiel No 28-29, 1977, P57

ここから、この予言めいた文書通りの事態が起こります。1979年に東ドイツで行われた世界選手権では、台湾代表チームの国家を掲揚することを東ドイツ政府が許可しませんでした。また、中国がFITAに加盟したことで、台湾チームとの政治的な問題が起こり、81年にチャイニーズタイペイとすることで問題をなんとか収め、80年と84年には政治的な理由によるオリンピックボイコットが起こり、ソウルオリンピック前には単独開催中止を目的としたテロ(大韓航空機爆破事件)が発生します。

一方で、モントリオールオリンピックでは10億ドルの赤字が発生し、オリンピックというイベントは変化することを求められます(*)。

*山本 康友, オリンピックのその後, 日本不動産学会誌, 2014, 28 巻, 1 号, p. 49-53

幸運だったことと言えば、変化を求められているとはいえ、モスクワオリンピックのソ連と、続くロスオリンピックのアメリカもアーチェリーの強豪国で、国威発揚の視点から見ても、アーチェリー競技が除外される可能性がなかったことです。ソ連は実際3つのメダルを獲得し、アメリカは2つメダルを獲得します。さて問題は次のオリンピックで、事実として韓国も間違いなく強豪国ですが、IOCとの関係がソ連・アメリカほどではなかった事。当時の会長と事務局長の回想によれば(意訳)、

ロサンゼルスからの帰り道に計画を練り始めた。「ダブルFITAラウンドは、FITAを殺す」、ドン・ロヴォが言うように「ダブルFITAのラウンドを見るのは、絵の具が乾くのを見守るようなものだ」

競技のファイナルステージを、会場の観客やメディアがフォローできるようなシステムを導入する必要があり、私たちはグランドFITAラウンドの最初のドラフトを起草した。

https://worldarchery.sport/news/150161/it-had-be-done-fita-history-1977-2005-part-2

88年のオリンピックについては記録が残っていないので推測になりますが、IOCとテレビ局と協議しながら放送にあう競技形式を話し合っていたのではないかと思います(*)。

*92年のオリンピックではタイムスケジュールをオリンピック委員会とNBCなどのテレビ局と相談の決めている記録があります

その結果、シングルラウンドから、勝ち残りのグランドラウンドに移行していきます。ロスから5年後、1989年の会議では、

サマランチIOC会長は、特にFITAグランドラウンドの採用に関して、近年のFITAの進歩について語りました。IOC会長は、メディア、特にテレビに対してアーチェリーのイメージを改善するための努力をすることを勧めています。

FITA Bulletin officiel No 41, 1989, P9

ここまで書きましたが、あくまでもWA(FITA)はオリンピックのための組織ですので、IOC会長に言われたら、当然その方向性に進んでいきます。テレビ放送との相性の良い競技形式の探究が始まります。続く。


シングルラウンド(1440ラウンド)の誕生

チューニングマニュアルを書き終わり、3000部以上ダウンロードされました。読んでいただきありがとうございます。もちろん、今後も最新の情報にメンテナンスしていきますが、次に着手すべきはアーチェリーの歴史だと思っています。

おそらく、このサイトを訪問している方の多くはあまり関心がないかもしれませんが(実際アクセス数はあるものの滅多にコメント付きません(T_T)、何事もしっかりとここに至る経緯・歴史をしっかりと知っておかないと、正しい場所にたどり着けないのではないかと思っていますし、チューニングマニュアルを書くときにも多くの過去の文献にあたってきました。

弓道の歴史はかなり詳細に文献として残っているのに対して、アーチェリーの歴史は、特に日本語で書かれたものは、なぜかありません(自分調べ)。もしありましたら、教えていただければ幸いです。書籍でも、論文でも、プログなどでも見つけることができませんでした(*)。

*個人のインタビューのようなものではなく、裏付けがあるものに限る

日本におけるアーチェリーの歴史

このようなサイトで貴重な写真を見る事はできますが、今後どうなっていくのでしょうか? 日本のアーチェリーの歴史に関して、どこかで管理・保管しない限り、失われる一方で良いのか。アメリカでは、イーストン財団が貴重なアーチェリーの資料を保管し管理していますが、日本でもやるべきではないかと思っています。自分ができる範囲でのことは努力していこうと思ってはいます。

こちらは日本で書かれた2番目に古いアーチェリーガイド。最も古いものに「洋弓手引書」という物があるらしいのですが、入手できていません。情報ありましたらお願いします。サイトピンの使用が認められ、クリッカーが日本に上陸し(*)、スタビライザーが禁止されていた時代に書かれたものです。

*白倉 仲, 武山 秀. Archery に於ける Klicker. 体育学研究. 1967;11(5):218.

今回の記事は現在では滅多に行われていないシングルラウンド(1440ラウンド)の誕生に関するものです。この競技形式は登場まで、どこでも行われておらず、妥協の産物であることはあまり知られていないと思います。下記の記事「歴史をすこし」をより詳細にしたものになっています。

事の始まりはオリンピックです。それぞれの国が独自の文化のもとアーチェリー競技をしている中、1896年に再開されたオリンピックの第二回大会、1900年のパリ・オリンピックからアーチェリー競技が追加されます。パリ・オリンピックでは、当時フランスで人気のあったAu Cordon Dore 33mなどの競技が行われますが、どのようなルールだったのかは記録に残っていません。ただ、33mでの競技だったと思われるので、メインを100ヤード(91.4m)で行われていたヨークラウンドに比べると短距離の競技だったようです。開催国フランスとベルギーとオランダの3カ国が参加しました。

つぎの1904年アメリカのセントルイスで行われたオリンピックでは、独自のアメリカンラウンド(22名参加)とともに、イギリスのヨークラウンド(16名参加)も競技に採用しています。ただ、海外からの参加選手はなく(イギリス・アメリカ間は船旅で片道5日間)、全員アメリカの選手で競技が行われます。こちらは長距離の競技です。

王室の庇護のもと、貴族のスポーツとして競技されたイギリスのヨークラウンドは100ヤード(91.4m)をメインとしていました。これは射場が貴族の社交場として機能していたためです。アメリカではメインがハンティングだったので、ターゲットでも50/60ヤード(54.8m)がメインでした。対して、フランスやベルギーではより娯楽色の強い参加のしやすい短距離で競技が行われていました。ベルギーではPopinjayと呼ばれる競技が人気です。

ポピンジェイ(wiki英語版の機械翻訳) - ポピンジェイの目的は、人工の鳥を止まり木から叩き落とすことです。止まり木は、90 フィート (27 m) のマストの上にある横木です。

https://en.wikipedia.org/wiki/Popinjay_(sport)

1908年のロンドン・オリンピックはもちろん長距離のヨークラウンドで行われ、フランス、アメリカから選手が参加しました。第一次世界大戦をはさみ、オリンピックが再開された1920年にはベルギーで開催されますが、競技方式はIndividual Fixed Large Bird で行われたと記録されており、これはおそらく現在の3Dアーチェリーのような、擬似的な狩猟競技と推測され、鳥を射るので的のサイズ的に短距離で行われたと推測されます。ベルギー・フランス・オランダの選手が参加しました。

開催ごとに競技方式が異なる状況に対して、1921年に行われた第七回オリンピックコングレスで、統一ルールの導入を求められたものの、アーチェリーは国際競技団体すらなく、競技方式を統一できず(*)、1924年のオリンピックよりアーチェリーとフィールドホッケー、ゴルフがオリンピック競技から削除されました。

*Fonds list, Olympic Congresses : Overview of the content of the archives concerning the organisation, running and decisions of the Congresses between 1894 and 1981, P22

この問題を解決するために、1931年に国際団体の世界アーチェリー連盟が創立されます。当初の参加国は、フランス、チェコスロバキア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ合衆国、ハンガリー、イタリアの7カ国で、日本などの弓による競技(アーチェリー)が行われている国に参加要請を送ります。送付した国のリストはないものの、日本とエジプトの競技団体からは返信がありました(*)。

*Robert J. Rhode, HISTORY OF THE FEDERATION INTERNATIONALE DE TIR A L’ARC VOLUME I 1931-1961, P12

このときの日本側の反応についての記録を読むと、双方に大きな認識の違いがあったようです。連絡を受け取った大日本弓道会は世界アーチェリー連盟(WA/FITA)を「国際洋弓連盟」と受け止めています。つまり、洋弓の世界より和弓の世界と「交流」を持ちたいという連絡であると受け止めていたのに対して、WA側は最終目的はオリンピックへの再採用ではあるので、課題は弓術(アーチェリー)としての国際大会での競技方式の確立であり、「加盟」と「参加」をして欲しいという要請であり、初めからボタンの掛け違いがあり、日本側はその後連絡を絶ち、対応をしなくなります*。

*入江 康平, 昭和前期における弓道の国際交流について, 武道学研究, 1974-1975, 7 巻, 1 号, p. 29-30

当時の和弓側(大日本弓道界)の「弓術というだけでは意味が狭い。ただ弓に矢をつがえて的に当てることの技術が弓術である。これ以外のことは厳密にいえば、弓術の範囲には属せずして弓道の範囲に入る」(*)という意見、弓道は弓術とは違うという意見と、弓は、ターゲットアーチェリーで使用されるもので、常識的に「弓」という言葉に適合していれば、どのような形状でも使用することができる(競技規則)という弓道は弓術の一つであるというアーチェリーの定義は今でも多くの誤解を生んでいるように思います。

*根矢鹿兒 弓道の本義.弓道,87:1-3, 1919

さて、1931年に国際的な統括団体は設立されたものの、世界選手権の競技方式はなかなか決まりません。問題はイギリス、アメリカ、スウェーデンが90mや70mの長い距離で競技していたのに対して、フランス、ベルギー、オランダは25m、30m、50mの短距離で競技をしていたこと。それに最適化された射法を用いていたことです。例えば、ハイアンカーでは物理的に90mを競技することが困難で選手は新しい技術の習得が必要になります。

1931年の第一回世界選手権では、50m/40m/30mという形式が採用されます。1932年の世界選手権では70m/50m/30mという形式が採用されます。イギリスからは全距離を122cm的で行うことが提案されますが、ポーランドとフランスの協会の反対により、30mでは80cm的を採用することが決まりました。

1933年のイギリスで行われた世界選手権では、男子が90/70m/50m/30mという形式に変更されます。女子は引き続き70m/50m/30mで、競技する本数に差異があります。この年から10リングが導入されます。

1934年の世界選手権に向けての1933年の協議会でシングルラウンド形式(男子90m/70m/50m/30m各36射)という形式が提案され、6カ国賛成(イギリスは棄権)という投票結果によって確定し、ここで初めて、どの国でも競技されていなかったFITAシングルラウンドという競技形式が、短距離派と長距離派の妥協のもと誕生します

ただ、定着はせず、2度この形式で世界選手権が行われた後、初日を長距離(90/70/50)で競技し、二日目を短距離(50/35/25)で競技し、その合計でランキングする方法が提案されます(International Long and Short rounds)。1935年の世界選手権の成績を見ると、どちらかの競技にしか参加していない選手がいることが確認できます。

1953年の会議でMr.Neerbye氏(*)より競技者の増加に伴い競技時間が長くなりすぎているために参加者の削減が提案されました。2年間の委員会での議論を経て、1955年の会議で競技者の削減ではなく、競技する距離を削減することで競技時間を短縮する方向となり、再度シングルラウンドをFITAラウンドとして採用することが決まり、その後、1985年まで採用され、その後は2011年まで予選ラウンドにて使用されました。

*FITA Bulletin officiel No 13, 1953, P7

以上、FITAシングルラウンドは短距離から長距離までまんべんなく網羅した試合形式というよりは、国際的な合意形成が必要な中、妥協によって生まれた試合形式と考えるべきかと思います。

1921年から34年間かけてWAはアーチェリーの国際大会のルールを統一することに成功し、さらにその10年後の1965年の10月に72年のオリンピックに再採用されることが決まりました。

WAの過去の議事録は1931年の第一回目から下記のサイトで確認できます。すべて私が生まれる前の話ですので、過去の文献により構成しているために参考文献が大量になってしまい、読みづらかったら申し訳ございません。


初期におけるセンターショットの研究

1942年、初期のセンターショットボウに関する研究についての資料を入手したので、一部翻訳してみました。ここからのモダンリカーブボウが誕生していきます。

A/B

In this group of experiments the arrow had no freedom to offset the faulty three finger release as it had to pass right through the center of the arrow rest.

PERFORMANCE CHARACTERISTICS OF CENTER SHOT BOWS AS AFFECTED BY TYPE OF RELEASE, ARROW SPINE AND GLOVE TIP THICKNESS By L. A. QUAYLE Cleveland, Ohio 1942.2 Bowman Review.

この実験では、矢はレストの中心を通らなければならないので、3本指リリースの不具合を相殺する自由はない。

Experiments Using Bows “C” and “D”

All arrows irrespective of their material, length, diameter or spine grouped around the point sighted whether shot with three-finger, pinch or mechanical release, with a glove or with bare fingers.

With the type of arrows rests used on “C” and “D” bows, the arrows were free to move to the left (bow held in left hand) without obstruction and the arrows had an opportunity to readjust themselves after receiving the side push caused by the string going around the finger tips, and they there fore grouped around the point aimed at.

弓「C」と「D」を使った実験

すべての矢は、素材、長さ、直径、スパインに関係なく、3 本指、ピンチ、メカニカル リリース、手袋または裸の指で射ったかどうかにかかわらず、サイトポイントの周りにグルーピングしました。

「C」と「D」の弓に使用されているアローレストのタイプでは、矢は妨げられることなく左に自由に移動でき(RH)、矢は弦が指先を通る時に起こるサイドプッシュ(*写真)を受けた後、自分自身を再調整する機会があり、狙ったところにグルーピングします。

サイドプッシュ

Tests Using Pinch Release

With the pinch release or its equivalent in a mechanical releasing device, all four sets of arrows shot from all four bows grouped around the point sighted on, the sight being kept in the vertical middle of the bow at all times and adjusted vertically to take care of the different weights of the arrows in the different sets.

If matching target arrows for spine to a fine degree is as difficult and important as many archers appear to believe, then the center shot bow of proper design has an advantage over other types, in that arrows of greatly different spines will group together on the target without any allowance being made for differences in spine.

トリガーリリーサーを使用したテスト


トリガーリリーサーを使用して、4 つの弓すべてから発射された 4 セットの矢すべてがサイトポイントの周りに集まり、サイトは常に弓の垂直方向の中央でよく、異なるセットの矢の異なる重量に対応するために垂直方向にだけ調整されます。


背骨のターゲット矢印を細かく一致させるのが難しい場合、多くのアーチャーが信じているように、適切な設計のセンターショットボウは、スパインの違いを考慮せずに、大きく異なるスパインの矢がターゲット上でグルーピングするという点で、他のタイプよりもメリットがあります。

The center shot bow also has the advantage that very light arrows may be shot with heavy bows giving flatter trajectories than are possible with bows that force the arrow to bend in order to go around it.

The 28″-7/32″ diameter 290 grain “Z” arrows performed very well when shot with a 45 lb. “D” type bow. This “Z” arrow has so little spine it became permanently bent when shot just once with a 45 lb. bow of conventional design.

センターショットの弓には、非常に軽い矢を高いポンドの弓(*)で射つことができ、クリアランスのために矢を迂回させる弓よりも、平らな弾道を与えることができます.

*注 50ポンド・28インチ引きの場合、ロングボウ、センターショットリカーブボウ、コンパウンドボウの順にエネルギー効率が高まるのに対して、推奨スパインは順に、400(ウッドアロー)、450(X10)、470(X10プロツアー)と柔らかく軽い矢が適合します。

直径 28″-7/32″ の 290 グレイン(スパイン 0.280) 矢は、45 ポンドの “D” タイプの弓で射つと非常に優れた性能を発揮しました。 この矢はスパインが非常に小さいため、従来の設計の 45 ポンドの弓で 1 回だけで曲がってしまいます。

No doubt hundreds of center shot bows have been made and shot but it is seldom that one is seen in use. However, as indicated above, properly designed center shot bows have certain inherent advantages which, when more generally recognized, should increase their use considerably, and may become the favorite type with many archers.

間違いなく何百ものセンター ショットボウが作られ、テストされていますが、実際に使用されているものはめったに見られません。 ただし、上記のように、適切に設計されたセンター ショットボウには固有の利点があり、より一般的に認識されるようになると、その使用が大幅に増加し、多くのアーチャーに好まれるタイプになる可能性があります。

PERFORMANCE CHARACTERISTICS OF CENTER SHOT BOWS AS AFFECTED BY TYPE OF RELEASE, ARROW SPINE AND GLOVE TIP THICKNESS By L. A. QUAYLE Cleveland, Ohio 1942.2 Bowman Review.


PSE 2023 ドミネーター・デュオ

PSEが2023年ターゲットラインの新モデルを発表しました。左右対称のハンドルが採用され、ATAは35/38/40インチ、カムは3種類で、全9モデルですが、RH/LHがないので、大量の組み合わせがあっても、スムーズに生産が進みそうです。

ハンドル側では近年採用され、トップによって有効な使用法が結局見出されなかつた感がある、デュアルセンタースタビライザーブッシングが廃止され、また、このハンドルの設計でもFDSが搭載されていますが、まだ、個人的に理解できていないです。

カムも3種類から選択できます。SEは従来からPSEのターゲットモデルに採用されてきたものでスムーズな設計。新しく追加されたS2カムはPSEのハンティングモデルに採用されているカムをターゲット向けのローレットオフモジュールを新しく設計したものになります(ハンティング用で採用されてる80-90%モジュールはオプション)。

もう一つの新しいカムはM2カムで38インチモデルでも349fpsという矢速を得ることができます。また、EZ.220スナップスペーサーシステムが採用されました(*)。以前、PSEはカムのポジション調整においては、無段階調整タイプのシステムを採用していましたが、マシューズに近いスペーサーによる調整に変更されました。

*【追記】S2/SEカムにも搭載されています

80/100/120/140の4種類のスペーサーがあり、カムとピボットポイントとのジオメトリーを4種類から選択できます。

さらに、ボウプレスは必要なもののスナップタイプのスペーサーを使用することで、カム軸を取り外す必要がなくなりました。実績のあるカムから新しい機構を搭載したカムまで豊富な選択肢があります。

左右両用のハンドルからシンプルなスペーサーシステムへの移行など、全体的に昨今のインフレ・ドル高でも、コスト削減をすることで販売価格の高騰を抑えた設計になっていると感じます。卸価格でも2022年のサイテーションより10%安くなっています。ただ、変わらず続く円安のため、新しい価格はサイテーションよりも5%程度高くなります。ご理解ください。

発表後1週間で世界大会でメダルを獲得しましたが、

使用した弓はメーカー純正品ではなく、ケーブル接続を2021年以前のサイテーションなどで使用されていたシステムに改造したもので、エリソン選手もですが、以前のパーツ・仕組みを好むトップ選手も多いですね。

PSE DOMINATOR DUO - JPアーチェリー


FUSEを半額としました、UUKHAはアウトレットを1つ。

過去にカーボンブレードなどのユニークな形状、ディンプルデザインで一世風靡したものの、極細ロッドのトレンドにのらず、現在では親会社のホイットにブランドごと吸収されたFUSEのスタビライザーの在庫品をすべてほぼ半額にしました(ウェイトを除く)。ぜひご検討ください。

FUSE アーチェリー リカーブ向け

FUSE アーチェリー コンパウンド向け

また、UUKHAのカーボンハンドルで傷があるものが見つかりました。特価品に追加します。黒のマジックを塗れば全く目立たないと思いますが、お客様の希望がない限りはこのまま引き渡しさせていただきます。よろしくお願いします。UUKHAの2023年ラインナップに関しては商品情報と価格の変更があるので、10月から受注を一時停止し、再度案内させていただきます。

UUKHA カーボンハンドル


K&K JET6 ベイン 販売停止です。

コロナによる困難で判断が難しいところですが、K&K KSL Jet6 ベインの全種類の出荷が終了するとの連絡がありました。非常に評価されたベインですが、いったんこれで終了します。

販売継続しているショップも見つけました。もしかしたら、2023年に向けての新作が出るのかもしれませんが、会社のドメインも失効し、つながらなくなっているので、何か問題は起きていると思われます。在庫限りにて販売します。設計上のトラブルではないことは確かなので、次の新しいベインを楽しみにしています。

KSL Jet6 ベイン – JPアーチェリー


本社移転(川崎に統合)しました。

写真は2009年の法人化記念パーティー

弊社は2007年に東中野で創業し、2009年に法人化、2011年にネットショップだったのを店舗展開しましたが、急激に進む円安でも安定経営できるよう、創業の地である東中野本社を売却する事としました。売却資金で川崎店のローン残債はすべて返却でき(*)、再度無借金経営に戻ります。

*ローンの契約上完済(抵当権抹消)は2023年になります。

14年間お世話になりました。新しい買い手はフルリフォームを予定しているそうで、どんな部屋に生まれ変わるのでしょうか?

本社機能は川崎店と統合します。以上、ご報告させていただきます。

川崎店を買う時に揃えた書類の一部

この件でしばらくサイトのアーチェリー情報の更新が遅れ申し訳ございません。不動産を買うのも大変ですが、売るのも大変なんですね。。。来週からアーチェリー漬けの生活に戻ります。

入荷も少しずつ戻ってきています。来年にはコロナ前に戻りたい。。

Royal Company of Archers / 迎え酒

護衛がロンクボウのアーチャーなのはびっくりしました。ブレースは状態しないで護衛するのですね。

ロイヤル・カンパニー・オブ・アーチャーズ(Royal Company of Archers, the Queen’s Bodyguard for Scotland )はスコットランドにおける儀式の際に国王・女王を護衛する名誉職。1676年私的なアーチェリークラブとして発足し、1703年再建。ジョージ4世時代の1822年より護衛任務に就く。入隊資格はスコットランド人若しくはスコットランドと繋がりが深い人物であること。選挙により選ばれる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%85%B5_(%E3%82%A4%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B9)

話が変わりますが、自分はウィキペディアを調べ物に結構使いますが、言語には思想が結びつくので、言語が変わると書いてあることが全く違っていたりします。先日、久しぶりに迎え酒をしてみたら、結構効いたので、迎え酒について調べてみまたのですが、

いわば迎え酒による対処は「気のせい」「その場しのぎ」と考えられている

迎え酒 - 日本語のウィキ

迎え酒には効果がないと書かれているのですが、参考文献が適当すぎるだろ…医学的なことの根拠がブログレベルの記事と、文芸社だから読んでないけどおそらく文化について書かれた本って…と思い、英語版を見てみました。

In the second, hangovers are partly attributed to methanol metabolism.[15][16] Levels of methanol, present as a congener in alcohol, have been correlated with severity of hangover[17][18] and methanol metabolism to the highly toxic formate via formaldehyde[19] coincides with the rate of appearance of hangover symptoms.[20] As both ethanol and methanol are metabolised by alcohol dehydrogenase – and ethanol is a much better substrate for this enzyme – drinking more of the former then effectively prevents (or delays) the metabolism of the latter. As pure ethanol consumption has also been found to increase endogenous levels of methanol,[21] presumably for this reason, this suggests that if “hair of the dog” works in this way it effects a temporary hiatus rather than a cure.

迎え酒 - 英語版

AI翻訳(一部修正)

二日酔いはメタノール代謝に一部起因する[15][16]。アルコール中の共伴物質として存在するメタノールのレベルは二日酔いの重症度と相関しており[17][18]、メタノールからホルムアルデヒドを介して猛毒のギ酸塩への代謝は[19]、二日酔い症状の発現速度と一致する。[20]

エタノールとメタノールはともにアルコール脱水素酵素によって代謝され、エタノールはこの酵素にとってはるかに優れた基質であるため、エタノールを多く摂取すると後者の代謝が効果的に妨げられる(または遅延する)。純粋なエタノールの消費はまた、おそらくこの理由のために、メタノールの内因性レベルを増加させることが見出されているので[21]、これは、「迎え酒」がこのように機能する場合、治療というよりも一時的な休止に影響を与えることを示唆している。

たった2クリックで、より詳しく知るための論文レベルでの情報とともに知りたいことを知ることができます。迎え酒の効用は二日酔いの原因である代謝を遅延させることで、一気に来る痛みをゆっくりと進めさせることにあるとのことでした。

今はAIにより機械翻訳のレベルも上がっていますので、日本語で調べて答えが見つからない場合には、英語や、繋がりが深い言葉、ワインだったらフランス語で調べたり、ウォッカだったらロシア語で調べたりすると、白酒なら中国語で、簡単に答えが見つかる場合が多いので試してみてください。

日本語のウィキに海外の研究では違う結果が出ていることを追記しました。


WINのマニュアルも読んでみたが??

ホイットのマニュアルを10年ぶりに翻訳したので、ついでにWINのマニュアルも見て、中身があるなら翻訳してみようと思ったのですが、書かれている内容が…指示はわかるのですが意味がわからない。

リム/ライザーのアライメントを確認した後、図のようにフルドローでのアライメントを確認することをお勧めします。 弓の最初のセットアップではセンター ショットが正しいとしても、リムが正確でないと、フルドローの時にリムがねじれます。 これは、シューティングでトルクを発生させる最も重要な理由の 1 つです。 アライメント チェック デバイスを使用すると、簡単にチェックできる場合があります。 

英語のざっくりとした訳

以上の内容が書かれているのですが、指示はわかります。ねじれを確認しろということです。しかし、ホイットであれば、この後、「x」の状態では、シムを移動して調整しろという指示が続くのですが、WINのマニュアルはここで終わっています。

えっ?

「x」の状態だったら?? この次のページが保証条件なので、保証を確認してくれということだろうか。

ちなみに解決方法は色々あるのですが、簡単なのは、正しい方向にリムチップをねじってあげることです。各メーカーがストリンガーで弓をはるように指示しているのも、はるときにリムにテンションが正しくかからないと、それが原因でリムがねじれてしまうためです。

それが原因でねじれたのであれば、基本反対側に同じテンションをかければ修正できます。低ポンドのグラスリムはそれで修正できます。最上位モデルの高ポンドはこの方法では修正できないで、リム側の問題であれば交換以外は打つ手がありません。

まぁ、マニュアル頼りでチューニングする人はほぼいないので、ここで詰む人もいないとは思いますが、翻訳する内容もないので、翻訳は行いません。MKのものは下記の記事のやり方での指示でしたので、参考にしてください。FIVICSは公式サイトで確認できず、Gilloは調節方法だけでした。